【五代友厚とは】生涯年表と最期!子孫と家系図もくわしくご紹介

薩摩藩士・実業家「五代友厚」の生涯年表と最期とは?

子孫は現在、何をしているのかを家系図調査!

五代友厚・・・実は『薩英戦争』で、捕まっていた!


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この記事を短く言うと

・五代友厚とは、幕末の薩摩藩士だった人物。薩英戦争で活躍するなどしたのち、実業家として成功をおさめた

・薩摩藩士としてイギリスに留学し、後に実業家として日本の近代化に貢献。大都市「大阪」の基礎を作り上げた

・子孫は宇宙工学者「五代富文」さん


五代友厚とは何をした人?その功績を解説

幕末・薩摩藩士にして実業家「五代友厚」

連続テレビ小説「あさが来た」にも登場した「五代友厚」ですが、いったい何をした人なのでしょうか?

≪五代友厚≫
『引用元ウィキペディアより』

五代友厚・・・一体何を成し遂げて歴史に名を残したのか?


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五代友厚の功績

五代友厚の功績を短く解説いたします

・薩摩藩士として明治維新に貢献した

明治維新後は、実業家として「大阪証券取引所」や「大阪商工会議所」などの設立により、大阪経済の基礎を築き上げた

五代友厚・・・正義感が強く、不正を見逃すことがない人だったと言われています。

「大阪財界の重鎮」・・・一時は「首都」にまでなりかけた「大阪」・・・後に商工業で劇的な発展を遂げ「東洋のマンチェスター」とまで呼ばれた都市「大阪」・・・近代大阪の基礎を作り上げた「五代友厚」は、まさしく「偉人」と呼ぶにふさわしい傑物なのです。


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簡単年表

1836年2月12日、薩摩藩士・五代秀尭の次男として誕生。幼名は「徳助」

1851年、元服(成人)、「五代才助」と改名

1854年、黒船・ペリー来航
1855年、五代才助・・・薩摩藩の郡方書役に任命される

1857年、長崎海軍伝習所へ出張し、航海術を学ぶ(勝海舟と出会う)

1862年、清国の上海へ(上海で長州藩士「高杉晋作」と出会う)

同年、生麦事件

1863年、薩英戦争が勃発・・・寺島宗徳とともに英国軍に捕らえられて捕虜になってしまう。

1865年、寺島宗徳や森有礼とともに、英国へ渡り、ベルギー・オランダ・フランスなど、ヨーロッパの各国を巡歴

1866年、帰国。御小納戸奉公格に昇格。薩摩藩・会計係に就任

1867年、いろは丸沈没事故が発生。土佐藩と紀州藩の仲介役を務める

1868年、戊辰戦争

同年、明治新政府の参与・外国事務掛に就任。外交官権判事・大阪府権判事として大阪へ。

1869年、役人を退官

1870年、大阪活版所が創設され、日本最初の「英和辞書」が印刷される

同年。天和鉱山に着手

1871年、造幣寮(後の大阪造幣局)が竣工される

1873年、全国の鉱山管理を務める「弘成館」を設立

1874年、半田銀山を経営

1875年、「大阪会議」の開催を斡旋する。「木戸孝允」「板垣退助」が政界復帰

1876年、藍染製造工場「朝陽館」を設立・・・堂島米商会所を設立

1877年、西南戦争・・・西郷隆盛村田新八などが戦死

1878年、「紀尾井坂の変」で「大久保利通」暗殺

1878年、大阪株式取引所(大阪取引所)と大阪商法会議所(大阪商工会議所)を創設

1879年、大阪商業講習所(大阪市立大学)を創設

1881年、大阪青銅会社(住友金属工業)を設立・・・関西貿易社を設立

同年、開拓使官有物払下げ事件(明治十四年の政変)

1882年、共同運輸会社を設立

1884年、大阪商船(商船三井)を開業

1885年、大阪へ転居

同年9月25日、東京で死去・・・死因は糖尿病・・・享年49歳


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正義感の強いサムライ「五代友厚」

五代友厚は非常に正義感が強い人物でした。

明治時代、外国人との取引で、日本人はその無知をつかれて損失を被ることもしばしば

五代は明治政府が設置した大阪の交渉窓口に赴任し、外国人との取引を仲介。これら不当利得を狙う外国人の取締を厳正化し、日本の国益を守ったと言われています。

現在・・・自分たちの議席確保や知名度のために、日本の国益を損なう言動を平気でする国会議員やタレントが多い「平成の日本」ですが・・・幕末明治には、五代友厚のような気骨のある人間がいたのです。

後に、元幕臣の実業家「渋沢栄一」と並び「東の渋沢・西の五代」と呼ばれるほどに、五代友厚は称賛される事となります。


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生涯年表と最期

五代友厚の生涯と最期について、解説いたします。

生い立ち

1836年2月12日、薩摩藩士・五代秀尭の次男として誕生。幼名は「徳助」

五代家の家禄は約400石前後。40石ほどだった「西郷隆盛」や、4石だった「黒田清隆」に比べてもかなり裕福な家だったことがわかります。

人生の転機となったのが、父「秀尭」が薩摩藩主「島津斉興」から渡された「世界地図」を見せられた時。

父「秀尭」は、藩主「島津斉興」からこの地図の複写を命じられていました。

幼い五代友厚は、この地図を2つ複写して、1つを自分の部屋に飾ったのです。更に幼い五代は、自作の地球儀まで完成させてしまうほど、その地図を大切にしていたと言われています。

鹿児島は日本地図で観てみると「日本の南端」ですが、世界地図で観てみると「極東の玄関口」に位置しています。五代友厚はもしかしたら、そのことに気がついたかもしれません。

1851年、元服(成人)。この時「才助」という名前を与えたのが、幕末最高の名君「島津斉彬」公。斉彬公は、五代の才能を高く評価していたのです。

明治になって自ら「友厚」と名乗るまで、五代は「才助」という名前を名乗り続けるのです。


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長崎海軍伝習所へ

幼い頃から世界に意識を向けていた五代友厚・・・

1854年、彼が19歳の頃、日本の「浦賀」に黒船4隻が来航・・・・マシュー・ペリーが開国を迫ってきたのです。

この時の心境を、五代友厚は記しています

「男児が志を立てるのは、まさに今この時にある」

日本が世界を相手にすることとなった歴史の転換点において、五代友厚は世界に志を向けたのです。

1855年、五代は薩摩藩の「郡方書役助」に就任。日本は開国すべきである!という主張をするようになります。

1856年、日本の玄関口だった「長崎」にある「長崎海軍伝習所」へ、薩摩藩の代表として留学・派遣され・・オランダ人から「航海術」を習得。

この時、五代友厚は「勝海舟」と出会っています。


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海外へ

1862年、五代友厚は人生最初の海外を経験。水夫として幕府の軍艦「千歳丸」に乗船し清国の「上海」へ上陸。

この時、長州藩士にして「吉田松陰」の門下生にして「久坂玄瑞」と並んで「松下村塾・双璧」と称された「高杉晋作」と出会うのです。

ここで五代友厚は薩摩藩のために「汽船」を購入しています。


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薩英戦争・・・・拿捕される

1862年、相模国「生麦村」で、イギリス人たちが薩摩藩の大名行列を横切ったため、惨殺。「生麦事件」が勃発

これは国内法では合法だったので日本国民は称賛するのですが、英国サイドは激怒。

1863年、「生麦事件」の賠償金を請求するために、イギリス艦隊が薩摩へ。

この時、イギリス側は戦争するつもりはなかったものの、薩摩が賠償金の支払いに応じなかったため、やむを得ず、薩摩藩の船3隻を拿捕。

この時拿捕された船の中に、「五代友厚」と、後の外務卿「寺島宗則」がいました。

薩摩藩はこの行為を宣戦布告と捕らえ、英国艦隊を攻撃しますが、圧倒的な武力に惨敗・・・とはいえ、英国艦隊の艦長を倒したとも言われていますが・・・。

結局「薩英戦争」で敗北した薩摩・・・結局幕府から借金してまで賠償金の支払いに応じることとなります。

ところがこの戦争に際して、薩摩はイギリスに接近・・・・賠償金の支払い交渉の途中で、イギリスに軍艦の購入仲介を依頼。

五代友厚はこの時拿捕されたことで薩摩藩におけるメンツを失います。敵に捕らえられて恥をさらした・・・ということですね。このため五代は薩摩に帰国できず、横浜でようやくイギリス艦から脱出して江戸へ。

その後長崎へ移動し、薩摩藩士であり後の埼玉県令「野村盛秀」の協力で薩摩へ帰国。


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イギリスへ留学

1865年、五代友厚は薩摩藩からの命令を受けて「寺島宗則」や、後の文部大臣にして一橋大学創設者「森有礼」とともに「薩摩藩遣英使節団」合計19人を率いてイギリスへ留学。

この時、フランス・プロイセン・オランダ・ベルギーなどを歴訪し、ベルギーで「モンブラン伯爵」と「貿易商社設立」の契約調印をしています。

しかし、この契約は実現しませんでした。この経験を活かし、五代は後に実業家として成功をおさめていく事となるのです。

ちなみにこの「薩摩藩遣英使節団」は、イギリスのロンドンで、「長州ファイブ」と呼ばれる「伊藤博文」や「井上馨」たちと出会っています。この時・・・薩摩藩と長州藩は前年「1864年」に勃発した「禁門の変」で開戦していたため、犬猿の仲でしたが・・・双方に衝突は起こっていないみたいです。それどころか、長州藩士は薩摩藩士から、長州藩が置かれている厳しい実情を教えられ、帰国するか英国にとどまるかで意見が割れたようですね。

1866年、帰国。

同年、五代友厚は、薩摩藩の商い責任者である「会計係」に就任。

長崎に住む英国商人「トーマス・グラバー」と協力して、「小菅修船場」という造船ドッグを長崎に開設しています。この通称「そろばんドッグ」は現存しています。

1867年、土佐藩の坂本龍馬たち「海援隊」が利用していた「いろは丸沈没事故」において・・・沈没原因となった「紀伊藩」と土佐藩の仲介を、五代友厚が行っています。紀伊藩に責任があるとして、紀州藩は土佐に対して賠償金を払っています。


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戊辰戦争と明治政府での活動

1868年、鳥羽伏見の戦いを発端として「戊辰戦争」が勃発。

新政府・薩長軍と旧幕府軍の戦いが起こり、五代友厚は、西郷隆盛や大久保利通とともに倒幕に貢献しています。

同年、明治元年に、明治新政府の「参与」職に就任します。そこで外国事務掛に・・・。

外国官権判事、大阪府権判事を務め、大阪へ・・・。主に諸外国との紛争処理をしています。

五代友厚は「フランス水兵殺傷事件(堺事件)」や「英国公使パークス襲撃事件」などの処理を担当。

また、五代友厚はこの頃、大阪に造幣局を誘致したりしています。さらに大阪税関長にも就任

1869年(明治2年)・・・・五代友厚は横浜へ「会計官権判事」としての赴任を命じられています。しかしこの役をわずか2ヶ月で退官。五代は政府役人から手を引いています。


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明治維新後の活躍

1869年、英和辞書刊行を始めとして、次から次へと大阪財界の基礎づくりをすすめていきます。

金銀分析所の設立・・・・

天和銅山・半田銀山などの鉱山業に着手。

1875年、持ち前の調整力を生かして、「明治六年の政変(征韓論争)」で下野してしまった「板垣退助」や「木戸孝允」の政界復帰を「大久保利通」が画策した「大阪会議」の仲介を行っています。結果として「板垣退助」と「木戸孝允」は復帰。

1881年、五代は同郷である「黒田清隆」とともに「開拓使官有物払下げ事件」で批判を浴びます。これは、北海道で行われていた赤字の事業を、五代が政府から格安で払い下げられた一件を批判された事件。1400万円もの国費が注がれた「開拓使事業」が、わずか38万円で払い下げられたのです。ただ、この時払い下げられた事業はことごとくが赤字事業であったため、不正とは言い難い事件でした。

この「開拓使官有物払下げ事件」は、福沢諭吉にも批判されていました。

五代友厚は、大阪を拠点として、数々の経済基盤を作り上げています。

後の「造幣局」「全国鉱山の管理事務所・弘成館」「堂島米商会所」「大阪証券取引所」や「大阪商工会議所」「大阪市立大学」などを設立

事業としては「朝陽館」「大阪制銅(住友金属)」「関西貿易社」「共同運輸会社」「神戸桟橋」「大阪商船(商船三井)」「南海電気鉄道」などを設立

大阪財界はこれら五代友厚の尽力もあってか「東洋のマンチェスター」と呼ばれるほど商工業で発展し、一時期は東京をも上回る人口を誇る都市へと成長します。

最期

1885年、五代友厚は後の「日本銀行・大阪支店」となる地に居住します。

同年9月25日、東京の邸宅において病死。死因は「糖尿病」。享年49歳。


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子孫と家系図

五代友厚の子孫は、現在どこで何をしているのでしょうか?

調査してみましたところ、子孫には「サッカー日本代表」の「野村・杉村兄弟」や、宇宙工学者「五代富文」さんがいました。

五代富文さんとは、宇宙ロケットの基礎を作り上げた技術者。

五代富文さんと五代友厚の間に誰がいるのかはわかりませんでしたが、五代富文さんは曾孫・・つまり「ひ孫」に当たる方であるということがわかりました。

ちなみに・・・五代友厚の娘「藍子」の母親は、五代友厚の側室「宮地勝子」さん・・・他にも側室の子がいたようです。以下の家系図には書ききれていませんが、五代友厚は生涯に10人の子を残しています。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

NHK朝ドラ「あさが来た」で、俳優「ディーンフジオカ」さんが「五代友厚」を好演。

「ファーストペンギンになれ」

という名言を残していました。

荒波の中には何があるかわからないが、ペンギンの群れの中で真っ先に海へ飛び込むチャレンジ精神を持て!ということでしょう。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・五代友厚とは、幕末から明治にかけての武士・実業家。大阪財界の基礎を作り上げた

・五代友厚は薩摩藩士として生まれ、49歳で死去。死因は糖尿病

・五代友厚の子孫には「サッカー日本代表」や「宇宙工学者」がいる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


黒田清隆」「西郷隆盛」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「黒田清隆の最期と生涯!酒乱で奥さん撲殺の殺人総理大臣!」の記事はコチラ
「西郷隆盛の家系図を調査!子孫はカフェ経営やタレント女医の夫に?」の記事はコチラ
「西郷隆盛の本物写真が発見された?本当の顔を確認する方法とは!」の記事はコチラ

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