明治初期の政府で、事実上の首相をつとめた大政治家「大久保利通」が暗殺された事件「紀尾井坂の変(きおいざかのへん)」について、「事件の経緯」や「暗殺場所」「犯人」など、わかりやすく解説いたします。
「犯人は『勘違い』で、大久保利通を暗殺してしまった」
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この記事を短く言うと
・「紀尾井坂の変」とは、石川県の士族(元サムライ)によって、大久保利通が暗殺された事件
・犯人たちはその後、自ら警察に自首し、裁判にかけられた後、処刑された
・現在「紀尾井坂」の近くには、「四ツ谷駅」や「上智大学」がある
紀尾井坂の変とは何なのか?いったい何が起こったの?
紀尾井坂の変(きおいざかのへん)
1878年5月14日、当時の日本において、実質的に首相を務めていた薩摩藩出身「大久保利通」が暗殺された事件
紀尾井坂の変・・・「ひとこと」で短く解説
内務卿を務めていた、当時の明治政府における実質的な首相「大久保利通」が、東京・紀尾井坂周辺で暗殺された事件のこと。
石川県の6名の不平士族(政府に不満をもつ元サムライ)が、東京千代田区紀尾井町で大久保利通を襲撃。大久保は死去
享年47歳。
犯人たち不平士族は、後に赤坂御所へ自ら出頭。逮捕され、裁判ののちに処刑されています。
紀尾井坂の変!犯人たちのその後とは?
「紀尾井坂の変」・・・事件の前後における詳細を解説いたします。
事件までの経緯
犯人は石川県の不平士族5名、そして島根県の不平士族1名
石川県士族が以下の5名
島田一郎
長連豪
杉本乙菊
脇田巧一
杉村文一
島根県士族・・・浅井寿篤
この「紀尾井坂の変」の主犯は、石川県不平士族「島田一郎」
島田一郎は、加賀藩足軽として「長州征伐」や「戊辰戦争」に参戦した歴戦の兵士であり、明治政府でも軍人として活動。彼は西郷隆盛が主張した「征韓論」・・・つまり鎖国している朝鮮半島を武力で無理やり開国させる方針に賛成していました。
しかし、西郷隆盛は「明治六年の政変」という争いで大久保利通に敗北し、下野(政府を辞職)。
西郷は故郷・鹿児島で「私学校(しがっこう)」を設立し、人材育成に力を尽くすことになります。「島田一郎」は、西郷隆盛が下野し、「征韓論」という自分の活躍の場が無くなったことに怒り心頭。
襲撃犯の一人「長連豪」は、西郷の「私学校」で半年ほど学んで、西郷隆盛や桐野利秋から教えを受けています。
当時、日本では「神風連の乱」「秋月の乱」、そして吉田松陰の弟子「前原一誠」の「萩の乱」、江藤新平の「佐賀の乱」など、不平士族の反乱が頻発していました。
「長連豪」もまた、反乱を起こそうとしますが失敗。1877年、西郷隆盛が西南戦争を起こしますが、「長連豪」は間に合わず参加できず。
西南戦争を最後に日本では内乱が起こっておりません。そのため島田一郎や長連豪たちは、反乱から要人暗殺へ方針転換。
彼らが標的としたのは、明治政府の中心的存在だった複数の人物
彼ら不平士族は、「大久保利通」を標的に定めたのです。
長々と解説しましたが、簡単に言ってしまうと、この「6名の不平士族」は、「戦争」という「英雄になれるかもしれない活躍の場」を欲しがっており、それを阻止されて怒り心頭だったのです。
その腹いせに、何の根拠もなしに「手軽に英雄になれる方法」として、「大久保利通」暗殺をやらかしたに過ぎません。大久保は当時から絶大な人気を誇っていた英雄「西郷隆盛」を死なせた「悪者」と考えられていたのです。おそらく、嫌われていた「大久保」を殺害すれば「英雄扱いされる」とでも考えていたのでしょう。
このあと解説いたしますが、彼らは「斬奸状(ざんかんじょう)」という、「犯行動機が記された書簡」を持っていました。しかしそこにかかれている「大久保の罪」なるものは、ほとんどが的外れ。
現代日本にも、根拠もなしに「政府」や「権力者」を批判する人がいますが、明治日本にも、そういう人たちはいたということですね。
事件当日
紀尾井坂の変・・・1878年5月14日
その日の早朝、大久保利通は自宅で、福島県令「山吉盛典」を招き入れ、約2時間、政治について語っています。
大久保は「30年計画」という、日本の改革案を「山吉」に聞かせたとか。
明治元年から最初の10年は「創業」
次の10年は「殖産興業」
最後の10年は「守りの時代」
大久保自身は「殖産興業」までが自分の勤めだと語りました。
犯行の様子
1878年5月14日午前8時、大久保は明治天皇に謁見するために、自宅を出発(大久保邸は現在の内閣府あたり)
目的地は「赤坂仮皇居」
通常は「赤坂見附」を通ったほうが近道なのですが、大久保は「赤坂見附は人通りが多く、危険」と判断し、紀尾井坂を通ったのです。
身の安全を図って「紀尾井坂」を通ったはずが、それが命取りに・・・。
午前8時30分頃、紀尾井町清水谷で、不平士族6名が大久保の乗る馬車を襲撃。
大久保は「無礼者!」と、凄まじい形相で怒鳴りつけたそうですが、島田一郎たちは、大久保を馬車から無理やり出し、斬りつけました。
全身16か所の傷を負った大久保。そのうち8か所は頭部に集中。致命傷は、首への突きの一撃。その切っ先は貫通して、地面に突き刺さっていました。
幼いころから身体が弱く、武芸を苦手としてた大久保・・・無残な最期でした。
事件直後に駆け付けた「前島密」は、犯行現場のすさまじさに、絶句。のちにこんな言葉を残しています。
「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶(なお)微動するを見る」
壮絶な有様が目に浮かぶようです。
大久保の死後、事件の際に大久保が子供の用に泣き叫び、逃げ惑った・・・という噂が広まりましたが、一説によるとそれは大久保のライバル「長州閥」が、大久保を貶めるために広めた噂といわれているみたいです。
大久保の懐にあった手紙
亡くなった大久保利通の懐には、2通の手紙があったといわれています。
その手紙は、前年「西南戦争」で亡くなっていた大久保の盟友「西郷隆盛」からの手紙
内容は
「外国人が『王政復古の大号令』を曲解して本国へと伝えたりしないように、彼らにその趣旨を伝えてほしい」
とするもの
もう一つが、写真好きだった大久保にあてて
「武士たるものがみっともないので、写真を撮るのはもうおやめなさい」
とお説教した手紙。
二つの手紙は血にまみれていたみたいです。この手紙は事件後、西郷隆盛の従弟「大山巌」に渡ったと言われています。
西南戦争において、政府軍を京都で指揮し、西郷隆盛を死に追いやった大久保利通。
西郷が亡くなったことを知った時、大久保は言葉にならない声を発しながら家中を歩き回り、泣きながら
「あなたの死とともに新しい日本が生まれる・・・強い日本が・・」
と・・・鴨居に頭をぶつけながらも、ぼそぼそつぶやくように言っていたとのことです。
今も鹿児島県では「西郷隆盛を死なせた」として不人気な大久保利通・・・。
しかし、誰よりも西郷隆盛を大切に思っていたのでしょう。
斬奸状・犯行の動機は?
犯人たちの犯行動機は何だったのでしょうか?
彼らは事件直後「赤坂御所」へ自首していますが、その時「動機」が書かれた「斬奸状」なるものを持っていました。
そこに記された動機は以下の通り。
1、国会・憲法をつくらず、人民の権利を抑圧している
2、朝令暮改が多く、役人採用がコネによって行われている
3、必要のない公共事業に国民の税金が浪費されている
4、国士を排して内乱を招いている
5、条約改正を行わず、日本国の威信を失墜させた
斬奸状への反論。動機は的外れ
これらに一つ一つ反論していくと、こんな感じになります。
1、「国会・憲法」をつくっていないとのことですが、当時の日本は近代化したばかりなので、何よりも「富国強兵」を実現しなくては、西欧列強に侵略される可能性があった。そのため「国会」「憲法」は二の次であり、まずは「独裁」でもなんでも「迅速に国を強くすることが第一」だった。
2、「コネ」というのは「薩長閥政治」を批判したのだろうが、ほかに明治政府を主導できる人材が乏しかった・・・。実際、伊藤博文や山県有朋が、「異才」と評価していた「久坂玄瑞」「高杉晋作」「吉田稔麿」「入江九一」などの「松下村塾・四天王」は、明治維新前に全員が他界していた。彼らに比べたら伊藤・山県たちは・・残念ながら能力に乏しかった・・・。つまり、それでも当時最高の人材を迅速に補充するには、「コネ」・・・つまり「推薦」がもっとも早く確実だった
3、「不要な公共事業に税金浪費」というが、大久保利通は必要な公共事業に予算がつかなかった場合、自費を投じるだけではなく、自ら借金して事業をすすめていた。死後、大久保には8000円(現在の価値で約3億2000万円)もの借金が残ったほどだった。
4、「国士を排して内乱を招く」・・・武士の特権を「廃刀令」や「廃藩置県」で奪ったことを言いたいのだろうが、近代国家となるためには「身分制度」を廃止して「四民平等」を推し進めなくてならなかった。大久保利通は、自らの私腹を肥やすのではなく、武士階級であった自分の特権をわざわざ無くすような、今で言う「身を切る改革」を率先して行っていた。
5、「条約改正」については、大久保は「岩倉使節団」で諸外国との交渉にあたったものの、国力不足だったため、失敗。条約改正していないのではなく、出来なかっただけ。
以上、大久保利通を暗殺した犯人たちの動機は、的外れと言わざるを得ないでしょう。
犯人たちのその後
犯人たちは、事件後に「赤坂仮皇居」へ自首しています。
事件の2ヶ月後、1878年7月25日に決裁
7月27日、6名に「斬罪」が言い渡され、その日のうちに刑が執行されています。
ちなみに、的はずれな「斬奸状」をつくった「陸義猶」という人物は、終身刑を言い渡されましたが、11年後の1889年、「大日本帝国憲法」発布の特赦で釈放・・・。
「斬奸状」には「憲法をつくらず」と記して、大久保を非難していた「陸義猶」が、憲法発布の特赦で釈放されるとは・・・皮肉なものです。
川路利良の油断
実はこの「大久保利通襲撃計画」・・・事前に警察トップの「川路利良」の耳に入っていました。
「石川県の不平士族が、大久保利通暗殺を計画している」と。
ところが川路は、この報告を耳にして
「石川県の不平士族などに何が出来る」
と笑い、歯牙にもかけない有様だったとか。複数のルートから情報が入っていたにもかかわらずです。
そのため、大久保利通には護衛がつくこともなく、御者「中村太郎」と、従者「芳松」のみで外出することに・・・。
中村太郎は亡くなりましたが、芳松は北白川邸へ入ったため無事。その芳松が警察をつれて現場に駆けつけたとき、そこには大久保利通が無残にも倒れていたのです。
現場に駆けつけた「川路利良」は、号泣。涙を流しながら自分の手帳を開き、そこに記された事前に報告されていた「6人の不平士族」の名前を叫びます。
「犯人はこの6人に間違いない!」
その通りでした。しかし6人は、全員が刀を捨て、直後に警察へ自首。
「桜田門外の変」で亡くなった「井伊直弼」も、事件当日の朝、「襲撃計画」の密告投書があったにもかかわらず、護衛も増やさずルートも変えずに亡くなりました。
「自分だけは死なない」という根拠のない自信が仇となったのか、亡くなることを望んでいたのかはわかりません。しかし「井伊直弼」も「大久保利通」も、最期は無残なものでした。
予知夢
大久保が亡くなった場所に駆けつけた「前島密」・・・実は事件の数日前、前島密は、大久保利通から「不思議な夢をみた」と聞かされていたのです。
大久保利通の話は以下の通り
「私は西郷と激しく口論していた。
その西郷に追いかけられた私は、高い崖から落下した。
自分が亡くなり、脳が砕け、ヒクヒクと動いている様子がありありと見えたよ」
と・・・。
事件現場は、まさに大久保利通が話した通りの惨状だったと言われています。
まるで、西郷隆盛の霊に大久保利通が討たれたかのような話ですが・・・。
でも、実際に西郷隆盛は大久保利通を全く恨んでいなかったと思います。
清廉潔白な西郷隆盛・・・盟友にあとを託すことはあっても、怨念を残すとは到底思えません。
馬車のゆくえ
襲撃時に大久保利通が乗っていた馬車は現存しています。
馬車は供養のため、遺族の手で「岡山県倉敷市」の「五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)」へ奉納されています。
事前に連絡さえすれば、見学も可能です。
【住所/岡山県倉敷市林952】
【電話番号/086-485-0027】
この「五流尊瀧院」は、鎌倉時代に「承久の乱」を起こした「後鳥羽上皇」の遺骨で有名な場所です。
現在の場所を地図で解説!近くにはあの名門大学!
事件が起こった「紀尾井坂」
現在の位置は「東京千代田区紀尾井町」
名門大学「上智大学」の目の前です。
「紀尾井坂」とは、「参議院清水谷議員宿舎前」にある坂のこと。
紀尾井坂は、現在の「四ツ谷駅」「上智大学」の近くにありますね。
「紀尾井坂」名前の由来
なぜ「紀尾井坂」と呼ばれているのか?というと、その由来は、周辺に存在していた「藩邸」
この坂は当時「清水坂」と呼ばれていました。
この坂の周囲には「紀伊徳川家」「尾張徳川家」「井伊家」の屋敷があったのです。
そのため、各屋敷の頭文字を取って「紀尾井」坂と呼ばれる様になったとされています。
上に貼り付けました「地図」をご覧いただきたいのですが、「清水谷公園」がある場所に、「大久保利通の邸宅」がありました。現在そこには「「贈右大臣大久保公哀悼碑」という碑が建立されています。「哀悼(あいとう)の碑」・・・つまりは大久保の死を哀(かな)しみ、悼(いた)むための碑ということです。
2018年大河ドラマ「西郷どん」で、水戸藩主「徳川斉昭」が、「紀尾井」と「井伊家」の名前が入っていることに不満を口にしていたシーンがありました。本来なら「水戸藩」が入るはずだと・・・。
紀尾井坂・・・まさか江戸幕府を代表する親藩の名前を冠する場所で、江戸幕府を終わらせた大久保が暗殺されるとは・・・何かの因果を感じずにはいられません。
大久保の死後
死後に残された「借金」
大久保の葬儀は、実質的に日本初の「国葬」となりました。
1200人前後の人が葬儀に参列。葬儀費用は「4500円(今の価値にして約1億8000万円)」。
大久保の死によって、その財産の内容が明らかになりました。
それによると、資産「140円(約560万円)」に対して、借金が「8000円(今の価値で約3億2000円)」だったとか。
贅沢三昧な生活をしているかと思いきや、実際には借金まみれ。
しかも、「西郷を死なせた」として恨まれていた故郷「鹿児島」に、「学校設立の費用」として「8000円」を寄付していたことも判明。
明治政府は、維新の功労者である「大久保」の遺族が、借金まみれになることを心配し、鹿児島に寄付された8000万円を回収。さらには8000円の募金を集めて遺族に渡しました。
この8000円の借金ですが、債権者たちは大久保の志を知っていたため、彼の死後、誰一人として借金回収に現れなかったとか。
日本中から「西郷を殺した男」「西郷を追い詰めた男」として「悪の親玉」のように思われていた大久保。
しかし、彼は日本の将来を真剣に考え、私腹を肥やすこともない、偉大な政治家だったのです。
現代日本の有権者たちは、果たして「真に有益な政治家」と「有害な政治家」の区別がついているのか?テレビ新聞をただ眺めているだけで、真実がわかるほど現代日本もまた、甘くはないのかもしれません。
伊藤博文に残された大久保の絶筆
大久保は暗殺直前、伊藤博文に対して手紙を書いています。
「今から参内するから、君にもすぐに来てほしい」
と書かれていました。
伊藤博文は、のちにこんなことを言っています。
「事件の直前、大久保公から手紙が来た。『すぐに来てくれ』という内容だった。
あわてて赤坂へ行くと『たった今、大久保公が亡くなられた』という。
つまり大久保公が私に送った手紙が、大久保公の絶筆だ」
このとき伊藤博文は、後に自分もまた「ハルビン駅」で「安重根」に暗殺されるとは、夢にも思っていなかったでしょうね。
「伊藤博文暗殺」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。
暗殺の黒幕説
大久保利通暗殺事件には黒幕がいた!
そんな噂をよく耳にします。
考えられる「黒幕」としては2つの説が考えられると思います。
- 「長州藩閥」
- 「西郷隆盛を慕う人たち」
「1」の「長州藩閥による犯行説」ですが、当時から「長州藩閥」と「薩摩藩閥」の主導権争いは激しいものでした。
大久保が亡くなった時、「子供のように泣き叫び、逃げ回った!」という噂を、長州藩閥が広め、薩摩の評判を落とそうとしたほどです。
「大久保利通」という薩摩藩の巨大なリーダーを殺害する動機は、十分あったと思います。
「2」の「西郷隆盛を慕う人たちによる犯行説」ですが、考えられる人としては西郷の弟「西郷従道」と、従兄弟の「大山巌」、または西郷の申し子「山本権兵衛」あたりでしょうか。
川路利良が、暗殺犯の情報をスルーしたのも怪しい気がします。
とはいえ犯人の不平士族6名が、何の証拠も情報も残さずに亡くなっていることから考えると、やはり「島田一郎」らの単独犯行と考えるのが筋なのかもしれません。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・「紀尾井坂の変」は明治日本のリーダー「大久保利通」が暗殺された事件
・紀尾井坂の変で、大久保利通を襲撃した犯人たちの動機は、どれもこれも的外れ
・紀尾井坂は、現在の上智大学近くにある。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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ありがとうございました
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