「尊王攘夷(尊皇攘夷・そんのうじょうい)」とは、どういう意味なのかを、わかりやすく解説いたします。
「尊王(尊皇)」とは、「天皇を奉る」「天皇を守る」という意味。
そして「攘夷」とは、「外敵を武力でうちはらう」という意味。
すなわち「尊王攘夷(尊皇攘夷)」とは、「天皇を守り、外敵を倒そう」というスローガンなのです。
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この記事を短く言うと
・尊王攘夷(尊皇攘夷)とは、「天皇を敬い、外国人を追い出す」という思想のこと
・藤田東湖・武田耕雲斎の他、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作などが「尊皇攘夷派」だった
・1911年に関税自主権を回復して、不平等条約を撤廃したことで、攘夷を実現できたと言えるのではないだろうか
尊王攘夷の意味とは?わかりやすく解説
尊王攘夷とは、「王を尊び、夷を攘う(はらう)」という意味で、天皇を敬い、外国人を排斥するということです。
ただし、日本は王ではなく、天皇が頂点に君臨していたため、尊王攘夷ではなく、尊皇攘夷という言葉が使用されていました。
尊王攘夷と尊皇攘夷では、厳密にいうと意味が異なるのですが、ここでは幕末にしようされていた「尊皇攘夷」について解説をいたします。
ちなみに尊王攘夷とは、古代中国において使われた言葉で、「王を守って夷狄(外国)を追い払おう」という思想のことです。
日本では、王という文字ではなく、天皇の皇という文字が使用され、尊皇攘夷とされたのです。
尊王というのは、当時の日本人誰にも共通する基本的な思想でした。
一方「攘夷思想」は、どのように発生したのでしょうか。
幕末の時期、欧米は世界各国に進出して、植民地化をおこなっていました。
清国は英国との「アヘン戦争」で敗れて香港を奪われ、日本は脅威を感じていました。
日本でも、ロシアや英国の外国船と摩擦が発生するようになり、外国から日本を防衛するために侵略拒否・植民地化拒否を目的とし、外国を打ち払うとして唱えたのが攘夷思想です。
そういう時期にペリーが浦賀に来航します。
日本としては、いよいよ外国が日本を侵略しに来たぞ、ということで攘夷活動が本格化しました。
しかし、江戸幕府は外国の武力を見せつけられ、開国をします。
その結果、生活必需品が国内で品不足となり、物価の上昇を招き、庶民の暮らしは苦しくなりました。
弱腰の幕府への反感が高まり、尊王論と攘夷論が結び付き、下級武士を中心とした尊皇攘夷運動となったのです。
当時の日本人は、一つ大きな勘違いをしていました。
それは、「日本は世界最強の国だから、アメリカやイギリスと戦争しても、絶対に勝てる」と考えていたことです。
実際には、日本は最強国イギリスはもちろん、弱小国だったアメリカにも勝てないほど弱体化していました。
もしも日本が攘夷などやって、外国に戦争を仕掛けたりしたら、日本は確実に敗北し、滅亡していたのです。
そのため、日本は外国への対応に弱腰となり、日米修好通商条約のような、日本にとって不平等な条約を結ばされても、外国を怒らせないようにして必死に戦争を回避していたのです。
もう一度申しますが、当時の弱体化した日本と江戸幕府では、外国に戦争を仕掛ける行為である「攘夷」など、到底不可能だったのです。
ところが、その事実をほとんどの日本人は知りませんでした。
長州藩のような有力な藩は、幕府の弱腰を責め、朝廷を動かし、幕府に攘夷の実行を迫ります。
しかし、幕府は攘夷を実行しません。
そんな中で、長州および薩摩は独自に攘夷を掲げ、長州は「下関戦争」を、薩摩は薩英戦争を起こし、外国と戦います。
結果はもちろん日本の惨敗。
その体験により、薩長は攘夷が不可能であることを思い知りました。
そこで藩の上層部は攘夷から開国へと転じ、外国から優秀な武器を購入します。
尊皇攘夷は武士階級全体を覆った一大スローガンであり、ひとつにまとまった巨大なエネルギーを生み出しました。
薩長はその尊皇攘夷エネルギーをそのまま使い、討幕の原動力となったのです。
尊王攘夷を唱えた有名な人物とは?
尊皇攘夷は水戸が総本山でした。
しかし、水戸は内部抗争などで弱体化し、過激な尊皇攘夷活動は長州藩に引き継がれることとなります。
藤田東湖:幕末尊皇攘夷論を唱えた水戸学の学者であり、水戸藩主徳川斉昭の腹心。
武田耕雲斎:水戸天狗党の乱の首領となり鎮圧された。以降水戸派の尊皇攘夷活動は衰える。
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吉田松陰:日米修好通商条約という不平等な条約に激怒し、幕府に条約破棄と攘夷の実行を迫る間部要撃策を提言。
高杉晋作:品川御殿山に建設中の英国公使館へ、焼き討ちを実行した。
久坂玄瑞:馬関海峡(現 関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実行した(下関戦争)
品川御殿山に建設中の英国公使館焼き討ちには、高杉晋作のほか、久坂玄瑞、伊藤博文、井上馨、品川弥二郎など著名な藩士が参加していました。
結局、尊王攘夷は実現できたのか?
尊皇攘夷のうち、尊皇は天皇中心とする明治政府ができたことにより実現しました。
一方、攘夷はどうでしょうか?
外国との通商をしている明治政府ですが、欧米列強をやっつけることはできたのでしょうか?
1894年 治外法権の撤廃
日米修好通商条約にて結ばれた不平等条約のひとつが治外法権です。
1894年に結ばれた日英通商航海条約により初めて撤廃され、ついで日米通商航海条約が発効されたことにより失効しました。
1904年~1905年 日露戦争
満州、朝鮮に進出しようとするロシアに対し、祖国防衛戦争を挑んだ日本。
戦略、戦術を駆使し、五分の戦いに持ち込んだ陸軍、日本海海戦で完全勝利した海軍により、ロシアに勝利しました。
世界は日本の勝利に驚愕しました。
1911年 関税自主権の回復
日米修好通商条約にて結ばれた不平等条約のひとつが関税自主権がない事です。
日清・日露両戦争の勝利と産業資本の確立を踏まえて、外相「小村寿太郎」の努力により実現しました。
欧米列強に日本という国を認めさせ、世界の仲間入りをすることができました。
それにより、攘夷を達成できたと考えてもよいのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・尊皇攘夷とは天皇を敬い、外国人を排斥するということで、開国してしまった弱腰な幕府への反感と、外国の侵略の恐怖により沸騰した思想です。そのエネルギーは討幕の原動力となりました。
・水戸から発生した尊皇攘夷ですが、長州に引き継がれ過激になります。多くの長州藩士が攘夷活動に手を染めました。
・アジアの小国が大国のロシアに戦争で勝利する、これこそが攘夷の最たるものではないでしょうか。
尊皇攘夷は単純攘夷から、様々な経験を経て開国し外国から進んだ文明を取り込み、富国強兵を優先することに変化してゆきます。
そして明治日本は驚く成長を遂げ、それまでの農業国家がわずか30数年で強国のロシアと大艦隊戦をやるまでになります。
日本人のエネルギーって本当にすごいですね。
以上となります。
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