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徳川慶喜の死因は風邪だけではない?死の間際に残した名言に驚愕!

徳川家最後の将軍だった15代「徳川慶喜」。

幕末の時代をかけぬけた慶喜は、歴代徳川将軍の中で、最も長生きをしました。

その原因は暗殺などではなく、「風邪をこじらせた肺炎」・・・・。

墓地は徳川家の菩提寺「増上寺」「寛永寺」ではなく東京「谷中霊園」・・・。

この記事では「徳川慶喜の死因」と、「残した言葉」や「お墓の場所」、そして「仏式」ではなく「神式」で葬られた理由などをご紹介いたします。


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この記事を短く言うと

徳川慶喜の死因は「肺炎」

・「私は幕府を終わらせるために将軍となった」と発言している

・お墓は「谷中霊園」にあり、天皇への感謝を示すため、仏式ではなく神式で葬られている


「徳川慶喜」の死因は「風邪」だった?

徳川幕府最期の将軍「德川慶喜」

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

徳川慶喜は歴代将軍の中で最も長生きをし、77歳でその生涯を閉じました。

大政奉還王政復古戊辰戦争江戸城無血開城などのキーパーソンだった慶喜。

江戸城から退去し、明治以降は静岡で趣味に没頭する生活を送り、晩年は貴族院議員となって再び日本国の国政に関与することになりました。

元号が明治から大正になった1913年に、風邪をこじらせて「肺炎」になってしまいます。

それが原因で「1913年11月22日」に東京の私邸で亡くなりました。



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徳川慶喜が、亡くなる前に遺した「名言」

慶喜が亡くなる前に

家康公は日本を統治するために幕府を開かれた

私は、その幕府を葬り去るために将軍になったのだ」

と言って亡くなりました。

250年続いた「徳川」時代を自分の代で終わらせることになった慶喜。

歴代将軍に対する謝罪の気持ちがあったはずですが、その気持ちを消すようなことをあえて言っているように思います。

戊辰戦争の時、慶喜は家来たちを残して逃亡。

そのおかげで戦いは長続きもせず、諸外国がつけ入るスキを与えなかったのかもしれません。

しかし、徳川幕府の将軍が逃げ出すという行動は幕臣からすれば、自分の主から裏切られたわけですから、当然許せないこと。

日本国の全体で考えれば、内戦を未然に防ぐ「敵前逃亡」という彼の行動は成功でしょう。

しかし幕府という、例えて言うなら「企業」のトップとしては、完全に失敗でした。

慶喜は将軍職に不向きな人間だったのかもしれません。



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「明治天皇への感謝」・・・徳川慶喜のお墓の特徴とは?

徳川慶喜のお墓は、歴代徳川将軍が眠る「芝・増上寺」でも「上野・寛永寺」にもありません。

慶喜のお墓は「谷中霊園」にあり、皇族と同じような円墳で建てられています。

それは京都にある質素な「歴代天皇陵」を真似した、と言われています。

さらに明治天皇への感謝の気持ちがかなり大きかったみたいです。

朝敵だった慶喜を赦免した上、華族の最高位である公爵を親授した明治天皇。

その感謝の意を表すために、自分の葬儀は仏式ではなく、天皇を敬う神式で行うように遺言を残したと言われています。

尊皇思想が強い「水戸藩」出身の徳川慶喜らしい選択です。


「渋沢栄一」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


「徳川慶喜」について「ひとこと」いいたい

徳川慶喜、幼いころからあまりにも優秀で、周囲が何度も慶喜を将軍にしようと画策し続けました。

「13代将軍・徳川家定」の後継者の座を「14代将軍・徳川家茂」と争ったことは有名ですが、実は「12代将軍・徳川家慶」が、自分の後継者にしようと画策したこともあったのです。

つまり、「13代」「14代」と、2度も将軍に就任するチャンスがあったということ。

本人は将軍になりたくなかったみたいですね。

「天下を取ることほど、面倒なことはない」

まだ10代の若い頃に、慶喜はそのように言っていました。

このことからわかることは、慶喜は「徳川幕府」という組織に対して、執着心がなかったということでしょう。

「室町幕府」最後の将軍「足利義昭」は、無力であるにも関わらず、室町幕府に執着し、織田信長に必死の抵抗をしています。

それに対して、徳川慶喜は将軍職と幕府を、比較的あっさりと放棄しています。

徳川慶喜が、鳥羽伏見の戦いの際に、あっさりと江戸へ逃げかえったのは、こうした「将軍職や幕府への執着心のなさ」も理由だったのかもしれません。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・徳川慶喜の死因は「風邪」を悪化させた「肺炎」

・慶喜は「私は幕府を終わらせるために将軍となった」と言っている

・お墓は徳川家の菩提寺ではなく「谷中霊園」にある。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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