徳川慶喜と坂本龍馬が大政奉還した理由!2つの狙いとその後を解説

幕末の一大政治事件である『大政奉還』

これには、坂本龍馬・徳川慶喜ともに、深い考えがあったのです

これを読めば、龍馬・慶喜の作戦が、すべて理解できます!


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この記事を短く言うと

・大政奉還とは、つまり「政治を行う権限を、朝廷(天皇とその家来たち)に還すこと」をいう

・大政奉還で、坂本龍馬には「平和革命」という狙いが、徳川慶喜には「幕府と徳川家が行政機関として再浮上を果たし、実権を取り返す」という、それぞれ別の狙いがあった

・大政奉還後、徳川慶喜の「実権を取り返す」という狙いを潰すため、「王政復古の大号令」という「将軍も幕府も廃止する」という命令を出して、怒った旧幕府と新政府で戦争になった(戊辰戦争


大政奉還とは何か?

大政奉還とは、慶応3(1867) 年、行政立法司法などの政権を、江戸幕府が朝廷に返上したことです。

これによって江戸幕府はなくなり、鎌倉以来約700年続いてきた武家政治は終了しました。

薩長を中心として、武力による倒幕運動を進めた結果、岩倉具視から薩摩藩と長州藩に討幕の密勅がひそかに渡されます。

なんと、その同日に徳川慶喜が朝廷に「大政奉還上表(大政奉還しますという届け出書類)」を提出するという歴史のドラマがありました


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大政奉還による『2つの狙い』とは?

【坂本龍馬の狙い】

坂本龍馬は薩長の武力による倒幕での内戦を回避するため、平和裏に政体変革をなす構想であるところの、大政奉還論を土佐藩参政・後藤象二郎に説明。

後藤は龍馬の案に賛同。

土佐藩が大政奉還を建白することにより、薩長に握られた主導権を土佐に引き寄せようとしたのです。

そして、土佐藩前藩主・山内容堂の名で、大政奉還建白書を老中・板倉勝静を通して徳川慶喜に提出。

大政奉還論を薩摩藩が同意したのは、慶喜が大政奉還を拒否すると予想し、これを討幕の口実にすることにあったといわれています。

龍馬は、慶喜が大政を朝廷に返したことを知るや、体をよじりながら

「これで戦争は起こらぬ。

将軍のお心はいかばかりかと察するに余りある。

よく決断なされた。

私は誓って、この将軍のために一命を捧げん」

と感涙しました。

なお、龍馬は大政奉還のわずか1か月後に暗殺されてしまいます。

「引用元ウィキペディアより」

暗殺犯は、最新の定説で京都市中見廻組の「佐々木只三郎」・・そして佐々木に命じたのは会津藩主「松平容保」とされています。


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【徳川慶喜の狙い】

薩長を中心とした雄藩が操作する朝廷と幕府は対立を深め、朝廷は攘夷を幕府に迫るなど幕政に対する圧力が増していました。

将軍・徳川慶喜は、そういった雄藩・朝廷の圧力を制するために、土佐藩建白の大政奉還論を受け入れたのです。

大政奉還は討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪う狙いがあったものの、薩摩藩らの最大の関心事であった将軍職辞任には一切触れておらず、慶喜はなお「武家の棟梁」としての地位を失っていませんでした。

慶喜は、朝廷に政権を返したとしても、朝廷には政権を担う人材も組織も存在しないため、そのうち元幕府を頼らざるを得ず、政局収拾の主導権は慶喜の手中に収まることになると予想していました。

慶喜は形式的に政権を返上して、徳川家の権力を実質的に保持しようとしたのです。

つまり言うなれば、「大政奉還」とは、「江戸幕府」という政府機関が、朝廷に対して「ストライキ」「サボタージュ(サボり)」を行った・・・とも言えるのです。

「引用元ウィキペディアより」


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大政奉還のその後

大政奉還により、討幕派は幕府を倒す名目がなくなり、肩透かしを食らいました。

つまり

「政権を運営している幕府に、政権運営能力がないから、幕府を倒そう!」

と言っていたのに、幕府がその政権を返上してしまったのですから、倒さなくても、新しい政権を打ち立てて新しい政治をすることができるようになってしまったのです。

とはいえ・・・その政治を行う能力が、政治ド素人集団「薩摩と長州」にあるはずもなく・・・。

しかも、新政府(公武合体政府)は慶喜の主導になることが予想されました。

しかし、大久保利通西郷隆盛が、「王政復古の大号令」という、それまでの関白や征夷大将軍という役職を排除した政治体制大改革のクーデターを起こして、徳川慶喜や幕藩体制を新政権から排除。

そして慶喜がすべての官位を辞して、徳川の持つ領地をすべて朝廷に返すこと(辞官納地)が一方的に決定されたのです。


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德川慶喜の排除により、旧幕府軍が暴発し、薩長と開戦。鳥羽伏見の戦いが発生し、戊辰戦争へと続いてゆきます。

大久保利通と西郷隆盛は、坂本龍馬とは異なり、新政府に「徳川慶喜」を参画させることに猛反対していました。

なぜかというと「武士の棟梁」であった「徳川慶喜」が、身分制度を撤廃した新しい「政府」で、「元武士(士族)」を優遇せずにはいられないだろう・・・徳川慶喜は、士族のための政治をやりかねない・・・

と考えたのでしょう。西郷隆盛よりも、冷徹で超現実主義者の「大久保利通」は、誰よりも「徳川慶喜」を危険視したに違いありません。

徳川慶喜は戊辰戦争で「江戸城無血開城」を申し出、水戸藩へ自ら謹慎。

その後、静岡へ移住し、静かに引退生活を続けたのです。後に朝敵の汚名をそそぎ、貴族院議員として政治にも参加しています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・大政奉還とは政権を江戸幕府から朝廷に返上することです。これにより約700年の武家による政治が終わりました。

・大政奉還により、坂本龍馬は平和的に政体変革をなすことを考えました。一方、徳川慶喜は徳川家の存続を図るとともに、しょせん朝廷は幕府に政治を任せざるを得ないという読みもありました。

・討幕派である薩長は武力による倒幕をあきらめず、「王政復古の大号令」を掲げ、慶喜を排除し、徳川家の領地を召し上げようとします。ここで、それに怒った旧幕府軍と新政府軍の戦端が開かれることとなるのです。

大政奉還前後の薩長と佐幕派との政治の駆け引きは歴史的に非常に見ごたえがあります。

結局、龍馬の平和への願いもむなしく、政体変革は武力でしか解決できなかったのでしょうね。

以上となります。

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