幕末、水戸藩の過激派・天狗党が起こした「天狗党の乱」。
乱の原因と結末がどんなものなのか、わかりやすく解説いたします。
水戸の過激派が、異国を武力で追い払おうと、起こした反乱
それが「天狗党の乱」です。
最期は天狗党の大半が処刑されるという、悲劇的な結末を迎えます。
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この記事を短く言うと
・天狗党とは、水戸藩の後継者争いで、徳川慶喜の父・徳川斉昭を支持した一派のこと
・天狗党の乱は、水戸藩の尊王攘夷派だった天狗党が、攘夷(外国勢力との戦い)を強行しようとして起こした反乱
・天狗党はその後、京都へ向かって一橋慶喜へ尊王攘夷を訴えようとしたが失敗。最後は加賀藩に投降し、352名が処刑された
「天狗党」とは何なのか?
天狗党の乱を解説する前に、そもそも天狗党とは何かを解説いたします。
天狗党とは、水戸藩の後継者争いにおいて、最期の将軍徳川慶喜の父徳川斉昭を支持した一派のこと。
徳川斉昭は、藤田東湖・会沢正志斎などの支持により、水戸藩第9代当主に就任しました。
「人々を見下し、謙虚さもなく、鼻を高くして偉ぶる」
藤田東湖たちは反対派からこのように批判され、天狗党と呼ばれることとなったのです。
この天狗党が、離合集散を繰り返し、後に「天狗党の乱」と呼ばれる大事件を引き起こします。
ちなみに藤田東湖とは、西郷隆盛が橋本左内と並んで尊敬した当時最高の学識を誇る学者の一人。
藤田東湖は「安政の大地震」で、母親を助けて亡くなっています。
天狗党の乱とは?なぜ乱が起こったのか?
そもそもどうして天狗党の乱は起こったのか?
当時、日本は西欧列強諸国からの圧力に屈し、日米和親条約や日米修好通商条約のような不平等条約を締結させられていました。
外国からの侵略を受ける危機にさらされていたのです。
「尊皇攘夷」という言葉をご存知でしょうか?
日本の天皇を祭り上げ(尊皇)、外交勢力を武力で打ち払う(攘夷)
この思想が尊皇攘夷です。
もともと水戸藩は尊皇思想が強い家柄でしたが、その中でも過激派・天狗党は、尊皇攘夷の思想がとてつもなく強い集団でした。
【1863年】に起きた八月十八日の政変によって、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩が京都から追放されました。
これにより尊皇攘夷の世論が急激に盛り下がっていたのです。
そのため、各地にいた尊皇攘夷派の志士たちは、長州藩に代わって水戸藩に攘夷、つまり外国勢力を追い出すことを期待をするようになっていました。
【1864年】、天狗党の乱が勃発します。
過激派・天狗党が尊皇攘夷を目指して、【1864年】に筑波山で挙兵したことが天狗党の乱の始まりです。
中心人物は、藤田東湖の四男藤田小四郎と武田耕雲斎
天狗党は、62名の挙兵から始まりましたが、その後人数を劇的に増やし1400人まで増加。
彼らは尊皇攘夷を掲げて挙兵したものの、巨大になりすぎた集団は統制が取れず、強盗や殺戮・放火など、各地で暴挙を繰り返してしまいます。
無法集団として認識された天狗党は、幕府や水戸藩の鎮圧部隊と各地で戦闘。
追い詰められた天狗党でしたが、生き残った1000名ほどの党員は、最後の行動に出ます。
彼らは、かつて天狗党が支持した徳川斉昭の息子一橋慶喜(徳川慶喜)を頼り、慶喜を通じて朝廷と孝明天皇に対し、天狗党が持つ尊皇攘夷の志を誠実に訴えることにしたのです。
暴挙を繰り返してしまった反省から、天狗党は軍律を定め、乱暴狼藉を戒めながら、水戸藩から京都へ向かいます。
暴動を起こさない天狗党に対して、道中の庶民は尊皇攘夷の軍として、彼らを好意的に受け入れました。
しかし越前に到着すると、朝廷からの命令を受けた討伐軍が向かってくることが判明。
しかもその総大将が、頼みの綱であった一橋慶喜だったのです。
【1865年1月14日】、絶望した天狗党は、道中で遭遇した加賀藩の軍に降伏します。
当初は加賀藩士達により好意的な待遇を受けた天狗党でしたが、江戸で暴動を起こしたことを理由に、最終的には魚のニシンを貯蔵する蔵に幽閉されます。
最悪の衛生状態で幽閉された天狗党員は、20名以上が病死。
【1865年3月】、捕らえられた828名の内、352名が処刑。残りは流罪や追放処分。
藤田小四郎もまた、24歳の若さで処刑される事となるのです。
ちなみに、この乱が起こる前の天狗党には、後に新選組の局長となる芹沢鴨(せりざわ かも)がいたといわれています。
芹沢鴨は、あらん限りの乱暴を繰り返したことが災いして、土方歳三らによって暗殺されたといわれています。
天狗党の乱の結末と、その後
天狗党が一橋慶喜を頼って京都へ向かう前、水戸藩にいた彼らの家族は、諸生党と呼ばれる水戸藩の敵対勢力によって、次々と弾圧されていました。
戊辰戦争が勃発すると、今度は天狗党の生き残りが新政府軍に参加して、諸生党と再び対立。
今度は天狗党が、水戸で諸生党の家族へ復讐をするという、泥沼の抗争が起こってしまうのです。
水戸藩は、大日本史の編纂などで養った知識と知恵をもとに、当時としては大変な知識層に溢れた人材の宝庫でした。
しかし、こうした内部抗争を繰り返した挙げ句、優秀な人材を次々と失い、最終的に明治新政府に要人として採用されることもなく、その存在感を失っていくこととなるのです。
『天狗党』について、レビュー(評論)!
天狗党
尊皇攘夷という、熱い志をもった若き集団だったのでしょう。
けれど、統率力を持ち、目標を指し示すリーダーがいなかったことが、最大の失敗だったのでしょう。
もしも長州藩の木戸孝允や、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通のような、明確な目標やビジョンを示してくれるカリスマ的なリーダーがいたら、水戸藩も新政府に人材を送り込むことが出来たかもしれません。
水戸藩は、全国最大の藩校・弘道館を持つ、学問の藩でした。
もしかすると優秀であることが災いし、藩士一人ひとりが、それぞれに個々の考えを持ち、それぞれの考えで行動してしまったがために、統制が取れなかったのかもしれません。
みんながみんな、あまりに優秀過ぎたため
「この人に着いていけば、自分が望む未来が待っている」
というふうに、単純に物事を考えられなかったのかもしれませんね。
頭の良さが災いしたということです。
他愛もない仮説かもしれませんが、もしもこの仮設が正しかったら、なんとも皮肉な話です。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・天狗党とは、水戸藩の後継者争いで徳川斉昭を支持した一派
・天狗党の乱とは、天狗党が尊皇攘夷を訴えるにあたり起こった、暴動のこと
・天狗党は、最終的に加賀藩に降伏し、352名が処刑された
以上となります。
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