大政奉還とは何のことなのかを、超簡単に理解できるように、わかりやすく解説いたします。
徳川慶喜が行った大政奉還とは、徳川幕府が朝廷に政治を行う権利を返上したこと。
大政奉還は徳川慶喜のギブアップ宣言だと勘違いされることがあるが、
実際には強烈な反撃の一手だった
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この記事を短く言うと
「大政奉還」をわかりやすく簡単に解説
大政奉還とは、慶応3 (1867) 年、江戸幕府徳川十五代将軍徳川慶喜が征夷大将軍の職を辞し,政権を朝廷に返上することを申し出て、朝廷に統治権を返上したことを指します。
- 同3年3月、薩長両藩が倒幕のための同盟を結んだのに対し,土佐藩は幕府をも加えた雄藩連合の新政権樹立を企てる
- 同年10月3日、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告。
- 6日には、安芸藩からも同じ勧告がなされました。
- 慶喜は熟慮の末,10月12日に二条城で老中以下の者たちに大政奉還の決意を伝える
- 翌13日、諸藩にこの旨を通達,
- 翌14日、朝廷に上表文を差出し,
- 翌15日、朝廷はこれを許可。
ただし慶喜は必ずしも政権の全面的放棄を考えていたのではなく,新政体のもとであらためて実権を掌握する構想」を秘めていたとか。
「朝廷」や「幕府」そして「征夷大将軍」とは何なのかについて、詳しくは以下のリンク記事をどうぞ。
大政奉還は、徳川慶喜のギブアップ宣言ではない?
自ら負けを認め、白旗を振ったかのように見える大政奉還。
しかし実は大政奉還したおかげで、徳川家は滅亡を逃れたとみることができるのです。
実はこの頃、江戸幕府に不満を持つ者や、日本の夜明けを夢見る者(日本を西欧列強のような強国にすることを夢見るもの)とで、日本中は大混乱に陥っていました。
そんな大混乱の日本を植民地支配しようと、強力な外国が狙っていたのです。
新政府軍の陰には最強国イギリスが、徳川幕府軍の陰にはイギリスに次ぐ強国フランスがついていました。
植民地支配の恐れに気付いた慶喜は、このタイミングで新政府軍と徳川幕府軍の戦いが始まれば、イギリスかフランスによって植民地支配されてしまうことを予想していました。
そのため慶喜は、大政奉還して内戦を避けたのです。
日本が真っ二つに分裂して争えば、日本は弱体化し、その弱みに付け込んで、イギリスやフランスが日本の各地を攻め落として植民地・租借地にしてしまいます。
『引用元ウィキペディアより』
実は大政奉還がなされたのとほぼ同時に、薩摩藩と長州藩は、朝廷から
討幕の密勅
というものをもらっていました。
討幕の密勅とは、幕府を倒せという朝廷からの秘密命令のことです。このままでは、江戸幕府軍と薩摩長州軍のあいだで、日本を二分する大戦が勃発してしまいます。
ところがその大戦を回避する方法が一つだけあったのです。
それが大政奉還です。
大政奉還を行えば、新政府軍は徳川幕府軍を倒す理由を失い、争う必要がなくなるのです。
大政奉還とは、すなわち幕府を無くしてしまう行為であるため、幕府が無くなったのだから倒す必要が無くなるということ。
今に例えて言えば
評判が悪い内閣総理大臣を辞めさせようと、デモを起こそうとしたら、デモを起こす前に総理大臣が自ら辞めたので、デモを起こす理由が無くなった
というようなもの。
この大政奉還が実現したことで、薩摩長州がせっかく朝廷からもらった討幕の密勅は、完全に無意味なものとなりました。
慶喜の頭には、懇意にしていたフランス公使ロッシュから教えられていた構想、すなわち
幕府も藩も解体し、中央集権的な官僚制と、統一的な軍隊を創設する
という国家改造案がありました。
その新国家の頂点に立つのは、もちろん慶喜です。他に人材などいるはずがありません。
そして慶喜は、大政奉還という偉業を演じた後に、政権担当能力のない朝廷から政治をおこなう権限を再委任された上で、幕府ではない、新たな強力国家を建設することを目論んでいたのです。
実際、大政奉還後も慶喜は朝廷から政権を当面担当することを命じられており、二条城で精力的に政務を執りました。
当然です。
200年以上も政治なんてやったことのない朝廷に、政権をお返ししますといったところで、朝廷が政治などできるはずもありません。
朝廷には政治を行う専門家も、政治を行うための専門組織もないのですから。
政権を返上された朝廷からすれば、徳川慶喜につづけて政権運営を任せます、と言うしかないのです。
慶喜は、そこまで予測していましたし、実際にそうなっています。
朝廷は政権を返上した慶喜に、続けて政権運営を任せると命令しているのです。
つまり、一時的にではあるものの、慶喜は大政奉還(政権を放棄する)という一手を打つことによって、倒幕を回避するとともに、政権を維持することもできたのです。
ここまで解説すればもうお気づきだと思いますが、朝廷の徳川慶喜に対する態度は、大政奉還という一手によって180度変わっています。倒幕の命令を薩長に出そうとしていたはずの朝廷が、大政奉還のあとは、慶喜に政権運営を任せる、と言い出したのですから。
- 倒幕回避
- 政権維持
これ以上ない収穫を手にした慶喜でしたが、これを黙ってみている大久保利通はありません。
その後、結局は戊辰戦争で新政府軍と徳川幕府軍は争うこととなり、明治維新という歴史を辿ることとなります。
「王政復古の大号令」について詳しくは、以下のリンク記事をどうぞ。
大政奉還後、徳川慶喜は舵取りに失敗、幕府は滅びた?
慶応三年(1867年)10月、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が行った大政奉還は
天皇の下に幕府主導の新組織を置く
という、言わば、江戸幕府生き残り作戦でした。
それに対抗して同年12月、薩摩藩の大久保利通と公卿・岩倉具視が、幕府を徹底的に排除し、天皇自らが政権を握るクーデター宣言王政復古の大号令を発します。
大久保利通は、あくまでも徳川慶喜を新政府・新国家の組織から締め出そうとしたのです。
慶喜の能力は、それだけ突出していました。
そしてなによりも、武士の棟梁だった徳川慶喜を新政府へ入れてしまったら、武士階級を優遇しないとは言い切れません。
武士のトップだった慶喜が政権のトップに返り咲いたら、大久保が目指す四民平等の近代的な日本は実現せず、慶喜によって武士の特権が守られた古い日本が存続してしまいかねません。
大久保利通は、徳川慶喜を全く信用できなかったのでしょう。
また薩長軍が錦の御旗(天皇に認められた天皇の軍団の証)を掲げたことにより、薩長軍=官軍(天皇の軍)、旧幕府軍=朝敵(日本国の敵)という構図を無理矢理つくります。
当然、幕府はこの王政復古の大号令を前面否定し、両者は対決へとなだれ込んでいきます。
慶応四年(1868年)1月2日、幕府軍が朝廷へ宣戦布告の書状を提出するために挙兵し、翌3日、幕府と新政府の戊辰戦争が始まったのです。
戊辰戦争最初の決戦を、その起こった場所から鳥羽伏見の戦いと呼びますが、この時、新政府軍の3倍ほどの兵力を持っていたにもかかわらず、幕府軍は負けてしまいます。
そして、幕府軍の敗戦を大坂城で聞いた将軍・慶喜は、応四年(1868年)1月6日の夜、京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)と京都所司代の桑名藩主松平定敬など、わずかな側近だけを従えて大坂城を脱出し、幕府の軍艦・開陽丸で江戸に帰ってしまうのです。
慶喜の行動は大将の敵前逃亡として、非難の対象となります。
徳川幕府は、フランス陸軍の指導により、近代的陸軍を整備していました。
幕府軍は第二次長州征伐で大敗した頃とは様変わりしており、フランスはこの軍隊で薩長を倒すことを考えていたようです。
慶喜の配下には、
- 幕兵5千余
- 会津3千余
- 桑名千五百余
合計で1万近くの充分な兵がいました。
一方の武力討幕派(薩長)には
- 薩摩藩の兵3千
- 長州の兵2千5百
の合計5500。
慶喜がその気になって戦えば、勝つ可能性は高かったと思われます。
しかし慶喜は戦おうとはせず、大阪城に退き下がってしまった。
この時に大久保利通は、慶喜が抵抗もせずに、あっさりと大阪に退いたことに驚いたのだそうです。
大久保はこの時、慶喜との戦いに敗れることまで想定して、天皇を連れて広島あたりまで逃げることまで考えていた、という説も存在します。
それだけ薩長勝利の可能性は低かった、ということです。
「大政奉還」について、わかりやすく解説した別記事もご用意いたしました。よろしければお役立てくださいませ。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 大政奉還とは、徳川一五代将軍慶喜が朝廷に統治権を返上したことを指します。
- 大政奉還はギブアップ宣言ではなく、徳川家の滅亡を逃れるためにした。
- 徳川幕府は、フランス陸軍の指導により近代的陸軍を整備しており、慶喜がその気になって戦えば勝つ可能性は高かった。
いかがでしたか。徳川慶喜のついて少し詳しくなりましたね。
以上となります。
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