「幕末四賢侯」の一人「松平春嶽」の「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。
坂本龍馬の才能を瞬時に見抜き、13代将軍「家定」を「イモ公方」と呼び批判した。
評価が高い殿様だが、本人は「『あのお人』こそが日本一の名君」と証言していた。
あのお人とは?
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この記事を短く言うと
・松平春嶽とは、「幕末の四賢侯」にして、福井藩主
・福井藩主として、幕政改革や「参預会議」などに携わった
・坂本龍馬の才能を一瞬で見抜き、援助した
・戊辰戦争では幕府を支持。しかし参戦することはなかった
松平春嶽とは何をした人なの?功績とは?
「幕末の四賢侯」の一人にして、福井藩主「松平春嶽」
「坂本龍馬」を支援し、近代化を促進した名君との呼び声高いお殿様
松平春嶽とは、何をした人なのでしょうか?
松平春嶽の功績
松平春嶽の功績とは
・福井藩の藩政改革を実行した
・「維新十傑」の一人「横井小楠」を抜擢し、「挙藩上京計画」を実行しようとした
・坂本龍馬の才能を見抜き、勝海舟への紹介状を与え、後に「神戸海軍操練所」の運営資金1000両を貸し与えた
・幕末の政局において、幕府を擁護しながらも、「明治」という元号を発案し、新時代を迎えさせた
松平春嶽・・・・坂本龍馬や西郷隆盛、徳川慶喜の影に隠れてはいますが、かなりの名君として有名な人でした。
春嶽の子孫・・・孫は「靖国神社」の宮司
松平春嶽の子孫で一人、とても有名な人がいます。
孫の「松平永芳(ながよし)」さん。
海軍軍人で、戦後「陸上自衛官」として活動しておられました。その後「靖国神社」の宮司となり、大東亜戦争における「A級戦犯」を、靖国神社に合祀しました。
現在、中国・韓国は、この「A級戦犯合祀」を問題視して、さまざま批判していますが・・・そもそも国を守るために命をささげた英霊たちがいるわけですからね・・・。国民として参拝は当然だと思うのですがね・・・。
松平春嶽の生涯と最期
松平春嶽の生涯と最期を解説いたします。
生い立ち
1828年10月10日、江戸、徳川御三卿の一つ「田安徳川家」の当主「徳川斉匡」の八男として誕生。
春嶽は産まれる前から、遠縁であり、徳川家康の異母弟を先祖に持つ四国・伊予松山藩主「松平勝善」の養子となることが決まっていた
1837年、松平勝善の養子となることが正式決定
しかし、春嶽の「伊予松山藩」への養子入りは、直前になって中止となります。
理由は「福井藩」へ養子入りしたため。
福井藩主に就任
1838年、春嶽は若干「11歳」で越前・福井藩主に就任。
福井藩は「徳川家康」の次男「結城秀康」を祖とする30万石の親藩。
伊予松山藩の藩主に内定していたはずが、どうして「福井藩」の藩主になったのか?
1838年7月・・・福井藩主「松平斉善」が急死。後継者がいなかったことから、「松平斉善」の兄で12代将軍「徳川家慶」が、優秀と噂だった「松平春嶽」を、福井藩主に推挙したのです。
将軍「徳川家慶」からすると、弟の領地が後継者不在となってしまうことが、耐えられなかったのかも・・・・。伊予松山藩は、他藩から別の養子をとって存続することとなりました。
1839年、春嶽は熊本・細川家の「勇姫」と結婚。
同年、質素倹約怜を発布して、福井藩の財政再建に取り組み始めます。
保守派を罷免していき、改革派の家来たち「由利公正」「中根雪江」「橋本左内」たちを採用して、藩政改革を加速させます。
さらには。「洋学所」を設立して、西洋文化も積極的に採用・・・次々と近代化の改革を断行していったのです。
わずか12歳でこれだけの改革を断行・・・・おそらくそこには、彼を福井藩主にしてくれた12代将軍「徳川家慶」の後ろだてもあったのでしょう
将軍後継者の問題
1853年、アメリカ「東インド艦隊」のマシュー・ペリー提督が、開国を求めて浦賀に来航!!
この直前まで、春嶽は「攘夷派」・・・つまり「外国は武力で打ち払うべき」という考えの持ち主でした。
しかし、諸外国の武力を目の当たりにした春嶽は、老中「阿部正弘」や薩摩藩主「島津斉彬」と交流し、「開国すべき」と意見を変えます。
ペリーが来航してからわずか19日後、12代将軍「徳川家慶」が熱中症で急死してしまいます。
13代将軍は家慶の子「徳川家定」
この「徳川家定」を、春嶽は酷評。「イモ公方」と揶揄しています。なぜ「イモ公方」かというと、家定の趣味が「お料理」であり、自ら作った「ふかし芋」を家来にふるまっていたから・・・。
あまりにも病弱だった「家定」・・・いつまで生きられるかわからないほどでした。妻「篤姫」は丈夫な人でしたが・・・。
そのため、家定に子供が生まれることは見込めず、家定が将軍に就任した直後から、「14代将軍」を誰にするか・・・が問題になったのです。
「井伊直弼」たち「南紀派」と呼ばれる一派は紀州藩主だった「徳川慶福(家茂)」を推しました。
それに対して「幕末の四賢侯」と呼ばれた「松平春嶽」「島津斉彬」「山内容堂」「伊達宗城」と、水戸藩「徳川斉昭」たち「一橋派」は、優秀と評判だった「一橋慶喜」を推したのです。
1858年、「井伊直弼」が大老に就任し、強引に後継者を「徳川家茂」に決定。同年、家定が亡くなります。
井伊直弼は、アメリカとの間で朝廷の許しなく「日米修好通商条約」を締結
それに激怒した「松平春嶽」は、江戸城に急いで登城し、井伊直弼に猛抗議。
しかし、この時「春嶽」は、「不時登城」・・・つまり予定にないにも関わらず登城した・・・という罪を問われて、隠居謹慎の処分を下されます。
直後に井伊直弼は「安政の大獄」で、水戸藩を中心に弾圧を加え始めたのです。
春嶽の側近「橋本左内」も、処刑されてしまいました。
坂本龍馬との出会い
1859年、井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺
1862年、松平春嶽は謹慎を解かれ、幕政参加を許されます。
この頃、春嶽の盟友で安政の大獄直後に急死した薩摩藩主「島津斉彬」の弟「島津久光」が、兵を率いて京都・江戸へ進軍。幕府に武力で圧力をかけ、「幕政改革」を迫ったのです。
久光の圧力に屈した幕府は「文久の改革」を断行。「一橋慶喜」を「将軍後見職」に・・・・「松平春嶽」を「政治総裁職」に任命。会津藩主「松平容保」は「京都守護職」に就任。
この頃、春嶽は熊本藩士にして「維新十傑」の一人「横井小楠」を政治顧問に抜擢し、福井藩や幕府の政治改革にその意見を用いています。
さらに春嶽は「勝海舟」と協力して、「海軍」の創設に着手。
同年12月、春嶽は「坂本龍馬」「近藤長次郎」「間崎哲馬」たちと面会しています。この時春嶽は、坂本龍馬に対して「勝海舟」への紹介状を渡しています
1863年4月、意見の相違から、政治総裁職を辞任。越前へ帰国
1863年5月、春嶽は、援助を申し出に来た「坂本龍馬」に対して「神戸海軍操練所」創設のために「1000両」を貸し与えています
挙藩上京計画
1863年6月、春嶽は横井小楠を通して進めてきた「挙藩上京計画」を実行に移そうと動き出します。
挙藩上京計画
この計画の内容は、以下の通り
「福井藩の全兵力を動員して、京都に進軍し制圧。
朝廷と幕府どちらにも味方せず中立を保ち、両派の対立は武力で鎮圧。
両派の協議を仲介し、能力ある人材を次々採用、迅速かつ緩やかに改革を進めること」
盟友だった「薩摩藩」や「加賀藩」「熊本藩」などの外様大名に協力を仰ぎ、日本の改革を断行しようとした壮大な計画でした。
天皇も、秘密裏にこの計画に賛同。
しかし、直前になってこの計画は頓挫。実現することはありませんでした。
維新まで
1863年、「八月十八日の政変」で攘夷派の急先鋒「長州藩」が京都から追放。
続く「禁門の変」で長州藩が撃破されました。
春嶽は「参預会議」の「参預」に任命されます。「参預会議」とは、「島津久光」「山内容堂」「伊達宗城」「一橋慶喜」「松平容保」たちによる機関。天皇の前で朝議に参加することとなりました。
しかし、この「参預会議」は、外様大名による政治介入を嫌った「一橋慶喜」による工作で早々に崩壊。
具体的には、酒の席で泥酔した(ふりをした)一橋慶喜が、「松平春嶽」「島津久光」「伊達宗城」を指さして
「彼らは天下の大奸物。大愚物。私と一緒にしないでほしい」
と罵倒!松平春嶽は、一橋慶喜の目論見を見破っていたみたいですが、島津久光は罠にひっかかり激怒。春嶽の仲裁があったにもかかわらず「参預会議」に辞表を提出。参預会議は崩壊します。
1864年、松平春嶽は「松平容保」の後任として「京都守護職」に就任、しかし、二か月足らずで辞職
1866年、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介で「薩長同盟」が締結されます。
1867年、島津久光・伊達宗城・山内容堂・松平春嶽の4人による幕府政治介入ための機関「四侯会議」が発足。
しかしこの「四侯会議」もまた、一橋慶喜によってつぶされます。
激怒した島津久光は、この頃「公武合体」の方針を、「倒幕」へと切り替えました。
松平春嶽は、土佐藩前藩主「山内容堂」が建白した「大政奉還」の策に賛成し、倒幕を阻止しようとします。
しかしあくまでも倒幕を目指していた、薩摩藩の「西郷隆盛」「大久保利通」と「岩倉具視」は、「王政復古のクーデター」を起こして「大政奉還」に対抗。
「王政復古のクーデター」前日、松平春嶽は朝廷から「議定」に任命されていました。
1868年、「鳥羽伏見の戦い」から「戊辰戦争」が勃発。
同年、「江戸城無血開城」が実現し、江戸幕府が終わったものの、松平春嶽は「中立」を保ちながらも旧幕府を擁護し続けたのでした。
明治維新・・・実は「明治」という元号は「松平春嶽」が考えたものと言われています。
維新の後
松平春嶽は新政府において「民部卿」や「大蔵卿」を歴任。
明治3年(1870年)に要職を引退。
その後は静かに余生を過ごしていました
最期
明治23年(1890年)、東京小石川の自宅で死去。
享年63歳。死因は「肺水腫」
お墓は東京品川の「補陀洛山海晏寺」
坂本龍馬の才能を一瞬で見抜いた天才的なお殿様
松平春嶽・・・・・かなり優秀だった人ですが、それにおごることなく、かなり謙虚な人でした。
彼の名言にこんなものがあります
「私には才能がなく、奇策もない。だから常に皆様の意見を聞いて、最も良いものに従うだけだ」
また、「四賢侯」と自らが呼ばれていたことに対しても、謙虚そのもの
「世間では四賢侯などと言われているが、本当の意味で賢侯だったのは島津斉彬公お一人であり、自分はもちろん、水戸烈公(徳川斉昭)、山内容堂公、鍋島直正公なども到底及ばない」
そんな春嶽でしたが、人を見る目はかなりのものでした。
西郷隆盛が尊敬していた「橋本左内」を大抜擢して側近にしたこともその一つでしょう。
春嶽は坂本龍馬の才能も見抜いています・・・当時はただの脱藩浪士だったのですが、お殿様だった春嶽は坂本龍馬をあっさり面会しています。
そして勝海舟への紹介状を与えているのです。
坂本龍馬が、勝海舟とともに作った「神戸海軍操練所」の運営資金を貸してほしい・・・と頼みに来たところ、1000両をあっという間に貸してくれました。
とはいえこれは、春嶽が協力していた「勝海舟」の頼みだったから聞いたのでしょう・・・。
春嶽が勝海舟と坂本龍馬を結びつけていなかったとしたら・・・もしかしたら歴史は変わっていたかもしれません。
坂本龍馬は春嶽を信頼していたらしく、新政府の人事構想で初代首相に推そうとしていたみたいです。
龍馬が「船中八策」で、政治総裁を「○○○」と記していますが、そこには長年「慶喜公」と記すつもりだった・・・と考えられていました。
しかし近年、そこには「春嶽公」を記そうとしていた・・・という説が浮上。慶喜は関白という名誉職に据えようとしていたと・・。
もしも竜馬の構想が実現していたら、春嶽は明治新政府のトップとして後世に名を残していたかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・松平春嶽は、坂本龍馬を支援したり、福井藩の改革を断行したり、幕政改革をするなどしていた
・春嶽は福井藩主に就任し、「幕末の四賢侯」と呼ばれながら、日本の政治改革に尽力した
・坂本龍馬の才能を見抜き、勝海舟への紹介状を書いた
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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