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渋沢栄一の子孫と家系図を、ひと目でわかる画像付きで超カンタン解説

新一万円札の肖像画・日本資本主義の父・渋沢栄一について、その子孫・家系図を画像付きで、わかりやすく解説いたします。

最後の将軍・徳川慶喜に仕えた幕臣の渋沢栄一。

第一国立銀行(現・みずほ銀行)やサッポロビールなどの設立に関わり、さらには一橋大学などの大学設立にも着手。

岩崎弥太郎が築き上げた三菱や三井・住友・安田などの財閥をも超える天才実業家であり、500を超える起業に携わった、公益を重んじる実業家・渋沢栄一。

その子孫たちは多くが、現在も著名人として活躍しているのです。


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どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 渋沢栄一の子孫は、多数いる。直系のひ孫である渋沢雅英氏が、渋沢栄一記念財団の理事長をつとめておられる
  2. 渋沢栄一のひ孫たちは、現在も第一線で活躍している。音楽家や銀行家など、第一線で活躍している人が多い。
  3. 明治時代、三井・三菱などの財閥が活躍する時代、渋沢栄一は渋沢財閥をつくること無く、私利私欲よりもあくまで公の利益を優先する、めずらしいほどの人格者だった

渋沢栄一の子孫と家系図と、ひ孫・渋沢雅英氏

渋沢栄一の家系図

渋沢栄一(しぶさわ えいいち)
幕末から昭和初期にかけて実業家として活躍した偉人です。

渋沢栄一は、幕末に徳川慶喜に仕え、明治維新後は新政府で大久保利通らと予算で対立し、井上馨とともに下野しています。

その後は第一国立銀行を通じて、各分野の起業と経営にかかわり、日本の近代化に尽力しています。

《渋沢栄一》
「引用元ウィキペディアより」

そんな渋沢栄一の子孫がひと目で分かる家系図をご用意いたしました。

《渋沢栄一の家系図》
クリックすると拡大できます
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

渋沢栄一の最初の妻・千代はたくさんの子を産んでいますが、明治15年(1882年)に感染症のコレラに感染し、若くして他界しています。

後妻として、没落した豪商・伊藤八兵衛の娘・兼子(伊藤かね)と再婚し、栄一はさらに子供を儲けています。

2021年4月25日に放送された大河ドラマ・青天を衝けにおいて、渋沢栄一の長男・市太郎が幼くして亡くなり、長女・うたが誕生していました。

この長女・歌子(宇多)は、のちに東京大学法学部長・枢密院議長をつとめた男爵・穂積陳重に嫁いでいます。

次女・琴子はというと、大蔵大臣や東京市長を歴任した子爵・阪谷芳郎に嫁いでいます。

本来ならば渋沢栄一の後継者となるはずだった次男・篤二は、病弱であったことと女性関係が乱れていたことが原因で、廃嫡されています。

渋沢家の家督は、篤二が廃されてしまったため、その子で、栄一の孫にあたる渋沢敬三が相続しています。

ちなみに、この次男・篤二とその息子・敬三は、渋沢栄一が亡くなる際に、栄一の手を片方ずつ握っていたとのことです。

 

廃嫡されてしまった嫡男・渋沢篤二については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

 

渋沢栄一の息子・渋沢秀雄さんは、【澁澤榮一】という著書を残しておられます。

この本には、渋沢栄一の波乱の生涯が細かく記されており、大変興味深い作品となっています。

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渋沢栄一の最期の様子については、以下のリンク記事で、くわしく簡単に解説しております。

渋沢栄一と庶子の家系図!妾【大内くに】の子孫は有名作曲家!

渋沢栄一には、数名の庶子がおりました。

渋沢には数多くの愛人がいたため、その庶子・子孫の数も膨大であるといわれています。

その庶子も家系図にまとめてみました

《渋沢栄一『庶子』の家系図》
クリックすると拡大できます
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

渋沢栄一は、愛妾の大内くにとのあいだに

  • ふみ(文子)
  • 照子

という2人の女子をもうけています。

大内くにの長女・ふみは、渋沢栄一の従兄弟の家系である尾高家の尾高二郎氏と結婚。

  • ふみの息子・尚忠
  • 孫の惇忠
  • 同じく孫の忠明

この三人は、音楽家として活躍しておられました。

作曲家・尾高惇忠さんは2021年2月16日にお亡くなりになられました。

大内くにが生んだ次女・照子は、日本の製紙王とよばれた実業家・大川平三郎に嫁いでいます。

大川平三郎の孫・大川慶次郎さんは、競馬の神様とよばれた競馬評論家で、1999年にお亡くなりになっています。大川慶次郎さんの娘・大川智絵さんも競馬評論家です。

渋沢栄一の妻・千代の弟・平九郎は渋沢栄一の養子となって、戊辰戦争で戦死しています。


渋沢栄一については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。


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ひ孫(曽孫)たちが、第一線で活躍中!経営者・学者・音楽家など

渋沢栄一のひ孫(曽孫)は、現在も第一線で活躍しておられます。

ひ孫(曾孫)を系図にまとめてみました

《渋沢栄一『ひ孫』の系図》
クリックすると拡大できます
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

このひ孫の系図には、掲載しておりませんが、渋沢雅英さんや阪谷芳直さんが活躍しておられます。

渋沢敬三の息子・渋沢雅英さんは、ご高齢ながらも現在渋沢栄一記念財団の理事長。

この渋沢雅英さんは、1925年にイギリス・ロンドンで誕生し、のちに書籍【父・渋沢敬三】を執筆しています。

渋沢雅英さんは、渋沢栄一記念財団の理事長として、2019年の新年の挨拶をしておられました。

そのほかにも、現在も活躍しているひ孫が、かなりの数いるようです。

上の系図に記された渋沢栄一の子孫は、ごく一部にすぎません。

ちなみに、渋沢栄一のひ孫の一人である阪谷芳直氏は、母方の曾祖父が三島通庸というかたです。

三島通庸は警視総監をつとめたお方で、2019年の大河ドラマ【いだてん】に登場した日本最初のオリンピック選手・三島弥彦の父にあたる人物です。

また、上の庶子の家系図にも記されていますが、作曲家・尾高惇忠さんは、渋沢栄一のいとこで学問の師でもあった尾高惇忠と同姓同名のようです。

《尾高惇忠》
「引用元ウィキペディアより」

 

尾高惇忠の弟で渋沢栄一の命の恩人でもある尾高長七郎について、以下のリンク記事で、くわしく解説しております。


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モデル・澁澤侑哉氏

フジテレビの人気番組「テラスハウス」に出演していたモデルさん澁澤侑哉(しぶさわ ゆうや)さん。

彼は渋沢栄一の子孫、と言われているようです。

どのように渋沢栄一とつながっているのでしょうか?

澁澤侑哉さん本人が言うには

「ひいひいひいおじいちゃんの従兄弟」

なのだとか。

ということは、渋沢栄一からみると、澁澤侑哉さんは

「従兄弟の孫の孫の息子」

ということになります。

しかし、2019年12月31日放送の番組『追跡!あのニュースでワイドショーが諦めたコト』にて

「澁澤侑哉さんが渋沢栄一の血を引いているかどうか、確証がない」

と言われていました。

どうやら澁澤侑哉さんのおじいさんは、かなりの資産家だったらしいです。

澁澤侑哉さんたち数名のお孫さんたちに1000万円ずつ配った、というエピソードがあるのだとか。

おそらくですが、澁澤侑哉さんは本当に渋沢栄一の末裔にあたられるお方なのでしょう。

それにしても、孫に1000万円ずつ配布なんて、すごいですね。


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渋沢栄一の功績とは?今も残る大企業の創立に協力していた

渋沢栄一の功績をひとことで言えば

起業と経営によって、日本の資本主義に大きく貢献した

ということになります。

渋沢栄一は、現在のみずほ銀行の前身である第一国立銀行を創設し、頭取(社長)をつとめた人です。

ほかにも宮城県の地方銀行である七十七銀行など、数々の地方銀行創設に着手しています。

そのほかにも

  • 王子製紙
  • 東京海上火災保険
  • 東京ガス
  • キリンビール
  • サッポロビール
  • 東洋紡績

など、のちの日本を支える大企業の創設に関与。

そんな渋沢栄一ですが、決して私利私欲のために仕事をしなかったことで有名です。

明治という時代に躍進した大財閥といえば

  • 三井
  • 三菱
  • 住友
  • 安田

などがあげられます。

渋沢栄一はけっして財閥という、自分たち渋沢一族で経営を独占する企業グループをつくることはありませんでした。

あくまでも公益のために仕事をした人物だったのです。

渋沢栄一は、生涯に500を超える起業の設立に着手したといわれています。(実際には、招かれて公演をしただけの企業も含まれているらしい)

資本主義の父・渋沢栄一は1931年(昭和6年)、92歳で死去。

企業経営のみならず、渋沢栄一は教育改革にも熱心でした。

  • 一橋大学
  • 東京経済大学
  • 同志社大学
  • 二松学舎大学

などの大学経営にも携わり、後進育成にもつとめています。


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渋沢栄一と新一万円札についてひとこと言いたい!

2019年4月9日、渋沢栄一が2024年から発行される新一万円札の肖像画に採用されることが発表されました。

5000円札は、女子教育に尽力した津田梅子

1000円札は、野口英世の恩師にして、細菌学者の北里柴三郎。

そんな渋沢栄一、実はかつて紙幣の肖像に利用されていたことがあるのです。

1902~1904年、朝鮮半島で利用されていた紙幣に渋沢栄一の肖像画が印刷されていたのだとか。

新一万円札に渋沢栄一が印刷されていることに、お隣の国はご立腹のようです。

しかし、日本の経済界を現在の形に導いた先駆者であり、間違いなく偉人です。

お隣さんは不服かもしれませんが、日本人からすると渋沢栄一は、一万円札にふさわしい人物と言えるのではないでしょうか。

これまで約40年、一万円札は福沢諭吉がつとめていました。

 

それが変わるのは、少し名残惜しい気がします。

しかし「令和」という新しい時代に、新しい紙幣を使うというのも、悪くない気もしますね。

余談ですが、福沢諭吉と渋沢栄一といえば、碁をうったというエピソードがあります。

福沢諭吉が渋沢栄一にたいして

「商人にしては強い」

と言うと、

「ヘボ学者にしては強い」

と渋沢栄一が返したのだとか。新旧一万円対決は、どちらが勝利したのか。

残念ながら調査してもわかりませんでしたので、追って調査を続けたいと思います。

 

令和の意味について、よろしければ、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 渋沢栄一の子孫は、たくさんいるが、直系のひ孫・渋沢雅英さんが、現在渋沢栄一記念財団の理事長を務めておられる。
  2. ひ孫たちが、現在も第一線で活躍している。音楽家、銀行家など、さまざまなジャンルで活躍しておられる。
  3. 渋沢栄一の功績は、数々の起業に着手することで、日本の近代化に貢献したこと。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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