井伊直政・直虎の子孫・井伊直弼
「桜田門外の変」で亡くなったというが、最期の地は現在のどこ?
なぜ井伊直弼は暗殺されなくてはならなかったのか?
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この記事を短く言うと
・「桜田門外の変」は、現在の東京警視庁前、「桜田門交差点」で発生した
・「桜田門外の変」は、幕府の大老「井伊直弼」が「安政の大獄」という弾圧事件を起こしたことが原因で発生した
・直弼の功績は、一言でいえば「日本を諸外国の襲撃から守った」こと
「桜田門外の変」現在の場所は?
1860年3月3日午前九時頃、江戸城の「桜田門」外で発生した「水戸藩士17名」「薩摩藩士1名」による、彦根藩行列襲撃事件。
当時、江戸幕府大老職についていた彦根藩主「井伊直弼」が暗殺された事件。
それが「桜田門外の変」
十数分間の出来事だったという証言があり、彦根藩士と水戸藩士の凄まじい切り合いがあったとのことです。
井伊直弼は、籠の中におり、襲撃当初の銃撃で、腰から太ももを負傷し、一歩も動けない状態でした。
その籠に、水戸藩士の刀が次々と突き立てられ、井伊直弼は首を斬られたのです。
襲撃された場所は、現在の「東京警視庁」の目の前にある「桜田門交差点」
ここで、井伊直弼が乗る「籠」が、水戸藩士17人に襲撃されました。
ちなみに、襲撃に参加した薩摩藩士「有村次左衛門」は、後の奈良県知事「海江田信義(有村俊斎)」の弟。襲撃で傷を負い、それが原因で亡くなっています。
井伊直弼はなぜ暗殺されたのか
なぜ、水戸藩士たちは「井伊直弼」を暗殺したのか?
原因は「安政の大獄」
井伊直弼は、朝廷・・つまり天皇陛下から、何の許しも得ていないにも関わらず「日米修好通商条約」を勝手に結び、アメリカの他・ロシア・オランダ・イギリス・フランスも加えた「安静の5カ国条約」を締結。
これに対して「水戸前藩主・徳川斉昭」や「福井藩主・松平春嶽」たちは猛反発。
井伊直弼は、これらの反対勢力に対し、弾圧を強行したのです。
「徳川斉昭」たちは蟄居・・・つまり謹慎処分となり、政治に口をだすことができなくなる始末。
この時、藩主たちだけではなく、井伊直弼のやり方に不満を持つ人々は次々と処刑されました。
処刑された人物の中には、あの「吉田松陰」も・・・。ちなみに吉田松陰はかつて、井伊直弼を「名君」と称賛していました。
前藩主が弾圧されたことと、独裁を続ける井伊直弼に対して激怒した水戸藩士たちは、「桜田門」で井伊直弼を暗殺したのでした。
井伊直弼の功績とは、何?
井伊直弼は、悪人だったのでしょうか?
彼の功績は、一体どんなものがあったのでしょうか?
簡単に言ってしまえば、「責任をとる政治家がいない中で、実行力のある井伊直弼が、責任覚悟で事態をすすめた」ということ。
具体的にいえば「諸外国の日本への侵略を防いだ」ということです・・・。
当時は外国・列強諸国が一気に日本へ押し寄せてきていた時代。
下手したら、日本は諸外国に侵略されてもおかしくない状況でした。
そんな、日本を侵略する気満々な外国は、手始めに日本へ「不平等条約」の締結を迫ってきます。
これを拒絶したら、日本は外国へ「侵略する大義名分」を与えることとなりかねません。
とはいえ、幕府のお偉いさんは責任を取りたくないので、「修好通商条約」をのらりくらりと交わすばかり・・。
これではいつ諸外国に侵略されるかわかりません。
そのため、井伊直弼は周囲からの批判を覚悟で、勝手に「修好通商条約」を締結。
実は直弼、日本を守るために「独裁」を行ったのです。
当時の危機的状況は、一刻の猶予もない状態。悠長に周囲と話し合って、みんなで結論を出している暇など皆無。
その為、独裁・弾圧で、スピードを重視した政治を行ったわけです。
井伊直弼・・・確かに当時、周囲からの風当たりは強かったでしょう。
最終的に命を落とした井伊直弼・・・彼は「水戸藩の襲撃」を以前から知っていたが、あえて回避することも警備を増やすこともなかったのだとか・・・。
直弼は、死を覚悟で・・・もしかしたら、死を決していたのかもしれません。
「井伊直弼と井伊直虎の関係・子孫」について、以下のリンク記事で詳しく解説させていただいております。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
・桜田門外の変は、警視庁前の「桜田門交差点」で発生した
・井伊直弼が行った弾圧「安政の大獄」への反発で、「桜田門外の変」は発生した
・井伊直弼の功績は、「外国からの侵略を未然に防いだ」
以上となります。
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