明治維新を成功させた長州藩のリーダー「木戸孝允(きど たかよし)」。
その「木戸孝允」の「生涯と最期」を、わかりやすく解説します。
「攘夷、倒幕派の長州藩リーダーであり、倒幕の後は明治政府で日本の近代化に尽力した木戸孝允」
最期は、西郷隆盛を救おうとして、大久保利通の手を握り、亡くなった
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この記事を短く言うと
木戸孝允(桂小五郎)とは、何をした人なのか?
幕末の長州藩リーダー「木戸孝允(きどたかよし)」
西郷隆盛・大久保利通と並ぶ「維新三傑」の一人「木戸孝允(桂小五郎)」
彼はいったい何をした人なのか?どんな功績を残した人だったのでしょうか?
木戸孝允(桂小五郎)の功績
木戸孝允が残した功績を、短く解説いたします。
・長州藩のリーダーとして、「薩長同盟」の締結に成功
・薩摩と協力し、「倒幕」に成功。260年続いた「徳川幕府」を倒し、「明治維新」を成し遂げた
・明治新政府で、要職を歴任。近代日本の基礎をつくりあげた。
残念ながら木戸は、「西郷隆盛」や「大久保利通」に比べると、存在感が小さい気がします。
しかし木戸がもう少し長生きしていたら、「西郷」も「大久保」も、死なずにすんだかもしれません。
木戸孝允の生涯と、最期
1833年8月11日、長州藩「萩」で、長州藩医「和田昌景」の長男として誕生
1840年、実家「和田家」のお向かいさん「桂家」に養子入り。和田家は医師の家系だが、桂家への養子入りで武士の身分を手に入れる。
1846年、柳生新陰流剣術「内藤作兵衛」の道場に入門
1848年、元服(成人)して「桂小五郎」と名乗る
同年、実母と姉が病死
1849年、吉田松陰に弟子入りし、兵法を学ぶ。(このとき吉田松陰は19歳。桂小五郎16歳。桂は吉田松陰の弟子ではあったが、後の「松下村塾」の塾生ではない)
1852年、江戸へ剣術修行のために留学。江戸三大道場の1つ、神道無念流「練兵館」に入門。
1853年、「練兵館」で免許皆伝を受けて、塾頭に指名される
1854年、ペリー率いる黒船来航。幕府の代官とともに黒船を実際に見学
同年、師であり友人でもある「吉田松陰」が、下田から黒船に乗り込み「密航」を計画。桂も一緒に行きたいと言ったが、吉田松陰は桂を説得し、思いとどまらせた。松陰は「金子重之輔」と黒船に乗り込むが、密航には失敗。
桂は江戸・練兵館での修行に加え、西洋の兵学や造船術・英語などを次々と学んだ。
1863年、桂や大村益次郎の尽力により、長州ファイブ「伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助」がイギリスへ留学。
同年、桂は江戸から京都へ移動。
同年8月、「八月十八日の政変」により長州藩は、薩摩藩・会津藩により京都から追放される
1864年「池田屋事件」勃発。桂は「対馬藩邸」に行っていたため奇跡的に逃げ延びたが、この事件で「吉田松陰」の弟子「吉田稔麿(としまろ)」が戦死。
同年、「池田屋事件」の報復のため、長州軍が京都へ進軍。しかし薩摩藩や一橋慶喜により撃退される。桂はこのとき京都周辺の藩を味方に引き入れるため走り回るが失敗。その後、京都市中で死闘をくりひろげ、京都市内へ潜伏。その後「但馬国・出石」へ潜伏。(この時、十代前半の幼妻と同棲していた)
同年、幕府による「第一次長州征伐」。長州は三人の家老を切腹させ、幕府に降伏。しかし「一橋慶喜」は、幕府・朝廷に対して軍を動かしたにもかかわらず「家老の切腹、謝罪」だけでは罰が軽すぎると主張。早速「第二次長州征伐」を計画する
1865年、「第二次長州征伐」に降伏する方針を決めた長州藩で、「高杉晋作」が「奇兵隊」を率いてクーデター(功山寺挙兵)を断行。長州藩は「幕府に降伏」から「倒幕」へと方針転換。このとき、高杉晋作は桂小五郎を長州藩の実質的リーダーに迎え入れている。
1866年、土佐藩の「坂本龍馬」「中岡慎太郎」の仲介により、「西郷隆盛」「大久保利通」「小松帯刀」「黒田清隆」たちと京都で会談。「薩長同盟」を締結。
同年、幕府による「第二次長州征伐」が行われる。坂本龍馬の仲介により、イギリスから「軍艦」「銃器」を購入していた長州藩は、幕府軍を撃破。
1867年、大政奉還
同年、王政復古の大号令
同年11月、坂本龍馬が京都「近江屋」で暗殺される
同年、江戸城無血開城が実現。徳川幕府滅亡・・・・。会津戦争勃発
同年、明治維新。元号が「明治」にかわる。桂小五郎は「総裁局顧問」になる。
1869年(明治2年)、箱館戦争終結により、戊辰戦争が終わる。この頃から桂小五郎は、主君「毛利敬親」からもらった姓「木戸」をつかい「木戸孝允」と名乗るようになる。
同年、「版籍奉還」を実行。
1871年(明治4年)、「廃藩置県」を強行。同年「木戸孝允」は「西郷隆盛」「板垣退助」「大隈重信」とともに「参議」に就任。
同年、「岩倉使節団」の副使として各国を視察。
1873年(明治6年)、帰国。不平等条約の改正には失敗。
同年、「明治六年の政変」が起こる。征韓論を主張した「西郷隆盛」「江藤新平」「副島種臣」「板垣退助」「後藤象二郎」らが下野(辞職)
木戸はこの頃から、原因不明の「頭痛」や「体調不良」に悩まされ、政務から遠ざかる。
1874年(明治7年)、「台湾出兵」に反対し、「木戸孝允」下野。
1875年(明治8年)、大久保利通・伊藤博文・井上馨の説得を受けて、木戸は政府に復帰。(大阪会議)
1876年(明治9年)、「佐賀の乱」「萩の乱」勃発。「江藤新平」「前原一誠」が処刑される。
1877年(明治10年)2月、「西南戦争」勃発。木戸は「西郷討伐」に出動。
同年5月、病気が重症化し、京都で倒れ「木戸孝允」他界。享年45(満年齢43歳)
同年9月、「西郷隆盛」が亡くなる。「西南戦争」終結。
「西郷隆盛の最期」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
西郷隆盛・大久保利通との絆!死の間際まで両者を気づかっていた
1877年2月、明治政府の「参議」だった「西郷隆盛」が、薩摩藩に集まっていた不平士族(元サムライ)にまつり上げられ「西南戦争」を起こします。
これに驚いたのが「大久保利通」。
大久保は西郷を説得したいと、薩摩行きを希望。しかし、伊藤博文が反対。薩摩藩士から憎まれていた大久保は、薩摩入りした瞬間に襲われて亡くなるでしょう。
そんな大久保の代わりに「討伐軍」の総大将を希望したのが「木戸孝允」。
この時、木戸はすでに重病。いつ亡くなってもおかしくない状態でした。それでも、まるで独立国家のようになっていた当時の「鹿児島県」や「西郷隆盛」の自由奔放さを痛烈に批判していた木戸孝允は、「西郷の討伐」に積極的に立候補。
しかし、木戸は本当に「西郷を討伐」しようと考えていたのか?
ここからは拙者の推測ですが、普通、死にそうになっているのに「西郷討伐」をやろうとするでしょうか?
誰かにまかせてしまっても、全く問題ないと思います。なぜ木戸はそれほど必死になって、西郷討伐をやろうとしたのか?
木戸は西郷を説得して、その命を救おうとしていたのではないでしょうか。
亡くなる直前、木戸は大久保の手を握りながら
「西郷!いい加減にしろ!」
と叫んで亡くなります。これから西郷を殺害しようとしている人が「いい加減にしろ」なんて、お説教にも似た言葉を言うでしょうか?
やはり木戸は「西郷」を救おうとしていたのでしょう。
大久保は西郷説得に行けません。西郷の側近「人斬り半次郎」こと「桐野利秋」などに見つかったら、大久保は即殺害されます。
西郷と互角に渡り合える、対等に説得できるのは大久保を除けば「木戸」しかいないのです。木戸自身、それをよくわかっていたのでしょう。
大久保の手を握りながら亡くなった木戸。
木戸は自分が死んだら、自分に代わって大久保が「西郷討伐」の総大将になるとわかっていたことでしょう。
大久保と西郷は、無二の盟友・兄弟のような存在。
おそらくですが木戸は、大久保が最愛の盟友「西郷」と戦わなくてはいけなくなることを、気の毒に思っていたはず。だからこそ自らが「討伐軍の総大将」を請け負い、大久保の手を握りながら亡くなったのです。
大久保は、木戸を看取りながら、最愛の友「西郷」と戦わなくてはならない「残酷な運命」に対し、覚悟を決めます。
「おはんの死とともに、新しか日本がうまれる。強か日本が・・・」
1877年9月、西郷の死を知った大久保は、涙しながらこの言葉をつぶやき、「西郷の死を無駄にしない」ことを決意したのでした。
木戸・西郷が亡くなった一年後、大久保もまた「紀尾井坂の変」で命を落とすことになります。
よろしければ「紀尾井坂の変」について、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
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『木戸孝允』について、レビュー(評論)!
長州藩のリーダー。木戸孝允。
残念ながら木戸が率いた「長州藩の派閥」は明治初期頃、「薩摩藩の派閥」に主導権を奪われ、存在感が薄くなっている気がします。
なぜかというと「優秀な人材が、明治を待たず、次々と亡くなっているから」です。
長州藩は「幕末」には強烈な輝きを放ち、間違いなく「幕末」という時代の中心にいました。時代の主役だったのです。どうして「主役」になれたのか?というと原因は2つあると思います。
・1つは「毛利敬親」という「部下に自由にやらせる」お殿様がいたことで、優秀な人材が存分に腕を振るうことができたから。
・もう1つの理由が「吉田松陰」の存在でしょう。
吉田松陰は「行動すること」を何より大切にし、とてつもない行動力を発揮します。その弟子たちも、抜群の行動力を発揮するものの、命知らずな行動が災いし、「久坂玄瑞」「高杉晋作」「吉田稔麿」「入江九一」など「松下村塾四天王」という優秀な人材たち全員が、「明治」を待たずに亡くなっています。
対して「薩摩藩」はというと、長州藩の後ろ盾に徹し、あくまでも黒幕のように振る舞い、上手に「明治政府の権力」を手に入れています。
薩摩藩に押され、劣勢となっていた長州藩をひきいた木戸孝允。背負った責任は、相当なプレッシャー、相当なストレスだったはずです。そのせいで43歳という若さで亡くなってしまったのでしょう。
もしも木戸が生きていたら、「西郷」「大久保」はどうなっていたのでしょうか?
盟友であり、ライバルでもあった「西郷隆盛」「大久保利通」と、木戸孝允は複雑な関係でした。
「西郷」のことを、木戸はとても強く批判していましたが、「薩長同盟」で長州藩を救ってくれた西郷に、木戸は感謝していたはず。木戸の最期の言葉が、その証拠でしょう。
「大久保」とは、しょっちゅう対立していたものの、互いに尊敬しあっていた関係です。最期に大久保の手を握って亡くなったことが、それを物語っています。
「西郷」を救おうと病身をおして出陣した木戸。「大久保」が「西郷」と戦うことがないように配慮した木戸。
その木戸の優しい配慮もむなしく、「西郷」も「大久保」も、木戸が亡くなって1年ほどで亡くなってしまいます。
もしも木戸が、もう少し長く生きていたら、西郷も大久保も死なずにすんだかもしれません。
木戸孝允・・・彼を支える優秀な長州藩士がせめて一人でもいたら、木戸の負担は減っていたかもしれません。
せめて「久坂玄瑞」や「吉田稔麿」が生きていたら・・・木戸は病気にならなかったのではないでしょうか。
木戸孝允は、現在「京都・護国神社」で眠っています。近くには「坂本龍馬」「中岡慎太郎」たちのお墓もあります。
当時、長州藩校「明倫館」の教授だった「吉田松陰」から
「事をなすの才あり」
と評価された木戸孝允・・・見事に事をなした偉人と言えるでしょう。
「木戸孝允の死因」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
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まとめ
本日の記事をまとめますと
- 木戸孝允は、「倒幕」「日本の基礎をつくりあげる」などの功績を残した。
- 長州藩のリーダー「木戸孝允」は、剣術などの修行に没頭し、のちに「薩長同盟」を締結。「倒幕」を実現し「明治維新」に成功した。
- 木戸は、西郷・大久保と対立していたが、それでも二人を尊敬し、気づかっていた。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。
ありがとうございました
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コメント
コメント一覧 (4件)
拝啓解説者様
ー 木戸孝允(きどた かよし)さんが東京の西郷隆盛さんのお家へ最後の応対にいったとき、木戸さんが西郷隆盛の信義の言葉を胸に刻みましたが、その御言葉が何も分からなくても、明治維新三傑は尊敬しあい繋がっていたのがよく分かりました。刀で切り殺される不安のある世の中にあって心情的だと感じました。 敬具
とても貴重なお言葉をありがとうございます。
素晴らしいコメント、とてもうれしく思います。
今後共、どうか当サイトをよろしくお願いいたします!
ありがとうございました。
毎回楽しく読ませて頂いております。
教科書やドラマだけでは分かり得ないところまで解説されてあり、日本史素人の私にはとても勉強になります。
ドラマ「西郷どん」がたいへん評判でしたが、作中での木戸孝允は正直、「嫌な奴」という感じに映ったと思います。
これは「翔ぶが如く」でも同様でしたが、こういった踏み込んだ解説を読ませてもらう事で、木戸孝允やその他人物本来
の、違った中身を知ることができます。
有難うございます。
いつもお世話になっております。
こちらこそ、お越しいただきました上に、とても貴重なコメントをいただき、誠にありがとうございます。
ドラマではうかがい知ることのできない、その人物の真の姿を描けるように心がけてはおりますが、まだまだ未熟者でございますので、至らぬ点は何卒お許しくださいませ。
またよろしければ、ぜひぜひ当サイトへおこしくださいませ。
とても貴重なコメントをありがとうございました。
失礼いたします。