坂本龍馬の死因と最後の言葉をわかりやすく解説!最後の写真がシブい

坂本龍馬の「死因」や「最後の様子」について、誰かに尋ねられても、ハッキリと答えられる方は、少ないかもしれません

 

実は筆者自身も、「坂本龍馬」については知っていたものの、自分の手で調査してみるまで、「坂本龍馬の死因・最後」については答えられませんでした

 

この記事では「坂本龍馬」の「死因」「最後の様子」について、ひと目で分かるようにまとめました

 

「坂本龍馬」の「最後」について知りたい方にとって、この記事は必ずお役に立つはずです

 

これを読んで、龍馬についての疑問を、スッキリと解消していただければ幸いです。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

 

1,坂本龍馬の『死因』は?

  • 「刺客から受けた刀傷」
  • 「暗殺」

 

2,坂本龍馬の『没年月日』は?

旧暦・慶応3年11月15日

新暦・1867年12月10日

享年33歳

(満31歳)

 

3,坂本龍馬の『最後の様子』は?

頭部のほか、数カ所を日本刀で斬られ、ほぼ即死にちかい状態で発見された

 

4,坂本龍馬の『辞世の句』は?

「世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は 我のみぞ知る」

 

5,坂本龍馬がのこした『最後の写真』は?

龍馬は亡くなる一月ほど前に、長崎「上野撮影局」で、最後の写真を撮影し、残している。

 


坂本龍馬の『死因』は何?

龍馬の死因は、「刺客から受けた刀傷」です。

坂本龍馬
『引用元ウィキペディアより』

慶応3年11月15日(1867年12月10日)】、京都の「近江屋」にいた「坂本龍馬」のところへ、二人の刺客が乱入。

 

一人は龍馬の「前頭部を刀で横に払い」、もう一人の刺客が、龍馬といっしょにいた「中岡慎太郎」の後頭部へ一撃。

 

龍馬は床の間にあった刀をとろうと振り返ったが、「右の肩先から左の背中にかけて」再び斬られた。

 

龍馬は刀をとって立ち上がったが、抜刀できずに、鞘(さや)におさめたのままで刺客の刀を防御。

 

しかし刺客の刀は、鞘ごと龍馬の刀を削っていき、龍馬の「前頭部を斬った」。


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刺客たちは撤退。

 

間もなく気がついた龍馬は、刀を灯火にかざして「残念残念」と言い、

「慎太、慎太(中岡慎太郎のこと)、手は動くか」

とたずねると、中岡は

「手は動く」

と返答。

《中岡慎太郎》
『引用元ウィキペディアより』

龍馬は

「新助!医者を呼べ!」

といった。(新助とは、近江屋の主人である「井口新助」のこと)

 

それから、かすかな声で

「慎太、ぼくは脳をやられたから、もうだめだ」

と言って、そのまま息を引き取った。


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  • 「前頭部を刀で斬られた傷」
  • 「右の肩先から左の背中にかけて斬られた傷」
  • 「頭部への斬撃」(脳をやられた)

 

龍馬はこれだけの傷を負っています。

 

特に最後の「頭部への斬撃」が、直接の死因となったのでしょう。

 

中岡慎太郎は、その後2日間は生きのびて、「谷干城」たちに襲撃の詳細を語ったものの、【11月17日】、事件の2日後に、龍馬の後を追うように亡くなっています。


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坂本龍馬の『没年月日』と『最後の様子』

「没年月日」と「享年」

旧暦・慶応3年11月15日

新暦・1867年12月10日

 

享年33歳

(満31歳)


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「最後の様子」

龍馬は「後藤象二郎」の依頼で、【慶応3年10月24日】に「山内容堂」の書状を持って越前国(福井県)へ向かった。

《後藤象二郎》
「引用元ウィキペディアより」

松平春嶽」の上京をうながして「三岡八郎(由利公正)」と会談したあと、【11月5日】に京都へ帰還。

 

直後に、三岡八郎の新政府入りを推薦する手紙「越行の記」を「後藤象二郎」に宛てて記し、さらに【11月10日】には福井藩士「中根雪江」宛てに「三岡を出仕させるように」と懇願する手紙を記している。

 

11月15日】、龍馬は宿にしていた河原町のお醤油屋さん「近江屋」を経営していた「井口新助」宅の母屋二階にいた。(近江屋のすぐ向かいは「土佐藩邸」)

《近江屋跡・坂本龍馬最期の地》
「引用元ウィキペディアより」

当日は、土佐藩「陸援隊」の「中岡慎太郎」や、土佐藩士の「岡本健三郎」、画家の「淡海槐堂」などの訪問を受けている。

 

「龍馬」が「腹がへった」と言い出し、「峰吉」に軍鶏(しゃも)の肉を買いに行かせ、用事があった「岡本健三郎」も「峰吉」と同行した。

 

「峰吉」は四条小路に向かい、軍鶏肉を購入して近江屋に戻ったのが【午後9時頃】。

 

「峰吉」が戻ってくる約1時間前の【午後8時ごろ】、龍馬と中岡が話していたところ、「十津川郷士」と名乗る男たち数人が来訪し、龍馬に面会を求めてきた。(十津川郷士とは、奈良の十津川村の志士集団)

 

龍馬の護衛をつとめていた「藤吉」が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入り、襲撃。

 

龍馬と中岡は、そのとき刀を身につけておらず、龍馬はまず額(ひたい)を深く斬られ、その他数か所を斬られて、ほとんど即死に近い形で殺害された。

《坂本龍馬(左)と中岡慎太郎(右)の墓》
「引用元ウィキペディアより」

旧暦での話しだが、龍馬の誕生日と命日が同じ日になってしまった。(坂本龍馬の誕生日は、旧暦で【天保6年11月15日】、新暦では【1836年1月3日】。それにたいして命日は旧暦で【慶応3年11月15日】、新暦で【1867年12月10日】

 

近江屋主人の「井口新助」が、騒ぎを聞いて、土佐藩邸へと急を知らせたが、そのとき「龍馬」はすでに亡くなっていた。

 

「藤吉」と「中岡慎太郎」は傷の手当を受けたものの、「藤吉」は翌日【11月16日夕方】に亡くなり、「中岡慎太郎」はその更に翌日【11月17日夕方】に亡くなった

 

中岡は最後まで、速やかな倒幕を訴えていたという。

 

11月18日】、土佐「海援隊」「陸援隊」によって「龍馬」「中岡」「藤吉」ら三人の葬儀が行われた。

 

龍馬と中岡の墓碑銘は、「桂小五郎(木戸孝允)」が筆をとった。

 

慶応3年12月7日(新暦1868年1月1日)】、龍馬が殺害されてから20日ほど後、龍馬の盟友「陸奥陽之助(のちの外務大臣・陸奥宗光)」が、龍馬暗殺の犯人を紀州藩士「三浦休太郎」であると思いこんで襲撃。

 

このとき、新選組三番組長「斎藤一」らが三浦の護衛をしていたため、三浦は無事だったが、双方あわせて数名負傷し、または死亡(天満屋事件)

 

龍馬を暗殺した犯人については、近年の定説によれば、京都市中見廻組「佐々木只三郎(ささき たださぶろう)」と、会津藩主「松平容保」と言われています。

≪松平容保≫
「引用元ウィキペディアより」

「佐々木只三郎」は、龍馬が亡くなった翌年【1868年】の「鳥羽・伏見の戦い」で戦死しています。


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坂本龍馬の『辞世の句』と意味

「坂本龍馬」の歌

世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は 我のみぞ知る

世の中の人が、自分の事をどのように批判しようとも、私がしようとしていることの真意は、私だけが知っている。

 

なんと批判されても、かまうことはないさ。

 

実はこの言葉、坂本龍馬の「辞世の句」ではありません。

 

ただ、龍馬たちが生きた幕末動乱の時代は、いつ死ぬかわからぬ時代であり、志士たちは常に「歌」や「句」を用意して、突然の死に備えていたのです。

 

ここでは、龍馬が生前に残した歌を、辞世として紹介させていただきました。


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龍馬の先祖?が「本能寺の変」直前にのこした「歌」

もう一つ、歌をご紹介させていただきたいと思います。

心知らぬ 人は何にとも 言わば謂(い)え 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ

私の心を知らぬ者は、好きなように私を批判するがいい。

 

私は命を惜しむことはない。

 

また、名声を惜しんで、悪名を恐れることもない

 

 

なんだか「坂本龍馬」が残した「世の人は・・・」の歌に似ているとは思われませんか?

 

実はこの歌、2020年の大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の主人公「明智光秀」が、「本能寺の変」で主君「織田信長」を討ち果たす直前に残した歌、とされています。

《明智光秀》
「引用元ウィキペディアより」

実は、龍馬は「明智光秀の子孫」であると自称していたのです。

 

龍馬は光秀を尊敬していたらしいので、光秀の歌を参考にして、自分も歌を残したのかもしれません。

 

坂本龍馬は、明智光秀の子孫か?」について、以下のリンク記事で、くわしく解説をさせていただいております。

『坂本龍馬が明智光秀の子孫説を検証!2人は似たような業績を残してる』
の記事はコチラ

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龍馬が遺した「最後の写真」とは?

坂本龍馬といえば、複数の写真をのこしたことで有名ですが、生前最後に写した写真がこちらです。

《坂本龍馬》
「引用元ウィキペディアより」
2020年2月6日公開

この写真は、【慶応3年(1867年)秋】に長崎の「上野撮影局」というところで撮影されたものだと考えられています。

龍馬は【同年11月15日】に、近江屋で亡くなっていますので、写真は亡くなる直前に撮影されたものだということがわかります。

まとめ

本日の記事をまとめますと

1,坂本龍馬の『死因』は?

  • 「刺客から受けた刀傷」
  • 「暗殺」

 

2,坂本龍馬の『没年月日』は?

旧暦・慶応3年11月15日

新暦・1867年12月10日

享年33歳

(満31歳)

 

3,坂本龍馬の『最後の様子』は?

頭部のほか、数カ所を日本刀で斬られ、ほぼ即死にちかい状態で発見された

 

4,坂本龍馬の『辞世の句』は?

「世の人は 我を何とも 言わば言え 我なす事は 我のみぞ知る」

 

5,坂本龍馬がのこした『最後の写真』は?

龍馬は亡くなる一月ほど前に、長崎「上野撮影局」で、最後の写真を撮影し、残している。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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