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新田義貞の刀を海に捧げた伝説とは?稲村ヶ崎からの鎌倉攻めルートは創作か?

「鎌倉幕府」を滅ぼした武将「新田義貞」について、その「鎌倉攻め」と「黄金の刀」の逸話を、わかりやすく解説いたします。

難攻不落の要塞都市「鎌倉」を攻め滅ぼした「新田義貞」。

伝説では「黄金の刀」を稲村ヶ崎の海に投げ入れ、奇跡的に出現した「干潟」をとおって、新田義貞は鎌倉を攻め落とした・・・・となっています。

しかし実際には「干潮を利用した」だけにすぎない・・・または「崖をよじ登った」だけ。

新田義貞の「稲村ヶ崎の伝説」は、後世の創作でしかないのでした。


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この記事を短く言うと

  1. 1333年、新田義貞は鎌倉幕府と対立し、鎌倉を攻撃。難攻不落の鎌倉を攻めきれず、稲村ヶ崎(いなむらがさき)に「黄金の刀」を投げ入れて祈り、潮を引かせて「干潟」を通って鎌倉へ乱入した
  2. 新田義貞が「黄金の刀」を海に投げ入れて龍神に祈ると、突然稲村ヶ崎の潮が引き、奇跡的に干潟が現れた・・・そこを通って難攻不落の鎌倉を攻め落とした・・・ことになっている
  3. 実際には、干潮(かんちょう)となって干潟(ひがた)が現れることを知っていた新田義貞は、それを利用して鎌倉へ突入。または稲村ヶ崎の崖をよじ登った・・・・というのが真実だろう

新田義貞の「鎌倉攻め」!「稲村ヶ崎」の伝説をザッとおさらい

新田義貞(にった よしさだ)

《新田義貞》
「引用元ウィキペディアより」

鎌倉時代、「足利尊氏」や「楠木正成」とともに「後醍醐天皇」のもとで「鎌倉幕府」を滅亡させた武将。

後に「足利尊氏」のライバルとなる人物です。

新田義貞といえば「鎌倉」を攻略し、事実上「鎌倉幕府」を攻め滅ぼした人です。

彼はどのようにして「鎌倉」を攻略したのか、ザッと確認してみましょう。



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1333年、足利尊氏が「京都」にあった鎌倉幕府の拠点「六波羅」を攻略。

直後、新田義貞も鎌倉幕府を攻略するために挙兵。

数万の大軍団をひきいて鎌倉を攻撃するものの、東西と北を山に囲まれた「要塞都市・鎌倉」を攻め落とせませんでした。

唯一、鎌倉の弱点だったのが、「西側」から鎌倉へ入るルート「稲村ヶ崎」。

新田義貞は、潮が引くことを龍神に祈り、稲村ヶ崎は陸地に・・・。

その陸地から、新田義貞の軍が鎌倉に突入。

北条高時たち鎌倉軍は、自刃。

源頼朝」が開き、140年続いた「鎌倉幕府」は、こうして滅亡したのでした。



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「稲村ヶ崎」の伝説は創作か?「黄金の刀」と龍神のエピソード

新田義貞の「鎌倉攻め」には、不思議な伝説があります。

「黄金の刀」を海に投げ入れて龍神に祈ると、稲村ヶ崎の潮が急激にひき、陸地が現れた。

新田軍は、その陸地を駆け抜けて、鎌倉へ突入した。

稲村ヶ崎は現在、公園になっているようです。

鎌倉はもともと、「東西北」を山に、「南」を海に遮断された、とても守りやすく攻めにくい「要塞都市」でした。

そんな鎌倉を攻略することは、凡将「新田義貞」には難しかったのです。

新田義貞は

  1. 「化粧(けわい)坂」
  2. 「巨福呂(こぶくろ)坂」
  3. 「極楽寺坂」

という、3つの侵入口から鎌倉を猛攻撃。

 

しかし、鎌倉軍の必死の抵抗にあい、新田軍は敗北続きだったのです。

そこで、新田義貞は鎌倉唯一の弱点であった「稲村ヶ崎」に目をつけたのでした。

ところが、稲村ヶ崎は断崖絶壁と海によって遮断され、さらに鎌倉軍の水軍が見張っていたのです。

新田義貞は、「黄金づくりの刀」を稲村ヶ崎の海に投げ込み、「潮が引く」ことを龍神に祈ります。

《新田義貞》
「引用元ウィキペディアより」

このとき、奇跡的に「稲村ヶ崎」の潮が引き、陸地が現れたのでした。

そこから、新田義貞みずからがひきいた軍団が、鎌倉に乱入。

鎌倉幕府を支配していた「北条一門」は、北条家当主である「北条高時」を筆頭に次々と自刃。(このとき、「足利尊氏」の義兄にあたる最後の執権「赤橋守時」は、すでに壮絶な戦死を遂げていた)

鎌倉幕府は、ついに滅亡。

その後、「後醍醐天皇」が「建武の新政」という、「鎌倉幕府」の政治に代わる新しい政治を開始。

この「建武の新政」が大失敗に終わり、武士たちは「足利尊氏」をリーダーにして「後醍醐天皇」と激突。

新田義貞は、その後「後醍醐天皇」の軍団をひきいて足利尊氏と戦うものの、越前国で戦死するのでした。



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鎌倉幕府滅亡の真実とは?新田義貞は崖をよじ登った?

鎌倉幕府を滅亡させたのは、「新田義貞」が「黄金の刀」を稲村ヶ崎の海に投げ込み、潮を引かせたから。

あまりにも非現実的すぎます。

最近の研究では、別に「黄金の刀」を投げ込んで祈ったから、稲村ヶ崎の潮が引いて陸地となったわけではない、と考えられています。

新田義貞が鎌倉を攻撃した「5月21日午前4時15分」、干潮となって潮が引き、陸地が出来上がったため、そこを通って、新田義貞が鎌倉に乱入した・・。

それが定説となっています。

長く鎌倉で「御家人」として生活していた「新田義貞」は、稲村ヶ崎の干潮を知っていたと考えられます。

または、「稲村ヶ崎」の崖をよじ登った・・・という説もあります。

まとめてみると

「稲村ヶ崎を守っていた鎌倉軍を、干潮になったタイミングで新田義貞の軍が撃破、鎌倉に突入した」

ということでしょう。



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『新田義貞』について「ひとこと」言いたい!

新田義貞・・・・鎌倉幕府を滅ぼした名将・・・・・・と言いたいところですが、その後の活躍をみてみると、新田義貞が「名将」とは程遠いことがわかります。

「足利尊氏」と同じく、「源義家」の末裔で、「武士の棟梁」とみられていた新田義貞。

彼は「後醍醐天皇」のもと、楠木正成とともに「足利尊氏」と戦うことになります。

しかし「湊川の戦い」直前で、楠木正成は後醍醐天皇に、とんでもないことを提案しています。

「新田義貞の首を足利尊氏にわたし、足利尊氏と講和すべきである。新田義貞では足利尊氏にとてもかなわない」

楠木正成は、新田義貞は役にたたないから、その首を利用して足利尊氏との戦いを避けるべきだと考えていたのです。

実際、足利尊氏がひきいた軍団はかなりの規模で、後醍醐天皇や新田義貞にはとても勝ち目がないことを、楠木正成は知っていました。

結果、「湊川の戦い」で、新田義貞は敗走。楠木正成は戦死。

新田義貞はその後も「北畠顕家」らと協力して、足利尊氏と戦うものの、越前国で足利軍に討ち取られてしまうのです。

圧倒的なカリスマ性で、武士たちを統率した人気者「足利尊氏」に対して、新田義貞はあまりにも実力が不足していました。

「鎌倉幕府」を滅ぼしたのは、確かに新田義貞でしたが、はっきりいって「ビギナーズラック」と言ったところなのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 新田義貞の鎌倉攻め・・・・黄金の刀を稲村ヶ崎の海に投げ入れると、突如「干潟」が出現し、そこを通って鎌倉へ突入した
  2. 新田義貞の鎌倉攻め、稲村ヶ崎の伝説は、実際には「干潮」となることがわかっていたため、それを新田義貞が利用したにすぎない
  3. 鎌倉幕府が滅亡した後、新田義貞は「足利尊氏」と対立。「湊川の戦い」で敗北し、その後「越前国」であっけなく戦死した。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

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