福井藩士「橋本左内」の「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。
西郷隆盛が、当時最高の学者「藤田東湖」と並び尊敬した秀才「橋本左内」。
「一橋慶喜」を次の将軍にしようと奔走したが、井伊直弼による「安政の大獄」で「吉田松陰」とともに処刑されました。
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橋本左内は、何をした人なの?
橋本左内
「引用元ウィキペディアより」
幕末・・・西郷隆盛や吉田松陰と同じ時代を生きた「福井藩」の侍。
福井藩は、当時「四賢侯」と呼ばれた「4人の名君」の一人「松平春嶽」が治めた地でした。
「橋本左内」は、その「松平春嶽」に仕えた秀才。
ちなみに「松平春嶽」は、当時「日本で最も賢いお殿様」とも言われていた人物で、坂本龍馬と一度あっただけでその才能を見抜き「海軍伝習所」創設のために「5000両」という大金をあっさり貸してくれたお方。
橋本左内は、幕末・諸外国の圧力を受ける日本において、近代化のために奔走した人物。
1859年、井伊直弼が起こした「安政の大獄」という弾圧事件で、長州藩の「吉田松陰」とともに処刑され、秀才「橋本左内」は若干25歳で、短い生涯を終えてしまいました。
吉田松陰は、橋本左内の死を牢獄内で知り、その死を惜しみ
「左内と半面の識なきを嘆ず」
(噂に名高い橋本左内さんとは、チラッとしか面識はなかった・・面識を得ること無く終わってしまい、とても残念だ)
と嘆いたと言われています。
はっきり申し上げて、橋本左内は何か具体的な功績を残したのか?というと、何も功績はありません。
ただ、「吉田松陰」や「西郷隆盛」など、後に偉人と呼ばれる人達から、高く評価されていた・・・言うなれば「賢人」といったところでしょうね。
橋本左内の生涯と、吉田松陰と共に力尽きた最期
橋本左内
「引用元ウィキペディアより」
1834年、現在の福井県・越前に生まれました。
父は越前藩医・橋本長綱・・・弟は後の陸軍軍医総監・東京大学医科大学教授「橋本綱常」
左内は父のあとを継いで「藩医」となるため、1849年、大坂で「緒方洪庵」の「適塾(福沢諭吉・大村益次郎が通った塾)」へ入塾して「蘭方医学」を学びます。
緒方洪庵は彼の才能を認め、「池の中で眠る龍」と呼んだほどでした。
そんな中、藩医となるはずだった「蘭方医・橋本左内」に、主君「松平春嶽」の声が掛かります。
とても優秀だった「橋本左内」・・・その評判が、人を見る目に定評があった「松平春嶽」に見出されたということ。これにより藩医は弟「橋本綱常」が継ぎました。
当時、日本は「ペリー来航」で混乱していた最中。
そんな時、12代将軍「徳川家慶」が病死。13代将軍「徳川家定」は病弱だったため、早速「14代将軍」を誰にするかが話題になったのでした。
松平春嶽は、14代将軍に英明で評判だった「一橋慶喜」を推挙していたのです・・。
左内もまた、松平春嶽の考えに寄り添って「一橋慶喜」擁立に奔走。
一説によると、「一橋慶喜」は「将軍就任」を渋っていたようですが、橋本左内は「一橋慶喜擁立」こそが日本のためだと信じていたようです。
その後、彼は江戸にて、「西郷隆盛」や「藤田東湖」、「横井小楠」や「梅田雲浜」など、後世に名を残す実力者たちと交流。
1857年には、「越前藩」の教育改革に乗り出し、藩校「明道館」を一般庶民も学べる学校に改めました。
しかし・・・そんな「橋本左内」は、「安政の大獄」で命を落とすこととなります。
1859年、大老「井伊直弼」は、「安政の大獄」と呼ばれる弾圧を強行。これは、「一橋派」への無差別的な弾圧と言われていますが、それだけではありません。
井伊直弼が「日米修好通商条約」を「朝廷」の許しもなく締結。それに怒った朝廷が「尊王派・水戸藩」に対して「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれる「朝廷からの密命」を出しました。
これは幕府の頭越しに行われた越権行為。幕府がこれを許したら、威信を失って、各藩の反乱を招きかねません。
そのため、この「戊午の密勅」に携わった者を、次々と弾圧したのが「安政の大獄」。処罰された人物は、合計100名以上。
この時、「橋本左内」もまた、どさくさに紛れて処刑されてしまうのです。
井伊直弼には「一橋派」を一掃しようという意図もあったのでしょう・・・。聡明なる橋本左内は、井伊直弼からすれば、一橋派の中でも厄介な存在だったことでしょう。
橋本左内・・・斬首・・・武士として切腹すらも許されない終わり方でした・・・。
結局、一橋慶喜は「14代将軍」になることができず、代わりに「征夷大将軍」となったのは、井伊直弼が推していた「紀州藩主・徳川慶福(家茂)」
一橋慶喜は、この家茂が亡くなったのちに、15代将軍へと就任することとなります。
西郷隆盛との関係!西郷が認めた同士!
橋本左内は、当時江戸に出府していた「西郷隆盛」とも交流していたと言われています。
橋本左内の主君「松平春嶽」と、西郷隆盛の主君「島津斉彬」は、ともに「四賢侯」と呼ばれた盟友同士。
家来同士の「橋本左内」と「西郷隆盛」も、そのまま同士となっていったと考えられます。
西郷隆盛は、橋本左内の秀才ぶりを認めており、安政の大獄における彼の死を悲しみました。
西郷は
「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」
と発言しています。
当時日本国中に名前が鳴り響いていた水戸藩の思想家「藤田東湖」と並んで、「橋本左内」を推していたところをみると、相当評価していたことがわかります。
橋本左内・・・・若くして亡くなった「吉田松陰」と並ぶ逸材・・・あまりにも早すぎた最期でした。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・橋本左内は、名君「松平春嶽」の家来として活動した秀才
・橋本左内の最期は、安政の大獄における斬首。享年25歳
・西郷隆盛は、橋本左内を当時の有名人「藤田東湖」と並んで評価していた
以上となります。
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