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安政の大獄とは何かわかりやすく解説!吉田松陰が処刑された原因とは

「吉田松陰」が処刑された弾圧事件「安政の大獄」とは何か?世界一わかりやすく解説いたします。

幕末の大老「井伊直弼」がおこなった大弾圧事件「安政の大獄」は、なぜ起こったのか?

なぜ「吉田松陰」は処刑されたのか?

実は井伊直弼は間違っておらず、松陰は処刑されるはずではなかった!


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・『安政の大獄』とは、『日米修好通商条約を勝手に締結』、又は『徳川家茂を強引に次の将軍に決める』など、強引な独裁政治をおこなう井伊直弼へ反発する者たちを、次々処罰した弾圧事件

・しかし日米修好通商条約安政の大獄のあいだには、戊午の密勅(ぼごのみっちょく)という事件が起こっていた

安政の大獄は、井伊直弼が自分に逆らう者たちを、好き勝手に処罰した弾圧事件というわけではなく、幕府の権威を守り、国内での反乱を未然に防ぐために行われた弾圧事件だった

吉田松陰は、尋ねられてもいない「老中・間部詮勝暗殺計画」を自分から白状して、処刑された


《安政の大獄とは何か?》

1858~1859年】までの間に行われた弾圧事件。それが安政の大獄です

この安政の大獄とは何なのかを、短く言ってしまうと

「天皇の許しも得ないまま日米修好通商条約に調印したり、『徳川家茂』を次の将軍に勝手に決めてしまった『大老・井伊直弼』のやり方に反対する者たちを、井伊直弼が弾圧した事件」

ということになります。


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1853年】、ペリーが率いる黒船が来航し、日本は大混乱に陥りました。

同年、12代将軍徳川家慶が急死。

その息子である13代将軍徳川家定は病弱。子供が生まれる見込みが薄く、しかもいつ亡くなっても不思議ではない状態だったのです。

そのため幕府は、早くから「14代将軍を誰にするか」で揉めていました

次の将軍を誰にするのか、この問題で、意見の異なる2つの勢力が対立していました。

  • 優秀だと評判の「一橋慶喜」を推す一橋派
  • 血統を重んじて「徳川慶福(のちの徳川家茂)」を推す南紀派

この二派です。

そんな時、アメリカの領事ハリスが、日本に対して日米修好通商条約の締結を求めて、つよい圧力をかけてきたのです。

つまり「貿易の条約を締結するように」と、圧力をかけてきたわけです。

1858年】、南紀派であった井伊直弼は、江戸幕府の最高職である大老に就任します。

井伊直弼
『引用元ウィキペディアより』

通常は天皇からお許しをもらうべきである日米修好通商条約の調印に、井伊直弼は、許しも得ないまま勝手に調印してしまいます。

この条約締結に、当時の日本人は誰もが激怒します。

激怒した理由は、「天皇のお許しもなく、勝手に条約を結んだから」だけではありません。

この日米修好通商条約が、日本にとってとても不利な、いわゆる不平等な条約だったからです。

幕末の日本人は、「日本は世界で最強の国だから、アメリカと戦争しても勝てる」と思い込んでいました。

「アメリカと戦ったら勝てるのに、どうして日本は不平等な条約を受け入れなくてはならないのだ」

と思っていたのです。だからこそ、日本人は井伊直弼の条約締結に激怒したのでした。

実際のところ、日本はアメリカと戦っても絶対に勝てません。戦争したら日本は滅びます。

そんなアメリカが、「条約を結ばないと日本に対して戦争をしかけるぞ!」と脅しをかけてきたから、日本は不平等な条約を飲むしかなかったのです。

 

不平等な条約の締結に対して攘夷派つまり「異国は武力で打ち払うべきである」という考えを持っていた水戸の前藩主・徳川斉昭は、

  • 水戸藩主・徳川慶篤(徳川斉昭の長男であり、徳川慶喜の兄
  • 尾張藩主・徳川慶勝
  • 福井藩主・松平春嶽

彼らを引き連れて、江戸城へ登城し、井伊直弼に対して抗議をします。

これが原因で、徳川斉昭松平春嶽は、井伊直弼に処罰されてしまうのです。

その処罰の理由は「定められた登城の予定日以外に、勝手に城にきた」ということ。

勝手にお城へ来たことが罪であるとして、徳川斉昭たちは、井伊直弼から引退や謹慎を命じられることとなったのです。

この徳川斉昭たちへの謹慎処分が安政の大獄の始まりでした。

斉昭たちが処罰された直後、一橋派の強い味方であった薩摩藩の名君・島津斉彬が急死。

さらには朝廷の公家・九条尚忠たちも辞職に追いやられました。

そのうえ、梅田雲浜橋本左内吉田松陰などの武士たちまで捕らえられて処刑されてしまったのです。

この弾圧は【1860年3月3日桜田門外の変井伊直弼が暗殺されるまで続きました。

 

桜田門外の変については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

井伊直弼の生涯については、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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《井伊直弼が安政の大獄を行った原因は!実は弾圧ではなく処分だった?》

安政の大獄は、朝廷の許可もなく不平等な日米修好通商条約を結んだ井伊直弼に、強烈な不満を持つ人間たちに対して、暴君・井伊直弼が、その権力を乱用し、自分に逆らう者たちを問答無用で処罰したもの、という悪質な弾圧事件だと考えられているようです。

しかし実は日米修好通商条約安政の大獄、その2つの間に、1つの事件が起こっているのです。

水戸烈公こと徳川斉昭たちが蟄居・隠居させられたことについては、一方的ではありましたが、不時登城という処罰の理由がありましたので、仕方ありません。

不時登城は、法律で定められた違法行為なのです。

実は日米修好通商条約の調印の直後、孝明天皇から戊午の密勅ぼごのみっちょく)と呼ばれる天皇からの秘密命令が、水戸藩へ出されているのです。

この戊午の密勅、その内容は以下の通りです

1,なぜ朝廷の命令もなく日米修好通商条約を結んだのか、詳細に説明せよ

2,徳川御三家と全国の藩は、幕府に協力して公武合体(幕府が朝廷の命令に従うこと)を実現し、幕府は諸外国を打ち払うように、政治改革をせよ

3,上記2つの内容を、水戸藩が全国の藩に伝えよ


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この命令が「水戸藩」へと出されたのです
(ちなみに「幕府を倒せ」という命令は、出されていません。
井伊直弼を暗殺せよ」という命令があったという説はあります)

つまり

幕府の頭をこえて、朝廷が直接、水戸藩に命令を出した!

ということです。

これは、幕府からしたら、絶対に許すことが出来ない問題なのです。

なぜなら、これを幕府が黙って認めたら、幕府の権威は失われ、日本全国の諸藩は幕府を「恐れる必要なし」として、反乱が頻発することになるからです。

幕府としてはそれを許すわけにはいかないので、この「戊午の密勅」に携わったお公家さんや有力藩士たちを処罰したのです。

 

この幕府の頭を超えた命令を、わかりやすく現代に例えると、こういうことになります。

ある日、内閣総理大臣と外務大臣が、アメリカと貿易についての条約を結びました。

ところがこの条約は、天皇陛下の許可なく結ばれたものでした。

天皇陛下は激怒します。

怒った天皇陛下は、総理大臣や外務大臣をすっ飛ばして、なぜか茨城県知事に対して、とある命令をしました。

  1. なぜ勝手に条約を結んだのか茨城県知事は説明しろ!
  2. 全国の都道府県知事は、協力してアメリカを倒せ!
  3. 茨城県知事は、上の2つの命令を全国の都道府県知事に伝えよ!

こんな命令を出されて、もしも本当に茨城県知事が全国の知事と協力してアメリカと戦争しちゃったら、日本は大変なことになります。

アメリカと仲良くしようとして条約を結んだ総理大臣や外務大臣も、黙って見ているわけにはいかないはずです。

いくら総理大臣でも、天皇陛下を処罰できませんので、茨城県知事のほうをなんとかしようとするでしょう。

幕末の日本のように弾圧などはできないにしても、総理大臣はこの茨城県知事を辞めさせようとするはずです。

総理大臣は次の茨城県知事選挙で、自分たちの味方を立候補させ、現職の茨城県知事を落選させようとするでしょう。

現代の会社組織でも、社長が直属の部下である部長をすっ飛ばして課長に命令したら、越権行為として嫌われてしまうものです。

幕末の当時も、朝廷が直属の部下である徳川幕府をすっ飛ばして、幕府の部下である水戸藩に命令を下したら、それはルール違反として嫌がられるのです。

 

話を戻しましょう。

戊午の密勅が出された直後、日本全国でたくさんの人々が処罰されました。

戊午の密勅にかかわった鷹司政通近衛忠煕鷹司輔煕などの有力なお公家さんは、辞職させられています。

さらには諸藩の有力藩士たち、橋本左内梅田雲浜頼三樹三郎など、合計で13名が処刑・獄死。

蟄居・謹慎を含めると100名あまりが処罰されたのです。

これのほとんどが、戊午の密勅にかかわった人たちでした。(吉田松陰は、戊午の密勅にかかわっていない。松陰が処刑された理由は、後述します)

井伊直弼は、「自分に逆らう者たちを、自分勝手に弾圧するために、安政の大獄を起こした」わけではないのです。

井伊直弼安政の大獄を起こした理由を改めて整理すると、以下の通りになります。

「朝廷が戊午の密勅を、幕府の頭をこえて水戸藩へ出した。

それを黙って許してしまったら、日本全国で反乱が多発しかねない。

だから井伊直弼は、戊午の密勅に関係した者たちを処罰して、幕府の権威を守り、反乱を未然に防ごうとした」

というわけです。

「自分に逆らうものは処罰した」というものではなく、「幕府をないがしろにして、その権威を傷つけた」こと。それこそが、井伊直弼が安政の大獄を起こした理由です

つまり安政の大獄で処罰された者たちは、2種類に分類できることになります。

  • 徳川斉昭たち不時登城を理由に処罰された者たち
  • お公家さんや橋本左内ら戊午の密勅に関わった者たち

安政の大獄は、井伊直弼という独裁者による一方的な弾圧事件ではありません。

不時登城という違法行為と、戊午の密勅という朝廷の越権行為、これらを正当な理由で処罰したのが安政の大獄なのです。

 

井伊直弼について、詳しくは以下のリンク記事で解説しております。

朝廷とは何なのかについては、以下のリンク記事でくわしく解説しております


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《なぜ吉田松陰まで処刑されたのか?》

ところで、どうして吉田松陰まで処刑されてしまったのでしょうか?

《吉田松陰》
「引用元ウィキペディアより」

吉田松陰は、確かに長州藩を脱藩したり、アメリカに密航しようとしたり、その圧倒的な行動力で、よくやらかすお方ですよね。

実は、吉田松陰はこのとき、その気になれば死ななくても良かったはずなのです。

吉田松陰は江戸へ護送され、事情聴取を受けていました。

何を事情聴取されていたのかというと、梅田雲浜という人物についてです。

小浜藩士・梅田雲浜(うめだうんぴん)とは、外国船を打ち払うべきと主張し、尊王攘夷運動を行っていた侍たちの急先鋒だった人です。

この人、実は吉田松陰の故郷である長州藩・萩に滞在していたことがあったのです。その時、吉田松陰と面会していました。


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幕府が吉田松陰に事情聴取をした目的は、梅田雲浜とどんな内容の会話をしたのかを調査するためです。

実は、吉田松陰自身が疑われて、取り調べを受けたわけではないのです。

「自分は関係ない」と言っていれば、処刑などされなかったはずです。

しかし吉田松陰は、黙っていれば良いものを、幕府の重役である老中・間部詮勝を暗殺しようとしていたことを自白してしまったのです。

どうやら「尋ねてもいないのに、勝手に暗殺計画を自白し始めた」みたいですね

以前放送された、女優・綾瀬はるかさん主演の大河ドラマ「八重の桜」で、小栗旬さん演じる吉田松陰が、尋ねられてもいないのに老中暗殺計画を自白して処刑されたシーンが放送されました・・・。

吉田松陰が処刑された理由は

「梅田雲浜との会話の内容を尋ねられただけだったもかかわらず、尋ねられてもいない老中暗殺計画を自白して、その罪を問われて処刑された・・・」

ということです。

吉田松陰先生は、黙っていれば死なずに済んだのでしょうけど、黙っていられなかったのでしょうね。

おそらく吉田松陰先生は、「なぜ自分が老中を暗殺しようとしたのか」を話し、「老中を暗殺しなくてはならないほどに、幕府は腐りきっている」ことを井伊直弼たちに自覚させようとしたのでしょう。

「至誠にして動かざるもの、未だこれあらざるなり」

吉田松陰先生が常に大切にしていた言葉です。

意味は

「誠を尽くして動かなかった者は、いまだに1人としていない」

となります。

おそらくですが吉田松陰先生は「誠を尽くす」ことによって、井伊直弼や幕府を動かし、攘夷へと踏み出させようとしたのでしょう。みずからの命を捨ててまで。

しかし、井伊直弼たちは動きませんでした。

そのかわり、吉田松陰先生の死によって、高杉晋作たち松下村塾の弟子たち、さらには日本中の尊王攘夷派の志士たちが、大きく動き出すこととなるのです。

 

吉田松陰先生について、詳しくは以下のリンク記事で解説しております。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・安静の大獄とは、14代将軍擁立問題、日米修好通商条約などに反対した者を処罰した弾圧事件

・実は日米修好通商条約と安政の大獄のあいだには、戊午の密勅という事件があった

・吉田松陰は、梅田雲浜との会話の内容を尋ねられたにもかかわらず、尋ねられてもいない老中暗殺計画を自白して処刑された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

井伊直弼」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 歴史が苦手な為、今見ている大河ドラマ「青天を衝け」を観ながらも
    分からない事が多すぎて調べているうちにここに辿り着きました。
    読めば読むほど面白くて次から次へと沢山のページに飛び
    段々理解できるようになりました。
    お恥ずかしながら 以前観ていたテレビの「仁」も
    思い出しては「あ~なるほど そういう事だったのか」と
    今更ながら理解している状態です。

    こんなに歴史が面白いと思ったサイトは無いです。
    分かりやすくて全てのページを読みたくなります。

    ありがとうございます。
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      失礼いたします。

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