吉田松陰とはどんな人物か簡単に3分で解説!実はテロリストだった?

幕末、長州藩で数々の偉人を育て上げた「吉田松陰(よしだしょういん)」について、わかりやすく短く解説いたします。
吉田松陰は、倒幕を主導した「高杉晋作」や、明治新政府の基礎をつくった「伊藤博文」たちの師。
しかし松陰先生は、テロリストという顔も持っていたとか・・。
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この記事を短く言うと
・吉田松陰先生とは、幕末・長州藩の秀才にして兵学者・・つまり軍事の専門家
・松陰先生が現代に生きていたら、「政府の不祥事」「外交問題」で圧倒的な行動力を発揮するだろう
・松陰先生をテロリストと称する声もあるが、それ以上に、「久坂玄瑞」「高杉晋作」などの逸材を短い間に育て上げるほど、すぐれた「教育者」だった
目次
《吉田松陰とはどこの誰?何をした人?》
吉田松陰

吉田松陰
『引用元ウィキペディアより』
後に「吉田松陰」と名乗ることとなる偉人、彼は文政13年(1830年)長州萩城下松本村(現:山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれます。
幼名は寅之助。
幼い頃に叔父で「山鹿流兵学」師範である「吉田大助」の養子となります。
しかし、まもなく吉田大助が死亡したため、同じく叔父の「玉木文之進」が開いた「松下村塾」で指導を受けます。
松陰は山鹿流兵学の後継者になるさだめであり、9歳のとき藩校明倫館で山鹿流兵学の講義をしました。
また、11歳のとき藩主「毛利敬親」の前で「武教全書」を講義し、その巧みさに藩主を驚かせました。
非常な秀才だったことが分かります。
西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学。
ついで、江戸に出て佐久間象山、安積艮斎に弟子入りします。
松陰は黒船を見に行き、西洋文明を目の当たりにし驚きます。
そして、師「佐久間象山」の影響もあり、海外渡航の志を立てるのです。
松陰の行動を飛躍させたのはペリー来航により見えた新しい文明でした。
その翌年「ペリー」が再来航。
松陰は同志金子重之輔と海外渡航を企てます。
海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ乗船。
しかし、渡航は拒否されて小船も流されたため下田奉行所に自首し、幕府により投獄されます。
幕府は松陰を萩に送り、長州藩は松陰を野山獄に入りますが、のちに出牢を許されて生家での禁錮を命じられます。
出牢した松陰は近隣の子弟を集めて塾を開きますが、この塾が叔父「玉木文之進」の開いた「松下村塾」であり、松陰が新しい主宰者となります。
著名な塾生は、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、入江九一、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎、前原一誠、山田顕義などです。
また、桂小五郎(木戸孝允)は塾生ではないものの、長州藩の公立学校「明倫館」時代の松陰に兵学の教えを受けています。
いずれも幕末の長州藩の志士として活躍し志半ばにて死んでいった人、あるいは明治新政府で要職を担った人です。
松陰はそういった人々に思想的影響を与え、歴史を担う人へと育て上げたのです。
《現代社会の問題に対して、吉田松陰ならどんな選択をする?》
松陰が残した言葉を見てみましょう。
「実際に自分で行動しないと分からないものだ。行動しない人は人とは言えない。」
「意味もなく保身にばかり走るものが、どうして国を守ることができるだろうか。」
「平凡な一生を送るより、正義のために潔く死ぬべきである。」
「どんなことでも、できないということはない。できないというのは、やらないだけである。」
「罪は事件にあって人にはない。」
いずれも心に響く言葉です。
人を導く厳しさと優しさが感じられます。
吉田松陰が現代に生きていたら、最近日本で話題となっている「森友学園」「加計学園問題」「北朝鮮問題」等の問題にどのように対処したでしょうか?
あいまいな発言をする官僚・政治家にはとくとくと説教をし、正しい行動を取るように指導するでしょう。
厳しく指導はしますが、基本的な人への優しさは忘れずに対応すると思います。
また、北朝鮮問題では自ら北朝鮮に乗り込んで、現地の状況を調査して、責任者に直談判するかも知れません。
北朝鮮で拉致されるかも、等という事は一切考えず死ぬ覚悟で行動するはずです。
事なかれ主義の現代の政治家を見ていると、松陰が生きていれば…と想像するとわくわくしてきますね。
《テロリストと評価する声もあり!》
松陰は日米修好通商条約調印を違勅とみて激怒し、長州藩主毛利敬親に幕府への諫争を建言、また討幕論を唱え、老中「間部詮勝」の暗殺を画策します。
そして、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄されます。
驚くことに評定所で松陰は、老中暗殺計画である「間部詮勝・要撃策」を自ら進んで告白してしまいます。
結果、伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処されます。わずか30歳という若さでした。
松陰の過激な発言、行動は「テロリスト」とする声もあります。
しかし、実行には移しておらず、松下村塾で多くのそうそうたる人材を育て上げたその手腕は、まぎれもなく「優れた教育者」といえます。
松陰の過激なまでの行動力は、当時の偉人たちを牽引した先駆者として相応しいものですし、歴史における松陰の功績と言えます。
《『吉田松陰』について、レビュー(評論)!》
吉田松陰先生は、確かに当時の法によると「密航」「暗殺未遂」の大罪を犯した犯罪者かもしれません。
しかし、実行には移しておらず、また彼の真価が発揮されるのは、「テロ」によってではありません。
「明治の元勲」と呼ばれる伊藤博文・山県有朋など、数々の偉人を輩出したことは、もはや申し上げるまでもないでしょう。
しかし拙者は、吉田松陰先生の「圧倒的なまでの行動力」を評価したいのです。
以前、実業家の「堀江貴文」さんがおっしゃっておられました。
「成功するためには、行動あるのみ」
「憂国の士」である吉田松陰先生が「実業家」として活動するとは思えませんが、もしも彼が「実業家」であったなら、誰も追いつけない「圧倒的な結果」を残すのではないでしょうか。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・吉田松陰は長州藩松本村に生まれ、山鹿流兵学師範の家に養子となります。江戸で黒船を見て衝撃を受け、密航を企てて失敗し入牢した後生家で禁錮となり、そこで松下村塾を主宰します。塾生の高杉晋作、伊藤博文など幕末、明治政府で活躍した人々に影響を与えます。
・松陰が現代に生きていればその行動力と指導力で人を導こうとするでしょう。
・老中暗殺計画が発覚し処刑されます。「テロリスト」との声もありますが、松陰の実態は「優れた教育者」なのです。
吉田松陰はその熱い思いで塾生を教育します。そして、その塾生が歴史を動かします。松陰は生きて明治維新を見ることはありませんでしたが、その魂は歴史に生き続けたのです。
以上となります。
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