徳川慶福とはどういう人?将軍就任と同時に『徳川家茂』へ改名した理由

14代将軍「徳川慶福」は、なぜ将軍就任と同時に「家茂(いえもち)」と改名したのか?

わかりやすく解説いたします。

「徳川家茂」とは、どのような将軍だったのでしょうか?

甘い物好きで虫歯だらけだったが、心優しく、勝海舟も期待した「若き名君」だった!

最期は「徳川慶喜」に暗殺された?


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この記事を短く言うと

・徳川慶福とは、後の14代将軍「徳川家茂」のこと

・「慶福(よしとみ)」から「家茂(いえもち)」へと名前を変えた理由は、「縁起が悪い」から

・家茂と篤姫は「養母」と「養子」の間柄


徳川慶福とは何者?何をした人なの?

徳川家茂

『引用元ウィキペディアより』

徳川幕府・第14代将軍「徳川家茂」

その素性と功績について、簡単に解説いたします。

その家系図を簡単に解説すると、以下の通り。

「画像の引用等はご遠慮くださいませ」

11代将軍「徳川家斉」の孫にして、13代将軍「家定」の従兄弟に当たります。

家定には世継ぎとなる子供がいませんでしたので、紀州藩主だった「徳川慶福(よしとみ)」が養子となって、家定のあとを継いで「14代将軍」に。

1858年、家定の死後、家茂は13歳で将軍に就任

まだ若かった彼を、後の15代将軍「一橋慶喜」らが「将軍後見職」として補佐し、幕末・諸外国からの圧力を受けた日本の舵取りを行ったわけです。

当時、幕府は朝廷と協力して諸外国からの圧力を跳ね返す「公武合体」を目指していました。

そのため、家茂は孝明天皇の妹『和宮』と結婚し、朝廷との結びつきを強めます。

しかし、家茂は長くは生きられませんでした。

「長州藩」が幕府に反旗を翻し、そんな長州藩を討伐するために、幕府は「第二次長州征伐」を慣行。

家茂は軍を率いて「大坂城」へ入城しましたが、1866年7月20日に突然病死。

享年21歳。早すぎた死でした。

将軍に就任してわずか8年・・・本来の能力を発揮することも出来ずに、短い生涯を終えたのでした。

家茂の功績

家茂の功績をあげてみたいと思います・・・が、家茂はいかんせん若くして亡くなった人物。

功績もそれほど多くありません。

 

・孝明天皇の妹『和宮』を妻とし、公武合体を推進

・神戸海軍操練所を設置

・勝海舟を軍艦奉行へ留任

・第二次長州征伐において、自ら出陣

・幕臣たちから信頼を受けるほどに、将軍職への熱意を示していた

などなど。

わずか8年の短い将軍位でしたが、家来たちは将軍職を勤め上げようとする「家茂」に、強く期待していたみたいです。


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徳川慶福が、「徳川家茂」へと改名した理由

徳川家茂

彼は将軍に就任する前「慶福(よしとみ)」と名乗っていました。

どうして将軍に就任すると同時に「家茂(いえもち)」へと改名したのでしょうか?

結論から言ってしまうと、「縁起を担いで」改名したのだとか。

実は、前将軍の13代「徳川家定」も、将軍就任前は「家祥(いえさち)」と名乗っていました。

しかし、名前に漢字の部首「へん」が入っていると演技が悪いとされて、偏がない「家定」へ改名したのだとか。

「家祥」という名前には「祥」の「ネ」という「しめすへん」が入っていますからね。

徳川歴代将軍のなかで「4代家綱」「5代綱吉」「7代家継」「10代家治」は、それぞれ「糸へん」と「さんずい」がついており、全員が「実子なし」または「若死に」しているのです。「4代家綱、5代綱吉、7代家継、10代家治」は息子がおらず、「7代家綱」幼くして亡くなっています。

「慶福」にも、「ネ」という「しめすへん」が入っているので、縁起が悪いということで「家茂」に改名したのです。

まぁ・・・家定は、改名しても「実子」を残せず、「若死に」してしまいました。

家茂も、改名した甲斐なく、世継ぎを残せず、若くして他界しています。

「家茂」という名前に込められた願いは、儚く散った・・・ということですね。

勝海舟は家茂について

「若かったので翻弄されていたが、もう少し長生きしていたら、歴史に名を残す名君となったかもしれない。

武勇にも優れた人だった」

と評価し、健気なまでに将軍という退任に挑む家茂に、家来たちは期待していたみたいですね。


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徳川家茂と、篤姫の関係!

天璋院篤姫

『引用元ウィキペディアより』

徳川家茂と、前将軍「家定」の妻「天璋院篤姫

2人はどういう関係だったのでしょうか?

13代「家定」と14代「家茂」は、祖父を同じくする『従兄弟』同士。

2人の父は兄弟であり、年長の「家定」は「従兄」にあたり、年少の「家茂」は「従弟」というわけです。

つまり、「家茂」にとって「篤姫」は「従兄・家定の妻」ということ。

しかし、家茂は「家定の養子」となっています。

ですので「篤姫」は、家茂からすると「養母」にあたります。

実際「家茂」は篤姫を「母」と呼び、夫「家定」も義父「島津斉彬」も失い、途方に暮れた篤姫を癒やした・・・という説があります。

篤姫もまた、若く心優しい家茂を可愛がったと言われています。

家茂が大坂城で病に倒れた際、篤姫は慌てて医師を送っています。

子供のいない篤姫は、家茂を我が子のように大切に思っていたのでしょう。

 

そんな家茂には、「暗殺説」があります。

若くして亡くなった家茂・・・・「徳川慶喜」に暗殺されたと噂されているのです。

篤姫は「家茂は慶喜に暗殺された」と確信しており、徳川宗家の継承者「徳川家達(とくがわいえさと)」に、

「家茂が慶喜に暗殺されたことを、言い伝えよ」

と指示したのだとか。

現実的に考えて「暗殺説」は難しいと思いますが、慶喜が篤姫から嫌われていたことだけは確かです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・徳川慶福とは、徳川14代将軍「徳川家茂」のこと

・慶福から家茂へと改名した理由は、慶福という名前の「しめすへん」が縁起が悪いから

・家茂と篤姫は、養子と養母の関係で、仲が良かったらしい

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


徳川家定」「篤姫」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「徳川家定のあざは本当にあった!死因・篤姫との夫婦仲が原因の暗殺?」の記事はコチラ
「篤姫と徳川家定の夫婦仲は最悪?夫はイモ公方と呼ばれたバカ殿だった」の記事はコチラ

 

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