日本人最初のオリンピック選手「三島弥彦」の「子孫」の情報と「家系図」をご用意いたしました
「金栗四三」とともに、陸上短距離で「ストックホルムオリンピック」に参加した「三島弥彦」
しかし結果は惨敗。
その後、三島はスポーツ界から身を引いてしまうのです。
三島弥彦と金栗四三は、真逆の道を歩むこととなるのでした。
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この記事を短く言うと
三島弥彦とは?金栗四三と同じく、日本最初のオリンピック選手
三島弥彦(みしま やひこ)
金栗四三と並ぶ、日本最初のオリンピックアスリート。
東北の各県で県令(県知事)を務め、のちに警視総監を務めた薩摩藩出身の政治家「三島通庸(みしま みちつね)」の息子。
兄には、日銀総裁となった「三島彌太郎(みしま やたろう)」らがいます。
金栗四三が「長距離」、つまり「マラソン」でオリンピックに参加したのに対し、三島は「短距離」で「ストックホルムオリンピック」に参加しました。
しかし、その結果は無残なものでした。
その後、三島は「雪辱」を誓うものの果たせず、表舞台から姿を消してしまうのです。
三島弥彦の子孫や妻、家系図について
三島弥彦の「お嫁さん」は名君の孫
三島弥彦の妻は、どういう人なのか?
奥様のお名前は「鍋島文子」さん。彼女は、幕末の名君として有名な佐賀藩主「鍋島直正(閑叟・かんそう)」公の孫。つまり「士族」出身の名門中の名門です。
弥彦は1923年1月、37歳で「文子」さんと結婚しています。「ストックホルムオリンピック」での惨敗から11年後のことです。
結婚から10ヶ月後、弥彦は長男「通直」氏を儲けます。
弥彦は何をやっても好成績を残すスポーツ万能な人物であり、しかも東大出身。
挙句の果てには、大金持ちの「三島家」出身。
金栗四三の日記によると
「(三島弥彦さんは)身だしなみを整えるに、きっかり30分を要する。婦女子の如し」
だそうですから、おそらく今でいう「清潔感」にあふれた人物だったのでしょう。
女性からモテないはずがないのです。数多くの女性と交際していたと考えられます。
結婚の前、「弥彦」は「横浜正金銀行」に勤めていて、サンフランシスコ・ニューヨーク・ロンドンなどの海外勤務を経験していました。海外で生活していた経験が、弥彦を更に魅力的にしてくれたようですね。37歳と遅めの結婚となったのも、それと無関係ではないでしょう。
ちなみに弥彦は、結婚直後に「北京」勤務となり、のちに「上海」や「インドネシア」などで海外勤務をしています。
三島弥彦の「息子」と「孫」
三島弥彦の子孫について調査してみました。
三島弥彦と妻「鍋島文子」のあいだには長男「通直」さんが誕生しています。
三島弥彦は「庶子」・・・つまり「側室」の子であり、父「三島通庸」の正妻「和歌子」の実子ではありません。
ところが、和歌子は実子である「弥太郎」も庶子である「弥彦」も、まったく同じようにして愛情をそそいで育てていました。
大河ドラマ「いだてん」で、ストックホルムへ旅立つ「弥彦」に、「日の丸」を縫い付けた「ユニフォーム」を渡すシーンがありましたが、実際「和歌子」による手縫いの日の丸ユニフォームが、現在「秩父宮記念スポーツ博物館」に所蔵されています。血がつながっていようがいまいが、わずか2歳で父「通庸」を亡くした「弥彦」を、和歌子は大切に思っていたのです。
また、弥彦の姉「峰子」が、「大久保利通」の次男「牧野伸顕」に嫁いでいます。
峰子の「ひ孫」は、元内閣総理大臣であり、第二次「安倍晋三」政権で「財務大臣 兼 副総理」を務めている「麻生太郎」さん。
上の家系図には記されていませんが、弥彦には「11人」の兄弟がいました。「六男六女」。弥彦は5男で、長男「弥太郎」とは17歳の年齢差がありました。甥である「弥太郎」の息子「通陽」とは、わずかに11歳しか年齢差がなかったのです。
ちなみに「弥太郎」の息子「通陽」さんには、三人の娘がおられます。おそらく今もお元気になさっておられるのではないでしょうか。
弥彦の息子「通直」の妻が「まり子」氏。「まり子」さんは外国語が得意で、東京オリンピックのときに「オリンピック委員」の「ブランデージ」氏の秘書をつとめておられます。
そして、三島弥彦には「二人のお孫さん」がいることもわかりました。
・1951年誕生「通利」
・1954年誕生「原夫」
通直さんと「まり子」さんの子供であるこの二人は、おそらく2019年現在もお元気であると考えられます。
「三島家」と「麻生太郎」元首相
「三島家」の血は、麻生太郎さんの妹「信子」さんを通じて、「皇室」にまでつながっています。
ちなみに、三島弥彦の兄「豊沢弥二」の妻「愛」の姉「夏子」。その「夏子」の孫が、壮絶な最期をとげた作家「三島由紀夫」です。
また「夏子」の養祖父にあたるのが、「坂本龍馬」が暗殺される前日に会っていたという幕臣「永井尚志(ながい なおゆき)」。「坂本龍馬・暗殺」の黒幕は「永井尚志」という説もあるようです。その永井尚志は「五稜郭の戦い」で新選組副長「土方歳三」や「榎本武揚」、または「西郷頼母」らとともに最期まで戦い、のちに明治政府へ出仕しています。
これもまた余談ですが、西郷頼母の養子「西郷四郎」は、三島弥彦をオリンピックへ導いた「嘉納治五郎」の弟子「講道館四天王」のひとり。同じく「講道館四天王」のひとり「富田常次郎」、その息子「富田常雄」が書いた小説「姿三四郎」のモデルであるとされています。
「坂本龍馬暗殺の真相」については、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
あきらめた三島弥彦と、あきらめなかった金栗四三
あきらめた三島
三島弥彦は、「ストックホルムオリンピック」の短距離で惨敗。
盟友「金栗四三」に対して
「日本人にはやはり短距離は無理なようだ」
と、あきらめの言葉を口にしたと言われています。
ストックホルムオリンピック「100m走」「200m走」で敗北した三島でしたが、幸運にも「400m走」では、100m200mで金メダルを取得した「ラルフ・クレイグ(アメリカ)」が棄権したため一枠空いたため、準決勝へ進出。
しかし三島は「右足の痛み」を理由に棄権。実際には勝算がなかったために諦めたといわれています。
この時、三島は金栗や嘉納治五郎団長とともに、次の「ドイツ・ベルリンオリンピック」での雪辱を誓いあって、ストックホルムからベルリンへ移動。そこで「砲丸」「槍」などのスポーツ用品を買い込んだ後、日本へ帰国。
ところが、ベルリンオリンピックが「第一次世界大戦」の勃発で中止。
次の「ベルギー・アントワープ・オリンピック(1920年)」では、「金栗四三」がマラソンで「16位」を記録する中、三島は予選にすらも参加せず。この時、三島弥彦は34歳とアスリートとしては好例で、短距離を走ることができない身体だったという説もあります。
三島は兄「彌太郎」が勤めていた「横浜正金銀行(現・三菱UFJ銀行)」に入行。その後は、金栗ほどスポーツ界に大きな影響をおよぼすこともなく、1954年(昭和29年)に死去。二人目の孫の「原夫」が誕生した直後、東京オリンピックのちょうど10年前に亡くなったのでした。
あきらめなかった金栗
金栗は、三島と違ってあきらめませんでした。
「ストックホルムオリンピック」では、「白夜による睡眠不足」「食事管理の不徹底」「マラソンスタート会場への迎えの車が来ず、走って会場入り」「30~40度の異常な気温」などにより、金栗はレース途中で失神。
民家である「ぺドレ家」へと担ぎ込まれました。
その後、金栗はゴールへ向かうでも、運営委員へ「棄権」を伝えるでもなく、帰国してしまったため「失踪」あつかい。
金栗は各方面から猛烈な批判を浴びました。「途中で棄権した」「逃げた」などなど。実兄である「実次」も、弟を厳しく叱ったと言われています。
「ベルリンオリンピック」は「第一次世界大戦」で中止。
「アントワープオリンピック」では「16位」。
さらに次の「フランス・パリオリンピック」では「途中棄権」。
三島と同じく、結果を出せなかった金栗四三・・・。
その後スポーツ界から姿を消した三島と違い、金栗はあきらめませんでした。
後進育成に全力を注ぎ始めたのです。
「神奈川県師範学校」「独逸(ドイツ)学協会学校」「東京女子師範学校」などで、後進育成を開始。
さらに人材育成のために、マラソンや駅伝の「大会」を次々と考えだします。「東海道五十三次駅伝大会」「箱根駅伝」などの壮大な大会を次々と開催。「九州一周」など自らも走っています。「金栗賞朝日マラソン」は、後に「福岡国際マラソン」と名前を変えて、すでに70回以上も開催されています。
生涯25マンキロ(地球6周半)を走り切った金栗四三。
その結果、1936年「ベルリンオリンピック」で、「孫基禎」がオリンピック新記録で金メダル獲得。「南昇龍」も銅メダルを獲得。この結果に金栗は涙したといいます。(両名とも朝鮮半島出身。当時、朝鮮半島は日本に併合されていた)
金栗が監督をつとめた1953年「ボストンマラソン」で、「山田敬蔵」が世界記録で優勝。
1964年「東京オリンピック」では、「金栗四三」にあこがれて陸上を始めた「円谷幸吉」が銅メダル獲得。(円谷幸吉はその後、自分の「銅メダル」という結果を恥じて自死)
オリンピックで自ら結果を出せなかった金栗ですが、決して諦めることなく「日本マラソン界の成長」を志し、後進育成に全力を注いだのです。
あきらめなかった金栗。恩師「嘉納治五郎」先生から「黎明の鐘となってくれ」と言われて「ストックホルムオリンピック」への参加を決意した金栗。
朝を知らせる「黎明の鐘」。金栗は師「嘉納治五郎」の期待に、これ以上ない形でこたえ、見事に「黎明の鐘」となり、「日本マラソン」の始まりを世界に知らせたのでした。
『三島弥彦』について「ひとこと」言いたい!
「金栗は諦めずに後進を育成した」と書きましたが、それはけっして「三島弥彦」がなにも残さなかったというわけではありません。
三島はストックホルムオリンピックの直後、「ベルリンオリンピック」での雪辱を誓っております。しかもベルリン大会が中止となるという不運も重なり、ピークである年齢を超えてしまったことも、スポーツ界から姿を消した理由でしょう。
16年後「アムステルダム大会」で「金メダル」獲得!
三島弥彦がストックホルムオリンピックで惨敗した8年後、日本は「ベルギー・アントワープオリンピック」で、銀メダルを2つ獲得しています。
獲得した競技は「テニス」。「熊谷一弥」選手がシングルス、そして「柏尾誠一郎」とのダブルスでそれぞれ記念すべき日本人初の「メダル」を勝ち取っているのです。
三島弥彦が挑んだ「陸上競技」ではなかったものの、2度目のオリンピック参加でのメダル獲得は、偉業と言っていいでしょう。
さらに、ストックホルム大会からわずか16年後の「オランダ・アムステルダムオリンピック」で、日本の「織田幹雄」選手が「三段跳び」により、日本人初の「金メダル」を獲得。同大会で日本は「水泳・200m平泳ぎ」で「鶴田義行」も金メダルを獲得しています。。
さらに「女子800m」で「人見絹枝」が銀メダルを獲得。
その他にも「水泳」で銀メダル1つと、銅メダル1つ。合計で「金2銀2銅1」という、見事な成績をおさめています。
三島弥彦が挑んだ「陸上」・・・・その16年後に、日本は「三段跳び」「女子800m走」で、金と銀のメダルを獲得するという、素晴らしい成績をおさめています。
弥彦が挑み、惨敗した「ストックホルム大会」。そのパイオニア精神は、16年後、見事に「メダル」という結果に繋がったのです。
100年後「北京」「リオ」での「リレー」銀メダル
「アムステルダム」での金・銀だけではありません。
「2008年・北京オリンピック」「2016年・リオデジャネイロオリンピック」・・・・・日本は短距離「4×100mリレー」でともに『銀メダル』を獲得しています。
「短距離では日本は勝てない」・・・そう言われ続けて来ましたが、北京では「朝原宣治」たち、リオでは「桐生祥秀」たちが、見事に結果を出したのです。
これらの偉業は、パイオニア(開拓者)である「三島弥彦」の惨敗がなくてはありえない結果です。
ストックホルムオリンピックから約100年後の「北京」「リオデジャネイロ」・・・・三島弥彦もまた、金栗に負けず、立派に「黎明の鐘」となったのかもしれません。
また、弥彦は戦後、恩人である「嘉納治五郎」がオリンピック出場のために設立した団体「大日本体育協会」の会賓に就任しています。これもまた、弥彦が後進育成に貢献した証拠となるのではないでしょうか。
弥彦の学歴について
三島弥彦は、「東京帝国大学 法学部」の出身です。現在の「東京大学」です。
学習院高校から「東京大学」へ進学・・・スポーツ万能で東大出身とは・・・スゴイ!と言いたいところですが、弥彦は「東京帝国大学」に入学する際、入学試験を受けていません。
金にものをいわせた「裏口入学」というわけではなく、当時の「東京帝国大学」は定員割れがあたりまえで、弥彦は試験を受けることもなく入学することが可能だったのです。
イケメンでスポーツ万能、お金持ちの名家出身。しかも東大出身・・・。欠点というものがありませんね。
ちなみに弥彦は、野球に短距離、ウィンタースポーツに相撲、柔道など、数々のスポーツで好成績を残しています。
柔道も強かったようですが、手ごわかった相手として、柔道の神と呼ばれた「三船久蔵」や、大河ドラマ「いだてん」にも登場している「徳三宝」をあげています。
まとめ
本日の記事をまとめますと
- 三島弥彦とは、「ストックホルムオリンピック」で短距離に参加したアスリート。日本最初のオリンピック選手。
- 三島はストックホルムオリンピックで惨敗し、次回大会「ベルリン」で雪辱を誓ったものの、大会が中止となり、そのまま実質引退した
- 三島はその後、スポーツから完全に手を引いた。盟友「金栗四三」はそれと対象的に後進育成に全力を尽くした
- 三島の敗北の100年後、日本の短距離界は、「北京」「リオデジャネイロ」で「4×100m」で銀メダルを獲得している
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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