土方歳三の死因に隠された謎がスゴイ!性格が災いし裏切られて死亡?

新選組・鬼の副長「土方歳三」の「死因」や「最期」について、わかりやすく解説いたします。
とても厳しく、新選組隊士を何人も切腹させたり粛清した「土方歳三」。
彼は、「五稜郭の戦い」で壮絶な最期をとげます。
しかし実は、「味方に裏切られて殺された」説があることをご存知でしょうか?
鬼の副長・・・五稜郭の戦い前後には「仏様」のように優しかったという噂もあるのですが・・・。
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この記事を短く言うと
- 新選組・鬼の副長と呼ばれた「土方歳三」の性格は、「厳格で冷徹」しかし「優しさ」も持ち合わせている。与えられた役割を器用にこなすタイプだった
- 家族に心配をかけないためか、女性からの大量の恋文を実家に送って、自慢していた
- 1869年6月20日、腹部に銃弾を受けて戦死。ほぼ即死だったらしい
目次
土方歳三の性格とは?実はかなり優しかった
鬼の副長「土方歳三」・・・とても厳格な性格をしていたようですが、甥っ子を可愛がる優しさも持ち合わせており、最期をむかえた箱館の地では、「仏」と呼ばれるほどの優しさをみせていたと言われています。
剣豪集団「新選組」、その新選組をひきいて「鬼の副長」と呼ばれたのが「土方歳三(ひじかたとしぞう)」です。
新選組は、極めて厳しい「隊規」と呼ばれる「法律」でしばられていました。
これに違反したものは、「鬼の土方歳三」によって、次々と切腹させられたり処刑されたりしたのだとか。
土方の性格は、「厳格で冷酷」と言って良いのではないでしょうか。
ただ、1869年の箱館で、土方は旧幕府軍とともに新政府軍と戦っているとき、部下たちに人が変わったかのように優しかったといわれています。
また、自らの甥っ子が怪我をした時、明るくあやしたという逸話もあります。
もしかすると「人徳のある近藤勇」に対して、土方は「鬼の副長」を演じていただけで、実は心根の優しい人だったのかもしれません。土方が恐ろしければ、優しい近藤の人気はさらに高まるでしょう。土方はそれを狙っていたのだと思います。
土方歳三の逸話・エピソードを簡単に解説
土方歳三には、数多くのエピソードがあります。
その一部をご紹介いたします。
・イケメンだった土方は、とても女性にモテていたらしく、女性からもらった数多くの「恋文」を親戚に送って自慢しています。
本当に女性からもらったものだったのか・・・。それとも誰かに頼んで書いてもらったのか・・。わかりませんが、土方はこれらの恋文を「つまらないもの」と言っていたみたいです。
つまらないのなら捨てるでしょう・・。自慢したかったのか。それとも「京都で成功しているから安心してくれ」と親戚を通して家族に伝えたかったのか・・。
結構細かい性格だったのかもしれません。
・幼い頃は、風呂上がりに裸で相撲の稽古をしていた
・戊辰戦争で旧幕府軍が敗北を重ねると、西洋軍学の必要性を痛感し、西洋軍学を積極的に学んだのだとか。その成果もあってか、「五稜郭の戦い」では数々の戦果をあげている。合理的でとても柔軟な頭脳をもっていたことがうかがえる。
・鬼の副長と呼ばれた土方歳三だったが、箱館では「仏」と呼ばれるほど部下に優しく接したのだとか。これは、それまで「仏」の役を務めていた「近藤勇」が亡くなったため、自分が「仏」の役もやらなくては、部下をつなぎとめておけないと考えてのことだろう。このことから、「与えられた役割を柔軟にこなす」という特徴がみてとれる
・宇都宮城の戦いで負傷した土方は、会津若松城でふせっていた。そこで幕府の役人「望月光蔵」と口論になり、枕を投げつけた。武器をとって敵と戦おうとしない「望月」に激怒したらしい。
・戦死する直線に、新選組隊士「市村鉄之助」にたいして、自分の遺品を家族に届けることを命令。市村が「戦って死にたい」と言ってそれを断ると、「斬る」といって脅し、無理やり落ち延びさせた。市村は無事に遺品を届け、4年後の明治6年に病死している。
土方歳三の最期と死因!味方に殺された?
明治2年5月11日(1869年6月20日)、土方歳三は「五稜郭の戦い」で戦死しています。
函館の「一本木関門」で、馬に乗って軍の指揮をとっているときに、腹部へ銃弾を受けての戦死。落馬した土方に、「大野右仲」という陸軍奉行助役が駆けよったそうですが、その時すでに亡くなっていたのです。
腹部への被弾で即死というのは、ちょっと気になる死に方です。
「後ろに下がる者は斬り殺す」
そのとき土方は、自分がひきいていた部隊にむけて、「前進せよ」と命令していました。後退することを禁じたことで、激怒した自分の部下に裏切られ、銃撃されて死んだ・・という説もあるようですね。
だとしたら、あまりにも厳しすぎる性格が、死を招いたということになります。
とはいえ、敵に銃撃されて亡くなった可能性のほうが高いとは思いますけどね・・・。
土方の遺体は「五稜郭」に埋葬されたとか、別の場所に移されたなどといわれておりますが、遺体のゆくえはわかっていません。
現在は函館「若松緑地公園」に、土方歳三の最期の地」と記された「碑」が建てられています。
土方が亡くなった6日後、旧幕府軍は新政府軍「黒田清隆」の説得により降伏。
土方歳三の盟友「榎本武揚」は、数年間の服役生活を終えた後、明治新政府につかえて活躍しています。
土方歳三が残した辞世は「3つ」あると言われている。
「よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は 東の君やまもらむ」
「たとひ身は 蝦夷の島根に 朽ちるとも 魂は 東の君やまもらん」
(この身体が、たとえ北の島で朽ち果てても、私の魂は、必ずや東におわす君主を守ってみせる)
もう一つ、辞世とされる歌が残っています。
「鉾とりて 月見るごとに おもふ哉 あすはかばねの 上に照るかと」
(刀を手にとって、月を見上げるごとに、思うことがある。明日私が屍になったら、月は照らしてくれるのだろうかと)
『土方歳三』について「ひとこと」言いたい!
土方歳三、カリスマ「近藤勇」を支えることに生涯を捧げた「鬼の副長」。
よく「影が濃いほど、光は強く輝く」といいますが、土方は「近藤勇」という光を際立たせる「影」を、見事に演じたと言えるでしょう。
「箱館」では「仏」と呼ばれるほど、部下を大切にしたという土方ですが、おそらく「近藤勇」よりも「采配能力」や「政治力」は高かったと考えられます。
もしも土方歳三が「新選組」を率いていたとしたら、どうなっていたでしょうか。
柔軟な頭脳をもち、与えられた役割を器用にこなす土方歳三なら、うまく「新選組」を動かしていたと思います。
土方は「近藤勇」よりも、指揮官として優れた人物だったのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 土方歳三の性格は、「厳格で冷徹」しかし「優しさ」も持ち合わせている。与えられた役割を上手に演じることができる柔軟な性格だった
- もらった恋文を家族に送って自慢していたらしい。本当にもらったものなのか、自慢するために誰かに頼んで書いてもらったのかは不明。
- 1869年6月20日、「五稜郭の戦い」で戦死。腹部に被弾したことで亡くなったらしい。
以上となります。
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