【長州藩とは】その歴史を世界一わかりやすく解説!関ヶ原の怨念が幕末日本を変えた

「関ヶ原の戦い」敗北し、260年後に「明治維新」を成し遂げた「長州藩」。その「歴史」をわかりやすく解説いたします。

「源義家(八幡太郎)」に兵法を教えた学者「大江匡房(おおえのまさふさ)」、その孫「大江広元」を先祖とする「毛利家」。

関ヶ原の怨念が、幕末の日本を動かした


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この記事を短く言う

  1. 長州藩の藩主「毛利家」は、鎌倉時代「大江季光(おおえすえみつ)」を祖としており、戦国時代「毛利元就」によって大勢力となった
  2. 1600年、「元就」の孫「毛利輝元」が「徳川家康」に「関ヶ原の戦い」で大敗し、現在の山口県を支配する大名に没落した
  3. 長州藩はその後、268年後の「1868年」に徳川幕府を倒し、「明治維新」を成功させた

長州藩成立以前、藩主・毛利氏700年の歴史

≪長州藩毛利家家紋≫
「引用元ウィキペディアより」

のちに「長州藩」として江戸時代を生き抜き、「明治維新」をなしとげた「毛利家」・・・彼らのルーツはどこにあるのでしょうか?

長州藩をつくることとなる「毛利家」は、鎌倉時代の人物「大江季光(1202~1247)」という人物を祖としています。

「大江季光」の父は、鎌倉幕府の政所「大江広元」・・・また「大江広元」の祖父は、「源義家(八幡太郎)」に兵法を教えた学者「大江匡房(おおえのまさふさ)」。

「大江季光」は、相模国(今の神奈川県)にあった自分の領地「毛利庄」という土地から、「毛利」という姓を名乗るようになります。

この「大江」氏が、現在の広島県安芸高田市「安芸国・高田郡・吉田荘」に領地を支配するのです。

その後、毛利家は「国人(こくじん)」と呼ばれる小領主として、安芸国で生きることとなります。

智将「毛利元就」、中国地方を制圧

そして15世紀末期、毛利家に智将「毛利元就(もうりもとなり)」が誕生し、一気に飛躍するのです。

当時の毛利家には、西に大国「大内家」、東に新興国「尼子家」があり、双方に従属を迫られて、常に滅亡寸前の状態でした。

しかし謀神(はかりがみ)と呼ばれるほどの頭脳を持つ智将「元就」は、ありとあらゆる罠を張り巡らせて、大国「大内家」と「尼子家」を粉砕。

安芸国の一部を支配していたに過ぎない小領主「毛利家」は、一気に「中国地方」全土を支配する日本有数の大勢力となるのです。

「毛利輝元」、関ヶ原の戦いで大敗

毛利元就の後継者として、大勢力を率いたのが「元就」の孫「毛利輝元(もうりてるもと)」

「輝元」は、叔父であり名将としての評価も高い「吉川元春」「小早川隆景」の二人に支えられ、圧倒的な軍事力をもって中国地方へ進行してくる「織田信長」と、その部下「羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)」に対抗。

織田信長に降伏しようとしていたその時、「1582年6月2日」、京都で「本能寺の変」が勃発。「織田信長」が「明智光秀」に殺害されます。

その直後、「羽柴秀吉」が「中国大返し」と呼ばれる高速リターンをみせ、「山崎の戦い」で明智光秀を撃破。信長の後継者となり、「天下統一」を目指すこととなります。

「毛利輝元」は、秀吉と強調し、後に「五大老」と呼ばれる豊臣家の重鎮として、豊臣政権へ参加。

1590年、「北条征伐」に成功し、秀吉は天下統一。

1598年、朝鮮出兵の矢先、「豊臣秀吉」死去。

その後、豊臣政権で最も力を持っていた「徳川家康」が天下を目指して邁進。

「家康」の天下を阻止しようと、豊臣家の忠臣「石田三成」は、「毛利輝元」を総大将に担ぎ上げて、家康に対抗。

1600年、「関ヶ原の戦い」で、毛利輝元率いる「西軍」は、家康率いる「東軍」に大敗。

中国地方全土を支配していた大大名「毛利家」は、この敗北で、「長門国」「周防国」の二カ国の支配のみに転落することになります。(毛利家の支配地域、長門・周防は、現在の山口県全域とほぼ同じ)

長州藩・江戸時代の成立から、幕末の終わりまで

毛利輝元の長男「毛利秀就」は、「長州藩」初代藩主に就任。

「倒幕のことはいかに?(徳川家を倒す一件はいかがいたしますか?)」

「時期尚早(まだ早すぎる)」

というやりとりを、長州藩は毎年正月になると「恒例行事」としておこなっていたようです。そんな会話を260年も続けるほど、「関ヶ原の戦い」で敗北した「毛利家」は、「徳川家」への怨念を募らせていきます。

「幕末」動乱の時代へ

1853年、「ペリー」ひきいる「黒船来航」から、「幕末」という時代が始まります。

当時の江戸幕府は大老井伊直弼」により、外国からの圧力に屈服する形で、「日米修好通商条約」などの「不平等条約」を締結。

国の利益を大きく損なうこととなります。

これに最も強く危機感を抱いたのが、「長州藩」。

特に、長州藩一の秀才「吉田松陰」は、外国勢力に対抗するため、「密航」や「暗殺」など、手段を問わない過激な方法を取るようになるのでした。

そんな「吉田松陰」は、井伊直弼がおこした弾圧事件「安政の大獄」により、1859年に処刑。

しかし彼は生前、「松下村塾」という自らが経営する塾で、自分の「過激」とも言える圧倒的な「行動力」を、「久坂玄瑞」や「高杉晋作」のような弟子たちに叩き込んでいました。

下関戦争」「八月十八日の政変」「池田屋事件」「禁門の変」「第一次長州征伐

これらの戦い、ことごとくに敗北した長州藩は、一気に滅亡の危機におちいります。

高杉晋作による「功山寺挙兵」により、長州藩は「幕府に降伏」する方針から、「倒幕(徳川幕府を倒す)」という方針へ大転換を果たします。

その後、松蔭の友人であり弟子でも合った「桂小五郎(木戸孝允)」に率いられた長州藩は、坂本龍馬の仲介により、「薩摩藩」と接近するのです。


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「薩長同盟とは何かわかりやすく解説!同盟締結の場にいた人物は誰?」の記事はコチラ

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関ヶ原の敗北から『260年の怨念』が徳川を滅ぼした

260年もの間、徳川家への怨念をつのらせた長州藩。

高杉晋作の「功山寺挙兵」から、ついに「倒幕」を本格化させます。

敗北続きの長州藩は、土佐藩士「坂本龍馬」の仲介で「西郷隆盛」「大久保利通」「小松帯刀」ら「薩摩藩」と会談。

1866年、京都で「薩長同盟」の締結に成功。

薩摩藩を後ろ盾とした長州藩は、「イギリス」から大量の武器を購入し、「倒幕」に備えます。

1866年、「第二次長州征伐(四境戦争)」で幕府軍を撃破。

その後、1868年「鳥羽伏見の戦い」から始まる「戊辰戦争」に勝利。「江戸城無血開城」を実現し、「徳川幕府」は滅亡します。

「関ヶ原の戦い」から268年、長州藩は、ついに徳川幕府を倒すことに成功したのです。(明治維新

明治維新に成功した長州藩は、薩摩藩・土佐藩・肥前藩とともに「明治新政府」を組織します。

木戸孝允・大久保利通・西郷隆盛らを中心として構成された明治政府は、現代日本の基礎を作ることとなるのです。


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『長州藩』について、レビュー(評論)!

幕末、長州藩は外国からの侵略をに強く警戒し、「尊王攘夷」を各地でつよく訴えます。

「尊王攘夷」・・・つまり「天皇を中心にして日本全国がまとまり、外国勢力を武力で討伐する」という思想のこと

長州藩は、他のどの藩よりも、過激に、そして強く「外国勢力」討伐を訴え、行動していました。

どうして長州は、日本で最も「外国勢力」への危機感を強く持っていのたでしょうか?

おそらくですが、それは「長州藩の位置」が理由なのではないでしょうか。

長州藩は、「関門海峡」と「瀬戸内海」という、重要な「シーレーン(海の道)」を支配する藩です。

当時の日本は「鎖国政策」をとっていたものの

・「長崎・出島」で「オランダ」や「清」と貿易

・「対馬」で「朝鮮」と交流

・「薩摩」は「琉球」と密貿易

いくつか外国との窓口を持っていたのです。

長州は「長崎」「対馬」「薩摩・琉球」などの窓口からの情報を、「関門海峡」「瀬戸内海」という「シーレーン」を利用して手に入れていたのではないでしょうか。

薩摩の名君「島津斉彬」は、「琉球」からの情報により、大国「清」が最強国「イギリス」に、手も足も出ずに敗北したことを知って、危機感をつのらせたといわれています(アヘン戦争)。

おそらく長州も、それらの情報を手に入れて、持ち前の行動力により、「尊王攘夷」思想を過激におこなっていたと考えられます。

長州藩・・・・おそらくはじめは「倒幕」など考えもせず、ただ「日本の危機」に対処しようと思っていたはず。

それが、いつの間にやら「倒幕」に成功することになるとは・・・。「下関戦争」や「禁門の変」で負けまくって、それでも復活して「倒幕」をなしとげたのですから、その気合はさすがとしか言えない気がします。


尊王攘夷」「島津斉彬」について、わかりやすく解説させていただきます。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

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「尊王攘夷運動の意味とは何かわかりやすく解説!あの有名人物も攘夷派」の記事はコチラ
「島津斉彬の生涯と不可解な最後!幕末最高の名君と、呪われた子供たち」の記事はコチラ

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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 長州藩の藩主「毛利家」は、鎌倉時代の人物「大江季光」を祖とする一族で、毛利家は戦国時代の名将「毛利元就」の時代に中国地方を制覇する
  2. 元就の孫「毛利輝元」は、豊臣政権五大老の一人で、「徳川家康」に「関ヶ原の戦い」で大敗。中国地方全域から、現在の「山口県」のみを支配する大名に没落する
  3. 関ヶ原の戦いから268年後、長州藩は「倒幕」に成功し「明治維新」を成し遂げる。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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