【三島弥彦とは】子孫と家系図がスゴイ!大久保利通や麻生太郎の親戚だった

日本人最初のオリンピック選手「三島弥彦」の「子孫」の情報と「家系図」をご用意いたしました

「金栗四三」とともに、陸上短距離で「ストックホルムオリンピック」に参加した「三島弥彦」

しかし結果は惨敗。

その後、三島はスポーツ界から身を引いてしまうのです。

三島弥彦と金栗四三は、真逆の道を歩むこととなるのでした。


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この記事を短く言うと

  1. 三島弥彦とは、金栗四三とともに「ストックホルムオリンピック」に参加した、日本最初のオリンピック選手
  2. 三島弥彦の息子の名前は「通直(みちなお)」。その妻「まり子」は東京オリンピックでIOC委員の秘書をしている。姉「峰子」さんが「大久保利通」の次男「牧野伸顕」と結婚。峰子さんの「ひ孫」が、元内閣総理大臣「麻生太郎」さん。
  3. 三島弥彦はストックホルムオリンピックで惨敗。ベルリンオリンピック中止で実質的に引退。しかし盟友「金栗」は後進育成に人生を捧げて結果を出した。

三島弥彦とは?金栗四三と同じく、日本最初のオリンピック選手

三島弥彦(みしま やひこ)

金栗四三と並ぶ、日本最初のオリンピックアスリート。

東北の各県で県令(県知事)を務め、のちに警視総監を務めた薩摩藩出身の政治家「三島通庸(みしま みちつね)」の息子。

兄には、日銀総裁となった「三島彌太郎(みしま やたろう)」らがいます。

≪三島弥彦≫
「引用元ウィキペディアより」

金栗四三が「長距離」、つまり「マラソン」でオリンピックに参加したのに対し、三島は「短距離」で「ストックホルムオリンピック」に参加しました。

しかし、その結果は無残なものでした。

その後、三島は「雪辱」を誓うものの果たせず、表舞台から姿を消してしまうのです。


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三島弥彦の子孫と家系図について

三島弥彦の子孫について調査してみました。

弥彦の妻は、名君の誉れ高い佐賀10代藩主「鍋島直正(閑叟)」公。

 

また、弥彦の姉「峰子」が、「大久保利通」の次男「牧野伸顕」に嫁いでいます。

峰子の「ひ孫」は、元内閣総理大臣であり、第二次「安倍晋三」政権で「財務大臣 兼 副総理」を務めている「麻生太郎」さん。

《三島家の家系図》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

上の家系図には記されていませんが、三島弥彦と妻「鍋島文子」のあいだには長男「通直」さんが誕生しています。

この「通直」の妻が「まり子」氏。「まり子」さんは外国語が得意で、東京オリンピックのときに「オリンピック委員」の「ブランデージ」氏の秘書をつとめておられます。

おそらく、三島弥彦の子孫は、この「通直」「まり子」夫妻の後も続いているものと考えられます。

《三島弥彦の家系図》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

しかし「三島家」の血は、今も続いております。麻生太郎さんの妹「信子」さんを通じて、「皇室」にまで繋がっています。

ちなみに、三島弥彦の兄「豊沢弥二」の妻「愛」の姉「夏子」。その「夏子」の孫が、壮絶な最期をとげた作家「三島由紀夫」です。

また「夏子」の養祖父にあたるのが、「坂本龍馬」が暗殺される前日に会っていたという幕臣「永井尚志(ながい なおゆき)」。「坂本龍馬・暗殺」の黒幕は「永井尚志」という説もあるようです。その永井尚志は「五稜郭の戦い」で新選組副長「土方歳三」や「榎本武揚」、または「西郷頼母」らとともに最期まで戦い、のちに明治政府へ出仕しています。

 

坂本龍馬暗殺の真相」については、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

【坂本龍馬】死亡・暗殺の真相を解説!最期の様子とお墓の場所は?」の記事はコチラ

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あきらめた三島弥彦と、あきらめなかった金栗四三

あきらめた三島

三島弥彦は、「ストックホルムオリンピック」の短距離で惨敗。
盟友「金栗四三」に対して

「日本人にはやはり短距離は無理なようだ」

と、あきらめの言葉を口にしたと言われています。

ストックホルムオリンピック「100m走」「200m走」で敗北した三島でしたが、幸運にも「400m走」では、100m200mで金メダルを取得した「ラルフ・クレイグ(アメリカ)」が棄権したため一枠空いたため、準決勝へ進出。

しかし三島は「右足の痛み」を理由に棄権。実際には勝算がなかったために諦めたといわれています。

この時、三島は金栗や嘉納治五郎団長とともに、次の「ドイツ・ベルリンオリンピック」での雪辱を誓いあって、ストックホルムからベルリンへ移動。そこで「砲丸」「槍」などのスポーツ用品を買い込んだ後、日本へ帰国。

ところが、ベルリンオリンピックが「第一次世界大戦」の勃発で中止。

次の「ベルギー・アントワープ・オリンピック(1920年)」では、「金栗四三」がマラソンで「16位」を記録する中、三島は予選にすらも参加せず。この時三島は34歳とアスリートとしては好例で、短距離を走ることができない身体だったという説もあります。

三島は兄「彌太郎」が勤めていた「横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)」に入行。その後はスポーツ界に影響力を及ぼすこともなく、1954年(昭和29年)に死去。東京オリンピックの10年前に亡くなったのでした。


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あきらめなかった金栗

金栗は、三島と違ってあきらめませんでした。

「ストックホルムオリンピック」では、「白夜による睡眠不足」「食事管理の不徹底」「マラソンスタート会場への迎えの車が来ず、走って会場入り」「30~40度の異常な気温」などにより、金栗はレース途中で失神。

民家である「ぺドレ家」へと担ぎ込まれました。

その後、金栗はゴールへ向かうでも、運営委員へ「棄権」を伝えるでもなく、帰国してしまったため「失踪」あつかい。

金栗は各方面から猛烈な批判を浴びました。「途中で棄権した」「逃げた」などなど。実兄である「実次」も、弟を厳しく叱ったと言われています。

「ベルリンオリンピック」は「第一次世界大戦」で中止。

「アントワープオリンピック」では「16位」。

さらに次の「フランス・パリオリンピック」では「途中棄権」。

三島と同じく、結果を出せなかった金栗四三・・・。

その後スポーツ界から姿を消した三島と違い、金栗はあきらめませんでした。

後進育成に全力を注ぎ始めたのです。

「神奈川県師範学校」「独逸(ドイツ)学協会学校」「東京女子師範学校」などで、後進育成を開始。

さらに人材育成のために、マラソンや駅伝の「大会」を次々と考えだします。「東海道五十三次駅伝大会」「箱根駅伝」などの壮大な大会を次々と開催。「九州一周」など自らも走っています。「金栗賞朝日マラソン」は、後に「福岡国際マラソン」と名前を変えて、すでに70回以上も開催されています。


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生涯25マンキロ(地球6周半)を走り切った金栗四三。

その結果、1936年「ベルリンオリンピック」で、「孫基禎」がオリンピック新記録で金メダル獲得。「南昇龍」も銅メダルを獲得。この結果に金栗は涙したといいます。(両名とも朝鮮半島出身。当時朝鮮半島は日本に併合されていた)

金栗が監督をつとめた1953年「ボストンマラソン」で、「山田敬蔵」が世界記録で優勝。

1964年「東京オリンピック」では、「金栗四三」にあこがれて陸上を始めた「円谷幸吉」が銅メダル獲得。(円谷幸吉は、その後みずからの「銅メダル」という結果を恥じて自死)

オリンピックで自ら結果を出せなかった金栗ですが、決して諦めることなく「日本マラソン界の成長」を志し、後進育成に全力を注いだのです。

あきらめなかった金栗。恩師「嘉納治五郎」先生から「黎明の鐘となってくれ」と言われて「ストックホルムオリンピック」への参加を決意した金栗。

朝を知らせる「黎明の鐘」。金栗は師「嘉納治五郎」の期待に、これ以上ない形で応え見事に「黎明の鐘」となり、「日本マラソン」の始まりを世界に知らせたのでした。


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『三島弥彦』について「ひとこと」言いたい!

上で「金栗は諦めずに後進を育成した」と書きましたが、それは決して「三島弥彦」が後につなげる結果をなにも残さなかったというわけではありません。

三島はストックホルムオリンピックの直後、「ベルリンオリンピック」での雪辱を誓っております。しかもベルリン大会が中止となるという不運も重なり、ピークである年齢を超えてしまったことも、スポーツ界から姿を消した理由でしょう。

「北京オリンピック」「リオデジャネイロオリンピック」・・・・・日本は短距離「4×100mリレー」でともに『銀メダル』を獲得。

「短距離では日本は勝てない」・・・そう言われ続けて来ましたが、北京では「朝原宣治」、リオでは「桐生祥秀」らが、見事に結果を出したのです。

これらの結果もまた、パイオニア(開拓者)である「三島弥彦」の惨敗がなくてはありえない結果です。

ストックホルムオリンピックから約100年後の「北京」「リオデジャネイロ」・・・・三島弥彦もまた、金栗に負けず、立派に「黎明の鐘」となったのかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 三島弥彦とは、「ストックホルムオリンピック」で短距離に参加したアスリート。日本最初のオリンピック選手。
  2. 三島はストックホルムオリンピックで惨敗し、次回大会「ベルリン」で雪辱を誓ったものの、大会が中止となり、そのまま実質引退した
  3. 三島はその後、スポーツから完全に手を引いた。盟友「金栗四三」はそれと対象的に後進育成に全力を尽くした
  4. 三島の敗北の100年後、日本の短距離界は、「北京」「リオデジャネイロ」で「4×100m」で銀メダルを獲得している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

「【金栗四三とは】その生涯と最期!大河ドラマ『いだてん』主人公の物語」の記事はコチラ
「金栗四三の家系図と子孫を画像付きで解説!54年8ヶ月の道のりとは?」の記事はコチラ
「【嘉納治五郎の名言全集】柔道の父が残した言葉と教えの意味がスゴイ」の記事はコチラ

 

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