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【山内容堂(豊信)とは】その生涯と最期!坂本龍馬と面識なかった?

土佐藩主「山内容堂(豊信)」とは、いったいどういう人物だったのでしょうか?

坂本龍馬の盟友「武市半平太」を死なせた土佐藩のお殿様として、龍馬の敵役のような登場をする「山内容堂」ですが、山内容堂と坂本龍馬は、会ったことがなかった可能性もあるのだとか。

今回は「幕末四賢侯」の一人「山内容堂」の生涯と最期について、わかりやすく詳しく解説いたします。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

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この記事を短く言うと

・山内容堂とは、幕末の土佐藩主にして、大政奉還徳川慶喜に提案した人物。「幕末四賢侯」の一人

・山内容堂は、土佐藩の藩政改革をおこない、幕末の大藩とするものの、「武市半平太」を死なせてしまったため、明治政府での土佐藩の立場を失わせた

坂本龍馬と山内容堂は面識がなく、容堂は龍馬のことを最期まで知らなかった


山内容堂(豊信)とは何をした人?

山内豊信(容堂)

《山内容堂》
「引用元ウィキペディアより」

山内豊信は第15代土佐藩主として、幕末に揺れる時勢の中で土佐藩を率いました。

安政の大獄により若くして隠居し、その後「容堂(ようどう)」という号を名乗り、その号が歴史上有名なため、ここでは山内容堂で通します。



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容堂は隠居し、前藩主の弟である山内豊範に藩主を譲りますが、「老公」として、実質藩の権力を握ります。

「吉田東洋」を参政として抜擢し、西洋軍備採用・海防強化・財政改革・藩士の長崎遊学・身分制度改革・文武官設立などの藩政改革を断行。

また、藩外では福井藩主「松平春嶽」、宇和島藩主「伊達宗城」、薩摩藩主「島津斉彬」といった先見の明のある藩主達と交流を持ち、幕府老中「阿部正弘」には幕政改革を訴えるなど、変転する時勢の中でのリーダー的な役割となり「幕末の四賢侯」と称されます。

薩長による討幕の動きの中に、土佐藩も巻き込まれていきます。

しかし、容堂の政見は「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された様に、容堂自身は勤皇主義であり、朝廷をたてようとしている薩長の敵になるのは嫌であったが、大恩ある徳川を討つことはできない、という板挟みで苦しんでいる状態でした。

その時々で言うことが異なり、西郷隆盛から

「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」

と言われています。

そこへ家臣の後藤象二郎大政奉還案を持ち込みます。

容堂は朝廷をたて、徳川氏も救うこの一挙両得の案に大いに賛同し、土佐藩の案として幕閣をとおして徳川慶喜に建白します。

これにより土佐藩は薩長に次ぎ、維新の主導は「薩長土」となるのです。



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山内容堂の生涯と最期

山内容堂は山内家分家である山内南家に生まれます。

本来であれば、生涯を無役で過ごす身でしたが、本家の藩主が次々と死に、容堂が一躍第15代土佐藩主となります。

ここで、土佐山内家の成立について触れます。

山内家祖である戦国時代の山内一豊は織田信長豊臣秀吉に仕え、掛川6万石を所領していた時に「関が原の戦い」が起こります。

一豊は徳川家康に天下を取らせることを心に決め、大坂に居る妻女からの手紙(大坂の石田三成の情勢が記してあった。)を封を開けずに家康に渡します。

また、小山会議では掛川の城を家康に差し出す発言をし、会議が一気に家康加担に傾くきっかけをつくりました。

関ヶ原の戦場では武功はありませんでしたが、家康から重く評価され、土佐24万石を与えられたのです。

土佐に進駐した一豊は掛川から多数の家臣を連れて行き、もともと土佐の国主であった「長曾我部」氏の侍を差別しました。

この掛川侍が「上士」、長曾我部侍が「郷士」となり、幕末までその差別意識が残るのです。



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また、関が原で土佐一国を与えられた徳川家への大恩も容堂をしばり、佐幕から抜け出せませんでした。(薩長は徳川から与えられた領地ではなく、関が原では負けた側であるため、徳川家への思いが土佐とは全く違う。)

また、容堂も郷士に対しては差別的にあつかっています。

藩主となった容堂は「幕末の四賢侯」として、幕政にも口を挟むようになりますが、井伊直弼の安政の大獄により隠居謹慎します。

その後土佐では、郷士出身の「土佐勤皇党」の首領である武市半平太がクーデターを起こします。

参政「吉田東洋」を暗殺し、藩政を掌握して土佐藩を勤皇色に塗り替えようとします。

しかし、過激な勤皇藩である長州が八月十八日の政変で失脚し、一時的に佐幕の勢いが復活すると、容堂は土佐に戻り、股肱の臣である吉田東洋を暗殺した憎しみ、郷士への差別意識などから「土佐勤皇党」を大弾圧。

武市半平太は切腹となり、その他の党員も死罪となり、土佐勤皇党は壊滅します。

土佐藩は武市を殺したことで、土佐藩は薩長へ対抗できる貴重な人材を失いました。

維新後、木戸孝允が酒の席で容堂に対して

「殿はなぜ武市半平太を斬りました?」

と問うと、容堂は

「藩令に従ったまでだ」

と答えたきりだったと言われます。

しかし、病に倒れて病床にあった晩年の容堂は、半平太を殺してしまったことを何度も悔いていたとされ

「半平太ゆるせ、ゆるせ」

と、うわ言を言っていたそうです。



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大政奉還後に小御所会議が開かれ、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して会議に参加します。

容堂は王政復古の大号令を岩倉具視ら一部公卿による陰謀と決め付け、徳川慶喜に対しての辞官納地も反対します。

しかし、酒乱状態の容堂は失言も重なり、会議は容堂を無視して天皇を中心とする公議政体派すなわち討幕強行派のペースで進みました。

そして、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争が始まると、容堂の制止をふりきり土佐軍も参加し、戊辰戦争を勝利に導きます。

維新後は官を辞し、ひたすらに飲み、豪遊する毎日でした。

そして、明治5年、多年の飲酒により脳溢血により死去します。

46歳でした。



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坂本龍馬と山内容堂の関係とは?

容堂は郷士に対して差別意識を持っていました。

坂本龍馬は郷士であり、その存在を気にも留めなかった様です。

勝海舟と会談した際、海舟が門人であった龍馬を褒めましたが、容堂は

「一向に存じませんな。」

と興味も持たなかったとか。

龍馬発案の「大政奉還」は、後藤象二郎が龍馬の名を出さず容堂に進言したため、容堂はそれを龍馬の発案であることすら知りませんでした。

そして、容堂は生涯ついに龍馬と会う事はなかったのです。



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山内容堂』について「ひとこと」いいたい

山内容堂・・・・新時代に土佐藩を主導的立場に導こうとしながらも、山内家を取り立ててくれた「徳川家」への恩義も忘れない。武芸に秀でており、非常に優秀ながらも、酒を飲みまくって、小御所会議でも泥酔していたなど、「よくわからない人物」として描かれることが多い人です。

山内容堂の画策は、薩長と旧幕府の間に挟まり、まるでヤジロベーのように、どっちつかずの有様でした。

そのあいまいな態度が災いしてか、容堂は新時代のリーダーとなるべき逸材「武市半平太」を死なせてしまうのです。

世の流れが「尊皇攘夷・倒幕」から、「公武合体(幕府を助ける)」方向へと向いていったから、その流れに乗ろうとして、「尊皇攘夷派」の頭目「武市半平太」を処刑。

しかし、時流に乗ろうとするだけでは、新時代に頭角を現すことなどできるはずもありません。

例えば「大久保利通」は、新時代を迎えるためには、勝ち目の薄い「鳥羽伏見の戦い」を、絶対に勝利しなくてはならないと決意し、開戦を強行。

錦の御旗」を使い、奇跡的な勝利をおさめ、260年続いた江戸幕府を終わらせるという大戦果を挙げたのです。

「現実主義者」であると同時に、強い「理想」をも併せ持つ「理想主義者」・・・それが大久保利通。対して山内容堂はというと、大久保のような強い信念が感じられないので、若干歴史に汚名を残している気がします。

歴史に名を刻む・・・強い「信念」と「理想」のみが、それを実現させるということでしょう。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・山内容堂は第15代土佐藩主として、また「幕末の四賢侯」として激動の時代を代表する人物であり、大政奉還を徳川慶喜に建白します。

・土佐藩は「上士」「郷士」の差別が根強く、郷士出身の武市半平太は一時藩政を掌握しますが、容堂に弾圧されて切腹します。晩年容堂は半平太を殺したことを悔やみました。

・容堂は郷士である坂本龍馬について関心を持たず、ついに会う事はありませんでした。

山内容堂は自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と呼んで、藩政改革を断行した人です。

時勢に対して荒れ狂いますが、結果土佐藩では多くの志士が死に、維新後には薩長と対抗する様な人物も少なくなってしまいました。

容堂も晩年は、自らの人生を振り返ることもあったと思います。

「一体自分は何をしてきたのか」ということについて、どの様な感慨を持ったのかとても気になるところです。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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