大久保利通の生涯と壮絶な最後!西郷隆盛と並ぶ『憎まれた英雄』の真実

明治の内務卿「大久保利通」の生涯と、壮絶な最期!なぜ暗殺されたのか?

西郷隆盛と並ぶ「維新三傑」の一人にも関わらず、憎まれ続けた英雄の真実

超現実主義者「大久保利通」は、なぜ憎まれたのか?


スポンサーリンク

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・大久保利通は、明治維新を成し遂げ、新政府で数々の改革を成し遂げた、事実上の首相(内務卿)

・1878年、紀尾井坂の変で亡くなった

・武士の特権を次々廃止したため、士族・・・特に薩摩士族から嫌われた


≪大久保利通の功績とは?何をした人なのか?≫

大久保利通

西郷隆盛木戸孝允と並ぶ「維新三傑」の一人「大久保利通」

《大久保利通》
『引用元ウィキペディアより』

大久保利通の生涯と功績、最期を解説したいと思います。


スポンサーリンク

大久保利通の功績

大久保利通の功績を短く解説いたします。

・幕政改革を一時的にでも実現(「参預会議」「四侯会議」)

・流罪となった西郷隆盛を巧みに守り、西郷による倒幕をかげながら支えた

・初代内務卿(事実上の首相)として明治政府で様々な改革を主導。富国強兵・殖産興業を実行(廃藩置県版籍奉還・学制・地租改正・徴兵令)

大久保利通は、間違いなく近代日本の基礎を作り上げた偉人です。倒幕を成し遂げた西郷隆盛の影に隠れていますが、実務能力・・・つまり新国家の基礎を作り上げる「官僚」としての能力は、西郷隆盛よりはるかに上だと思います。

その実務能力は、ライバル「江藤新平」よりも上だったと思います。


スポンサーリンク

大久保利通の簡単年表

「大久保利通」の詳しい生涯については後述いたしますが、まずは年表を簡単に解説いたします。

1830年9月26日、大久保利通・誕生。

1844年、元服。「正助」と改名

1846年、薩摩藩・記録所書役助に

1850年、「お由羅騒動」で役職を罷免されて謹慎。貧困のドン底にあるところ「西郷隆盛」から食事などの支援を受ける

1853年、記録所書役助へ復帰

1857年、徒目付役に出世。「精忠組」の実質的リーダーとして活動

1860年、勘定方小頭格へ出世

1861年、御小納戸役へ出世

1862年、「大久保一蔵」に改名

1863年、御小納戸取締兼お側役へ出世

1865年、「利通」と改名

1867年、率兵上京で幕政改革に成功。四侯会議実現。しかしすぐに崩壊

1867年、「大政奉還

同年、大久保利通や岩倉具視は「王政復古の大号令」により「辞官納地」を徳川慶喜に迫る。戊辰戦争が勃発。

1868年(明治元年)明治維新が成る。元号が「明治」に改められる。

1869年(明治2年)、参議就任。「版籍奉還」「廃藩置県」を強行

1871年、大蔵卿に就任。岩倉使節団で諸外国を視察

1873年、帰国。西郷隆盛と「征韓論」で対立。西郷たちは下野(明治六年の政変)

同年、内務省を設置。大久保は初代内務卿(事実上の首相)に就任。

「学制」「地租改正」「徴兵令」を実行

1874年、「佐賀の乱」勃発。「江藤新平」は刑死

同年、台湾出兵。

1877年、「西南戦争」勃発。

1877年5月26日、「木戸孝允」が京都で病死。

1877年9月24日、西郷隆盛・戦死。享年49歳

1878年5月14日、「紀尾井坂の変」で大久保利通、他界

享年47歳。

墓所は東京「青山霊園」


スポンサーリンク

≪大久保利通の生涯と、悲惨な最期≫

大久保利通の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

1830年9月26日、大久保利通・誕生。父・大久保利世、母・福

1844年、元服。「大久保正助」と名乗る

1846年、薩摩藩・記録所書役助の役職につく

1850年、「お由羅騒動」で役職を罷免されて謹慎。父「大久保利世」は流罪。

1853年、記録所書役助に復帰

1857年、徒目付役になる。西郷隆盛も同じ役職に配置。若手薩摩藩士の集団「精忠組」の実質的なリーダーとして活動


スポンサーリンク

西郷隆盛が奄美大島へ!島津久光に接近!

1859年、西郷隆盛が「安政の大獄」によって幕府から追われ、「菊地源吾」と改名して奄美大島へ潜伏。

1859年10月、薩摩藩10代藩主「島津斉興」死去。その息子「島津久光」が「国父」として薩摩藩の実権を握る。

(諸説ありますが)大久保利通はこの頃から「囲碁」を学んで、島津久光に接近することを画策し始める。その作戦は成功し、島津久光は大久保利通をブレーンとして側に置くようになる。

1860年、大久保利通、「勘定方小頭格」に昇進

1861年、さらに「御小納戸役」に昇進し、薩摩藩の政治に参画するようになる

1862年、島津久光から「一蔵」と名付けられ、以降「大久保一蔵」と名乗る

同年、公武合体を実現するため、兵を率いて京都へ(率兵上京)

この時、有馬新七などの「薩摩藩過激派」が京都・寺田屋で粛清される(寺田屋事件)

兵の力で幕府へ圧力をかけ、幕政改革を幕府に迫る。結果「一橋慶喜」を「将軍後見職」に、「松平春嶽」を「政治総裁職」に就任させる

また、「土佐藩・山内容堂」、「宇和島藩・伊達宗城」、「会津藩・松平容保」、「薩摩藩・島津久光」などによる「参預会議」を実現させ、「外様大名」による幕政への参画を実現させる。

また、大久保は「御小納戸取締」に昇進。小松帯刀とともに島津久光の側近を務めることとなる

しかし、「一橋慶喜」に政治工作により、「参預会議」は短期間で崩壊。

大久保利通が画策した島津などの「外様大名」による幕政への参加は、「一橋慶喜」の手で阻止されることとなる

1863年、御小納戸取締兼お側役に昇進

1865年、「大久保一蔵」から「大久保利通」と改名

1866年、第二次長州征伐に反発し抵抗

1867年、四侯会議の開催を実現させ、幕政改革に成功。

しかし、またしても一橋慶喜による「外様勢力(薩摩藩など)の政治への参加阻止」の手により、四侯会議はあっという間に崩壊。

大久保利通はこの頃から「公武合体」から「倒幕」へと方針を転換する事となる。

この時「一橋慶喜」という人物が「幕府」勢力を維持した古い政治を志す人間であると見抜き、後に坂本龍馬の「船中八策」などによる「慶喜を新政府に参画させる」などの案を、大久保利通は認めず、徹底的に徳川慶喜排除をしようとする。

大久保利通は、「慶喜を新政府に参加させたら、巧みに主導権を握られて、再び旧幕府勢力による日本統治が始まる」と考えたのだろう。


スポンサーリンク

倒幕運動

1867年、徳川慶喜が「大政奉還」。その後、大久保利通は「王政復古の大号令」を起こし、徳川慶喜に「辞官納地」を迫る。

この挑発行為に乗った「旧幕府」勢力は、「鳥羽伏見の戦い」で新政府軍に敗北。戊辰戦争が勃発。

実質的に西郷隆盛が率いる「新政府東征軍」が、江戸城無血開城を実現し、江戸幕府は終焉。徳川慶喜は上野寛永寺・水戸・静岡へと謹慎。命は助けられることとなる


スポンサーリンク

明治政府を主導

1868年、大久保利通は「大坂への遷都」を主張。明治維新。元号が「明治」に改められる。

1869年(明治2年)、参議就任。版籍奉還・廃藩置県を強行

1871年、大蔵卿に就任。岩倉使節団に同行し、諸外国との「不平等条約」の改正に尽力するも失敗。この時、大久保利通はドイツの「鉄血宰相・ビスマルク」と面会し、強く影響を受けた

1873年、帰国して西郷隆盛や江藤新平と「征韓論」で対立。政争に敗北した西郷・江藤たちは、下野(明治六年の政変)

同年、内務省を設置し、大久保利通は初代内務卿に就任。「学制」「地租改正」「徴兵令」を実行

1874年、江藤新平による「佐賀の乱」勃発。大久保利通自ら鎮圧し、ライバルだった「江藤新平」は刑死

同年、台湾出兵。後に大久保利通は、清国と戦後処理交渉を行う

1877年、「西郷隆盛」による「西南戦争」が勃発。大久保利通は京都で政府軍の指揮を取る。

1877年5月26日、大久保利通と並ぶ「維新三傑」の一人「木戸孝允」が京都で病死。最期は大久保利通の手を握り

「西郷もいい加減にしないか」

と西郷と政府の両方を心配する言葉を残して亡くなった。

1877年9月24日、西郷隆盛・戦死。享年49歳


スポンサーリンク

最期

1878年5月14日、東京千代田区紀尾井町の「紀尾井坂」で、石川県の不平士族5名、鳥取県の不平士族1名に襲撃され亡くなる。(紀尾井坂の変)

享年47歳。

墓所は東京「青山霊園」


スポンサーリンク

なぜ暗殺されたのか?暗殺理由は勘違い?

不平士族たちは、事件の直後「斬奸状」・・つまり「奸臣を斬った理由を書いた書状」を持って警察へ出頭

そこには大久保利通暗殺の理由として「5つ」の動機が書かれていました。

・国会・憲法を解説せず、自由民権を圧迫している

・朝令暮改が激しく、役人採用はコネによるところが多い

・不必要な土木事業・建築により、国費が浪費されている

・憂国の志士を排除し、内乱を引き起こした

・外国と条約改正をせず、国の威信を失墜させた

しかし、大久保利通は清廉潔白は人で有名でした。

自費を投じて公共事業を実現したり、自ら借金までしているほどでした。死後は8000円も、巨額の借金が残ったと言われています。

国会・憲法の設置については、その前に「富国強兵」を成し遂げないと諸外国の侵略を招きかねません。時間がなかったのです。まずは独裁的に、迅速に国力を充実させることが大切だったのでしょう。独裁とはいえ、大久保利通は私腹を肥やすことは一切していません。

また、憂国の志士を排除・・・というのは「武士の特権」を取り除く「四民平等」を批判したものだと思われますが、それもまた、近代化には必要不可欠。

条約改正をしていない・・・・という一文について、大久保利通は「岩倉使節団」で条約改正に挑戦したが失敗。まだまだ日本の国力が足りなかったので仕方ありません。

つまり、この「斬奸状」は的外れ。

事件を起こした不平士族6名は、裁判にかけられた後、処刑されています。


スポンサーリンク

≪【憎まれた英雄】西郷隆盛の影を務めた大久保の真実≫

英雄「西郷隆盛」を死なせた男

大久保利通は、当時から武士に嫌われていました。

現在でも彼の故郷「鹿児島」ではかなり嫌われています。

なぜか?

理由は簡単。「西郷隆盛を死なせた男だから」

清廉潔白な「西郷隆盛」。260年続いた江戸幕府を、実質的に崩壊させた男「西郷隆盛」は、当時から絶大な人気を誇っていました。

そんな西郷隆盛が、政府の悪政を正す・・・という名目で起こしたのが「西南戦争」・・・と言われています。

その西南戦争を起こした「西郷隆盛」の軍を倒した「新政府軍」。この政府軍を指揮していたのが「大久保利通」なのです。大久保利通は当初「司令官」に任命されていた「木戸孝允」に代わり、京都で政府軍に命令を下していました。

西郷隆盛は西南戦争で戦死。

これにより、大久保利通は、薩摩の人間から憎まれることになります。

大久保の故郷「鹿児島」への埋葬も、銅像建立も実現したのはつい最近。

西南戦争鎮圧のために政府軍として戦った「西郷隆盛」の従弟「大山巌」は、西郷隆盛と戦ったことを生涯悔やみ続け、鹿児島へは死ぬまで帰らなかったほどですので、薩摩の人がどれほど大久保を憎んだかが推し量れます。


スポンサーリンク

大久保利通は、武士特権を取り除いた人

実は大久保利通は、西南戦争で西郷隆盛が亡くなる前から、元武士(士族)から憎まれていました。

なぜかというと、「四民平等」という名目で、武士の特権を次々排除したから。

「廃藩置県」「廃刀令」など。

新しい時代のために戦った武士は、その恩恵を受けるどころか、自らの特権を奪われることとなったため、改革を主導した大久保利通を憎んだのです。

通常、革命を起こした者たちは、自らの私腹を肥やすものですが、大久保利通は真逆。自らの利益を全く考えず、国のために力を尽くしています。

にもかかわらず、共に戦った「薩摩藩士」たちから憎まれ、最期は西郷隆盛とともに西南戦争で戦おうとして果たせなかった「石川県の不平士族」に暗殺されています。

大久保利通・・・確かに西郷隆盛ほど「華」はないですが、近代日本の礎を築いたのは間違いなく大久保利通です。

明治政府の草創期、大久保利通が実質的な「首相」として政府を主導していることは疑いようもないでしょう。


スポンサーリンク

≪まとめ≫

本日の記事をまとめますと

・大久保利通は、近代日本の基礎を作り上げた人物。対して西郷隆盛は、旧体制(江戸幕府)を崩壊させた人物

・大久保は西郷を支えて倒幕を実現し、明治政府で様々な改革を実現。1878年「紀尾井坂の変」で亡くなった

・大久保は西郷隆盛を死なせたとして、かなり嫌われている。当時から、武士階級の特権を次々奪ったとして、士族から憎まれていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


大久保利通」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。
↓↓↓↓↓↓


スポンサーリンク



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする