「幕末」という時代の始まり「黒船来航」で、ぺりーが上陸した「下田」「浦賀」には、今何があるのか?
「地図」付きで、わかりやすく解説いたします。
ペリー提督が来日した目的は3つ、「寄港地の獲得」「清との貿易」「植民地競争」。
その後「ペリー」は、意外な最期をとげていた
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この記事を短く言うと
- ペリーは、1853年7月8日に浦賀へ。1854年4月18日に下田へ来航した。
- ペリーが来航した横須賀・久里浜と下田には記念碑が建てられている
- 黒船で来航した目的は、捕鯨と通商のための寄港地(補給のための港)獲得と、植民地競争で優位を保つこと
- ペリーは、来日した4年後の1858年に、ニューヨークで亡くなっている。
ペリーが来航した「浦賀」と「下田」とは、どこ?
1853年7月8日、アメリカのペリーが浦賀に来航しました。
1854年4月18日、日米和親条約を結んだペリーは、下田へ来航しています。
以下に、ペリーが来航した場所の地図をご用意いたしました。
彼が来航・上陸した地点には、記念碑が残されています。
「横須賀・久里浜」
ペリーが来航したのは「横須賀市浦賀」と言われていますが、最初に上陸したのは「浦賀港」の近く「横須賀市・久里浜」です。
久里浜から、幕府の牽引によって浦賀へ移動したのです。
来航した「浦賀港」は、現在でも港として利用されており、多数の船舶が往来して賑わっています。
実は当時から、浦賀港には外国の船舶が頻繁に往来していました。
イギリス捕鯨船やアメリカ捕鯨船・・・又はアメリカ商船などが、ペリーより先に浦賀に来ていたのです。
現在、横須賀市久里浜のペリー上陸地点には、「ペリー公園」と「記念館」があります。
そして、上陸を記念した碑も建てられています。
「引用元ウィキペディアより」
もう一つ、ペリーが来航した地点「下田」にも、記念碑が建てられています。
下田の「ペリー艦隊来航記念碑」
下田のペリー艦隊来航場所は、現在こんな感じです。
「引用元ウィキペディアより」
下田といえば、ペリーが来航した際に締結された「日米和親条約」で開港した港の1つ。「箱館」も開港していますよね。
どうして下田が開港したのか?というと、横浜や浦賀では、江戸に近すぎたため、程よい距離がある「下田」を開港したと言われています。
来日した3つの目的とは?
そもそもペリーが来航した目的って、なんだったのでしょうか?
捕鯨船の寄港地
当時、クジラから取れる「鯨油」は、燃料として広く利用されていました。
その為、各国の捕鯨船により、クジラが乱獲されていたのです。
捕鯨は、通常1年以上の長期に渡って航海が行われていました。
鯨油を取り出すためには、多数の水と燃料を必要としていたため、通常「寄港地」を多数必要としていたのです。
しかし、アメリカは当時、太平洋地域で有力な寄港地・補給基地を持っていませんでした。
その為、日本に開国してもらうことで、鯨油の安定した獲得を狙ったというわけです。
清国との貿易
当時、清国は人口4億人の巨大市場でした。
そのため、上海への貿易航路を、アメリカは模索していたのです。
アメリカの西海岸から上海までの航路は、日本の「津軽海峡」を通過するものでした。
アメリカはこの航路の中継地・補給基地として、箱館の開港を必要としていたというわけです。
箱館を開港してほしい・・・それがペリーの目的の1つでした。
植民地競争での挽回
アメリカは、当時はまだまだ新興国で小国・・・。圧倒的な力を持つ覇権国「イギリス」に比べて、あまりにも小さく若い国でした。
当時の世界情勢としては、「圧倒的最強国イギリス」に、「大国ロシア」・「大国フランス」が迫り、植民地競争に力を注いでいた状態。
鎖国中でも、例外的に日本と貿易を続けていた「オランダ」は、残念ながら小国。
アメリカは、植民地競争に著しく出遅れていました。
そんなアメリカ・・・・植民地競争に勝つためにも、アジアで有利な状況を作る必要があったのです。
その為、日本との関係を構築・・・「片務的最恵国待遇(日本は相手を大歓迎の待遇しないといけないが、相手国は日本を歓迎する待遇をしない)」を日本に認めさせるなど、不平等条約で日本から搾取する下準備をしていたわけです。
イギリス・ロシアなどの列強諸国を相手に、植民地競争で勝利する・・・そのため日本を利用することが目的だったと考えられます。
とはいえ、アメリカのこの目論見は失敗します。
1861年、アメリカでは「南北戦争」が勃発。
1865年まで、内戦を繰り広げてしまい、その間に「イギリス」「ロシア」「フランス」なども、日本と不平等条約を締結し、アメリカの有利は消えてしまいます。
アメリカ・・・・一般的には、日本を威嚇して力づくで開国させた強国・・・というイメージがありますが、イギリスやロシアに比べたら、まだまだ弱い国だったのです。
ペリーの意外な最期!
日本を開国させたペリー・・・。
彼が来たその時をもって、「幕末」が始まったとも言われています。
そんな日本の歴史的転換点の主役だった「ペリー」
最期はかなり意外なものでした。
実はペリー・・・・浦賀に来た・・・5年後に亡くなっているのです。
「引用元ウィキペディアより」
彼は日本から帰国した後、日本での遠征を記録。
しかし、アルコール依存症やらリウマチ、痛風などに悩まされ、1858年3月4日、ニューヨークで亡くなってしまいます。
死因は「肝硬変」「心筋梗塞」といわれています。
「引用元ウィキペディアより」
彼の墓地は「アメリカ・ロードアイランド州アイランド墓地」にあります。
1858年3月4日死去・・・日本では同年6月4日に、「井伊直弼」が「大老」に就任。7月には井伊直弼が勝手に「日米通商航海条約」を締結してしまうわけですが・・・その時既にペリーは亡くなっていたのです。
「日米和親条約」・・・次は即「日米通商航海条約」・・というイメージでしたが、実は「4年」も間が空いているんですね。
それにしても、ペリーがアルコール依存症で苦しんでいたとは・・・。軍での仕事はかなりの激務だったみたいですから、仕方ないかもしれませんが・・・。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・ペリーが来航した「久里浜」「下田」には記念碑が建てられている
・ペリー来航の目的は通商と捕鯨の「寄港地」、そして植民地競争で優位を手にすること。
・来日の4年後、ペリーはニューヨークで死去。
以上となります。
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コメント
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函館の漢字、違いますw