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池田屋事件と坂本龍馬の関係は?寺田屋事件との違いを徹底解説

幕末を彩る大事件として知られる池田屋事件ですが、実は坂本龍馬はこの事件とは直接関係がないことをご存知でしょうか。

新選組が京都で過激派志士たちを襲撃した元治元年の池田屋事件と、龍馬が主役となる慶応2年の寺田屋事件は、よく混同されがちです。

しかし、この2つの事件は発生時期も内容も大きく異なります。

池田屋事件では龍馬の仲間である望月亀弥太が命を落とし、その死が後の龍馬の活動に深い影響を与えることになりました。

また、この事件で新選組の沖田総司が倒れたとされる場面や、桂小五郎が助かった理由、さらには現在の池田屋跡地がどうなっているのかなど、知られざるエピソードが数多く存在します。

本記事では、池田屋事件における坂本龍馬の関わりや、寺田屋事件との決定的な違い、事件の生存者と犠牲者の運命、そして現在の史跡の様子まで、徹底的に解説していきます。

この記事のポイント
  • 池田屋事件当日の坂本龍馬の行動と望月亀弥太との関係
  • 池田屋事件と寺田屋事件の決定的な違いと混同される理由
  • 沖田総司の喀血伝説の真相と桂小五郎が生き延びた経緯
  • 現在の池田屋跡地と寺田屋の観光情報
目次

池田屋事件に坂本龍馬はいなかった?意外な関係と当日の行動

項目内容
事件名池田屋事件(池田屋騒動)
発生日元治元年6月5日(1864年7月8日)
場所京都三条木屋町の旅館「池田屋」
坂本龍馬の所在江戸(勝海舟の使いで不在)
龍馬の関係者望月亀弥太(神戸海軍操練所の塾生)が死亡

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龍馬はどこにいた?事件当日のあしどりを追う

坂本龍馬の像
引用元「Wikipediaコモンズ」より

元治元年(1864年)6月5日の夜、京都三条木屋町の旅館「池田屋」で、新選組による尊攘派志士の大量摘発事件が発生しました。この池田屋事件は、幕末史における最も有名な武力衝突の一つとして知られています。しかし、坂本龍馬はこの事件に一切関与していません。なぜなら、事件当日、龍馬は京都から遠く離れた江戸にいたからです。

当時の龍馬は、土佐藩を脱藩した後、幕府の軍艦奉行であった勝海舟のもとで海軍の勉強をしていました。勝海舟は神戸に海軍操練所を設立し、そこで龍馬をはじめとする若き志士たちを教育していたのです。元治元年5月、龍馬は勝海舟と共に江戸へ向かい、幕府への報告や資金調達などの用務に従事していました。したがって、池田屋事件が起きた6月5日には、龍馬は物理的に京都にいることができなかったというわけです。

龍馬が江戸にいたという事実は、彼の強運を示すエピソードとしても語られます。もし京都に残っていたら、龍馬も池田屋に集まっていた可能性があり、歴史は大きく変わっていたかもしれません。


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なぜ「龍馬もいた」と勘違いされるのか?

池田屋事件と坂本龍馬を結びつけてしまう誤解は、なぜこれほど広まっているのでしょうか。その最大の理由は、寺田屋事件との混同にあります。寺田屋事件は慶応2年(1866年)に発生し、こちらには坂本龍馬が直接関わっているのです。

両方の事件とも京都で起きており、どちらも宿屋が舞台となっています。さらに、どちらも新選組や幕府側勢力による志士の襲撃という構図が似ているため、一般の方が混同してしまうのは無理もありません。大河ドラマや時代劇でも、池田屋と寺田屋のエピソードが前後して描かれることが多く、視聴者の記憶が混ざってしまうケースが後を絶ちません。

また、池田屋事件には龍馬の仲間である土佐藩士たちが多数関与していました。特に、後述する望月亀弥太という龍馬にとって非常に重要な人物が、この事件で命を落としています。そのため、「龍馬の関係者が池田屋で死んだ」という情報が、いつの間にか「龍馬自身が池田屋にいた」という誤った認識に変わってしまったのでしょう。

龍馬が受けた衝撃!亀山社中の仲間・望月亀弥太の死

坂本龍馬は池田屋事件に直接関与していませんでしたが、この事件で失ったものは非常に大きなものでした。それが、望月亀弥太(もちづきかめやた)という同郷の土佐藩士の死です。望月は龍馬と同じく神戸海軍操練所で学んでいた塾生であり、龍馬にとっては弟分のような存在でした。

望月亀弥太は、元治元年6月5日の夜、池田屋に集まっていた尊攘派志士の一人として新選組の襲撃に遭遇しました。激しい戦闘の末、望月は新選組隊士の刀に斃れ、わずか27歳の若さでこの世を去ったのです。龍馬がこの訃報を聞いたのは、江戸から京都へ戻った後のことでした。自分が不在の間に、大切な仲間を失った龍馬の衝撃は計り知れません。

この望月の死は、龍馬にとって個人的な悲しみだけでなく、政治的にも大きな打撃となりました。なぜなら、幕府の機関である神戸海軍操練所の塾生が、反幕府の陰謀に関与していたという事実が明るみに出たからです。この事件は、勝海舟と龍馬の立場を著しく危うくし、最終的には慶応元年(1865年)に勝海舟が罷免され、神戸海軍操練所が閉鎖される直接的な原因となりました。

龍馬は後に、望月の遺族(未亡人とその家族)の生活を案じ、彼らを寺田屋のお登勢に預けたり、勝海舟に頼んで支援を求めたりしています。慶応2年の手紙には、望月の家族への気遣いが記されており、組織の長として部下の家族に対する責任を果たそうとする龍馬の義理堅い一面が現れています。池田屋事件での望月の死は、龍馬が後に結成する亀山社中(後の海援隊)という私設海軍組織の設立動機の一つにもなったのです。


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池田屋事件とは?わかりやすく解説!新選組が名を上げた激闘

事件の要素詳細
襲撃側新選組(近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助ら)
被襲撃側尊攘派志士(長州藩、土佐藩、肥後藩など約20名)
死者志士側7名が即死、4名が捕縛後死亡
新選組の損害隊士の負傷者あり、死者なし
歴史的意義新選組の名を天下に知らしめた事件

事件のきっかけは?過激派志士たちの恐るべき計画

池田屋事件が発生した背景には、当時の京都における尊攘派志士たちの過激な計画がありました。元治元年(1864年)初夏、京都では長州藩を中心とする過激派志士たちが、京都御所への放火と天皇の奪取という大胆不敵な陰謀を企てていたのです。

彼らの計画は、実に恐るべきものでした。祇園祭の混雑に乗じて京都の街に火を放ち、その混乱の中で孝明天皇を奪って長州へ連れ去り、幕府要人を暗殺するというものだったのです。もしこの計画が実行されていたら、京都は大火災に見舞われ、幕末の歴史は全く違ったものになっていたでしょう。

新選組は、市中の密偵網を通じてこの不穏な動きを察知していました。近藤勇率いる新選組は、京都守護職である会津藩主・松平容保の命を受け、尊攘派志士たちの動向を厳しく監視していたのです。元治元年6月5日、新選組は志士たちが密会している場所を突き止めました。それが、三条木屋町の旅館「池田屋」だったのです。


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「御用改めである!」近藤勇突入の瞬間と場所

新選組隊旗
引用元「Wikipediaコモンズ」より

元治元年6月5日の夜、新選組は二手に分かれて市中を捜索していました。近藤勇が率いる第一陣は、わずか4名という少数精鋭でした。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人は、三条木屋町の池田屋に到着すると、「御用改めである!」と叫んで突入しました。

池田屋は、当時の京都では珍しくない木造二階建ての旅籠でした。現在の京都市中京区三条通河原町東入ル中島町に位置しており、三条大橋のすぐ近くという、まさに京都の中心地でした。この立地の良さが、志士たちにとっては密会場所として都合が良かったのでしょう。

近藤隊の突入時、池田屋の二階には約20名の志士たちが集まって密議を行っていました。突然の新選組の襲撃に、志士たちは刀を抜いて応戦しました。狭い屋内での凄惨な斬り合いが始まったのです。わずか4人で20人以上の敵と戦うという、数的には圧倒的不利な状況でしたが、新選組隊士たちの剣の腕は確かでした。特に近藤勇と永倉新八の活躍は目覚ましく、次々と志士たちを斬り伏せていきました。

やがて、土方歳三が率いる第二陣や会津藩士たちも駆けつけ、池田屋は完全に包囲されました。志士側は逃げ場を失い、激しい戦闘の末、7名が即死、4名が捕縛後に死亡するという大惨事となりました。一方、新選組側は奇跡的に死者を出さず、負傷者のみという結果に終わりました。この圧倒的な戦果が、新選組の名を天下に知らしめることとなったのです。


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階段落ちは本当?映画『蒲田行進曲』と史実の違い

池田屋事件といえば、映画やドラマで必ずと言っていいほど登場するのが、「階段落ち」のシーンです。特に、映画『蒲田行進曲』で描かれた大階段からの転落シーンは、あまりにも有名で、多くの人が「池田屋には大階段があった」と信じています。しかし、これは史実とは異なります。

近年の研究によると、当時の池田屋の階段は、現在の映画やドラマで描かれるような派手な大階段ではなく、ごく普通の急勾配の階段だったとされています。江戸時代の町屋や旅籠の階段は、スペースを節約するために非常に急で狭いものが一般的でした。したがって、映画のように何メートルも転がり落ちるような「階段落ち」は、構造的に不可能だったというわけです。

それでも、狭く急な階段での戦闘は非常に危険であり、実際に階段で転倒した者や、階段を利用して逃走を図った者はいたでしょう。ただし、映画のような派手な演出は、あくまでもエンターテインメントとしての脚色なのです。

現在、池田屋跡地には居酒屋「はなの舞」が営業しており、店内には約8メートルの「大階段」が再現されています。しかし、これは史実の池田屋を再現したものではなく、映画やドラマで描かれる「イメージとしての池田屋」を具現化した空間なのです。観光客が求める「池田屋のイメージ」を忠実に再現することで、歴史のロマンを楽しめる劇場型の飲食店となっているわけです。


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運命の分かれ道!「池田屋事件」と「寺田屋事件」の決定的な違い

混同しがちな2つの事件を比較表で整理

池田屋事件と寺田屋事件は、どちらも幕末の京都で発生した襲撃事件であり、宿屋が舞台となっているため、非常に混同されやすい事件です。しかし、発生時期、関係者、事件の内容は全く異なります。以下の表で、2つの事件の違いを明確に整理してみましょう。

スクロールできます
池田屋事件寺田屋事件
発生日元治元年6月5日(1864年7月8日)慶応2年1月23日(1866年3月9日)
場所京都三条木屋町の旅館「池田屋」京都伏見の船宿「寺田屋」
襲撃側新選組(近藤勇ら)伏見奉行所の捕り方
被襲撃側尊攘派志士(長州・土佐藩士ら約20名)坂本龍馬、三吉慎蔵の2名
坂本龍馬不在(江戸にいた)当事者(襲撃を受けた)
結果志士側11名死亡、新選組の大勝利龍馬が手の指を負傷するも脱出成功
有名なエピソード沖田総司の喀血(創作)、階段落ちお龍の風呂場からの知らせ、ピストルでの応戦

この表からも明らかなように、2つの事件は全く別の出来事です。池田屋事件は新選組が尊攘派志士を一網打尽にした事件であり、坂本龍馬は不在でした。一方、寺田屋事件は龍馬自身が襲撃の標的となり、命からがら逃げ延びた事件なのです。

寺田屋事件(1866年)こそ龍馬の主戦場!お龍の機転と隠し拳銃

坂本龍馬が実際に襲撃を受けたのは、池田屋ではなく寺田屋です。慶応2年(1866年)1月23日の夜、伏見の船宿「寺田屋」に宿泊していた龍馬は、伏見奉行所の捕り方約30名に襲撃されました。この事件は、龍馬の人生における最大の危機の一つでした。

当夜、龍馬は長州藩士の三吉慎蔵と共に寺田屋に滞在していました。深夜、入浴中だった龍馬の恋人・お龍(楢崎龍)が、怪しい人影に気づきます。お龍は裸のまま階段を駆け上がり、龍馬に危険を知らせました。このお龍の機転が、龍馬の命を救うことになったのです。

おりょう(坂本龍馬の妻)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

警告を受けた龍馬は、すぐさま身を守る準備を整えました。龍馬が当時持っていたのは、高杉晋作から譲り受けたとされるピストル(六連発の回転式拳銃)でした。捕り方が部屋に乱入してくると、龍馬はピストルを発砲して応戦しました。この銃声に驚いた捕り方たちは一時怯み、その隙に龍馬と三吉は窓から脱出することに成功したのです。

ただし、龍馬は脱出の際に手の指を負傷しました。この傷は深く、龍馬は長い間その後遺症に悩まされることになります。事件後、龍馬は薩摩藩邸に匿われ、そこで治療を受けました。そして、傷の療養を兼ねて、お龍と共に薩摩(現在の鹿児島県)へ旅行に出かけました。この旅行が、日本初の新婚旅行とも言われています。


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もし龍馬が池田屋にいたら?歴史のIFを考察する

もし坂本龍馬が元治元年6月5日に江戸ではなく京都にいて、池田屋に集まっていた志士たちと共に新選組の襲撃を受けていたら、歴史はどうなっていたでしょうか。これは、歴史愛好家の間でよく議論される興味深いテーマです。

池田屋事件では、集まっていた志士のうち11名が死亡しました。もし龍馬がその場にいたら、彼も命を落としていた可能性は十分にあります。龍馬は剣の腕も相当なものでしたが、近藤勇や沖田総司といった新選組の精鋭隊士たちと対峙すれば、無事では済まなかったでしょう。

もし龍馬が池田屋で死んでいたら、その後の薩長同盟の締結も、大政奉還の建白も、すべて実現しなかったかもしれません。龍馬の存在が幕末の歴史に与えた影響の大きさを考えると、彼が池田屋事件を免れたことは、まさに歴史の奇跡だったと言えるのです。

一方で、龍馬が池田屋で生き延びていた可能性もゼロではありません。寺田屋事件の際には、龍馬はピストルを使って逃走に成功しました。もし池田屋にもピストルを持参していたら、その火力で新選組を牽制し、逃げ延びることができたかもしれません。しかし、これはあくまでも仮定の話であり、実際には龍馬は江戸にいたため、この「IF」は成立しませんでした。


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誰が死に、誰が生き残ったのか?志士たちの明暗

壮絶な最期を遂げた人々(宮部鼎蔵・吉田稔麿ら)

池田屋事件で命を落とした志士たちの中には、幕末の歴史に名を残す重要人物が何人もいました。彼らの死は、尊攘派にとって計り知れない損失となりました。

宮部鼎蔵(みやべていぞう)は、肥後(熊本)藩の儒学者であり、尊攘運動の理論的指導者の一人でした。宮部は池田屋で新選組隊士と激しく戦いましたが、多勢に無勢で最終的に斬り倒されました。享年45歳でした。宮部は吉田松陰とも親交があり、もし生き延びていれば明治政府で重要な役割を果たしていたであろう人物です。

吉田稔麿(よしだとしまろ)は、長州藩士であり、松下村塾の四天王の一人とも称された逸材でした。わずか25歳の若さで池田屋に散った吉田の死は、長州藩にとって大きな痛手となりました。吉田松陰の愛弟子であった彼の死を知った長州藩士たちの怒りは凄まじく、この事件が後の禁門の変(蛤御門の変)を引き起こす一因となったのです。

吉田稔麿
引用元「Wikipediaコモンズ」より

そして、前述した望月亀弥太も、この事件で命を落としました。土佐藩士であり、坂本龍馬の神戸海軍操練所の仲間だった望月の死は、龍馬に深い悲しみと怒りをもたらしました。

氏名享年死因
宮部鼎蔵肥後藩45歳新選組との戦闘で戦死
吉田稔麿長州藩25歳新選組との戦闘で戦死
望月亀弥太土佐藩27歳新選組との戦闘で戦死
北添佶摩肥後藩27歳新選組との戦闘で戦死
大高又次郎肥後藩不明捕縛後、自刃

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「逃げの小五郎」こと桂小五郎はなぜ助かった?

池田屋事件で最も幸運だったのは、桂小五郎(かつらこごろう)、後の木戸孝允でしょう。桂は長州藩の重鎮であり、もし池田屋で命を落としていたら、明治維新の歴史は大きく変わっていたはずです。では、なぜ桂は助かったのでしょうか。

桂小五郎(木戸孝允)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

実は、桂小五郎は池田屋事件の当日、池田屋にいなかったのです。桂は事件の数時間前に池田屋を訪れましたが、まだ他の志士たちが集まっていなかったため、一旦その場を離れました。桂は別の用事を済ませるために対馬藩邸に向かったとされています。そして、用事を終えて再び池田屋に向かおうとした時、すでに新選組による襲撃が始まっていたのです。

桂は池田屋周辺の騒ぎに気づき、危険を察知してその場を離れました。彼は幕府方の追手を巧みにかわし、最終的には長州藩邸に逃げ込んで難を逃れました。この一連の逃走劇から、桂小五郎は「逃げの小五郎」というあだ名を付けられることになりました。

「逃げの小五郎」という呼び名は、一見するとネガティブに聞こえますが、実際には「危機を察知し、冷静に判断して生き延びる能力」を持つ優れた人物であることを示しています。桂の生存は、長州藩にとって、そして明治維新にとって、非常に重要な意味を持ちました。

桂小五郎は後に木戸孝允と改名し、明治維新の三傑の一人として、西郷隆盛、大久保利通と共に新政府を支えました。もし桂が池田屋で命を落としていたら、明治政府の構成は全く違ったものになっていたでしょう。


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生き残った志士たちのその後と明治維新への影響

池田屋事件で生き延びた志士たちの中には、その後の明治維新で重要な役割を果たした人物が何人もいます。桂小五郎以外にも、事件から逃げ延びた者、あるいは当日不在だった者たちが、後に歴史の表舞台で活躍することになりました。

池田屋事件の生存者の多くは、事件後さらに尊攘運動に邁進しました。彼らは仲間の死を無駄にしないため、そして幕府への復讐を果たすために、より過激な行動に出るようになります。事件の約1ヶ月後に発生した禁門の変(蛤御門の変)は、池田屋事件で仲間を失った長州藩士たちの怒りが爆発した結果でした。

また、池田屋事件は尊攘派にとって大きな打撃でしたが、同時に彼らの結束を強める効果もありました。この事件を契機に、長州藩と薩摩藩が接近し、後の薩長同盟へとつながっていくのです。坂本龍馬が仲介した薩長同盟(慶応2年)は、池田屋事件での犠牲を乗り越えて実現した歴史的な出来事でした。


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沖田総司は池田屋で死亡した?喀血と病状の真相

奮戦する天才剣士を襲った体の異変

池田屋事件で最も印象的なエピソードの一つが、沖田総司の喀血です。多くの時代劇や小説では、天才剣士である沖田総司が池田屋での戦闘中に突然喀血し、その場に倒れるシーンが描かれます。しかし、これは史実とは異なる可能性が高いのです。

沖田総司は確かに池田屋事件に参加し、近藤勇と共に最初に突入した4人の隊士の一人でした。沖田の剣の腕は新選組の中でも随一と言われており、この戦闘でも多くの敵と戦ったことは間違いありません。しかし、彼が戦闘中に喀血したという記録は、実は確実なものではないのです。

新選組隊士であった永倉新八が後に著した『新選組顛末記』によると、沖田総司は池田屋での戦闘中に「昏倒(こんとう)」したと記されています。昏倒とは、意識を失って倒れることを意味します。元治元年6月は京都の初夏であり、非常に蒸し暑い季節です。狭い屋内での激しい戦闘、さらに沖田は既に肺結核を患っていたため、暑さと病気の影響で失神してしまったと考えられています。

つまり、「喀血」ではなく「熱中症のような症状による失神」が史実に近いというわけです。ドラマティックな喀血シーンは、後世の小説家や脚本家による創作である可能性が高いのです。


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沖田総司が死亡したのはいつ?池田屋後の過酷な運命

沖田総司は池田屋事件では死にませんでしたが、その後の人生は過酷なものでした。池田屋事件の後も、沖田は新選組隊士として戦い続けましたが、肺結核の病状は徐々に悪化していきました。

慶応3年(1867年)、新選組は京都から江戸へ移動しました。沖田もこれに同行しましたが、既に病状は深刻で、実戦に参加することはほとんどできなくなっていました。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が始まると、新選組は旧幕府軍として新政府軍と戦いましたが、沖田は病床に伏せっており、戦闘には参加できませんでした。

沖田総司は、慶応4年5月30日(1868年7月19日)、江戸の千駄ヶ谷の植木屋の離れで亡くなりました。享年わずか25歳(一説には27歳)という若さでした。彼の死は、新選組の仲間たちにとって大きな悲しみでしたが、当時は戦乱の最中であり、盛大な葬儀を行うこともできませんでした。

沖田総司の墓は、東京都港区の専称寺にあります。天才剣士として知られた沖田ですが、その最期は病魔との戦いであり、池田屋事件での「喀血」は、彼の悲劇的な運命を象徴するエピソードとして後世に語り継がれているのです。

新選組の被害は?永倉新八らが語る激闘の裏側

池田屋事件は新選組にとって大勝利でしたが、全く被害がなかったわけではありません。新選組側の死者はゼロでしたが、負傷者は複数出ています。特に、最初に突入した近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人は、20名以上の敵と戦ったため、相当な危険に晒されました。

藤堂平助は、戦闘中に額を斬られ、重傷を負いました。この傷は深く、藤堂はその後の戦闘能力に影響が出たとも言われています。また、永倉新八も軽傷を負いましたが、彼は最後まで戦い抜きました。永倉はこの戦闘での活躍が認められ、新選組内での地位を確固たるものにしました。

永倉新八(下段の右から2番目)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

永倉新八は後に『新選組顛末記』を著し、池田屋事件の詳細を後世に伝えました。彼の証言によると、池田屋での戦闘は「生きるか死ぬかの壮絶な斬り合い」であり、新選組隊士たちも必死の戦いを強いられたとのことです。特に、最初の4人だけで突入した時は、いつ全滅してもおかしくない状況だったと述懐しています。

それでも、近藤勇の的確な指揮と隊士たちの高い剣術レベルが功を奏し、新選組は圧倒的な勝利を収めました。この事件により、新選組の名は京都中に轟き、その後の活動にも大きな影響を与えることになったのです。


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現在の池田屋と寺田屋はどうなっている?聖地巡礼ガイド

居酒屋になった池田屋?跡地に残る石碑と騒乱の記憶

現在の京都・池田屋の跡地(個室居酒屋・池田屋)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

池田屋事件から160年以上が経過した現在、あの惨劇の舞台となった池田屋跡地はどうなっているのでしょうか。実は、池田屋の建物自体は残っておらず、現在は大手居酒屋チェーンの店舗が営業しています。

現在の施設名は「旅籠茶屋 池田屋 はなの舞(京都三条店)」といい、2026年現在も営業中です。所在地は京都市中京区三条通河原町東入ル中島町82で、三条大橋のすぐ近くという、まさに京都の中心地に位置しています。営業時間は年中無休で、ランチ営業も行っています。

店舗の前には「池田屋騒動之址」と刻まれた石碑が立っており、ここが歴史的現場であることを静かに伝えています。この石碑は、幕末ファンにとっては必見のスポットです。

店内に入ると、約8メートルの大階段が再現されています。これは前述の通り、史実の池田屋の階段を忠実に再現したものではなく、映画やドラマで描かれる「イメージとしての池田屋」を具現化した空間です。観光客が求める「池田屋のイメージ」を楽しめるよう、テーマパーク的な演出がなされているのです。

メニューも幕末テーマで統一されており、「新選組カクテル」(土方歳三、沖田総司などをイメージ)や、隊士の名前を冠したコース料理が提供されています。歴史の悲劇性は希薄化され、ポップカルチャーとして消費される空間となっていますが、それもまた現代における歴史の楽しみ方の一つと言えるでしょう。


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伏見・寺田屋は宿泊可能?龍馬の刀傷と弾痕を見る

京都・寺田屋
引用元「Wikipediaコモンズ」より

一方、寺田屋は現在も旅館として営業を続けており、見学や宿泊が可能です。所在地は京都市伏見区南浜町263で、京阪電車の伏見桃山駅から徒歩圏内にあります。

寺田屋の見学時間は10:00〜15:40で、見学料は大人400円です。また、宿泊も可能で、素泊まりで約6,500円〜となっています。2026年現在も営業していますので、幕末ファンにとっては一度は泊まってみたい聖地と言えるでしょう。

ただし、ここで重要な注意点があります。現在の寺田屋の建物は、坂本龍馬が襲撃された当時のものではありません。オリジナルの寺田屋は、慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの際に焼失してしまいました。現在の建物は、その後に再建されたものなのです。

このため、建物の「真正性(Authenticity)」については議論があります。しかし、館内には龍馬が襲撃された際の「刀傷」や「弾痕」とされる痕跡が展示されており、当時の緊迫した雰囲気を感じることができます。これらが本物かどうかは確証がありませんが、幕末の歴史ロマンを体感するには十分な価値があると言えるでしょう。

寺田屋には、お龍が入浴していた風呂場や、龍馬が逃げた際の裏階段なども再現されています。歴史好きな方にとっては、まさに「聖地巡礼」にふさわしいスポットです。

京都観光で巡りたい!幕末の熱気を感じるスポット

池田屋跡と寺田屋以外にも、京都には幕末関連の史跡が数多く残っています。幕末ファンなら、以下のスポットも合わせて訪れてみることをおすすめします。

壬生寺(新選組ゆかりの寺)

壬生寺は、新選組が屯所を置いていた場所の近くにある寺です。境内には新選組隊士の墓があり、特に近藤勇の胸像と供養塔が有名です。また、壬生塚と呼ばれる墓地には、池田屋事件や鳥羽・伏見の戦いで亡くなった隊士たちが眠っています。

霊山護国神社(坂本龍馬の墓)

東山にある霊山護国神社には、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓があります。近江屋で暗殺された2人は、ここ霊山に葬られました。墓地からは京都市街を一望でき、龍馬が愛した京都の風景を眺めることができます。

近江屋跡(龍馬暗殺の現場)

慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋の跡地も、京都市中京区に残っています。現在は「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」という石碑が立っており、歴史の悲劇を今に伝えています。

これらのスポットを巡ることで、幕末の京都がいかに歴史の舞台であったかを実感することができます。池田屋や寺田屋と合わせて訪れれば、より深く幕末の歴史を理解できるでしょう。


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池田屋事件と坂本龍馬の関係から見えてくる幕末の複雑な人間模様

  • 池田屋事件当日、坂本龍馬は江戸にいたため事件には不在だった
  • 龍馬が江戸にいたのは勝海舟の使いで、神戸海軍操練所関連の用務のためだった
  • 池田屋事件で死亡した望月亀弥太は龍馬の神戸海軍操練所の仲間であり、その死は龍馬に大きな衝撃を与えた
  • 望月の死は勝海舟の罷免と神戸海軍操練所の閉鎖につながり、後の亀山社中設立の動機となった
  • 池田屋事件と寺田屋事件は全く別の事件であり、発生時期も内容も異なる
  • 池田屋事件は元治元年(1864年)、寺田屋事件は慶応2年(1866年)に発生した
  • 寺田屋事件では坂本龍馬が直接襲撃を受け、お龍の機転とピストルで脱出に成功した
  • 池田屋事件では尊攘派志士11名が死亡し、宮部鼎蔵や吉田稔麿などの重要人物が命を落とした
  • 桂小五郎(木戸孝允)は事件当日に池田屋を一旦離れていたため助かり、「逃げの小五郎」と呼ばれた
  • 沖田総司の喀血伝説は創作の可能性が高く、実際には暑さと病気による昏倒だったとされる
  • 沖田総司は池田屋事件では死なず、慶応4年(1868年)に肺結核で25歳の若さで亡くなった
  • 池田屋の大階段による「階段落ち」は映画の演出であり、当時の建物構造では不可能だった
  • 現在の池田屋跡地には居酒屋「はなの舞」が営業しており、2026年現在も訪問可能である
  • 寺田屋は現在も旅館として営業しており、見学や宿泊が可能だが、建物は鳥羽伏見の戦いで焼失後の再建である
  • 池田屋事件は新選組の名を天下に知らしめる大勝利となり、新選組の歴史的地位を確立した
  • 池田屋事件での長州藩士の死が禁門の変(蛤御門の変)を引き起こす一因となった
  • もし龍馬が池田屋にいたら歴史は大きく変わっていた可能性があり、薩長同盟や大政奉還も実現しなかったかもしれない
  • 龍馬は望月亀弥太の遺族の生活を案じ、寺田屋のお登勢に預けるなど義理堅い対応をした
  • 新選組は池田屋事件で死者を出さなかったが、藤堂平助が額に重傷を負うなど負傷者は出た
  • 池田屋事件の生存者たちは後に明治維新で重要な役割を果たし、桂小五郎は明治維新の三傑の一人となった

池田屋事件と坂本龍馬の関係は、一見すると直接的なつながりがないように見えます。しかし、龍馬の仲間である望月亀弥太の死という形で、この事件は龍馬の人生に深い影響を与えました。望月の死が神戸海軍操練所の閉鎖につながり、それが亀山社中の設立へと龍馬を導いたのです。歴史は一つ一つの出来事が複雑に絡み合い、予想もしない形で未来を形作っていきます。池田屋事件もまた、幕末という激動の時代における重要な転換点の一つだったのです。


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現在も京都には池田屋跡や寺田屋といった史跡が残っており、幕末の歴史を肌で感じることができます。歴史書を読むだけでなく、実際にその場所を訪れることで、当時の志士たちが何を考え、何のために戦ったのかを、より深く理解できるでしょう。幕末という時代は、まさに日本の運命が決まった重要な時期であり、その舞台となった京都は、今なお多くの歴史ファンを魅了し続けているのです。

池田屋事件と坂本龍馬の物語は、直接的な関わりがなくても、歴史の大きな流れの中で深くつながっていることを教えてくれます。一人の人物の死が、別の人物の人生を変え、やがては日本全体の運命を変えていく。そんな幕末の複雑な人間模様に思いを馳せながら、京都の街を歩いてみてはいかがでしょうか。

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