大久保利通の生涯と壮絶な最後!西郷隆盛と並ぶ『憎まれた英雄』の真実

大政治家「大久保利通」の「生涯」と「最期」について、わかりやすく解説いたします。

「大久保利通」の生涯は、どのようなものだったのか?

そしてなぜ、残酷に暗殺されたのか?

西郷隆盛・木戸孝允とならぶ「維新三傑」の一人にも関わらず、とてつもなく憎まれ続けた「英雄の真実」とは


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この記事を短く言うと

・大久保利通は、明治維新を成し遂げ、新政府で数々の改革を成し遂げた、事実上の首相(内務卿)

・1878年(西南戦争の翌年)、紀尾井坂の変で暗殺され、亡くなった

・武士の特権を次々廃止し、しかも英雄「西郷隆盛」を死なせたため、大久保は士族(元サムライ)達から・・・特に薩摩士族たちから嫌われた


大久保利通の功績とは?何をした人なのか?

大久保利通

西郷隆盛木戸孝允と並ぶ「維新三傑」の一人「大久保利通」

《大久保利通》
『引用元ウィキペディアより』

大久保利通の生涯と功績、最期を解説したいと思います。


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大久保利通の功績

大久保利通の功績を短く解説いたします。

・幕政改革を一時的にでも実現(「参預会議」「四侯会議」)

・流罪となった西郷隆盛を密かに守り、西郷による倒幕をかげながら支えた

・初代内務卿(事実上の首相)として明治政府で様々な改革を主導。富国強兵・殖産興業を実行(廃藩置県版籍奉還・学制・地租改正・徴兵令)

大久保利通は、間違いなく近代日本の基礎を作り上げた偉人です。つまり、今存在するこの「日本」という国の「基本構造(法律)」は、大久保利通がつくったものなのです。大久保がいなければ、今の日本はありえません。

例えば、今の日本では信じられないことですが、「江戸時代」の日本には、「藩」という事実上の「独立国」が全国に「300」近くも存在していました。「藩」は、それぞれに「税金」を徴収し、独自の「軍隊」を持っていたのです。

今の宮城県を支配していた「仙台藩・伊達家」は「仙台軍団」を持ち

今の石川県を支配していた「加賀藩・前田家」は「加賀軍団」を持ち

今の山口県を支配していた「長州藩・毛利家」は「長州軍団」を持ち

今の鹿児島県を支配していた「薩摩藩・島津家」は「薩摩軍団」を持っていたのです。

これら「藩」という独立国を、「版籍奉還」「廃藩置県」という改革を断行してすべて叩き壊し、「日本」という1つの国に統一したのが「大久保利通」なのです。

大久保がいなかったら、日本は複数の国に分裂したままだったかもしれません。

倒幕を成し遂げた西郷隆盛の影に隠れていますが、新国家の基礎を作り上げる「官僚」としての能力(実務能力)は、西郷隆盛よりはるかに上。

その実務能力は、ライバル「江藤新平」よりも上だったと思います。


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大久保利通の簡単年表

「大久保利通」の詳しい生涯については後述いたしますが、まずは年表を簡単に解説いたします。

 

1830年9月26日(1才)、大久保利通・誕生。

1844年(15才)、元服。「正助」と改名

1846年(18才)、薩摩藩・記録所書役助に

1850年(21才)、「お由羅騒動」で役職を罷免されて謹慎。貧困のドン底にあるところ「西郷隆盛」から食事などの支援を受ける

1853年(24才)、記録所書役助へ復帰・・・この年に「ペリー来航

1857年(28才)、徒目付役に出世。「精忠組」の実質的リーダーとして活動

1860年(31才)、勘定方小頭格へ出世。この年「桜田門外の変」で大老「井伊直弼」暗殺

1861年(32才)、御小納戸役へ出世

1862年(33才)、「大久保一蔵」に改名

1863年(34才)、御小納戸取締兼お側役へ出世

1865年(36才)、「利通」と改名

1867年(38才)、率兵上京で幕政改革に成功。四侯会議実現。しかし「一橋慶喜」のせいで、すぐに崩壊


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1867年、「大政奉還

同年、大久保利通や岩倉具視は「王政復古の大号令」により「辞官納地」を徳川慶喜に迫る。戊辰戦争が勃発。

1868年(明治元年)39才明治維新が成る。元号が「明治」に改められる。

1869年(明治2年)(40才)、参議就任。「版籍奉還」「廃藩置県」を強行

1871年(42才)、大蔵卿に就任。岩倉使節団で諸外国を視察

1873年(44才)、帰国。西郷隆盛と「征韓論」で対立。西郷たちは下野(明治六年の政変

同年、内務省を設置。大久保は初代・内務卿(事実上の首相)に就任。

「学制」「地租改正」「徴兵令」を実行


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1874年(45才)、「佐賀の乱」勃発。「江藤新平」は刑死

同年、台湾出兵。

1877年(48才)、「西南戦争」勃発。

1877年5月26日、「木戸孝允」が京都で病死。

1877年9月24日、西郷隆盛・戦死。享年49歳

1878年5月14日(49才)、「紀尾井坂の変」で大久保利通、暗殺

享年49歳。

墓所は東京「青山霊園」


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大久保利通の生涯と、悲惨な最期

大久保利通の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

1830年9月26日、大久保利通・誕生。父・大久保利世、母・福

1844年、元服。「大久保正助」と名乗る

1846年、薩摩藩・記録所書役助の役職につく

1850年、「お由羅騒動」で役職を罷免されて謹慎。父「大久保利世」は流罪。

1853年、記録所書役助に復帰

1857年、徒目付役になる。西郷隆盛も同じ役職に配置。若手薩摩藩士の集団「精忠組」の実質的なリーダーとして活動


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西郷隆盛が奄美大島へ!島津久光に接近!

1859年、西郷隆盛が「安政の大獄」によって幕府から追われ、「菊地源吾」と改名して奄美大島へ潜伏。

1859年10月、薩摩藩10代藩主「島津斉興」死去。その息子「島津久光」が「国父」として薩摩藩の実権を握る。

(諸説ありますが)大久保利通はこの頃から「囲碁」を学んで、囲碁が好きだった「島津久光」に接近することを画策し始める。その作戦は成功し、島津久光は大久保利通をブレーンとして側に置くようになる。

1860年、大久保利通、「勘定方小頭格」に昇進

1861年、さらに「御小納戸役」に昇進し、薩摩藩の政治に参画するようになる

1862年、島津久光から「一蔵」と名付けられ、以降「大久保一蔵」と名乗る

同年、公武合体を実現するため、兵を率いて京都へ(率兵上京)

この時、有馬新七などの「薩摩藩過激派」が京都・寺田屋で粛清される(寺田屋事件

兵の力で幕府へ圧力をかけ、幕政改革を幕府に迫る。結果「一橋慶喜」を「将軍後見職」に、「松平春嶽」を「政治総裁職」に就任させる

また、「土佐藩・山内容堂」、「宇和島藩・伊達宗城」、「会津藩・松平容保」、「薩摩藩・島津久光」などによる「参預会議」を実現させ、「外様大名」による幕政への参画を実現させる。

また、大久保は「御小納戸取締」に昇進。小松帯刀とともに島津久光の側近を務めることとなる

しかし、「一橋慶喜」に政治工作により、「参預会議」は短期間で崩壊。

大久保利通が画策した島津などの「外様大名」による幕政への参加は、「一橋慶喜」の手で阻止されることとなる


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1863年、御小納戸取締兼お側役に昇進

1865年、「大久保一蔵」から「大久保利通」と改名

1866年、第二次長州征伐に反発し抵抗

1867年、四侯会議の開催を実現させ、幕政改革に成功。

しかし、またしても一橋慶喜による「外様勢力(薩摩藩など)の政治への参加阻止」の手により、四侯会議はあっという間に崩壊。

大久保利通はこの頃から「公武合体」から「倒幕」へと方針を転換する事となる。

この時「一橋慶喜」という人物が「幕府」勢力を維持した古い政治を志す人間であると見抜き、後に坂本龍馬の「船中八策」などによる「慶喜を新政府に参画させる」などの案を、大久保利通は認めず、徹底的に徳川慶喜排除をしようとする。

大久保利通は、「慶喜を新政府に参加させたら、巧みに主導権を握られて、再び旧幕府勢力による日本統治が始まる」と考えたのだろう。


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倒幕運動

1867年、徳川慶喜が「大政奉還」。その後、大久保利通は「王政復古の大号令」を起こし、徳川慶喜に「辞官納地(官位を辞め、領地を変換すること)」を迫る。

この挑発行為に乗った「旧幕府」勢力は、「鳥羽伏見の戦い」で新政府軍に敗北。戊辰戦争が勃発。

西郷隆盛が率いる「新政府東征軍」が、江戸城無血開城を実現し、江戸幕府は終焉。徳川慶喜は上野寛永寺・水戸・静岡へと謹慎。命は助けられることとなる


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明治政府を主導

1868年、大久保利通は「大坂への遷都」を主張。明治維新。元号が「明治」に改められる。

1869年(明治2年)、参議就任。版籍奉還・廃藩置県を強行

1871年、大蔵卿に就任。岩倉使節団に同行し、諸外国との「不平等条約」の改正に尽力するも失敗。この時、大久保利通はドイツの「鉄血宰相・ビスマルク」と面会し、強く影響を受けた


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「征韓論」で「西郷隆盛」と対立!

1873年、欧米視察から帰国。

視察していた2年間、留守をつとめていた「西郷隆盛」たちは「朝鮮半島」の難題に直面していた

朝鮮半島はこのとき「李氏朝鮮」がおさめており、朝鮮国王の父「大院君」が朝鮮半島の最高権力者として君臨。

当時の朝鮮半島は、文明としては非常に遅れていたものの、排外主義・・つまり外国勢力に対して怖いもの知らずというか、井の中の蛙というか、とにかく攻撃的だった

征韓論が日本で持ち上がる7年前の「1866年」、朝鮮半島は「ゼネラルシャーマン号事件」でアメリカを、「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」という事件でフランス軍を撃破。圧倒的だったはずの先進国「フランス」に、奇跡的に・・・なぜか勝利してしまった。

朝鮮半島は自国の国力と鎖国政策に自信を深め、日本にも高圧的な態度を取るようになる。

日本から、国交を求める使者を何度もおくったものの、朝鮮はそれをことごとく拒絶。

挙句の果てには1873年、「大院君」が驚くべき布告を国中に宣言

「日本が夷狄(野蛮な賊徒)と化した。

日本人は、獣と変わらぬ存在だ!

我が国民が、日本人と交わるのであれば、即座に処刑する」

この布告に日本は驚愕。当時、朝鮮半島には約2000人の日本人居留民が存在していた

西郷隆盛は、自らが朝鮮に使者として渡り、朝鮮に開国を迫りたいと希望。「江藤新平」や「板垣退助」ら肥前・土佐の藩閥たちも、これに賛成。

西郷は政府の最高位にいた「三条実美」に、許可を求めたが、「西郷が朝鮮にいけば、殺される可能性がある」と考えた三条実美はこれに反対。

西郷を思いとどまらせるため、三条実美は、欧米から帰国した「大久保利通」に、西郷を説得してほしいと依頼。

大久保は三条実美の依頼を受けて、西郷隆盛の朝鮮行きに強く反対。大久保は盟友「西郷」が死ぬかもしれない征韓論に、強硬に反対。

このとき、大久保利通は土佐藩・肥前藩の藩閥たち「江藤新平」「副島種臣」「板垣退助」「後藤象二郎」らに、薩長が政府の権限を独占していることを責められ、苦戦していた

大久保は、誰よりも信頼する盟友「西郷隆盛」を味方にして、薩長の勢力を盛り返そうとするも、西郷は2年の間ともに留守政府を預かった「江藤新平」らを支持。

西郷隆盛に味方してもらえなかった大久保利通は、西郷隆盛を朝鮮に派遣する征韓論に、強く反対し、西郷隆盛の支援を取り付けた「江藤新平」たちと激しく対立することとなる。

このとき、「西郷」という盟友を江藤新平に奪われた大久保は、江藤を怨み、その怨念が「江藤新平処刑」へとつながる事となる。

政争に敗北した西郷・江藤たちは、下野(明治六年の政変)。西郷を慕う政府の要人たち約600人が、西郷について新政府を抜けていく

これが「明治六年の政変」・・・・西郷隆盛と大久保利通の永遠の別れとなる

「【明治六年の政変とは】世界一わかりやすく解説!愛憎うずまく派閥争いだった」の記事はコチラ
西郷隆盛と大久保利通はなぜ対立した?2人の関係を物語る逸話とは!」の記事はコチラ

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「西南戦争」西郷隆盛の死

1873年、内務省を設置し、大久保利通は初代内務卿に就任。「学制」「地租改正」「徴兵令」を実行

1874年、江藤新平による「佐賀の乱」勃発。大久保利通が自ら鎮圧し、ライバルだった「江藤新平」は、判決のその日に、即処刑される

同年、台湾出兵。後に大久保利通は、清国と戦後処理交渉を行う

1877年、「西郷隆盛」による「西南戦争」が勃発。大久保利通は京都で政府軍の指揮を取る。

1877年5月26日、大久保利通と並ぶ「維新三傑」の一人「木戸孝允」が京都で病死。もともと「西郷征伐」の総大将は「木戸」自ら希望していた。病気をおして木戸は京都へ進軍。密かに西郷を説得し、西郷を救おうとしていたのではないかと言われている。

木戸は最期、大久保利通の手を握り

「西郷もいい加減にしないか」

と西郷と政府の両方を心配する言葉を残して亡くなった。

1877年9月24日、西郷隆盛・戦死。享年49歳

西郷の死を聞いた大久保は、自宅でほぼ半狂乱のように泣き続けた。

鴨居に頭をぶつけながらも、歩きまわりながらブツブツと

「おはんの死とともに、新しか日本が生まれる。

強か日本が・・・・」

大久保は、一晩中嘆き続けたのです。まるで自分の片割れを失ったかのように。狂ったように泣き続けたのです。

 

西南戦争」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

「西南戦争の原因を簡単にわかりやすく解説!西郷隆盛の最期と覚悟に絶句」の記事はコチラ
「【田原坂の戦いとは】超わかりやすく解説!激戦の場所を地図でご紹介」の記事はコチラ

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最期

1878年5月14日、東京千代田区紀尾井町の「紀尾井坂」で、石川県の不平士族5名、鳥取県の不平士族1名に襲撃され亡くなる。(紀尾井坂の変)

享年47歳。

その様子はすさまじく、刀が急所つらぬき、地面に突き刺さっていたほど。

ご遺体を観た「前島密(まえじまひそか)」は、こんなことを言っています。

「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」

暗殺現場「紀尾井坂」は、現在の「四ツ谷駅」「上智大学」近くです。


大久保のふところには、前年に亡くなった「西郷隆盛」から送られた、二通の手紙がおさめられていた。

「美男子とは言えないのだから、写真を取るなど、もうおやめなさい」

大久保の写真好きを注意する西郷の手紙。

もう一通は「王政復古の大号令」について、その意味を誤解されることのないように、各方面にしっかり説明するように、という大久保を心配する手紙。

まるで、ラブレターを何度も何度も見返すかのように・・・。憧れの存在からもらった手紙を何度も見返すように・・・。大久保は肌身離さず、西郷からの手紙を持ち歩いていたのです。

西郷隆盛を死なせた大久保利通。しかし大久保にとって西郷隆盛は「宿敵」「政敵」では決してなく、「兄」であり「友」、なにより自らを常に「応援」し支えてくれた最大の理解者でした。

血に染まった手紙は、西郷のいとこである「大山巌」に渡ったとのことです。その後のゆくえは不明。

大久保の墓所は東京「青山霊園」

大河ドラマ「篤姫」で、「原田泰造」さん演じる「大久保利通」が、襲撃を受けて亡くなるとき、最期にこんなセリフを言っていました。

「まだやらなくてはならないことがある。

吉之助さぁ・・・」

大久保は、亡くなる当日の朝、自宅を訪れた福島県令「山吉盛典(やまよしもりすけ)」に対して、こんなことを言っています。

「内乱も終わり、ようやく平和が訪れた

これで御一新(明治維新)の事業を前に進めることができる。

しかし、それには30年はかかるだろう。

まず、明治元年からの10年は、内乱の時代だった。これはすでに終わった。

次に11年から20年までを内治、つまり「富国」、日本の産業を育てる時代。私はこの時代を担当し、国内の政務に力をつくしたい。

最期の明治21年から30年までの時代で、我々のあとを継ぐ若き賢人たちに席をゆずり、次代の発展を待つ」

大久保利通が亡くなったのは明治11年。彼がやるべき残り10年の「富国」の時代を前にして、亡くなったのです。

盟友「西郷隆盛」を死なせ、その犠牲を無駄にしないためにも、自分は日本を強く豊かにしなくてはならない。そう思っていた矢先の襲撃でした。

その無念は、どれほどのものだったか・・・想像を絶するものがあります。


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なぜ暗殺されたのか?暗殺理由は勘違い?

不平士族たちは、事件の直後「斬奸状(ざんかんじょう)」・・つまり「奸臣を斬った理由を書いた書状」を持って警察へ出頭

そこには大久保利通暗殺の理由として「5つ」の動機が書かれていました。

・国会・憲法を解説せず、自由民権を圧迫している

・朝令暮改が激しく、役人採用はコネによるところが多い

・不必要な土木事業・建築により、国費が浪費されている

・憂国の志士を排除し、内乱を引き起こした

・外国と条約改正をせず、国の威信を失墜させた

しかし、大久保利通は清廉潔白な人で有名でした。

自費を投じて公共事業を実現したり、自ら借金までしているほどでした。死後は「8000円」という巨額の借金が残ったと言われています。当時の8000円は、現在の価値で言えば、だいたい「4000万円」ほどでしょうか。(債権者たちは、大久保を尊敬していたので、死後だれ一人として、借金取り立てに来なかった)

国会・憲法の設置については、その前に「富国強兵」を成し遂げないと諸外国の侵略を招きかねません。時間がなかったのです。まずは独裁的に、迅速に国力を充実させることが大切だったのでしょう。独裁とはいえ、大久保利通は私腹を肥やすことは一切していません。

また、憂国の志士を排除・・・というのは「武士の特権」を取り除く「四民平等」を批判したものだと思われますが、それもまた、近代化には必要不可欠。

条約改正をしていない・・・・という一文について、大久保利通は「岩倉使節団」で条約改正に挑戦したが失敗。まだまだ日本の国力が足りなかったので仕方ありません。

つまり、この「斬奸状」は的外れ。

事件を起こした不平士族6名は、裁判にかけられた後、処刑されています。


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【憎まれた英雄】西郷隆盛の影を務めた、大久保の真実

英雄「西郷隆盛」を死なせた男

大久保利通は、当時から武士に嫌われていました。

現在でも彼の故郷「鹿児島」ではかなり嫌われています。

なぜか?

理由は簡単。「西郷隆盛を死なせた男だから

清廉潔白な「西郷隆盛」。260年続いた江戸幕府を、実質的に倒した男「西郷隆盛」は、当時から絶大な人気を誇っていました。

そんな西郷隆盛が、政府の悪政を正す・・・という名目で起こしたのが「西南戦争」・・・と言われています。

その西南戦争を起こした「西郷隆盛」の軍を倒した「新政府軍」。この政府軍を指揮していたのが「大久保利通」なのです。大久保利通は当初「司令官」に任命されていた「木戸孝允」に代わり、京都で政府軍に命令を下していました。

西郷隆盛は西南戦争で戦死。

これにより、大久保利通は、薩摩の人間から憎まれることになります。

大久保の故郷「鹿児島」への埋葬も、銅像建立も実現したのはつい最近。

西南戦争鎮圧のために政府軍として戦った「西郷隆盛」の従弟「大山巌」は、西郷隆盛と戦ったことを生涯悔やみ続け、鹿児島へは死ぬまで帰らなかったほどですので、薩摩の人がどれほど大久保を憎んだかが推し量れます。


西郷隆盛と大久保利通の関係」について、詳しく解説いたします。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

「西郷隆盛と大久保利通はどういう関係なの?対立の理由と、残酷な最後」の記事はコチラ

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大久保利通は、武士特権を取り除いた人

実は大久保利通は、西南戦争で西郷隆盛が亡くなる前から、元武士(士族)から憎まれていました。

なぜかというと、「四民平等」という名目で、武士の特権を次々排除したから。

廃藩置県」「廃刀令」など。

新しい時代のために戦った武士は、その恩恵を受けるどころか、自らの特権を奪われることとなったため、改革を主導した大久保利通を憎んだのです。

通常、革命を起こした者たちは、自らの私腹を肥やすものですが、大久保利通は真逆。自らの利益を全く考えず、国のために力を尽くしています。好きなものと言えば「漬物」と「囲碁」。たった一人の愛娘をこよなく愛し、愛妾が一人「おゆう」がいたものの、当時の常識からすると愛妾一人などかわいいものです。「伊藤博文」や「井上馨」など、大久保に比べたら私腹を肥やす「悪の権化」に見えるほど。

そんな大久保であるにもかかわらず、共に戦った「薩摩藩士」たちから憎まれ、最期は西郷隆盛とともに西南戦争で戦おうとして果たせなかった「石川県の不平士族」に暗殺されています。

大久保利通・・・確かに西郷隆盛ほど「華」はないですが、近代日本の基礎をつくったのは間違いなく大久保利通です。

明治政府の草創期、大久保利通が実質的な「首相」として、明治政府のリーダーを務めていたことは、疑いようもない事実なのです。


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大久保利通の「子孫」や妻・愛妾・子供

大久保利通の子孫は、元総理「麻生太郎」

大久保利通の子孫は、現在まで続いております。

以下に大久保利通の「家系図」画像をのせておきます。

大久保利通の息子で、「山本権兵衛内閣」で外務大臣を務めた「牧野伸顕」。その牧野の娘「雪子」が、総理大臣「吉田茂」と結婚。

吉田茂と雪子の孫にあたるのが「麻生太郎」元総理なのです。

ちなみに、麻生さんの妹「信子」さんは、「髭の殿下」と呼ばれて親しまれた「寛仁(ともひと)親王」殿下とご結婚。

大久保利通の血は、皇族に受け継がれているということです。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」(大久保には八男一女がいましたが省略しております)


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愛妾「おゆう」と、大久保利通の子供たち

大久保利通の妻は「満寿子」さんですが、大久保には「愛妾」がいました。

「おゆう」さんです。

上の家系図では省略いたしましたが、大久保利通は「8男1女」の子宝に恵まれています。

正妻「満寿子」さんが「4男1女」を産み、愛妾「おゆう」さんが「4男」を産んでいるのです。

大久保利通の子供たちを、まとめてご紹介いたします。

正妻「満寿子」の子供たち

長男「大久保利和」・・・・鉄道事業の実業家にして、貴族院議員。

次男「牧野信顕」・・・・・「吉田茂」首相の義父。外務大臣を務めた。

三男「大久保利武」・・・・鳥取・大分・埼玉の県知事を歴任。貴族院議員。

五男「石原雄熊」・・・・・石原家に養子入り。昭和18年まで生きた。

長女「芳子」・・・・・・・外務大臣「伊集院彦吉」の妻。昭和40年死去。


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愛妾「おゆう」の子供たち

四男「大久保利夫」・・・・海軍軍人を目指しながらも、明治27年に27歳で病死。

六男「大久保駿熊」・・・・鳥取農学校教師、農業技術者

七男「大久保七熊」・・・・農学者となり殖産興業に力を尽くした。昭和18年死去。

八男「大久保利賢」・・・・「二・二六事件」で暗殺されたダルマ宰相「高橋是清(たかはしこれきよ)」の娘婿。横浜正金銀行の頭取。昭和33年死去。戦後13年生きたことになります。

 

ちなみに「おゆう」さんは、1918年(大正7年)1月26日に亡くなります。

大久保利通が亡くなったのが「1878年(明治11年)」。つまり「おゆう」さんは、大久保の死後40年生きたことになりますね。

正妻の「満寿子」さんはというと、ちょっと悲しい最期を遂げています


「大久保利通」の正妻「満寿子」さんについては、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

「大久保利通の妻『大久保満寿子』の生涯!思わぬ運命に翻弄された最期」の記事はコチラ

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大久保が残した「名言」一覧

大久保利通は、数々の名言を残した人物として有名です。

その「名言」と「意味」を、一覧でご紹介いたします。

 

今日のままにして、瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず
(変わらずに崩壊するよりは、積極的に決断して崩壊したほうが良い)

 

堅忍不抜(けんにんふばつ)
(どんな辛い困難にも、耐えて動じないこと)

 

為政清明(いせいせいめい)
(政治家たるものは、常によどみなく、清廉潔白でなくてはならない)
おそらく清廉潔白だった「西郷隆盛」を見習って、大久保はこの言葉を肝に銘じていたのだろう。

 

目的達成のためには、人対人の関係にわずらわされていたら、物事は進みっこない。そういうものは思い切って振り切り、前に進むべきだ
(坂本龍馬も「義理などというものに縛られてはいけない」と、似たようなことを言っていました。)

 

国家創業の折には、難事は常に起きるもの。そこで自分一人でも、国家を維持するほどの器がなくては、辛さも苦しみも耐え忍び、志を全うすることなど、できはしない
(日本を近代国家に生まれ変わらせるために、最愛の盟友「西郷隆盛」を死なせた大久保の、血を吐くような覚悟がにじみ出た言葉です)

 

これらの名言をよんでみると、大久保利通という人が、「忍耐の人」であったことがわかります。

それと同時に、「大博打」を打つこともできる人物でもありました。

大久保は「超現実主義者」でありながら、「理想」を忘れることもない「理想主義者」でもあったのです。だからこそ「鳥羽伏見の戦い」という、絶対に勝ち目のない戦いに全てを賭けて踏み出し、「明治維新」という革命を成功させることができたのです。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・大久保利通は、近代日本の基礎を作り上げた人物。対して西郷隆盛は、旧体制(江戸幕府)を崩壊させた人物

・大久保は西郷を支えて倒幕を実現し、明治政府で様々な改革を実現。1878年「紀尾井坂の変」で亡くなった

・大久保は西郷隆盛を死なせたとして、かなり嫌われている。当時から、武士階級の特権を次々奪ったとして、士族から憎まれていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


大久保利通」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓

「大久保利通暗殺の犯人と襲撃場所を徹底検証!現場の状況がすさまじい」の記事はコチラ
「大久保利通がしたことをわかりやすく簡単解説!暗殺された理由は何?」の記事はコチラ
「大久保利通の家系図を調査!子孫は内閣総理大臣で財務大臣のあの人!」の記事はコチラ

 

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