「土方歳三の死因」について、あなたはどんな真実を知りたいですか?
箱館戦争の最前線で散った新選組の副長、土方歳三。彼の壮絶な最期は、多くの謎と伝説に彩られています。
ある説では敵弾に倒れたとされ、またある説では味方の裏切りや、果てはロシアへ亡命して生き延びたという生存説まで囁かれています。
35歳という若さで散った彼の遺体が、なぜ今も見つかっていないのかも大きなミステリーです。
この記事では、土方歳三の死因や遺体に関する謎から、現代に伝わる意外な素顔や子孫に関する話題、さらには彼が何を成し遂げた人物なのか、なぜ今も圧倒的な人気を誇るのかまで、史実に基づいて徹底的に解説します。
- 土方歳三の直接的な死因である銃創の部位と、最期の瞬間の状況がわかる
- 遺体がいまだに発見されていない理由と、有力な埋葬場所の説を知ることができる
- まことしやかに囁かれるロシア亡命説や生存説の真相を検証できる
- 現代の墓参り事情や、直系の子孫がいない家系図の真実を理解できる
土方歳三の死因は腹部への銃弾!最期の瞬間に迫る

| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 死没年月日 | 明治2年5月11日(1869年6月20日) |
| 享年 | 35歳 |
| 死因 | 腹部(下腹部から腰)への銃創による戦死 |
| 最期の場所 | 箱館・一本木関門付近(現在の北海道函館市若松町) |
| 戦闘状況 | 箱館戦争の最終局面、新政府軍の総攻撃中 |
| 埋葬地 | 不明(複数の説が存在) |
箱館戦争での壮絶な戦死!「一本木関門」での悲劇
土方歳三の最期は、明治2年(1869年)5月11日、箱館戦争の激戦の中で訪れました。この日、新政府軍は陸海から箱館(現在の函館)への総攻撃を開始し、旧幕府軍の拠点は次々と陥落していきました。
当時の箱館は、新政府軍の圧倒的な兵力と最新式の武器に追い詰められ、旧幕府脱走軍は壊滅寸前の状態でした。榎本武揚率いる蝦夷共和国の夢は、もはや風前の灯だったのです。
そんな中、陸軍奉行並として前線指揮を執っていた土方歳三は、味方を鼓舞し、戦況を立て直すために最前線へと向かいます。彼が向かったのは、箱館市街と五稜郭を隔てる防衛上の要衝「一本木関門」でした。
一本木関門は、現在の函館市若松町(総合福祉センター付近)に位置していた防衛拠点です。この場所は、五稜郭へと続く最後の砦であり、ここが破られれば本営が直接攻撃される危機的状況でした。
新選組隊士で土方の側近だった安富才助が遺族に宛てた書状には、「一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ」と記されています。この書状は戦死の翌日である5月12日に書かれたものであり、一次史料としての信頼性が極めて高いとされています。
最期の瞬間の状況
当時、味方の兵士たちは新政府軍の猛攻に耐えきれず、次々と敗走を始めていました。しかし土方は馬上で「我、この柵にあって退く者を斬る!」と叫び、鬼神のような気迫で味方を踏みとどまらせたと伝えられています。
彼の姿は、まさに新選組副長として恐れられた「鬼の副長」そのものでした。洋式軍装に身を包み、愛刀を腰に、馬上から指揮を執る姿は、敵味方問わず目を引いたことでしょう。
しかし、その直後、一発の銃弾が彼の体を貫きました。銃弾は土方の腹部(一説には下腹部から腰にかけて)を貫通し、彼は馬上から地面へと落馬したのです。
側近たちが駆け寄ったときには、すでに息絶えていたとされています。小杉政之進の『麦叢録』などの記録によれば、落馬後すぐに絶命したため、遺言を残す間もなかったようです。
こうして、幕末の動乱を駆け抜けた新選組の副長・土方歳三は、北の大地で35年の生涯を閉じることになったのです。
享年35歳!土方歳三はなぜ死ななければならなかったのか
土方歳三は享年35歳という若さで戦場に散りました。現代の感覚からすれば、まだまだこれからという年齢です。なぜ彼は死を覚悟して最前線に向かったのでしょうか。
降伏を拒んだ武士の意地
明治2年5月の時点で、すでに榎本武揚ら旧幕府軍の幹部たちは降伏を検討し始めていました。兵力差は圧倒的であり、継戦能力はほぼ失われていたからです。
しかし、土方歳三だけは「戦って死ぬこと」を選びました。彼にとって、新選組の副長として生きた人生を全うするためには、降伏という選択肢はあり得なかったのです。
「降伏して生き延びることは、これまで戦い散った仲間たちへの裏切りになる」——土方はそう考えていたのかもしれません。池田屋事件や鳥羽・伏見の戦いで命を落とした隊士たち、処刑された局長・近藤勇への想いが、彼を最後の戦いへと駆り立てたのです。
徳川家への変わらぬ忠義
死の直前、土方は小姓の市村鉄之助に自らの写真と辞世の句を託しました。その句が「よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東(あずま)の 君やまもらむ」です。
「東の君」とは徳川家を指します。つまり、この句は「たとえ自分の体は蝦夷地で朽ち果てようとも、魂は永遠に徳川家を守り続ける」という、徳川家への変わらぬ忠義を示したものなのです。
信長さん土方にとって、新選組とは徳川幕府を守るための組織でした。幕府が滅んでもなお、彼は武士としての誇りと忠義を貫き通したのですね。
「滅びの美学」を体現した生き様
土方歳三の死は、日本人が古来より愛してきた「滅びの美学」を体現しています。勝ち目のない戦いと知りながら、己の信念を貫き通し、潔く散っていく——その姿は、平家物語や源義経の伝説にも通じるものがあります。
彼は自らの死に場所を北の大地に求め、武士としての誇りを守り抜くために、あえて危険な最前線へ飛び込んでいったと解釈できるのです。
狙撃したのは誰?新政府軍の兵士か、味方の裏切りか
土方歳三を狙撃した人物については、明確な記録は残っていません。乱戦の中での出来事であり、どこから飛んできた弾丸かも定かではないのが実情です。しかし、いくつかの説が後世に語り継がれています。
新政府軍による狙撃説(最有力)
最も有力とされているのが、新政府軍の兵士による狙撃説です。当時、新政府軍は最新式のスナイドル銃やミニエー銃などを配備しており、長射程からの正確な射撃が可能でした。
これらの銃は有効射程が300メートル以上あり、従来の火縄銃や旧式の銃とは比較にならない威力を持っていました。洋装で馬上にいた土方は、敵から見ても明らかに指揮官クラスとわかる存在だったため、狙撃の標的にされた可能性は極めて高いのです。
| 説 | 根拠 | 信憑性 |
|---|---|---|
| 新政府軍狙撃説 | 最新式の長銃を装備した兵士が多数存在 馬上の指揮官は格好の標的 | ★★★★★ 最も有力 |
| 流れ弾説 | 乱戦の中で偶然当たった可能性 | ★★★☆☆ 可能性あり |
| 味方の誤射説 | 混乱した戦場での誤射の可能性 | ★★☆☆☆ 根拠薄い |
| 暗殺・裏切り説 | フィクションや都市伝説 | ★☆☆☆☆ 史実的根拠なし |
流れ弾に当たった可能性
もう一つの可能性として、特定の狙撃ではなく、乱戦の中で飛び交っていた弾丸のうちの一発が偶然当たったという説もあります。
箱館戦争の最終局面では、双方から激しい銃撃戦が繰り広げられており、無数の弾丸が飛び交っていました。そうした中で、不運にも致命傷となる一発を受けてしまったという見方です。
「味方の裏切り説」は後世の創作
こうした説が生まれた背景には、「あれほどの英雄が、こんなにあっけなく死ぬはずがない」という人々の心理があるのかもしれません。しかし、戦場では身分や実力に関係なく、一発の銃弾が命を奪うことは珍しくありませんでした。
彼が命を賭して戦った明治維新という時代の激流については、以下の記事でも詳しく解説しています。
土方歳三の遺体はどこへ消えた?埋葬場所が不明な理由
結論から言うと、土方歳三の遺体は現在に至るまで発見されていません。150年以上が経過した今でも、その埋葬場所は謎に包まれたままなのです。
密かに埋葬された「五稜郭」説と「称名寺」説
土方歳三の遺体については、いくつかの有力な埋葬説が存在します。最も広く知られているのが「五稜郭内への埋葬説」です。
五稜郭内埋葬説


戦死後、彼の遺体は一本木関門から五稜郭へ運び込まれ、他の戦死者とともに郭内の土塁や堀の近くなどに埋葬されたといわれています。
実際、昭和の時代に五稜郭の発掘調査が行われた際、数多くの人骨が見つかったことがありました。これらは箱館戦争で戦死した旧幕府軍兵士たちのものと推測されていますが、残念ながら土方本人のものと特定される遺骨は発見されませんでした。
五稜郭は明治以降、陸軍の施設として使用され、その後公園として整備されました。そのため、当時の地形や埋葬位置が変わってしまっている可能性も指摘されています。
称名寺仮埋葬説
また、函館市内の「称名寺(しょうみょうじ)」に仮埋葬されたという説もあります。ここは新選組の屯所が置かれていた場所でもあり、土方と新選組隊士たちにとってゆかりの深い寺院でした。
戦死した土方の遺体を、部下たちが一時的にこの寺に運び込み、供養のために埋葬したという伝承が残っています。しかし、これも明確な物的証拠はなく、口伝による伝説の域を出ません。
碧血碑との関係
函館山の中腹には「碧血碑(へっけつひ)」という慰霊碑が建てられています。これは箱館戦争で戦死した旧幕府軍兵士たちを供養するために明治8年に建立されたものです。
土方歳三もこの碧血碑に合葬されているという説がありますが、これも確証はありません。ただし、土方を含む多くの戦死者たちの魂が、この碑に祀られていることは間違いないでしょう。
遺体は別の場所に運ばれた?「函館山」に眠る可能性
さらに興味深い説として、「遺体は秘密裏に別の場所へ運ばれた」というものがあります。


函館山中への埋葬説
これは、彼の死を悼んだ部下たちが、遺体が敵の手に渡ることを恐れ、あえて誰も知らない場所——たとえば函館山の山中や、さらに離れた人里離れた場所——へ密かに移したという考えです。
函館山は当時、原生林が広がる険しい山でした。そうした場所に埋葬すれば、新政府軍に発見される可能性は極めて低くなります。
「首級だけが持ち去られた」伝説
また、「首級(首)だけが持ち去られた」という伝説もあります。会津地方へ運ばれたという話や、日野の実家近くに埋められたという話まで、さまざまなバリエーションが存在します。



戦国時代には、大将の首を持ち帰ることが名誉とされていましたが、幕末においても、敬愛する上官の首だけでも故郷に返してあげたいという部下の想いがあったのかもしれませんね。
なぜ墓が隠されたのか?新政府軍による辱めを避けるため
なぜ、これほどまでに遺体の場所が隠されたのでしょうか。その最大の理由は、「新政府軍による辱めを避けるため」です。
反逆者への厳しい処遇
当時、新政府に反旗を翻した者たちの遺体は、見せしめとして晒し首にされることが一般的でした。特に指導者クラスの人物は、その傾向が顕著でした。
新選組の局長であった近藤勇も、流山で捕縛された後、板橋で斬首され、その首は京都の三条河原で晒されました。これは「朝敵(天皇の敵)」としての極刑であり、武士としては最大の屈辱でした。
部下たちは、敬愛する副長・土方歳三だけは、そのような辱めを受けさせたくないと考え、命がけで遺体を隠蔽したのです。
部下たちの忠義と覚悟
箱館戦争の敗北後、新政府軍は徹底的に旧幕府軍の関係者を捜索しました。主要人物の遺体も例外ではありませんでした。
そうした中で、土方の部下たちは口を揃えて「遺体の場所は知らない」と証言し続けました。尋問や拷問を受ける可能性もあったにもかかわらず、彼らは最後まで秘密を守り通したのです。
この部下たちの忠義こそが、今日まで続く「遺体消失の謎」を生み出した最大の要因と言えるでしょう。彼らにとって土方歳三は、単なる上司ではなく、命を預けるに値する真のリーダーだったのです。
遺体が見つからないことの意味
皮肉なことに、遺体が見つからなかったことで、土方歳三は伝説となりました。もし遺体が発見され、晒し首にされていたら、その悲惨な最期が記録に残り、英雄としてのイメージは大きく損なわれていたかもしれません。
部下たちの献身によって守られた土方の尊厳は、結果として彼の神話化を助け、現代に至るまで多くの人々に愛される英雄像を作り上げたのです。
「土方歳三は生きていた」説の真相!ロシアへの亡命伝説
函館から脱出した?生存説が囁かれる根拠
歴史上の英雄には、必ずといっていいほど「生存説」がつきまといます。源義経が北海道を経てモンゴルへ渡りチンギス・ハンになったという伝説や、豊臣秀頼が大坂夏の陣で脱出して薩摩へ逃れたという話など、枚挙にいとまがありません。
土方歳三にも同様に「実は函館で死なずに生き延びた」という伝説が存在します。この説が生まれた背景には、いくつかの要因があります。
遺体が見つかっていないという事実
生存説の最大の根拠は、やはり「遺体が見つかっていない」という事実です。確認された遺体がない以上、死んだとは断定できないという理屈から、密かに船で脱出し、大陸へ渡ったという物語が生まれました。
新政府への恐怖と逃亡の可能性
当時、旧幕府軍の幹部たちの多くは、新政府軍に投降するか、戦死するかの二択を迫られていました。しかし第三の選択肢として「逃亡」も理論上は可能でした。
実際、箱館には多くの外国船が停泊しており、それらに便乗して海外へ脱出することは、不可能ではありませんでした。こうした事情が、生存説に一定のリアリティを与えているのです。
判官贔屓の心理



日本人特有の「判官贔屓(ほうがんびいき)」——つまり、悲劇的に敗れた英雄を哀れみ、「実は生きていてほしい」と願う心理も、生存説を支える大きな要因となっています。
あれほどの英雄が、たった一発の銃弾であっけなく死んでしまうことを受け入れられない——そうした感情が、生存説という「夢」を生み出したのです。
旧ソ連の要人になった?荒唐無稽な伝説を検証
生存説の中でも特にユニークなのが、「ロシアへ渡って軍人になった」という話です。この伝説は昭和から平成にかけて、さまざまな小説や漫画で取り上げられ、ファンの想像力をかき立ててきました。
ロシア亡命説の内容
この説によれば、土方は箱館戦争で重傷を負いながらも、密かに函館港からロシア船に乗り込み、ウラジオストクへと逃れたとされています。そして、ロシア帝国で日本人顧問として軍事指導を行い、晩年まで生き延びたというのです。
さらに荒唐無稽なバージョンでは、シベリアの要塞都市で高官として出世し、「オレンブルグの日本人」として知られるようになったという話まであります。
現実的な検証
第一に、土方は腹部に致命的な銃創を負っており、当時の医療水準では助かる見込みはほぼゼロでした。仮に一命を取り留めたとしても、包囲された函館から脱出し、言葉も通じないロシアへ渡ることは極めて困難です。
第二に、ロシア側の公文書や記録に、土方歳三に該当する日本人の存在を示す証拠は一切見つかっていません。もし本当に軍事顧問として活動していたなら、何らかの記録が残っているはずです。
史実としては、生存説はあくまでファンの願望が生んだ「夢」であると考えるのが妥当でしょう。
フィクションとしての価値
ただし、こうした生存説はフィクションとしては非常に魅力的です。漫画『ゴールデンカムイ』では、土方歳三が生き延びて北海道で埋蔵金を追い求めるという設定が巧みに取り入れられ、多くの読者をワクワクさせました。
史実とフィクションを区別しながらも、「もしかしたら」という可能性を楽しむのが、歴史ロマンの醍醐味なのかもしれません。
写真に残る「老人になった土方」は本物か?
ネット上などでは時折、「ロシアで見つかった晩年の土方歳三の写真」とされる画像が出回ることがあります。白髪の老人が和服を着て座っている姿が写ったものです。
問題の写真の正体
しかし、この写真は全くの別人であることが判明しています。顔立ちや体格、時代背景などから、土方本人ではないことは専門家によって否定されています。
おそらく、明治時代に日本人がロシアや満州に渡った際に撮影された写真が、いつの間にか「土方歳三」として語り継がれるようになったものと思われます。
都市伝説が生まれるメカニズム
こうした写真は、土方の生存を信じたい人々の間でまことしやかに語り継がれてきた都市伝説の一つに過ぎません。インターネットの普及により、こうした情報は瞬く間に拡散し、真偽不明のまま「定説」として広まってしまうことがあります。
歴史を学ぶ際には、こうした情報を鵜呑みにせず、信頼できる史料や研究に基づいて判断することが大切です。
伝説が生まれること自体が愛の証
しかし、そうした伝説が生まれること自体が、彼がいかに愛されているかの証明でもあります。150年以上が経過した今でも、人々が「土方歳三は生きていてほしい」と願い続けている——その事実こそが、彼の偉大さを物語っているのです。
土方歳三とは何をした人?新選組「鬼の副長」の生涯


農家の薬売りから最強の剣客へ!バラガキと呼ばれた青春時代
土方歳三は、天保6年(1835年)5月5日、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)の裕福な農家に生まれました。土方家は代々続く豪農で、歳三は末っ子として何不自由なく育ちました。
「石田散薬」の行商人として
若い頃の歳三は、実家で作っていた「石田散薬」という万能薬を行商して歩いていました。この薬は打ち身や捻挫などに効くとされ、近隣で評判の良い薬でした。
行商は単なる商売ではなく、各地の情報を集めたり、人脈を広げたりする絶好の機会でもありました。若き日の歳三は、この行商を通じて世間を学び、人を見る目を養っていったのです。
「バラガキ」と恐れられた暴れん坊
一方で、若い頃の土方は非常に喧嘩っ早く、「バラガキ(茨のように触ると怪我をする乱暴者)」と呼ばれていました。村の若者たちとの喧嘩は日常茶飯事で、手がつけられないほどの暴れん坊だったようです。



後の「鬼の副長」の片鱗は、すでにこの頃から現れていたんですね。
剣術との出会い——試衛館への入門
そんな歳三が人生の転機を迎えたのが、近藤勇が道場主を務める「試衛館」への入門でした。試衛館は江戸市谷にあった小さな剣術道場で、天然理心流という実戦的な流派を教えていました。
歳三は近藤勇に才能を見出され、厳しい稽古に明け暮れました。元々の喧嘩っ早い性格と、農作業で鍛えた強靭な体は、剣術に最適だったのです。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 天保6年(1835年) | 武蔵国多摩郡石田村に誕生 |
| 少年時代 | 「バラガキ」と呼ばれる暴れん坊として成長 |
| 青年時代 | 石田散薬の行商をしながら各地を回る |
| 安政6年(1859年)頃 | 試衛館に入門、近藤勇と出会う |
| 文久3年(1863年) | 浪士組として京都へ上洛、新選組結成 |
こうして、農家の末っ子だった土方歳三は、幕末最強の剣客集団・新選組の副長へと登りつめていくのです。
新選組を結成!池田屋事件で見せた冷徹な指揮


引用元「Wikipediaコモンズ」より
文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の上洛に伴い、近藤勇率いる試衛館一門は「浪士組」として京都へ向かいました。これが新選組誕生のきっかけとなります。
新選組副長としての手腕
京都に到着後、近藤勇が局長、土方歳三が副長となって新選組を正式に組織しました。しかし、寄せ集めの浪士たちをまとめるのは容易ではありませんでした。
そこで土方が作り上げたのが、悪名高い「局中法度(きょくちゅうはっと)」です。この鉄の掟は、規律を乱す者、任務を放棄する者、私闘をする者などに対して、容赦なく切腹を命じるという厳格なものでした。
実際、新選組隊士の死因で最も多いのは「戦死」ではなく「粛清(内部処刑)」だったとも言われています。それほどまでに土方の規律は厳しかったのです。
池田屋事件での大活躍


引用元「Wikipediaコモンズ」より
新選組の名を天下に轟かせたのが、元治元年(1864年)の「池田屋事件」です。
この日、土方歳三は近藤勇とともに、京都・三条の池田屋に潜伏していた長州藩や土佐藩の過激派志士たちを急襲しました。わずか数名の新選組隊士で、20名以上の志士たちと激闘を繰り広げ、そのほとんどを討ち取るという大戦果を上げたのです。
この事件により、新選組は「京都の治安を守る最強の剣客集団」として、その名を歴史に刻むことになりました。
「鬼の副長」としての冷徹さ
池田屋事件以降も、土方は「鬼の副長」として組織を引き締め続けました。隊士たちからは恐れられながらも、その公平で的確な判断力と、誰よりも組織のことを考える姿勢は、深い信頼も勝ち取っていました。
冷徹に見える彼の行動は、すべて寄せ集めの集団だった新選組を、最強の戦闘集団に作り上げるために不可欠なものだったのです。
近藤勇との絆と別れ、そして北の大地へ
土方歳三の生涯は、局長・近藤勇との絆なしには語れません。彼は常に「近藤勇を大名にする」ことを夢見て、汚れ役を一手に引き受けました。
鳥羽・伏見の戦いでの敗北
しかし、時代の流れは倒幕へと大きく傾いていきました。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いで、旧幕府軍は新政府軍に大敗します。新選組も多くの隊士を失い、敗走を余儀なくされました。
この敗戦を機に、土方と新選組は京都を離れ、江戸、甲府、会津へと転戦を続けることになります。
近藤勇の処刑という悲劇


引用元「Wikipediaコモンズ」より
そして、土方にとって最大の悲劇が訪れます。流山で新政府軍に捕縛された近藤勇が、板橋で斬首されてしまったのです。
盟友を失った土方は、それでも戦いをやめませんでした。むしろ、近藤の仇を討つためにも、徳川への忠義を最後まで貫くためにも、戦い続けることを選んだのです。



近藤の死は、土方にとって計り知れない喪失だったでしょう。しかし彼は悲しみに暮れることなく、最後の戦場へと向かっていったのです。
蝦夷地への転戦
会津での戦いも敗れた後、土方は榎本武揚らとともに蝦夷地(北海道)へと渡りました。ここで「蝦夷共和国」を樹立し、最後の抵抗を試みます。
土方は陸軍奉行並に任命され、松前城攻略などで武勲を挙げました。洋式軍術を学び、見事な指揮官へと成長していた彼は、最期まで戦士として生き抜いたのです。
幕末の動乱期には、新選組と敵対した多くの志士たちがいました。長州藩の桂小五郎(木戸孝允)もその一人です。
木戸孝允(桂小五郎)の生涯と最期!西郷隆盛・大久保利通との絆に涙
土方歳三のプライベート!妻や子孫、意外な素顔
「イケメン」すぎてモテモテ?京都時代の女性関係
土方歳三といえば、現代の感覚で見ても「イケメン」として知られています。現存する洋装の写真を見ても、その端正な顔立ちは際立っています。鋭い眼差し、整った鼻筋、引き締まった口元——まさに理想的な美男子です。


引用元「Wikipediaコモンズ」より
京都での華やかな女性関係
実際、京都では非常にモテたようで、実家に宛てた手紙の中に、芸妓や女性たちから送られた恋文を束にして送りつけ、「モテて困る」と自慢げに書き送ったという微笑ましいエピソードも残っています。
特に島原の太夫(最高位の遊女)や、祇園の芸妓たちからの人気は凄まじく、土方が通りを歩けば女性たちが振り返ったと伝えられています。
鬼の副長として恐れられる一方で、女性にはとても優しく紳士的だったという証言もあり、そのギャップも人気の理由だったようです。
ここからは筆者の勝手な妄想です。土方歳三は、本当にそれほどモテたのでしょうか?京都といえば、イケメンが山ほどいたことでしょう。土方もかなりかっこいい人物ではありましたが、それほどまでに恋文をもらえていたとは考えにくいのではないでしょうか?おそらく営業用の芸妓からの手紙や、若い女性に頼んで書いてもらった手紙などを、実家へ送っていたのでしょう。功名心にはやる田舎から出てきた若者のやりそうなことです。または壬生浪士組への勧誘のために、入隊すれば女性人気が高まると、宣伝したかったのかもしれません。
詩歌を嗜む文化人の一面
土方は剣術だけでなく、俳句や漢詩も嗜む文化人でもありました。彼が残した句や手紙からは、繊細で情感豊かな内面が垣間見えます。
こうした教養の高さも、京都の女性たちを魅了した要因の一つだったのでしょう。
生涯独身だった?許嫁「お琴」との悲恋
数多くの浮名を流した土方ですが、生涯独身を貫きました。しかし、心に決めた女性がいなかったわけではありません。
許嫁「お琴」の存在
実家近くには「お琴(こと)」という許嫁がいたと伝えられています。彼女は土方家と親しい家の娘で、幼い頃から将来を約束された間柄だったようです。
しかし、激動の時代に身を投じた土方は、彼女を幸せにすることはできないと考え、結婚には踏み切らなかったといわれています。



一途な愛を胸に秘めたまま、戦場に散ったのかもしれません。なんとも切ない恋物語ですね。
京都の女性との噂
京都では、特定の芸妓と深い関係にあったという噂もあります。しかし、これらは確証のある話ではなく、土方本人が語った記録も残っていません。
なぜ結婚しなかったのか
土方が結婚しなかった理由は、おそらく新選組という組織への責任と、いつ死ぬかわからない状況にあったからでしょう。
妻を娶れば、その妻を不幸にする可能性が高い——そう考えた土方は、あえて独身を貫いたのです。この判断もまた、彼の優しさと責任感の表れと言えるでしょう。
直系の子孫はいない?兄・喜六の家系図を辿る
「土方歳三の子孫」と検索されることが多いですが、実は土方歳三の直系の子孫はいません。彼が生涯独身だったためです。
現在の土方家は兄の血筋
現在「土方歳三の子孫」としてメディアなどに登場される方は、歳三の実兄・喜六(きろく)の家系にあたります。
土方家は兄の血筋によって代々守られ、貴重な資料や遺品を現代に伝えています。日野市にある「土方歳三資料館」は、この土方家が運営しており、歳三の愛刀や手紙、写真などが展示されています。
土方家の家系図
| 世代 | 人物 | 備考 |
|---|---|---|
| 初代 | 土方隼人(父) | 豪農・土方家の当主 |
| 2代目 | 土方喜六(兄) | 家督を継ぐ |
| 末子 | 土方歳三(本人) | 生涯独身・子孫なし |
| 現代 | 土方家子孫 | 喜六の血筋が継承 土方歳三資料館を運営 |
兄の血筋が守る土方の魂
歳三の直系子孫は確認されていませんが、兄の血筋によって土方家の魂は現代まで守られています。土方家の方々は、歳三の遺志を受け継ぎ、その功績を後世に伝える活動を続けているのです。
身長は高かった?当時の平均身長との比較
土方歳三の身長は、残された写真や着物のサイズ、愛刀の長さなどから、およそ168cm〜170cm前後だったと推測されています。
当時としては驚異的な長身
幕末当時の日本人男性の平均身長は約155cm〜158cm程度でした。つまり、土方は平均より10cm以上も高かったことになります。
現代で言えば180cm〜185cmに相当する大柄な体格だったわけです。これは当時としては非常に目立つ存在でした。
| 対象 | 身長 | 備考 |
|---|---|---|
| 土方歳三 | 約168〜170cm | 当時としては大柄 |
| 幕末の平均身長 | 約155〜158cm | 成人男性の平均 |
| 現代換算 | 約180〜185cm相当 | 相対的な体格差 |
身長を裏付ける証拠
土方の身長を推測する根拠となっているのは、以下のような資料です。
- 現存する写真からの比較分析
- 土方が着用していた着物や羽織のサイズ
- 愛刀「和泉守兼定」の長さから推測される体格
- 同時代人による「背が高い」という証言
長身イケメン剣士というパーフェクトな存在
長身でイケメン、そして剣の達人となれば、人気が出るのも当然ですね。土方は外見だけでなく、内面的な魅力も兼ね備えていたからこそ、150年以上経った今でも多くの人々に愛され続けているのです。
土方歳三の墓と「マヨネーズ」の謎?ファンが捧げる供え物
東京都日野市の石田寺にある墓所
土方歳三の墓は、彼の故郷である東京都日野市の「石田寺(せきでんじ)」にあります。ここには土方家代々の墓所があり、歳三の墓石も建てられています。
石田寺の墓所について
石田寺は真言宗の寺院で、土方家の菩提寺として古くから信仰を集めてきました。境内は静かで落ち着いた雰囲気があり、都会の喧騒から離れた癒やしの空間となっています。
土方歳三の墓は、家族の墓とともに墓地の一角に建てられています。墓石には「土方歳三之墓」と刻まれており、命日である5月11日前後には、全国から多くのファンが墓参りに訪れます。
「ひの新選組まつり」での賑わい
毎年5月には「ひの新選組まつり」が開催され、石田寺にも多くの参拝者が訪れます。このイベントでは、新選組隊士に扮した人々がパレードを行い、幕末の雰囲気を再現します。
静かなお寺ですが、この時期だけは土方を偲ぶ人々の想いで賑わいます。
墓参りのマナー
石田寺を訪れる際は、以下のマナーを守りましょう。
- 静かに参拝する(大声で話さない)
- ゴミは持ち帰る
- 写真撮影は周囲に配慮する
- お供え物は持ち帰る(後述)
なぜマヨネーズ?アニメ『銀魂』の影響とファンの愛
土方歳三の墓参りに関して、一時期大きな話題になったのが「マヨネーズ」のお供えです。
『銀魂』の土方十四郎というキャラクター
これは人気漫画・アニメ『銀魂』に登場する土方十四郎(土方歳三がモデル)が、極度の「マヨラー」であるという設定に由来します。
作中で土方十四郎は、あらゆる食べ物にマヨネーズをかけまくるキャラクターとして描かれ、その姿が多くのファンに愛されました。
実際にマヨネーズを供えるファンが続出
『銀魂』の影響を受けたファンたちが、「土方さんの墓にマヨネーズを供えよう」と考え、実際に石田寺の墓前にマヨネーズを置いていく事例が相次ぎました。
ファンの愛情から生まれた行為ではありますが、これには大きな問題がありました。
マヨネーズ供えはマナー違反!
お墓に食品を供えることは、カラスや虫を呼び寄せ、墓石を汚す原因となります。特にマヨネーズのような油分の多いものは、墓石にシミを作ってしまう可能性があります。
お寺や他の参拝者の迷惑にならないよう、マヨネーズは供えずに持ち帰るか、心の中で捧げるのが正しいマナーです。
真のファンであれば、土方歳三が眠る場所を汚さず、美しく保つことが最高の供養となるはずです。
函館の記念碑と、今も絶えない献花
最期の地である北海道函館市にも、多くの関連史跡があります。
「土方歳三最期の地碑」
戦死した一本木関門跡の近くには「土方歳三最期の地碑」が建てられており、ここにも一年中花が絶えません。函館を訪れる歴史ファンの多くが、この碑の前で手を合わせています。
碑の周辺は現在、住宅街となっていますが、当時の面影を偲ばせる石碑が静かに佇んでいます。
五稜郭タワーの土方歳三像
また、五稜郭タワーのアトリウムには土方歳三のブロンズ像があり、観光客の人気の撮影スポットとなっています。洋装姿で刀を構える土方の勇ましい姿は、訪れる人々に深い印象を与えています。
碧血碑での慰霊
函館山の中腹にある碧血碑も、土方を含む旧幕府軍戦死者を慰霊する重要なスポットです。ここからは函館市街と函館湾を一望でき、彼らが命をかけて守ろうとした景色を見渡すことができます。
彼が北の大地で何を守ろうとしたのか、その場に立つと少しだけ感じられるかもしれません。
土方歳三が現代でも圧倒的に人気な理由
滅びゆく幕府に殉じた「武士道」の美学
土方歳三がこれほどまでに愛される最大の理由は、その「生き様」の美しさにあります。
勝ち目のない戦いを選んだ覚悟
彼は明らかに勝ち目のない戦いと知りながら、主君への義を貫き、最後まで戦い抜きました。この姿は、日本人が古来より愛してきた「滅びの美学」そのものです。
平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」に代表されるように、日本文化には「栄華は永遠ではなく、いつか滅びるからこそ美しい」という価値観があります。土方の生き様は、まさにこの美意識を体現しているのです。
武士としての誇りと忠義
農民の出身でありながら、誰よりも武士らしく生きた土方歳三。彼にとって新選組は、単なる組織ではなく、武士としての誇りを体現する場でした。
徳川幕府への忠義、近藤勇への友情、部下たちへの責任——そのすべてを最期まで貫き通した姿は、現代人が失いつつある「義理と人情」の象徴として映るのです。
組織のために嫌われ役を買って出たリーダーシップ
組織運営における彼の手腕も高く評価されています。
「鬼の副長」としての厳しさ
土方は「鬼の副長」としてあえて嫌われ役になり、組織を引き締めました。しかし、その厳しさは私情によるものではなく、すべて新選組という組織を守るためのものでした。
現代の企業やチームにおいても、「組織のために嫌われ役を買って出る覚悟」を持ったリーダーは貴重です。土方のリーダーシップは、時代を超えて学ぶべきものがあるのです。
部下への細やかな気配り
一方で、土方は部下への細やかな気配りも忘れませんでした。隊士たちの装備や給与、待遇の改善に尽力し、彼らが安心して戦える環境を整えました。
厳しさと優しさを兼ね備えた理想の上司——これが、現代のビジネスパーソンからの共感を呼んでいる理由なのです。
多くの作品で描かれるヒーロー像への憧れ
司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』をはじめ、映画、ドラマ、アニメ、ゲームなど、彼を題材にした作品は枚挙にいとまがありません。
世代を超えて語り継がれる英雄
それぞれの作品で描かれるかっこいい土方歳三像が、新しい世代のファンを次々と生み出し、その人気を不動のものにしています。
- 小説『燃えよ剣』(司馬遼太郎)
- 大河ドラマ『新選組!』(2004年)
- 漫画・アニメ『銀魂』(土方十四郎)
- 漫画『ゴールデンカムイ』
- ゲーム『薄桜鬼』シリーズ
時代を超える普遍的な魅力
土方歳三の魅力は、時代を超えた普遍性を持っています。「仲間のために命を賭ける」「信念を貫き通す」「滅びゆく側に最後まで寄り添う」——こうしたテーマは、いつの時代も人々の心を打つのです。
史実とフィクションが混じり合いながら、土方歳三という英雄像は今も進化し続けています。そして、これからも多くの人々に愛され続けることでしょう。
まとめ
土方歳三の死因と生涯、そして現代に生きる伝説
- 土方歳三の死因は箱館戦争における腹部から腰への銃創による戦死である
- 最期の場所は一本木関門付近という説が、側近の書状などから最も有力視されている
- 享年35歳で落馬後すぐに絶命したとみられ、遺言などは残されていない
- 遺体の埋葬場所は五稜郭や称名寺など諸説あるが、現在に至るまで発見されていない
- 遺体が見つからない最大の理由は、新政府軍による辱め(晒し首)を防ぐため部下が隠したからである
- ロシア亡命説や生存説は史実ではなく、判官贔屓とファンの願望が生んだ伝説である
- 晩年の土方とされる老人の写真は、別人であることが専門家によって確認されている
- 直系の子孫はおらず、現在の土方家は実兄・喜六の血筋によって継承されている
- 京都時代は非常にモテたが、許嫁のお琴などを想い、生涯独身を貫いた
- 身長は約168cm〜170cm前後と推測され、当時の平均より10cm以上も高かった
- 墓は東京都日野市の石田寺にあり、毎年多くのファンが訪れる聖地となっている
- 墓へのマヨネーズ供えはマナー違反となるため、持ち帰るのが真のファンの心得である
- 函館には最期の地碑や五稜郭タワーの銅像、碧血碑などゆかりの地が多数存在する
- 最後まで武士としての義を貫いた「滅びの美学」が、現代でも多くの人を惹きつけている
- 鬼の副長としての厳しさと組織愛を兼ね備えたリーダー像は、現代社会でも評価されている
土方歳三という人物は、単なる歴史上の敗者ではありません。己の信念を貫き通し、命を燃やし尽くしたその生き様は、150年の時を超えて私たちに勇気を与え続けています。彼はこれからも、永遠のヒーローとして私たちの心の中で生き続けることでしょう。









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