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大久保利通の生涯と壮絶な最後!西郷隆盛と並ぶ『憎まれた英雄』の真実

大政治家「大久保利通」の「生涯」と「最期」について、わかりやすく解説いたします。

「大久保利通」の生涯は、どのようなものだったのか?

そしてなぜ、残酷に暗殺されたのか?

西郷隆盛・木戸孝允とならぶ「維新三傑」の一人にも関わらず、とてつもなく憎まれ続けた「英雄の真実」とは


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この記事を短く言うと

・大久保利通は、明治維新を成し遂げ、新政府で数々の改革を成し遂げた、事実上の首相(内務卿)

・1878年(西南戦争の翌年)、紀尾井坂の変で暗殺され、亡くなった

・武士の特権を次々廃止し、しかも英雄「西郷隆盛」を死なせたため、大久保は士族(元サムライ)達から・・・特に薩摩士族たちから嫌われた


大久保利通の功績とは?何をした人なのか?

大久保利通

西郷隆盛木戸孝允と並ぶ維新三傑の一人大久保利通

《大久保利通》
『引用元ウィキペディアより』

大久保利通の生涯と功績、最期を解説したいと思います。



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大久保利通の功績

大久保利通の功績を短く解説いたします。

・幕政改革を一時的にでも実現(「参預会議」「四侯会議」)

・流罪となった西郷隆盛を密かに守り、西郷による武力討幕をかげながら支えた

・初代内務卿(事実上の首相)として明治政府で様々な改革を主導。富国強兵・殖産興業を実行(廃藩置県版籍奉還・学制・地租改正・徴兵令)

大久保利通は、間違いなく近代日本の基礎を作り上げた偉人です。つまり、今存在するこの「日本」という国の「基本構造(法律)」は、大久保利通がつくったものなのです。大久保がいなければ、今の日本はありえません。

例えば、今の日本では信じられないことですが、「江戸時代」の日本には、「藩」という事実上の独立国が全国に300近くも存在していました。「藩」は、それぞれに税金を徴収し、独自の軍隊を持っていたのです。

  • 今の宮城県を支配していた「仙台藩・伊達家」は「仙台軍団」を持ち
  • 今の石川県を支配していた「加賀藩・前田家」は「加賀軍団」を持ち
  • 今の山口県を支配していた「長州藩・毛利家」は「長州軍団」を持ち
  • 今の鹿児島県を支配していた「薩摩藩・島津家」は「薩摩軍団」を持っていたのです。

これら藩という独立国を、版籍奉還と廃藩置県という改革を断行してすべて叩き壊し、「日本」という1つの国に統一したのが「大久保利通」なのです。

大久保がいなかったら、日本は複数の国に分裂したままだったかもしれません。

倒幕を成し遂げた西郷隆盛の影に隠れていますが、新国家の基礎を作り上げる「官僚」としての能力(実務能力)は、西郷隆盛よりはるかに上。

その実務能力は、ライバル「江藤新平」よりも上だったと思います。



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大久保利通の簡単年表

「大久保利通」の詳しい生涯については後述いたしますが、まずは年表を簡単に解説いたします。

 

1830年9月26日(1才)

大久保利通・誕生。

 

1844年(15才)

元服。「正助」と改名

 

1846年(18才)

薩摩藩・記録所書役助に

 

1850年(21才)

お由羅騒動」で役職を罷免されて謹慎。

貧困のドン底にあるところ「西郷隆盛」から食事などの支援を受ける

 

1853年(24才)

記録所書役助へ復帰・・・この年に「ペリー来航

 

1857年(28才)

徒目付役に出世。

「精忠組」の実質的リーダーとして活動

 

1860年(31才)

勘定方小頭格へ出世。この年「桜田門外の変」で大老「井伊直弼」暗殺

 

1861年(32才)

御小納戸役へ出世

 

1862年(33才)

「大久保一蔵」に改名

 

1863年(34才)

御小納戸取締兼お側役へ出世

 

1865年(36才)

「利通」と改名

 

1867年(38才)

率兵上京で幕政改革に成功。四侯会議実現。しかし「一橋慶喜」のせいで、すぐに崩壊



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1867年

大政奉還

同年、大久保利通や岩倉具視は「王政復古の大号令」により「辞官納地」を徳川慶喜に迫る。

戊辰戦争が勃発。

 

1868年(明治元年)39才

明治維新が成る

元号が「明治」に改められる。

 

1869年(明治2年)(40才)

参議就任

版籍奉還」「廃藩置県」を強行

 

1871年(42才)

大蔵卿に就任

岩倉使節団で諸外国を視察

 

1873年(44才)

帰国。

西郷隆盛と「征韓論」で対立。西郷たちは下野(明治六年の政変

同年、内務省を設置。大久保は初代・内務卿(事実上の首相)に就任。

「学制」「地租改正」「徴兵令」を実行



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1874年(45才)

佐賀の乱」勃発。「江藤新平」は刑死

同年、台湾出兵。

 

1877年(48才)

西南戦争」勃発。

5月26日

「木戸孝允」が京都で病死。

9月24日

西郷隆盛・戦死。享年51歳(満年齢49歳)

 

1878年5月14日(49才)

紀尾井坂の変」で大久保利通、暗殺

享年49歳(満年齢47歳)

墓所は東京「青山霊園」



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大久保利通の生涯と、悲惨な最期

大久保利通の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

1830年9月26日

大久保利通・誕生。父・大久保利世、母・福

 

1844年

元服。「大久保正助」と名乗る

 

1846年

薩摩藩・記録所書役助の役職につく

 

1850年

お由羅騒動」で役職を罷免されて謹慎。

父「大久保利世」は流罪。

 

1853年

記録所書役助に復帰

 

1857年

徒目付役になる。

西郷隆盛も同じ役職に配置。

若手薩摩藩士の集団「精忠組」の実質的なリーダーとして活動



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西郷隆盛が奄美大島へ!島津久光に接近!

1859年

西郷隆盛が「安政の大獄」によって幕府から追われ、「菊池源吾」と改名して奄美大島へ潜伏。

10月

薩摩藩10代藩主「島津斉興」死去。その息子「島津久光」が「国父」として薩摩藩の実権を握る。

(諸説ありますが)大久保利通はこの頃から「囲碁」を学んで、囲碁が好きだった「島津久光」に接近することを画策し始める。その作戦は成功し、島津久光は大久保利通をブレーンとして側に置くようになる。

 

1860年

大久保利通、「勘定方小頭格」に昇進

 

1861年

さらに「御小納戸役」に昇進し、薩摩藩の政治に参画するようになる

 

1862年

島津久光から「一蔵」と名付けられ、以降「大久保一蔵」と名乗る

同年、公武合体を実現するため、兵を率いて京都へ(率兵上京)

 

 

この時、有馬新七などの「薩摩藩過激派」が京都・寺田屋で粛清される(寺田屋事件

兵の力で幕府へ圧力をかけ、幕政改革を幕府に迫る。結果「一橋慶喜」を「将軍後見職」に、「松平春嶽」を「政事総裁職」に就任させる

また、「土佐藩・山内容堂」、「宇和島藩・伊達宗城」、「会津藩・松平容保」、「薩摩藩・島津久光」などによる「参預会議」を実現させ、「外様大名」による幕政への参画を実現させる。

また、大久保は「御小納戸取締」に昇進。小松帯刀とともに島津久光の側近を務めることとなる

しかし、「一橋慶喜」に政治工作により、「参預会議」は短期間で崩壊。

大久保利通が画策した島津などの「外様大名」による幕政への参加は、「一橋慶喜」の手で阻止されることとなる



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1863年

御小納戸取締兼お側役に昇進

 

1865年

「大久保一蔵」から「大久保利通」と改名

 

1866年

第二次長州征伐に反発し抵抗

 

1867年

四侯会議の開催を実現させ、幕政改革に成功。

 

 

しかし、またしても一橋慶喜による「外様勢力(薩摩藩など)の政治への参加阻止」の手により、四侯会議はあっという間に崩壊。

大久保利通はこの頃から「公武合体」から「武力討幕」へと方針を転換する事となる。

この時「一橋慶喜」という人物が「幕府」勢力を維持した古い政治を志す人間であると見抜き、後に坂本龍馬の「船中八策」などによる「慶喜を新政府に参画させる」などの案を、大久保利通は認めず、徹底的に徳川慶喜排除をしようとする。

大久保利通は、「慶喜を新政府に参加させたら、巧みに主導権を握られて、再び旧幕府勢力による日本統治が始まる」と考えたのだろう。



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武力討幕運動

1867年

徳川慶喜が「大政奉還」。その後、大久保利通は「王政復古の大号令」を起こし、徳川慶喜に「辞官納地(官位を辞め、領地を変換すること)」を迫る。

 

 

この挑発行為に乗った「旧幕府」勢力は、「鳥羽伏見の戦い」で新政府軍に敗北。戊辰戦争が勃発。

西郷隆盛が率いる「新政府東征軍」が、江戸城無血開城を実現し、江戸幕府は終焉。徳川慶喜は上野寛永寺・水戸・静岡へと謹慎。命は助けられることとなる



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明治政府を主導

1868年

大久保利通は「大坂への遷都」を主張。明治維新。

元号が「明治」に改められる。

 

1869年(明治2年)

参議就任。版籍奉還・廃藩置県を強行

 

1871年

大蔵卿に就任。

岩倉使節団に同行し、諸外国との「不平等条約」の改正に尽力するも失敗。

この時、大久保利通はドイツの鉄血宰相「オットー・フォン・ビスマルク」と面会し、強く影響を受けた

《ビスマルク》
「引用元ウィキペディアより」



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「征韓論」で「西郷隆盛」と対立!

1873年

欧米視察から帰国。

視察していた2年間、留守をつとめていた「西郷隆盛」たちは「朝鮮半島」の難題に直面していた

朝鮮半島はこのとき「李氏朝鮮」がおさめており、朝鮮国王の父「大院君」が朝鮮半島の最高権力者として君臨。

当時の朝鮮半島は、文明としては非常に遅れていたものの、排外主義・・つまり外国勢力に対して怖いもの知らずというか、井の中の蛙というか、とにかく攻撃的だった

征韓論が日本で持ち上がる7年前の「1866年」、朝鮮半島は「ゼネラルシャーマン号事件」でアメリカを、「丙寅洋擾(へいいんようじょう)」という事件でフランス軍を撃破。圧倒的だったはずの先進国「フランス」に、奇跡的に・・・なぜか勝利してしまった。

朝鮮半島は自国の国力と鎖国政策に自信を深め、日本にも高圧的な態度を取るようになる。

日本から、国交を求める使者を何度もおくったものの、朝鮮はそれをことごとく拒絶。

挙句の果てには1873年、「大院君」が驚くべき布告を国中に宣言

「日本が夷狄(野蛮な賊徒)と化した。

日本人は、獣と変わらぬ存在だ!

我が国民が、日本人と交わるのであれば、即座に処刑する」

この布告に日本は驚愕。当時、朝鮮半島には約2000人の日本人居留民が存在していた

西郷隆盛は、自らが朝鮮に使者として渡り、朝鮮に開国を迫りたいと希望。「江藤新平」や「板垣退助」ら肥前・土佐の藩閥たちも、これに賛成。

西郷は政府の最高位にいた「三条実美」に、許可を求めたが、「西郷が朝鮮にいけば、殺される可能性がある」と考えた三条実美はこれに反対。

西郷を思いとどまらせるため、三条実美は、欧米から帰国した「大久保利通」に、西郷を説得してほしいと依頼。

大久保は三条実美の依頼を受けて、西郷隆盛の朝鮮行きに強く反対。大久保は盟友「西郷」が死ぬかもしれない征韓論に、強硬に反対。

このとき、大久保利通は土佐藩・肥前藩の藩閥たち「江藤新平」「副島種臣」「板垣退助」「後藤象二郎」らに、薩長が政府の権限を独占していることを責められ、苦戦していた

大久保は、誰よりも信頼する盟友「西郷隆盛」を味方にして、薩長の勢力を盛り返そうとするも、西郷は2年の間ともに留守政府を預かった「江藤新平」らを支持。

西郷隆盛に味方してもらえなかった大久保利通は、西郷隆盛を朝鮮に派遣する征韓論に、強く反対し、西郷隆盛の支援を取り付けた「江藤新平」たちと激しく対立することとなる。

このとき、「西郷」という盟友を江藤新平に奪われた大久保は、江藤を怨み、その怨念が「江藤新平処刑」へとつながる事となる。

政争に敗北した西郷・江藤たちは、下野(明治六年の政変)。西郷を慕う政府の要人たち約600人が、西郷について新政府を抜けていく

これが「明治六年の政変」・・・・西郷隆盛と大久保利通の永遠の別れとなる



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「西南戦争」西郷隆盛の死

1873年

内務省を設置し、大久保利通は初代内務卿に就任。「学制」「地租改正」「徴兵令」を実行

 

1874年

江藤新平による「佐賀の乱」勃発。

大久保利通が自ら鎮圧し、ライバルだった「江藤新平」は、判決のその日に、即処刑される

同年、台湾出兵。後に大久保利通は、清国と戦後処理交渉を行う

 

1877年

「西郷隆盛」による「西南戦争」が勃発。

大久保利通は、京都で政府軍の指揮を取る。

 

1877年5月26日

大久保利通と並ぶ「維新三傑」の一人「木戸孝允」が京都で病死。

もともと「西郷征伐」の総大将は「木戸」自ら希望していた。

病気をおして木戸は京都へ進軍。

密かに説得工作を行い、西郷を救おうとしていたのではないか、と言われている。

そうでなくては、木戸が病身を押してまで出陣した説明がつかない。

木戸は最期、大久保利通の手を握り

「西郷もいい加減にしないか」

(西郷!大概にせんか!)

と西郷と政府の両方を心配する言葉を残して亡くなった。

 

1877年9月24日

西郷隆盛・戦死。享年51歳(満年齢49歳)

西郷の死を聞いた大久保は、自宅でほぼ半狂乱のように泣き続けた。

鴨居に頭をぶつけながらも、歩きまわりながらブツブツと

「おはんの死とともに、新しか日本が生まれる。

強か日本が・・・・」

大久保は、一晩中嘆き続けたのです。まるで自分の片割れを失ったかのように。狂ったように泣き続けたのです。

 

西南戦争」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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最期

1878年5月14日

東京千代田区紀尾井町の「紀尾井坂」で、石川県の不平士族5名、鳥取県の不平士族1名に襲撃され亡くなる。(紀尾井坂の変)

享年49歳(満年齢47歳)

 

その様子はすさまじく、刀が急所つらぬき、地面に突き刺さっていたほど。

ご遺体を観た「前島密(まえじまひそか)」は、こんなことを言っています。

「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」

暗殺現場「紀尾井坂」は、現在の「四ツ谷駅」「上智大学」近くです。

「美男子とは言えないのだから、写真を取るなど、もうおやめなさい」

大久保の写真好きを注意する西郷の手紙。

もう一通は「王政復古の大号令」について、その意味を誤解されることのないように、各方面にしっかり説明するように、という大久保を心配する手紙。

まるで、ラブレターを何度も何度も見返すかのように・・・。憧れの存在からもらった手紙を何度も見返すように・・・。大久保は肌身離さず、西郷からの手紙を持ち歩いていたのです。

西郷隆盛を死なせた大久保利通。当時の人は、大久保のことを「恩ある西郷を裏切り、死なせた血も涙もない男」と思っていたことでしょう。

しかし大久保にとって西郷隆盛は「宿敵」「政敵」では決してなく、「兄」であり「友」、なにより自らを常に「応援」し支えてくれた最大の理解者でした。大久保はいつまでもその死を悲しみ、背負い続けていたのです。

血に染まった手紙は、西郷のいとこである「大山巌」に渡ったとのことです。その後のゆくえは不明。

大久保の墓所は東京「青山霊園」。同時に亡くなった従者「中村太郎」と、足を斬られて亡くなった「馬」の墓も、側にあります。

 

大河ドラマ「篤姫」で、「原田泰造」さん演じる「大久保利通」が、襲撃を受けて亡くなるとき、最期にこんなセリフを言っていました。

「まだやらなくてはならないことがある。

吉之助さぁ・・・」

2018年の大河ドラマ「西郷どん」では、暗殺される直前、大久保利通は、岩倉具視に「西郷」を演じる「歌舞伎」に誘われていました。

「瑛太」さん演じる「大久保利通」は暗殺者に襲撃され、死の直前、こんなことを口にしていました。

「おいは、まだ死ねんど。

やらねばならんことがある。

まだ、まだ。」

その手には、薩摩藩主「島津斉彬」から西郷が受け取り、西郷からたくされた「Cangoxina(ポルトガル語で『かごしま』の意味)」と刻まれた「菓子づつみ」の紙が握られていました。

 

話を史実に戻します。

大久保は、亡くなる当日の朝、自宅を訪れた福島県令「山吉盛典(やまよしもりすけ)」に対して、こんなことを言っています。

「内乱も終わり、ようやく平和が訪れた

これで御一新(明治維新)の事業を前に進めることができる。

しかし、それには30年はかかるだろう。

まず、明治元年からの10年は、内乱の時代だった。これはすでに終わった。

次に11年から20年までを内治、つまり「富国」、日本の産業を育てる時代。私はこの時代を担当し、国内の政務に力をつくしたい。

最期の明治21年から30年までの時代で、我々のあとを継ぐ若き賢人たちに席をゆずり、次代の発展を待つ」

大久保利通が亡くなったのは明治11年。彼がやるべき残り10年の「富国」の時代を前にして、亡くなったのです。

盟友「西郷隆盛」を死なせ、その犠牲を無駄にしないためにも、自分は日本を強く豊かにしなくてはならない。そう思っていた矢先の襲撃でした。

その無念は、どれほどのものだったか・・・想像を絶するものがあります。



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なぜ暗殺されたのか?暗殺理由は勘違い?

不平士族たちは、事件の直後「斬奸状(ざんかんじょう)」・・つまり「奸臣を斬った理由を書いた書状」を持って警察へ出頭

そこには大久保利通暗殺の理由として「5つ」の動機が書かれていました。

 

  1. 国会を開設せず、憲法も制定せず、自由民権を圧迫している
  2. 朝令暮改が激しく、役人採用はコネによるところが多い
  3. 不必要な土木事業・建築により、国費が浪費されている
  4. 憂国の志士を排除し、内乱を引き起こした
  5. 外国と条約改正をせず、国の威信を失墜させた

 

しかし、大久保利通は清廉潔白な人で有名でした。

自費を投じて公共事業を実現したり、自ら借金までしているほどでした。死後は資産が「140円」だけ。「8000円」という巨額の借金が残ったと言われています。当時の140円は現在の価値で約「560万円」。当時の「8000円」は約「3億2000万円」ほどでしょうか。(債権者たちは、大久保を尊敬していたので、死後だれ一人として、借金取り立てに来なかった)。当時、明治政府で首脳として活動していた西郷隆盛の月収が、現在の価値で約「1800万円」だったそうですから、大久保の資産がどれほど少ないかがわかります。また、借金がどれほど多いかもうかがえます。

国会・憲法の設置については、その前に「富国強兵」を成し遂げないと諸外国の侵略を招きかねません。時間がなかったのです。まずは独裁的に、迅速に国力を充実させることが大切だったのでしょう。独裁とはいえ、大久保利通は私腹を肥やすことは一切していません。

また、憂国の志士を排除・・・というのは「武士の特権」を取り除く「四民平等」を批判したものだと思われますが、それもまた、近代化には必要不可欠。

条約改正をしていない・・・・という一文について、大久保利通は「岩倉使節団」で条約改正に挑戦したが失敗。まだまだ日本の国力が足りなかったので仕方ありません。

つまり、この「斬奸状」は的外れ。

事件を起こした不平士族6名は、裁判にかけられた後、処刑されています。



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【憎まれた英雄】西郷隆盛の影を務めた、大久保の真実

英雄「西郷隆盛」を死なせた男

大久保利通は、当時から武士に嫌われていました。

現在でも彼の故郷「鹿児島」ではかなり嫌われています。

なぜか?

理由は簡単。「西郷隆盛を死なせた男だから

清廉潔白な「西郷隆盛」。260年続いた江戸幕府を、実質的に倒した男「西郷隆盛」は、当時から絶大な人気を誇っていました。

そんな西郷隆盛が、政府の悪政を正す・・・という名目で起こしたのが「西南戦争」・・・と言われています。

その西南戦争を起こした「西郷隆盛」の軍を倒した「新政府軍」。この政府軍を指揮していたのが「大久保利通」なのです。大久保利通は当初「司令官」に任命されていた「木戸孝允」に代わり、京都で政府軍に命令を下していました。

西郷隆盛は西南戦争で戦死。

これにより、大久保利通は、薩摩の人間から憎まれることになります。

大久保の故郷「鹿児島」への埋葬は、死後100年以上経過した「平成」になってから。銅像建立も、実現したのはつい最近。

西南戦争鎮圧のために政府軍として戦った「西郷隆盛」の従弟「大山巌」は、西郷隆盛と戦ったことを生涯悔やみ続け、鹿児島へは死ぬまで帰らなかったほどですので、薩摩の人がどれほど大久保を憎んだかが推し量れます。


西郷隆盛と大久保利通の関係」について、詳しく解説いたします。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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大久保利通は、武士特権を取り除いた人

実は大久保利通は、西南戦争で西郷隆盛が亡くなる前から、元武士(士族)から憎まれていました。

なぜかというと、「四民平等」という名目で、武士の特権を次々排除したから。

廃藩置県」「廃刀令」など。

新しい時代のために戦った武士は、その恩恵を受けるどころか、自らの特権を奪われることとなったため、改革を主導した大久保利通を憎んだのです。

通常、革命を起こした者たちは、自らの私腹を肥やすものですが、大久保利通は真逆。自らの利益を全く考えず、国のために力を尽くしています。好きなものと言えば「漬物」と「囲碁」。たった一人の愛娘をこよなく愛し、愛妾が一人「おゆう」がいたものの、当時の常識からすると愛妾一人などかわいいものです。「伊藤博文」や「井上馨」など、大久保に比べたら私腹を肥やす「悪の権化」に見えるほど。

そんな大久保であるにもかかわらず、共に戦った「薩摩藩士」たちから憎まれ、最期は西郷隆盛とともに西南戦争で戦おうとして果たせなかった「石川県の不平士族」に暗殺されています。

大久保利通・・・確かに西郷隆盛ほど「華」はないですが、近代日本の基礎をつくったのは間違いなく大久保利通です。

明治政府の草創期、大久保利通が実質的な「首相」として、明治政府のリーダーを務めていたことは、疑いようもない事実なのです。



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大久保利通の「子孫」や妻・愛妾・子供

大久保利通の子孫は、元総理「麻生太郎」

大久保利通の子孫は、現在まで続いております。

以下に大久保利通の「家系図」画像をのせておきます。

大久保利通の息子で、「山本権兵衛内閣」で外務大臣を務めた「牧野伸顕」。その牧野の娘「雪子」が、総理大臣「吉田茂」と結婚。

吉田茂と雪子の孫にあたるのが「麻生太郎」元総理なのです。

ちなみに、麻生さんの妹「信子」さんは、「髭の殿下」と呼ばれて親しまれた「寛仁(ともひと)親王」殿下とご結婚。

大久保利通の血は、皇族に受け継がれているということです。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」(大久保には八男一女がいましたが省略しております)



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愛妾「おゆう」と、大久保利通の子供たち

大久保利通の妻は「満寿子」さんですが、大久保には「愛妾」がいました。

「おゆう」さんです。

上の家系図では省略いたしましたが、大久保利通は「8男1女」の子宝に恵まれています。

正妻「満寿子」さんが「4男1女」を産み、愛妾「おゆう」さんが「4男」を産んでいるのです。

大久保利通の子供たちを、まとめてご紹介いたします。

 

正妻「満寿子」の子供たち

  1. 長男「大久保利和」・・・・鉄道事業の実業家にして、貴族院議員。
  2. 次男「牧野伸顕」・・・・・「吉田茂」首相の義父。外務大臣を務めた。
  3. 三男「大久保利武」・・・・鳥取・大分・埼玉の県知事を歴任。貴族院議員。
  4. 五男「石原雄熊」・・・・・石原家に養子入り。昭和18年まで生きた。
  5. 長女「芳子」・・・・・・・外務大臣「伊集院彦吉」の妻。昭和40年死去。(大久保利通のただ一人の娘。大久保はこの娘を大変に可愛がったと言われています。)


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愛妾「おゆう」の子供たち

  1. 四男「大久保利夫」・・・・海軍軍人を目指しながらも、明治27年に27歳で病死。
  2. 六男「大久保駿熊」・・・・鳥取農学校教師、農業技術者
  3. 七男「大久保七熊」・・・・農学者となり殖産興業に力を尽くした。昭和18年死去。
  4. 八男「大久保利賢」・・・・「二・二六事件」で暗殺されたダルマ宰相「高橋是清(たかはし これきよ)」の娘婿。横浜正金銀行の頭取。昭和33年死去。戦後13年生きたことになります。

大久保利通の子供たち」について、「生涯年表」を解説させていただきました。よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。「麻生太郎」元首相の母親が、大久保利通の次男「牧野伸顕」を、「二・二六事件」で暗殺者の銃から盾になって守ったエピソードは有名です。

ちなみに「おゆう」さんは、1918年(大正7年)1月26日に亡くなります。

大久保利通が亡くなったのが1878年(明治11年)。つまり「おゆう」さんは、大久保の死後40年生きたことになりますね。

正妻の「満寿子」さんはというと、ちょっと悲しい最期を遂げています。

 

大久保利通の正妻・満寿子さんについては、以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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大久保が残した「名言」一覧

大久保利通は、数々の名言を残した人物として有名です。

その「名言」と「意味」を、一覧でご紹介いたします。

 

今日のままにして、瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず
(変わらずに崩壊するよりは、積極的に決断して崩壊したほうが良い)

 

堅忍不抜(けんにんふばつ)
(どんな辛い困難にも、耐えて動じないこと)

 

為政清明(いせいせいめい)
(政治家たるものは、常によどみなく、清廉潔白でなくてはならない)
おそらく清廉潔白だった「西郷隆盛」を見習って、大久保はこの言葉を肝に銘じていたのだろう。

 

目的達成のためには、人対人の関係にわずらわされていたら、物事は進みっこない。そういうものは思い切って振り切り、前に進むべきだ
(坂本龍馬も「義理などというものに縛られてはいけない」と、似たようなことを言っていました。)

 

国家創業の折には、難事は常に起きるもの。そこで自分一人でも、国家を維持するほどの器がなくては、辛さも苦しみも耐え忍び、志を全うすることなど、できはしない
(日本を近代国家に生まれ変わらせるために、最愛の盟友「西郷隆盛」を死なせた大久保の、血を吐くような覚悟がにじみ出た言葉です)

 

これらの名言をよんでみると、大久保利通という人が、「忍耐の人」であったことがわかります。

それと同時に、「大博打」を打つこともできる人物でもありました。

大久保は「超現実主義者」でありながら、「理想」を忘れることもない「理想主義者」でもあったのです。だからこそ「鳥羽伏見の戦い」という、絶対に勝ち目のない戦いに全てを賭けて踏み出し、「明治維新」という革命を成功させることができたのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・大久保利通は、近代日本の基礎を作り上げた人物。対して西郷隆盛は、旧体制(江戸幕府)を崩壊させた人物

・大久保は西郷を支えて武力討幕を実現し、明治政府で様々な改革を実現。1878年「紀尾井坂の変」で亡くなった

・大久保は西郷隆盛を死なせたとして、かなり嫌われている。当時から、武士階級の特権を次々奪ったとして、士族から憎まれていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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コメント

コメント一覧 (6件)

  • 大久保利通の享年が、簡単年表を見ると49歳となっているが、最期の1878年5月14日では享年47歳になっている。
    西郷隆盛も大久保利通の簡単年表では、享年49歳となっているが、西郷隆盛の没年月日では1877年9月24日享年51歳になっている。数え年で表記するか、満年齢で表記するか統一してほしい。

    • 貴重なご指摘をいただきありがとうございます。
      おっしゃることごもっともです
      早速取り掛かります
      ありがとうございます。

  • 早速回答いただいて有難うございます。
    読み返していて、一点?と思う文章がありました。

    なぜ暗殺されたのか?暗殺理由は勘違い?の4行目
    国会・憲法を解説せずは、開設ではありませんか。憲法開設という用語も個人的にはなじまないのですが。

    • おはようございます
      ご指摘ありがとうございます
      誤字についてはお詫びのしようもありません
      確認の後修正いたします
      ありがとうございました。

  • 他の記事を読んでいたのですが、再度この記事に戻ってきました。読み返してみて、

    ①大久保利通の功績3行目 18行目 に見られる倒幕という用語は、討幕ではないかと思います。特に、1867年4行目にある「公武合体」から「倒幕」への文章で感じます。ただ、倒幕という用語の範疇に討幕が含まれる気もします。解説をしてもらえればありがたいです。

    ②西郷隆盛が奄美大島へ!2行目 「菊地源吾」は「菊池源吾」だと思います。

    ③19行目 「松平春嶽」を「政治総裁職」しは「政事総裁職」だと思います。

    ④愛妾「おゆう」と大久保利通の子供たち 10行目次男「牧野信顕」は、「牧野伸顕だと思います。

    ⑤大久保利通を高く評価されていますが、私も高く評価しています。何かの本で読んだのですが、西郷隆盛が父親と同じになっているのは、戸籍登録を知り合いに依頼し、頼まれた人は、普段「吉之助」さんと呼んでいて、本名を知らなかった。確か、隆なんとかとうろ覚えにしていて、隆盛の父親の名である隆盛を登録したらしい。後日、西郷は隆盛を隆永という名前に変えると、登録を依頼した人に恥をかかせるということでそのままにしたらしい。
    このように西郷は、人との関係を大切にしたが、大久保利通の言葉にあるように、人間関係よりも間違いは間違いと正す人物だったようだ。 

    • 貴重なご指摘をありがとうございます
      いつも助けていただき、心から御礼申し上げます
      ありがとうございます
      早速確認いたします
      いつもすみません

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