【天狗党の乱とは】世界一わかりやすく解説!乱が起こった理由と結末

幕末、「水戸藩」の過激派「天狗党」が起こした「天狗党の乱」。乱の「原因」と「結末」がどんなものなのか、わかりやすく解説いたします。
「水戸の過激派が、異国を武力で追い払おうと、起こした反乱」それが「天狗党の乱」
最期は大半が処刑されるという、悲劇的な結末を迎えます。
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この記事を短く言うと
・「天狗党」とは、水戸藩の後継者争いで、徳川慶喜の父「徳川斉昭」を支持した一派のこと
・「天狗党の乱」は、水戸藩の尊王攘夷派だった「天狗党」が、攘夷(外国勢力との戦い)を強行しようとして起こした反乱
・天狗党はその後、京都へ向かって「一橋慶喜」へ尊王攘夷を訴えようとしたが失敗。最期は加賀藩に投降し、352名が処刑された
「天狗党」とは何なのか?
「天狗党の乱」を解説する前に、そもそも「天狗党」とは何かを解説いたします。

《天狗党の乱》
『引用元ウィキペディアより』
「天狗党」とは、水戸藩の後継者争いにおいて、最期の将軍「徳川慶喜」の父「徳川斉昭」を支持した一派のこと。
「徳川斉昭」は、「藤田東湖」「会沢正志斎」などの支持により、水戸藩第9代当主に就任。
「人々を見下し、謙虚さもなく、鼻を高くして偉ぶる」・・・・藤田東湖たちは反対派からこのように批判され、「天狗党」と呼ばれることとなったのです。
この「天狗党」が、離合集散を繰り返し、後に「天狗党の乱」と呼ばれる大事件を引き起こします。
ちなみに「藤田東湖」とは、西郷隆盛が「橋本左内」と並んで尊敬した、当時最高の学識を誇る学者の一人。藤田東湖は「安政の大地震」で、母親を助けて亡くなっています。
天狗党の乱とは?なぜ乱が起こったのか?
そもそもどうして「天狗党の乱」は起こったのか?
当時、日本は西欧列強諸国からの圧力に屈し、「日米和親条約」や「日米修好通商条約」のような「不平等条約」を締結させられていました。外国からの侵略を受ける危機にさらされていたのです。
「尊皇攘夷」・・・・・「日本の天皇を祭り上げ(尊皇)、外交勢力を武力で打ち払う(攘夷)」という思想が「尊皇攘夷」。もともと水戸藩は「尊皇」思想が強い家柄でしたが、その中でも過激派「天狗党」は、「尊皇攘夷」の思想がとてつもなく強い集団でした。
1863年に起きた「八月十八日の政変」によって、「尊皇攘夷」の急先鋒だった「長州藩」が京都から追放。これにより「尊皇攘夷」思想が急激に盛り下がっていたのです。そのため、各地にいた「尊皇攘夷」派の志士たちは、長州藩に代わって「水戸藩」に期待をするようになっていました。
1864年、「天狗党の乱」・・・・・過激派「天狗党」が「尊皇攘夷」を目指して、「1864年」に「筑波山」で挙兵したことが「天狗党の乱」始まり。
中心人物は、「藤田東湖」の四男「藤田小四郎」と「武田耕雲斎」
「天狗党」は、「62名」の挙兵から始まりましたが、その後人数を劇的に増やし「1400人」まで増加。
彼らは「尊皇攘夷」を掲げて挙兵したものの、巨大になりすぎた集団は統制が取れず、「強盗」や「殺戮」「放火」など、各地で暴挙を繰り返してしまいます。
無法集団として認識された「天狗党」は、幕府や水戸藩の鎮圧部隊と各地で戦闘。
追い詰められた「天狗党」でしたが、生き残った1000名ほどの党員は、最期の行動に出ます。
かつて天狗党が支持した「徳川斉昭」の息子「一橋慶喜(徳川慶喜)」を頼り、慶喜を通じて朝廷と孝明天皇に対し、「天狗党」が持つ「尊皇攘夷」の志を誠実に訴えることにしたのです。
暴挙を繰り返してしまった反省から、天狗党は軍律を定め、乱暴狼藉を戒めながら、水戸藩から京都へ向かいます。暴動を起こさない天狗党に対して、道中の庶民は「尊皇攘夷」の軍として、彼らを好意的に受け入れました。
しかし、越前に到着すると、朝廷からの命令を受けた討伐軍が向かってくることが判明。しかもその総大将が、頼みの綱であった「一橋慶喜」だったのです。
1865年1月14日、絶望した「天狗党」は、道中で遭遇し、対峙していた「加賀藩」に降伏。
当初は加賀藩士達により好意的な待遇を受けた天狗党でしたが、江戸で暴動を起こしたことを理由に、最終的には魚の「ニシン」を貯蔵する蔵に幽閉されます。
最悪の衛生状態で幽閉された「天狗党員」は、20名以上が病死。
1865年3月、捕らえられた828名の内、「352名」が処刑。残りは流罪や追放処分。
「藤田小四郎」もまた、24歳の若さで処刑される事となるのです。
ちなみに、この「天狗党の乱」に、後に「新選組」の局長となる「芹沢鴨」がいたと言われています。
乱の結末と、その後
天狗党が一橋慶喜を頼って京都へ向かう前、水戸藩にいた彼らの家族は、「諸生党」と呼ばれる水戸藩の敵対勢力によって、次々と弾圧されていました。
戊辰戦争が勃発すると、今度は「天狗党」の生き残りが、新政府軍に参加して、「諸生党」と再び対立。
今度は天狗党が、水戸で諸生党の家族へ復讐をするという、泥沼の抗争が起こってしまうのです。
水戸藩は、「大日本史」の編纂などで養った知識と知恵をもとに、当時としては大変な知識層に溢れた人材の宝庫でした。
しかし、こうした内部抗争を繰り返した挙げ句、優秀な人材を次々と失い、最終的に明治新政府に要人として採用されることもなく、その存在感を失っていくこととなるのです。
『天狗党』について、レビュー(評論)!
「天狗党」・・・・尊皇攘夷という、熱い志をもった若き集団だったのでしょう。けれど、統率力を持ち、目標を指し示すリーダーがいなかったことが、最大の失敗だったのでしょう。
もしも長州藩の「木戸孝允」や、薩摩藩の「西郷隆盛」「大久保利通」のような、カリスマ的なリーダーがいたら、水戸藩も、新政府に人材を送り込むことが出来たかもしれません。
水戸藩は、全国最大の藩校「弘道館」を持つ、学問の藩でした。もしかすると「優秀」であることが災いし、藩士一人ひとりが、それぞれに個々の考えを持ち、それぞれの考えで行動してしまったがために、統制が取れなかったのかもしれません。
みんながみんな、あまりに優秀過ぎたため、「この人に着いていけば、自分が望む未来が待っている」というふうに、単純に物事を考えられなかったのかも・・・。
頭の良さが災いした・・・他愛もない仮説かもしれませんが、もしもこの仮設が正しかったら、なんとも皮肉な話です。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・天狗党とは、水戸藩の後継者争いで「徳川斉昭」を支持した一派
・天狗党の乱とは、天狗党が尊皇攘夷を訴えるにあたり起こった、暴動のこと
・天狗党は、最終的に加賀藩に降伏し、352名が処刑された
以上となります。
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