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大久保利通・最後の言葉は『無礼者!』暗殺を予知した予言の夢とは

明治11年(1878年)5月14日、東京・麹町区紀尾井町清水谷。

新緑が鮮やかに映える初夏の朝、一人の男の死によって、明治維新という壮大な革命劇は一つの終止符を打ちました。

その男の名は、大久保利通

内務卿として当時の日本政府を実質的に支配し、「維新の三傑」の最後の一人として、近代国家建設の重責を一手に背負っていた巨人です。

享年49(満47歳)。あまりにも唐突な死でした。

ドラマや小説では、盟友・伊藤博文へ国家の未来を託す手紙を書いたり、西郷隆盛の名を呼んで倒れたりと、感動的に描かれることが多いこの最期のシーン。

しかし、史料を丹念に紐解くと、そこには美談だけでは語りきれない生々しい真実と、大久保自身が死の直前に見ていた不思議な「予知夢」の話が隠されていました。

この記事を読むことで理解できること
  • 大久保利通の「最後の言葉」は感動的な遺言ではなく、あの一喝だったという史実
  • 有名な「30年の計」の手紙は、実は暗殺当日に書かれたものではないという真相
  • 暗殺の数日前、大久保が西郷隆盛に関して見ていた「不気味な予知夢」の詳細
  • 大久保の冷徹な政治DNAが、子孫である麻生太郎氏らにどう受け継がれたかの系譜

教科書には載っていない「大久保利通の最期の真実」を、当時の一次史料や証言をもとに、ミステリーを解き明かすように詳細に見ていきましょう。

目次

大久保利通が残した「最後の言葉」とは?

大久保利通の肖像写真
大久保利通
引用元「Wikipediaコモンズ」より

大久保利通の死については、後世の創作や美化が入り混じり、何が真実なのかが見えにくくなっています。
まずは、彼がこの世に肉体を持って存在した最期の瞬間に、本当に残した言葉は何だったのか、その真相に迫ります。


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暗殺の瞬間に放った一喝「無礼者!」

結論から申し上げますと、大久保利通がこの世で発した生物学的な最後の言葉は、襲撃者たちに向けた「無礼者!」という一喝、あるいは「待て!」という制止の言葉だった可能性が極めて高いです。

事件が発生したのは午前8時頃。大久保はいつものように、霞が関の自宅から馬車に乗り、赤坂の仮御所へと向かっていました。
現場となった紀尾井坂(現在のホテルニューオータニ付近)は、喰違見附(くいちがいみつけ)と呼ばれるクランク状の道があり、馬車がスピードを落とさざるを得ない場所でした。

【襲撃の瞬間】
草むらに潜んでいた刺客6名が飛び出し、まずは先頭の島田一郎が馬の足を日本刀で斬りつけました。
馬が嘶(いなな)き、馬車が急停止します。
何事かと車内の大久保が扉を開けようとしたその瞬間、白刃をひっさげて迫りくる暴漢たちの姿を目にします。

御者の中村太郎の証言や現場の状況検証によると、大久保は即座に事態を理解し、彼らを叱責するように「無礼者!」と叫んだとされています。
しかし、その直後に島田らによって車外へ引きずり出され、額や首へ致命傷となる一撃を受けました。

法医学的な見地からも、喉や脳への損傷は甚大で、発声機能は即座に失われたと考えられます。
ドラマのように、刺客相手にとうとうと日本の未来を説いたり、「西郷、おはんのとこへ行くぞ」と語ったりする時間は、物理的に存在しなかったのです。
最期の瞬間まで、彼は威厳ある「明治政府の最高指導者」として振る舞い、そのまま沈黙のうちに散っていきました。


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伊藤博文への最期の手紙が絶筆に

では、歴史番組などでよく語られる「伊藤博文へ日本の将来を託した遺言の手紙」は嘘なのでしょうか?
これには少し複雑な「事実の混同」があります。

【事実1:当日の手紙は事務連絡だった】
実は、大久保が暗殺当日の朝、出勤前に伊藤博文へ手紙を書いたこと自体は事実です。
しかし、国立国会図書館の憲政資料室に残る記録などを照合すると、その内容は以下のような非常に事務的なものでした。

「今日の会議には遅れずに来てくれ。
懸案事項(地方官会議の開催など)について話し合いたい」

この手紙からは、大久保が自分が今日死ぬなどとは微塵も思わず、意欲的に公務に取り組もうとしていた姿勢が伝わってきます。これを「遺書」と呼ぶには無理があります。

【事実2:「30年の計」は数日前の発言】
一方で、有名な「明治国家30年の計」は実在する構想です。
これは暗殺の数日前、大久保が大阪・堺の浜寺公園などを訪れた際、福島九成(ふくしまきゅうせい)ら側近たちに口頭で熱く語っていた内容です。

時期 計画の概要 大久保の役割
最初の10年
(創業)
兵乱が多く、創業の苦難の時期。
西郷の死(西南戦争)で一区切りついた。
私が担当した。
次の10年
(内治・殖産)
内政を整え、殖産興業を推し進める時期。
ここが正念場である。
私が先頭に立ってやり抜く。
最後の10年
(守成)
後進の賢者に譲り、帝室の繁栄と
国民の幸福を見守る時期。
後輩たちに任せて引退する。

この壮大なビジョンが、後世の伝記作家やドラマ脚本家によって、「最後の手紙」のエピソードと合体させられ、劇的な「遺言」として定着したというのが真相です。
しかし、書面には残っていなくとも、大久保の頭の中には死の瞬間までこの青写真があったことは疑いようのない事実でしょう。

懐に残された西郷隆盛からの手紙

大久保の遺体には、もう一つ、歴史ファンの涙を誘う有名なエピソードがあります。
襲撃を受け、血に染まった彼のコートの内ポケット(懐)から、大切に包まれた二通の古い手紙が見つかったのです。

それは、前年(明治10年)に西南戦争で自刃したかつての盟友・西郷隆盛からの手紙でした。
一つは幕末の元治元年に書かれたもの、もう一つは海外視察中の大久保に宛てられたもので、どちらも大久保の体調を気遣い、互いの友情を確認し合う内容でした。

上野・西郷隆盛像
引用元「Wikipediaコモンズ」より

二人は政治的対立から袂(たもと)を分かち、最後は「官軍の総大将」と「賊軍の首魁」として戦うことになりました。
世間からは「冷酷な独裁者」「西郷を殺した男」と憎まれた大久保。
しかし、誰にも見せないコートの奥底には、誰よりも深い西郷への想いと、あの頃の友情が、死の瞬間まで温められていたのです。


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紀尾井坂の変で暗殺された理由

なぜ、大久保利通は殺されなければならなかったのでしょうか。
実行犯たちは決して狂人でも単なる野盗でもなく、彼らなりの「正義」と「論理」を持った確信犯でした。

なぜ大久保利通は狙われたのか?犯人の動機「斬奸状」に記された5つの罪

実行犯である島田一郎(しまだいちろう)ら石川県(旧加賀藩)士族のグループは、犯行現場に「斬奸状(ざんかんじょう)」と呼ばれる声明文を残していました。

そこには、大久保利通を「国家の敵」として断罪する以下の5つの罪状(五罪)が記されていました。

斬奸状で指摘された大久保の「5つの罪」
  • 公議を絶ち民権を抑う
    (国会を開かず、民権を抑圧し、独裁政治を行っている)
  • 法令を漫施し私恩を請う
    (法律を勝手に作り、薩摩・長州出身者ばかり優遇する情実人事を繰り返している)
  • 不急の土木を起こし国財を費やす
    (不要不急の土木工事を行い、国の財産を無駄遣いしている)
  • 国を憂うるの士を排し内乱を醸成す
    (国を思う志士(西郷ら)を排除し、西南戦争という内乱を引き起こした)
  • 外交を誤り国権を喪失す
    (外交を誤り、不平等条約の改正もできず、国の名誉を傷つけた)

現代の視点で見れば、大久保が進めた「土木工事(鉄道や港湾整備)」や「現実的な外交」こそが日本の近代化を早めた要因ですが、当時の士族たちにとっては「伝統の破壊」や「弱腰」にしか映らなかったのです。
特に「民権」という言葉を使っている点が興味深いですが、彼らが求めたのは現代的な民主主義ではなく、「士族(武士)による政治参加」の復権でした。
彼らは当時の新聞や世論が漠然と抱いていた不満を代弁する「ロジック」を持っており、だからこそ暗殺直後には彼らに同情する声すら上がったのです。


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西南戦争後の不平士族たちの怨念

この事件の最大の背景には、前年(明治10年)に終結した西南戦争があります。
西郷隆盛という精神的支柱を失った士族たちの絶望と怒りは、行き場を失い、すべて勝利者である大久保利通へと向けられました。

特に実行犯のリーダー格である島田一郎は、かつて西郷隆盛に心酔し、国事に奔走した経験を持つ人物でした。
彼らにとって大久保は、単なる政治的な敵ではなく、「西郷先生を追い詰めて殺した裏切り者」でした。
大久保暗殺は、彼らにとってテロリズムであると同時に、武士としての意地を見せる「仇討ち(あだうち)」の側面を持っていたのです。

警護トップ川路利良の「致命的な油断」

当時、警察組織のトップである大警視を務めていたのは、同じ薩摩出身の川路利良(かわじとしよし)でした。
彼は「日本警察の父」と呼ばれるほど優秀な人物でしたが、この時は致命的なミスを犯してしまいます。

西南戦争が終わり、最大の脅威であった西郷軍が消滅したことで、政府内には「もはや大規模な反乱は起きないだろう」という平和ボケに近い油断が生じていました。
川路自身も欧州視察の準備に忙殺されており、大久保の護衛体制は極めて手薄になっていました。

当日、大久保の馬車に付き添っていたのは、御者と従者のたった2人だけ。
武装した警官隊による護衛はありませんでした。
「もう自分を殺すほどの気骨ある奴はいまい」
大久保自身のそんな諦めにも似た油断が、悲劇を招いたとも言えます。


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暗殺を予知していた?大久保が見た「恐怖の予知夢」

大久保利通は極めて合理的で、迷信や非科学的なものを嫌う「リアリスト」でした。
しかし、そんな彼が死の直前には、不思議と「超自然的」な体験を周囲に語っていました。
まるで自分の死期を悟っていたかのような、背筋が凍るエピソードです。

事件の数日前に前島密に語った「不思議な夢」

「郵便制度の父」として知られる前島密(まえじまひそか)は、大久保の信頼厚い部下でした。
大久保は死の数日前、公務の合間にふと、前島に対して「最近、奇妙な夢を見るのだ」と漏らしたと言われています。

前島密
前島密
引用元「Wikipediaコモンズ」より

普段、弱音も吐かず、非科学的なことなど一切口にしない大久保の発言に、前島も驚きを隠せなかったでしょう。
この時期の大久保は、時折見せる異常な陽気さと、ふとした瞬間の深い沈鬱さが入り混じり、精神的に不安定な状態にあったと側近たちは回想しています。
それは、西郷を死なせてしまったことへの罪悪感(サバイバーズ・ギルト)だったのかもしれません。


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西郷隆盛に崖から突き落とされる夢の内容

その夢の内容は、あまりにも具体的で恐ろしいものでした。
大久保の次男・牧野伸顕の回想録などによると、以下のような内容だったとされています。

大久保が見た「予知夢」

大久保が険しい崖の道を歩いていると、向こうから西郷隆盛が現れる。
懐かしさから「吉之助(西郷)さぁ…」と声をかけようとした瞬間、西郷は大久保を睨みつけ、無言で崖の下へと突き落とす。

あるいは、
「西郷が断崖の向こうから手招きをしていて、自分がそこへ行こうとすると足元が崩れ落ちる」
「西郷から手紙が届く夢を見て、目が覚めて『また西郷か』と落胆する」

いずれにせよ、「死んだはずの西郷に連れて行かれる」という強烈なイメージが、大久保の脳裏に焼き付いていたことは間違いありません。
彼はこの夢を「お迎えが来た」と解釈していたのでしょうか。

夢と完全に一致した暗殺現場の惨状

そして5月14日の朝、悲劇は現実のものとなります。
襲撃された大久保の遺体は、頭部に深い傷を負い、無惨な姿で地面に横たわっていました。
一説には、その遺体の状況(頭部が割られ、土にまみれた姿)が、彼が夢で見た「崖から落ちて頭を打った自分の姿」と奇妙に一致していたとも言われています。

これを単なる偶然と片付けるか、それとも盟友・西郷からの「もう楽になれ」というメッセージだったと捉えるか。
歴史のミステリーとして、今も語り継がれるエピソードです。


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大久保利通の性格とエピソード

「冷徹」「独裁者」「鉄の男」というイメージが先行しがちな大久保利通ですが、実際の彼はどのような人物だったのでしょうか。
その素顔を知ると、彼の死がより一層悲劇的に感じられます。

冷酷と誤解された「理の人」の素顔

大久保は公私混同を極端に嫌い、自分にも他人にも厳しい「理の人」でした。
たとえ親友や恩人であっても、国のルールに反すれば容赦なく処罰する姿勢が、「冷酷」という評価を生みました。

例えば、役所に出勤する際、親戚が「仕事が欲しい」と陳情に来ても、彼は一切面会せずに追い返したといいます。
しかし家庭では、子煩悩で優しい良き父親でした。
子供の前では仕事の話を一切せず、週に一度の休みには、子供を膝に乗せてお菓子を食べたり、たわいない話をして笑い合ったりする一面もあったそうです。
「国家の設計者」としての重責を背負うため、一歩家の外に出れば、あえて「鉄の仮面」を被っていたのかもしれません。


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西郷隆盛との対照的な性格と友情

幼馴染であり、共に維新を成し遂げた西郷隆盛とは、何もかもが正反対でした。

西郷隆盛
西郷隆盛
引用元「Wikipediaコモンズ」より
比較項目 西郷隆盛(情の人) 大久保利通(理の人)
政治スタイル カリスマ性で人を惹きつける。
「敬天愛人」
システムと論理で組織を動かす。
「為政清明」
性格 豪快、人情家、涙もろい。
曖昧さを好む。
冷静沈着、寡黙、ポーカーフェイス。
白黒つけたがる。
趣味・嗜好 狩り、温泉、犬。
質素な食事(豚骨など)。
囲碁、洋書購読。
朝食はオートミールとコーヒー。
服装 無頓着(浴衣や平服)。 ダンディ(フロックコートに
シルクハット)。

全く正反対の性格だった二人ですが、だからこそ互いにない部分を補い合い、最強のタッグとして明治維新を成し遂げることができたのです。
大久保にとって西郷は、唯一無二の理解者であり、自分の半身のような存在でした。
だからこそ、その西郷を自らの手で葬らなければならなかった西南戦争は、大久保の精神を破壊するほどの苦痛だったのです。

桐野利秋さえも恐れた「一睨み」の威厳

大久保の威厳は凄まじく、ただ黙って座っているだけで周囲を圧倒したと言います。
「人斬り半次郎」の異名を持つ猛者・桐野利秋(きりのとしあき)でさえ、大久保の前では借りてきた猫のようになったという逸話が残っています。

ある会議で、桐野が意見を言おうと立ち上がった時、大久保がじろりと無言で彼を一睨みしました。
すると、戦場では鬼神の如き桐野が、蛇に睨まれたカエルのように縮み上がり、冷や汗を流して座り込んでしまったそうです。
言葉少なに、しかし鋭い眼光で本質を見抜く大久保の姿は、当時の人々にとって「畏怖」の対象そのものでした。


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大久保利通の子孫と麻生太郎との関係

大久保利通は凶刃に倒れましたが、彼の血脈は途絶えることなく、現代日本の政治中枢に深く根を張っています。

その代表格が、第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏です。
大久保の「政治的DNA」は、どのように受け継がれていったのでしょうか。

大久保家の血筋が現代政治家に繋がる理由

大久保利通の死後、その子供たちは父の遺志を継ぐように各界で活躍しました。
特に次男・牧野伸顕(まきののぶあき)は、父譲りの冷静さと国際感覚を持ち、外交官として頭角を現します。

牧野伸顕
牧野伸顕
引用元「Wikipediaコモンズ」より

彼は昭和天皇の信頼厚い側近(内大臣)となり、昭和初期の軍部の暴走に対して、リベラルな立場で「親英米派・国際協調」を訴え続けました。
奇しくも牧野もまた、二・二六事件で武装した青年将校に襲撃されましたが、父とは異なり間一髪で脱出に成功しています。
彼が守り抜いた「国際協調」の路線は、その後の日本の保守本流のベースとなりました。


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麻生太郎元総理は大久保利通の玄孫

この牧野伸顕の娘・雪子が、戦後の名宰相・吉田茂(よしだしげる)と結婚します。
吉田茂が掲げた「軽武装・経済重視(吉田ドクトリン)」は、かつて大久保が目指した「富国強兵(まずは富国)」のリアリズムを戦後版にアップデートしたものでした。

吉田茂
吉田茂
引用元「Wikipediaコモンズ」より

そして、吉田茂の娘・和子が麻生財閥の御曹司・麻生太賀吉に嫁ぎ、生まれたのが麻生太郎氏です。
華麗なる一族の系譜を整理すると以下のようになります。

麻生太郎
麻生太郎
引用元「Wikipediaコモンズ」より
大久保利通から続く華麗なる系譜
  • 大久保利通(高祖父):明治維新の元勲・内務卿
    ↓(次男)
  • 牧野伸顕(曽祖父):内大臣、外交官
    ↓(娘・雪子が吉田茂と結婚)
  • 吉田茂(義理の祖父):第45・48〜51代内閣総理大臣
    ↓(娘・和子)
  • 麻生太郎の母・和子(母):吉田茂の娘
    ↓(長男)
  • 麻生太郎(本人):第92代内閣総理大臣

つまり、麻生太郎氏にとって大久保利通は「ひいひいおじいちゃん(高祖父)」にあたります。
大久保が命がけで敷いたレールの延長線上に、現代の日本政治があることがよく分かります。

他にも続く華麗なる子孫たち

大久保家の系譜は、政界だけでなく皇室にも繋がっています。
麻生太郎氏の妹・信子さまは、寬仁親王(三笠宮家)とご結婚されました。
これにより、かつて幕末には「朝敵(天皇の敵)」とされたこともあった薩摩藩士の血が、150年の時を経て皇室と直接結びついたのです。

これは、大久保利通が命がけで作り上げた「近代日本」というシステムの、ある種の完成形と言えるかもしれません。
彼の肉体は紀尾井坂で滅びましたが、その遺伝子と政治的意志は、今も日本の権力中枢に生き続けているのです。


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暗殺後の真実と噂

最後に、暗殺事件のその後にまつわる「噂」と「真実」を検証します。
歴史的事件の裏には、必ずと言っていいほどデマや都市伝説がつきまといます。

「子供のように逃げ回った」は本当か?

一部の俗説では、「大久保は襲撃された時、恐怖で泣き叫びながら子供のように逃げ回った」と語られることがあります。
しかし、これは明確に否定できます。
反政府派の新聞(朝野新聞など)や、不平士族たちが、大久保を貶めるために面白おかしく書き立てた捏造である可能性が極めて高いからです。

検視報告書や現場の状況を見る限り、彼は最初の襲撃で足や頭に重傷を負い、物理的に走り回って逃走できる状態ではありませんでした。
何より、幕末の京都で数々の修羅場をくぐり抜け、西郷と共に死線を越えてきた薩摩隼人である大久保が、最期に無様な姿を晒したとは考えにくいでしょう。
最後まで武士らしく、運命を受け入れたと考えるのが自然です。


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暗殺犯たちのその後と処刑

島田一郎ら6人の実行犯は、犯行直後、刀を捨てて自ら宮内省へ出頭しました。
彼らは「私利私欲ではなく、国のために国賊を討ったのだ」という確信犯であり、逃げるつもりは毛頭なかったのです。
彼らは取り調べに対しても堂々と自説(斬奸状の内容)を主張しました。

裁判の結果、同年7月に彼らは全員斬首刑(死刑)となりました。
しかし、当時の世論は複雑でした。彼らの遺体は多くの支持者によって引き取られ、手厚く葬られました。
現在も東京・谷中霊園には彼らの墓石が残っており、当時は参拝者が絶えなかったと言います。
この事実は、大久保がいかに孤独な改革者であり、当時の人々にとって「憎まれ役」を引き受けていたかを物語っています。

大久保の死が明治政府に与えた衝撃

大久保の死は、明治政府にとって巨大な損失であり、伊藤博文らは「政府が転覆するのではないか」と恐れました。
しかし皮肉なことに、大久保が心血を注いで作り上げた「内務省」を中心とする官僚システムは、主(あるじ)を失っても微動だにせず機能し続けました。

伊藤博文
伊藤博文
引用元「Wikipediaコモンズ」より

「個人のカリスマ」に頼らなくても国が回る仕組み。
これこそが、大久保利通が日本に残した最大の遺産だったのです。
彼の死をもって、「維新」という英雄たちの動乱の時代は完全に終わりを告げ、日本は組織とシステムで動く「近代国家」としての歩みを加速させていきました。

紀尾井坂の変は、一人の巨人の死であると同時に、日本という国が「親離れ」を果たした瞬間だったのかもしれません。


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よくある質問:大久保利通の最期について
  • Q. 大久保利通の葬儀は盛大だったのですか?
    A. はい、明治天皇の勅使も参列し、当時の日本史上かつてない規模の「国葬級」の葬儀が行われました。彼の死を悼む参列者の列は延々と続いたと言われています。
  • Q. 犯人の島田一郎たちはその後どうなりましたか?
    A. 全員が処刑されましたが、皮肉にも「国を憂う志士」として一部で英雄視され、その墓には多くの人が訪れました。

まとめ:大久保利通の死が現代に問いかけるもの

明治維新という激動の時代を、冷徹なまでの「理」と強靭な意志で駆け抜けた大久保利通。
彼の最期は、紀尾井坂での暗殺という悲劇的なものでした。

しかし、今回見てきたように、その死の瞬間には多くの真実とドラマが隠されていました。

大久保利通の最期のポイント
  • 最後の言葉:ドラマチックな遺言ではなく、暴漢への「無礼者!」という威厳ある一喝だった。
  • 懐の手紙:冷徹な独裁者と思われていたが、懐には亡き親友・西郷隆盛からの手紙を忍ばせていた。
  • 予知夢:死の直前、西郷に導かれるような不思議な夢を見ており、自らの運命を予感していた節がある。
  • 遺されたもの:彼の死後も、彼が作った官僚システムは微動だにせず機能し、その血脈は麻生太郎氏ら現代のリーダーたちに受け継がれている。

大久保利通は、かつて盟友・西郷隆盛を討つという苦渋の決断を下しました。
「情」の西郷を、「理」の大久保が乗り越えることで、日本は近代国家へと脱皮できたのかもしれません。

しかし、その「理の人」が最期に見ていた夢が西郷の姿であり、懐に西郷の手紙を持っていたという事実は、歴史というものの奥深さと、人間の割り切れない感情の尊さを私たちに教えてくれます。
彼が命がけで敷いたレールの上を、今の私たちは歩いているのです。


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コメント

コメント一覧 (9件)

  • 大久保利通の享年が、簡単年表を見ると49歳となっているが、最期の1878年5月14日では享年47歳になっている。
    西郷隆盛も大久保利通の簡単年表では、享年49歳となっているが、西郷隆盛の没年月日では1877年9月24日享年51歳になっている。数え年で表記するか、満年齢で表記するか統一してほしい。

    • 貴重なご指摘をいただきありがとうございます。
      おっしゃることごもっともです
      早速取り掛かります
      ありがとうございます。

  • 早速回答いただいて有難うございます。
    読み返していて、一点?と思う文章がありました。

    なぜ暗殺されたのか?暗殺理由は勘違い?の4行目
    国会・憲法を解説せずは、開設ではありませんか。憲法開設という用語も個人的にはなじまないのですが。

    • おはようございます
      ご指摘ありがとうございます
      誤字についてはお詫びのしようもありません
      確認の後修正いたします
      ありがとうございました。

  • 他の記事を読んでいたのですが、再度この記事に戻ってきました。読み返してみて、

    ①大久保利通の功績3行目 18行目 に見られる倒幕という用語は、討幕ではないかと思います。特に、1867年4行目にある「公武合体」から「倒幕」への文章で感じます。ただ、倒幕という用語の範疇に討幕が含まれる気もします。解説をしてもらえればありがたいです。

    ②西郷隆盛が奄美大島へ!2行目 「菊地源吾」は「菊池源吾」だと思います。

    ③19行目 「松平春嶽」を「政治総裁職」しは「政事総裁職」だと思います。

    ④愛妾「おゆう」と大久保利通の子供たち 10行目次男「牧野信顕」は、「牧野伸顕だと思います。

    ⑤大久保利通を高く評価されていますが、私も高く評価しています。何かの本で読んだのですが、西郷隆盛が父親と同じになっているのは、戸籍登録を知り合いに依頼し、頼まれた人は、普段「吉之助」さんと呼んでいて、本名を知らなかった。確か、隆なんとかとうろ覚えにしていて、隆盛の父親の名である隆盛を登録したらしい。後日、西郷は隆盛を隆永という名前に変えると、登録を依頼した人に恥をかかせるということでそのままにしたらしい。
    このように西郷は、人との関係を大切にしたが、大久保利通の言葉にあるように、人間関係よりも間違いは間違いと正す人物だったようだ。 

    • 貴重なご指摘をありがとうございます
      いつも助けていただき、心から御礼申し上げます
      ありがとうございます
      早速確認いたします
      いつもすみません

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