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黒田清隆の最期と生涯!酒乱で奥さん撲殺の殺人総理大臣!

第2代内閣総理大臣「黒田清隆」の「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。

薩摩藩出身の「黒田清隆」。義理人情に厚く「榎本武揚」を救った逸話は有名。

しかし酒癖が悪く、達人「木戸孝允」に退治された!

挙句の果てには、酔って奥様を殴り殺したという噂があるが、本当か?


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拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・黒田清隆とは、戊辰戦争箱館戦争などで活躍した、第2代内閣総理大臣

・薩摩藩士だった黒田清隆は、戊辰戦争・西南戦争などにも参戦し、酒乱で有名な人物だった

・酒に酔って、妻を撲殺した!という噂がたった・・・


黒田清隆とは何をした人?その功績を分かりやすく解説

『引用元ウィキペディアより』

黒田清隆

幕末・薩摩藩の武士にして、明治の政治家

同じ薩摩藩士「西郷隆盛」とともに「薩長同盟」締結のために奔走した人物です。

戊辰戦争」では、参謀として一軍の指揮を任されて各地を転戦。

明治新政府では、「北海道の開拓長官」「第2代内閣総理大臣」「農商務大臣」などを務めた人物です。

大久保利通をトップとする「薩摩派閥」のナンバー2であり、大久保利通が「紀尾井坂の変」で暗殺された後は、薩摩閥を率いて活動しています。



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黒田清隆の功績一覧

「黒田清隆」が成し遂げた功績を簡単に一覧で表すと、こんな感じ

・薩長同盟締結に尽力

・戊辰戦争において参謀を務め、各方面で活躍

・箱館戦争では、敵将「榎本武揚」を降伏させた上に、説得して新政府に参画させた

・北海道開拓に尽力

・榎本武揚とともに「千島樺太好漢条約」をロシアと締結

西南戦争に参戦

・第2代内閣総理大臣として「大日本帝国憲法」を発布



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黒田清隆の生涯と最期

生誕と生い立ち

黒田清隆は、1840年、薩摩藩・鹿児島城下・新屋敷町で誕生しました。

黒田家は、禄高わずか「4石」・・・つまり年間10表のお米が、収入の全てということ。

あの「西郷隆盛」の家ですら、家禄は「47石超」・・・それでも西郷家は貧困に苦しんだと言われているので、黒田清隆の家がどれほど貧しかったか、想像を絶しています。

貧しい家ではあったものの、黒田は修行に明け暮れ、剣術で「薩摩示現流」の免許皆伝を授かり、薩摩有数の猛者へと成長します。



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生麦事件

1862年、江戸から薩摩へと下る大名行列に同行した黒田は、相模の国(神奈川県)「生麦村」という地で大名行列を横切る英国人と遭遇。

薩摩藩士の「奈良原喜左衛門」や「海江田信義(有村俊斎)」が、英国人を惨殺。

この事件は後に「生麦事件」と呼ばれ、「薩英戦争」の原因となっています。

この「生麦事件」で黒田清隆は、剣術の達人であるにも関わらず抜刀せず、刀を抜こうとした仲間を止めたと言われています。

ちなみに生麦事件は、国内法では合法。

しかし英国はその後「薩英戦争」で薩摩藩に賠償金を支払わせています。

薩英戦争

1863年、生麦事件の報復として、薩英戦争が勃発。

黒田清隆も戦争に参加していますが、薩摩藩は惨敗。

イギリスに対して賠償金を支払うことで戦争は終結。

この後黒田は、江戸に留学して「砲術」を学び、そこで免許皆伝となっています。

薩長同盟

黒田清隆は「薩長同盟」締結のために各地を奔走。

長州藩へ使者として行き、同盟の必要性を長州藩に対して説いています。

この活動が実って、西郷隆盛と木戸孝允(桂小五郎)の会談が実現。

1866年、坂本龍馬の協力もあって、薩長同盟が締結されたのでした。

坂本龍馬

『引用元ウィキペディアより』



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戊辰戦争

1868年、旧幕府軍と薩長新政府軍の間に「戊辰戦争」が勃発

黒田は「鳥羽伏見の戦い」において、薩摩藩の一隊を率いて戦闘に参加。

その後、北陸方面鎮圧に「山県有朋」とともに「参謀」として参加。

鯨波戦争で勝利をおさめ、長岡藩との「北越戦争」を戦います。

この「長岡藩」には、蒼龍と呼ばれた「河井継之助」がいたのですが、黒田は「河井継之助」を評価しており、彼を新政府に取り入れるべきと考えていたようです。

しかし、その願いも虚しく、河井継之助は戦死。長岡城は落城。

その後、黒田は「新発田藩」「庄内藩」「米沢藩」などを降伏させます。

箱館戦争

1869年、黒田は旧幕府軍との最後の戦いに挑むべく、箱館へ。

しかし、旧幕府軍のトップ「榎本武揚」の能力を高く評価していた黒田は、「榎本」に降伏を強く勧めました。

それに従い榎本武揚は降伏。

黒田は榎本の助命を強く願い出て、榎本武揚を救うために髪の毛を剃り上げるほどでした。

1872年、榎本は釈放され、新政府において「農商務大臣」「文部大臣」や「外務大臣」を歴任することとなります。

ちなみに、黒田清隆の娘「梅子」と、榎本武揚の長男「武憲」が、後に結婚しています。



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北海道開拓

1869年11月22日、「いい夫婦の日」に、黒田は「中山清」という女性と結婚。

1870年には、「開拓次官」に就任し、樺太や北海道の開拓に尽力。

1874年には「開拓長官」に就任し、「陸軍中将」にもなっています。

北海道開拓に際して、黒田清隆は榎本武揚たち「旧幕臣」を数多く採用。

しかし、北海道での事業は上手く行かず、規模を縮小。これが後の「開拓使官有物払い下げ事件」につながることとなってしまいます。

征韓論反対!

1873年、西郷隆盛と大久保利通が「征韓論」を巡って対立。

征韓論を主張する西郷隆盛と、反対する大久保利通の争いが激化し、黒田は大久保利通と共に「征韓論」反対の立場を取ります。

樺太・北海道で活動する黒田は、北の大国「ロシア」の驚異を肌身で感じており、「征韓論」どころではないことを知っていたのです。

征韓論を唱えた「西郷隆盛」や「江藤新平」「板垣退助」「後藤象二郎」たちは下野。

同年、榎本武揚の尽力により「樺太千島交換条約」が締結されました。

1875年の「江華島事件」をきっかけに日本は「1876年2月」、黒田を全権として、朝鮮と「日朝修好条規」を締結

西南戦争

1877年、西南戦争が勃発。

黒田も鎮圧軍に参加しています。

山県有朋とともに鎮圧に赴いた黒田は、熊本城を包囲

北海道開拓で黒田が育て上げた精鋭部隊「屯田兵」は、この西南戦争鎮圧に力を発揮したと言われています。

1877年9月24日、西郷隆盛別府晋介の介錯で死亡。日本最後の内乱「西南戦争」は鎮圧されました。

西郷隆盛

『引用元ウィキペディアより』



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大久保利通・暗殺後

1878年5月14日、「紀尾井坂の変」で大久保利通が暗殺されました。

大久保利通

『引用元ウィキペディアより』

それまで「薩摩閥」のトップだった大久保に代わり、黒田が薩摩閥のトップに。

開拓使官有物払下げ事件

1881年、「開拓使官有物払い下げ事件」の騒動がおこります。

「開拓使官有物払い下げ事件」とは、政府機関である「開拓使」という官庁が保有していた事業を、めちゃくちゃ安値で売り払おうとした問題。

最近「森友学園問題」なるニュースが、世間を賑わせていました。あれは「9億円」の国有地を、わずか「1億円」で売却した問題ですが、この「開拓使官有物払い下げ事件」も似たようなもの。(ちなみに森友学園問題は、買手・籠池氏の値引き話術にのせられた財務省の『スーパーウルトラ凡ミス』というだけの話でした)

「1400万円」もの巨額の費用を投じた「船舶」「倉庫」「農園」「炭鉱」「ビール」「砂糖製造」などなど数々の事業を、わずか「39万円」で払い下げようとしたのです。

しかも払い下げの相手は、黒田清隆と同じ「薩摩藩」出身の政商「五代友厚」。

この問題は、批判が起こったために払い下げ中止となっています。

ちなみに・・・なぜ「39万円」まで値引きされたのかというと、これらの事業が全て「赤字」だったため、適正価格が非常に低かったから。

別に「五代友厚」と「黒田清隆」が友達だから値引きされたわけではない・・・ということです。



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内閣総理大臣に就任

1888年4月、黒田は伊藤博文のあとを継いで、第二代内閣総理大臣に就任

黒田内閣で行われた最大の事柄といえば、1889年の「大日本帝国憲法」発布。

黒田内閣は、1889年10月に倒れてしまいました。理由は「大隈重信」が、不平等条約改正に失敗して、爆弾で襲撃されてしまったため。(大隈重信遭難事件)

その後、黒田清隆は「枢密院顧問」や「逓信大臣」「枢密院議長」を歴任。

最期

1900年8月23日、黒田清隆は「脳溢血」で亡くなりました。享年59歳

酒癖が悪かったため、いくつかの失態をおかし、更には「開拓使官有物払い下げ事件」などのスキャンダルがあったため、薩摩藩の人間からは敬遠されていたみたいです。



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酒に酔って、妻を殺害した?

黒田清隆には、ある噂がありました。

「酒に酔っ払って、妻の清を殴って死なせた」

という噂です。

実は黒田・・・相当に酒癖が悪い人物だったのです。

1878年3月28日、奥様の「清」が亡くなりました。死因は「肺」の病気。夫に殺害されたわけではありません。

ところが、以前から酒癖が悪いと噂になっていた黒田清隆について、ある新聞がこんなことを書いたのです。

「出迎えが遅いことを理由に怒った黒田清隆により、妻は殺害された」

これを受けて、黒田は上司「大久保利通」に辞表を提出

しかし大久保利通は、黒田がそんなことをする人間ではないことを知っていました。そのため、辞意を思いとどまるように説得。

そして、黒田が潔白であることを証明するため、大久保利通は部下の警察「川路利良」に、黒田清さんのご遺体調査を命じます。

棺桶を掘り返して、清さんのお顔を確認したのみで、川路は「病死」と結論を出しました。おそらくですが、「殴られたような傷が顔にないかどうか」を確認したのでしょう。そんな傷がないことを、川路は確認したものと思われます。

黒田が妻を死なせた・・・これはおそらくガセでしょう。

確かに黒田は何度も、酒で失敗しています。

北海道で船に乗っている際に、泥酔して面白半分に大砲をぶっ放し、住民を死なせたことがありました。

ライバル「井上馨」の自宅に、酒によって侵入したり・・・。

酔ってで大暴れして、柔術の達人「木戸孝允」に取り押さえられ、毛布で「素巻き」にされて自宅へ送られたり・・・。

木戸孝允(桂小五郎)

『引用元ウィキペディアより』

しかし・・・黒田は非常に情け深い男でもあったのです。

箱館戦争で「榎本武揚」に降伏を勧告・・。榎本は自分の命と引き換えに兵士たちを助けてくれと嘆願しますが、黒田はそれを拒否。理由は「榎本は死んではならない逸材」だと信じていたため。

黒田は榎本武揚の助命に奔走。榎本もまた、黒田を信頼して、この後2人は支え合うこととなります。

黒田の葬儀に際して、榎本武揚は「葬儀委員長」を務めています。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・黒田清隆とは、第2代内閣総理大臣で、大久保利通の後に「薩摩藩閥」のトップとなった人物。

・黒田清隆は、戊辰戦争や西南戦争に参戦し、内閣総理大臣に就任したが、醜聞も多かった

・妻を撲殺したという噂もあったが、実際には肺病で亡くなった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


「木戸孝允」「大久保利通」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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