明治時代の大事件「西南戦争」。
なぜ西南戦争は起こったのか?どのような終わり方をしたのかをご存知ですか?
西南戦争は、権利を奪われた元サムライたちが起こした戦争。最後は英雄「西郷隆盛」の死で終わりました。
「西南戦争」の原因や結果などを、わかりやすく解説いたします。
歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。
拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。
どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。
この記事を短く言うと
・西南戦争は、「不平士族(元さむらい)」と「明治政府」の戦い
・戦争の原因は、「明治政府」が「元さむらい」から「刀」と「仕事」を取り上げたこと
《西南戦争って何?誰と誰の戦争?》
戦争と聞くと、太平洋戦争のように外国と戦うイメージがありますが、西南戦争は日本人同士で戦った戦争です。
自分の国の中で戦いが起こることを「内乱(ないらん)」といいますが、西南戦争もこれに当てはまります。
西南戦争が起こったのは、1877(明治10)年。
このころの日本は、新しい政府(明治政府)のもと、外国の文化を取り入れながら、アメリカやイギリスといった大きな国に負けないよう、少しずつ強い国になろうとしていました。
しかし、このような明治政府の活動に不満を持つ人たちが出てきてしまいます。
彼らは不平士族(ふへいしぞく)呼ばれ、もともとは「お侍さん」だった人たちでした。
その不平士族の中には、東京・上野公園にある銅像で有名な「西郷隆盛(さいごうたかもり)」もいました。
不平士族たちは自分たちの不満を明治政府にぶつけるために反乱を起こしたのでした。
これが「西南戦争」というわけです。
次に西南戦争に関わった「中心人物」を紹介します。
まず、反乱を起こした不平士族の中心にいた人物が「西郷隆盛」でした。
薩摩藩(現在の鹿児島県)に生まれた西郷隆盛は、新しい政府を作ったひとりでしたが、仲間との意見が合わない理由で政府の仕事を辞めて西南戦争を起こしました。
一方、明治政府の中心人物といえば「大久保利通(おおくぼとしみち)」と「山縣有朋(やまがたありとも)」があげられます。
特に大久保利通は、西郷隆盛と同じ薩摩藩の出身で、隆盛とも親友でしたが、お互いの意見が合わず敵同士になってしまったのでした。
このように西南戦争は、西郷隆盛が率いる「ふへいしぞく」と、大久保利通たちが率いる「明治政府」の戦いだったのです。
《戦争が起こった原因!》
では、西南戦争が起こってしまった原因とはなんだったのでしょうか。
戦争の引き金になったできごとのひとつに、「廃刀令(はいとうれい)」といった、それまでお侍さんに与えられていた特別な権利をなくしていったことがあげられます。
「廃刀令」とは刀を持つことを禁止する法律です。
今までの日本では、お侍さんは刀を持ち歩いてもよい時代でしたが、明治時代に入ると、軍人や警察官以外の人は刀を持ち歩いてはいけませんでした。
もしこの約束を破ってしまうと、持っていた刀を取り上げられてしまいました。
お侍さんたちにとって刀は自分の身分を示すとても大切な道具で、それを持ち歩くことは彼らにとって特別な権利だったのです。
それがなくなってしまうのは、お侍さんたちはとうてい受け入れることのできないことだったのでした。
もうひとつ、「徴兵令(ちょうへいれい)」という法律も西南戦争を引き起こした原因となるでしょう。
「徴兵令」は外国の法律をもとに作られたもので、20才以上の男子は必ず3年間は兵士にならなければいけないという法律です。
この法律ができると、困ってしまうのは「お侍さんたち」でした。
徴兵令は元お侍さんだけでなく、農民の人たちも従わなければいけません。
これまでお侍さんだけにあった「戦う権利」をいろいろな人が持つことになり、「武士(もののふ)」というお侍さんの特別な職業をうばうことにつながったのです。
このように、「廃刀令」や「徴兵令」により、お侍さんだけの特別な権利がなくされた不満が、西南戦争を引き起こす原因のひとつになったのでした。
《結果・・・・どっちが勝った?》
さて、最後に西南戦争でどちらが勝ったのか紹介します。
結果を先に言うと、大久保利通がひきいた「明治政府」が勝ちました。
兵士の数は圧倒的に明治政府が上回っていましたが、西郷隆盛が率いる不平士族たちも大いに戦いました。
鹿児島から始まった内乱ですが、一時は不平士族が熊本城まで迫る勢いだったのです。
しかし、次から次へと政府から送り込まれる兵士に、西郷隆盛らは苦戦していきます。
そしてついに、最後の戦いの場になった鹿児島県・城山で、西郷隆盛は命を絶ちました。
西郷隆盛の死によって、およそ8ヶ月間に及ぶ戦争が幕を閉じたのでした。
実はこれ以降の日本では、現在まで一度も「内乱(日本国内での日本人同士の戦争)」は起こっていません。
西南戦争は、明治時代に起こった内乱の中でも、最も大きいものであり、なおかつ日本で起きた最後の内乱でもあったのです。
《『西南戦争』について、レビュー(評論)!》
西郷隆盛・・・彼がどんなすごいことを成し遂げて、歴史に名前を残した人なのか、みじかく説明できるでしょうか?
西郷隆盛は「徳川幕府」を倒した人なのです。
徳川家康・・・・織田信長・豊臣秀吉の後に、天下を統一して「100年」も続いた戦国時代という苦しい時代を終わらせた英雄です。
家康が作り上げた「徳川幕府」は、260年もの間「平和」を守り続けました。
西郷は、その「徳川幕府」を倒し、新しい「明治政府」をつくり、日本をより「強く新しい国」に生まれ変わらせた人なのです。
西郷どんと呼ばれる西郷隆盛が、何をした人なのか・・・・一言で解説すると
「徳川幕府を倒した人」
となります。
そんな西郷隆盛を倒した親友「大久保利通」。彼は西郷隆盛が嫌いだったわけではありません。むしろその逆でした。
しかし、「新しい日本」「強い日本」をつくりあげるために、親友ですらも倒さなくてはならなかったのです。
「西郷隆盛」と「大久保利通」がどういう関係にあったのか、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
いかがでしたでしょうか。
西南戦争についてまとめると、
・西南戦争は、元お侍さんの不平士族と明治政府同士の戦い
・戦争の原因のひとつは、お侍さんに与えられた特別な権利が奪われたから
・勝利したのは「明治政府」で、西南戦争は日本で起きた最後の内乱となった
といえるでしょう。
実は西南戦争を引き起こした西郷隆盛は、武器を持って明治政府に反抗することは考えていなかったといわれています。
西南戦争のきっかけは、若い士族たちが政府の火薬庫を襲撃したことです。
さらにこの事件をきっかけに多くの鹿児島の士族たちが集まったため、西郷隆盛は仕方なく軍隊を率いることになったのでした。
もしかしたら西郷隆盛は、もう一度明治政府と話し合い、戦争ではなく平和的な行動で日本をよりよくしようと考えていたのかもしれません。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 別府晋介とは、西郷隆盛とともに西南戦争で戦い、西郷の首をはねた人物 […]