西郷隆盛の評価はなぜ高いのか?何をした人なのかわかりやすく解説!

幕末・明治の英雄「西郷隆盛」。上野公園に銅像まで建てられた「西郷」さんは、いったいなぜ、あれほどまでに評価されているのか?

そして「西郷隆盛」とは、いったい何をした人なのでしょうか?

西郷隆盛は「徳川家康」がつくり260年以上続いた「徳川幕府(江戸幕府)」を倒した人。人気の理由は、彼が「清廉潔白」なとても素敵な性格の人物だったから。

この記事では「西郷隆盛って何をした人なのかわからない」という人向けに、その功績と評価の理由を、わかりやすく解説いたします。


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この記事を短く言うと

西郷隆盛は、薩長同盟江戸城無血開城を成し遂げて、徳川家康が開いた江戸幕府を終わらせた人

・西郷さんが評価されている理由は、偉業を成し遂げたにもかかわらず清廉潔白で、とても愛される性格の人だったから

・西郷さんは「西南戦争」という内乱を起こした逆賊だったが、わずか12年で「逆賊」の汚名を返上するほど、天皇や国民から支持されていた


「西郷隆盛」とは、何をした人なのか?

西郷隆盛

《西郷隆盛》
『引用元ウィキペディアより』

西郷隆盛は薩摩藩の代表として、幕府及び各藩の有力人物と折衝する立場にあり、強力なリーダーシップを発揮しました。

そして、大久保利通とともに藩論を討幕に一致させ、藩軍を率いて一気に討幕を果たします。

その過程で余人では成し得ない様々な事を成し遂げます。

西郷隆盛が260年続いた江戸幕府を終わらせたといっても過言ではないのです。


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その1「薩長同盟

幕末において薩摩と長州は天下の雄藩(経済力や政治力があり、勢力の強い有力藩のこと)でした。

しかし、両藩は非常に仲が悪く、京都で起こった合戦(禁門の変)では敵同士として戦うほどになりました。

しかし、土佐藩の坂本龍馬の仲介により、過去のいきさつはさておき、実利をとるために藩内を説得し薩長同盟を締結しました。

薩長同盟の締結により、討幕派は薩長を中心として勢いを得て、討幕の動きが加速していくのです。

 

その2「江戸城無血開城

戊辰戦争で新政府軍は各地で幕府軍を破り、江戸を目前にします。

新政府軍は江戸城総攻撃を計画しますが、幕府陸軍総裁の勝海舟が西郷と会談し、攻撃中止のための条件を協議します。

その結果、西郷は条件に合意し、攻撃は中止されます。もし江戸城総攻撃となれば、当時世界最大規模と言われた江戸の町は火の海となり、100万人の江戸の住民の多くは焼け死に、家を失なっていました。

西郷・勝が成し遂げた江戸城無血開城により、江戸の町と多くの江戸の住民を救ったのです。

 

その3「戊辰戦争

新政府軍の参謀(実質的な総大将)として京都から東北を転戦し、「戊辰戦争」で新政府軍を勝利に導いています。

庄内藩など幕府側につき、敗れた諸藩には寛大な態度で臨み感謝されています。


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「西郷隆盛」が、歴史上において誰よりも評価されている理由は何?

西郷隆盛はあざやかに討幕を果たし、明治新政府をつくりあげた、まぎれもない英雄です。

明治維新という革命のリーダーです。

同時代の人々からも圧倒的な人気がありました。

ここで歴史を振り返って考えたいのは、同じような革命を果たした人物は、革命後にどうしたかということ。

平家を打倒した源頼朝、鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏、室町幕府を倒した織田信長、彼らはその後、「自分のための独裁政権」をつくりました。

西郷隆盛は江戸幕府を滅ぼし、新政府の陸軍大将として軍隊を握っていました。

しかも人気があったので、西郷の号令で軍隊を意のままに使うことができました。

歴史の仮定として、武力を背景に独裁者になってもおかしくなかったのです。

ところが、西郷は全くそういうそぶりもみせず、権力に執着しませんでした。

なんと戊辰戦争後は、自分の役目は終わったとばかりに鹿児島へ帰って質素な生活に戻っています。

大久保の度重なる要請により、やっと新政府に出仕することとにはなりますが、そのくらい権力欲は薄かった。

新政府の他の役人が豪邸を構えて豪遊する中、西郷は自分の屋敷ももたず、質素な着物を着て書生の様な暮らしをしていました。

派手な遊びもせず、愛犬を連れての「狩り」がなにより好きだったとの事。

当時、西郷がもらっていた給料は、今の価値にすると、「月給1800万円」

しかし西郷はこの大金に全く興味をしめさず、一緒に暮らしていた使用人の「熊吉」に

「そこらへんにしまっておけ」

と言ったきり、手もつけなかったとのこと。お金を使ったことといえば、自宅に住まわせていた書生(弟子)の教育費・留学費をだしたことくらい。優秀な若者を育て上げることこそが、日本のため、正しいお金の使い方だと、西郷さんは思っていたのです。

西郷さんは人に優しく、度量が大きく、人の意見をよく聞き、感情が多量にあり、ユーモアにあふれた人柄だったとの事。

きっと偉そうにしたり、上から目線で人を扱ったりすることがなかったのでしょう。

そんな人に愛される資質があった人であり、事実西郷のためなら命も惜しくないという薩摩人に尊敬されていました。

新政府の参議・陸軍大将という重要な役人であるにもかかわらず、清廉潔白で「名誉も金もいらぬ」という人物であったため、国民から圧倒的に支持されていたのです。

後に内閣総理大臣となる薩摩藩出身の「山本権兵衛」さんも、西郷さんのことが大好きだったらしく

「西郷さんの家に行き、帰る際には言葉にならない愉快な気持ちになることができた。

それに比べて大久保利通さんの家に行くと、非常に緊張してしまったものだった。

だから私は、他のみんなと同じく『西郷派』だったのだ」

10歳で「薩英戦争」に参戦し、とても生意気な若者だったという山本権兵衛さんも、西郷隆盛という「戊辰戦争の英雄」を、心の底から敬愛していたのです。


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「西郷隆盛」の最期!実は「反乱」を起こした犯罪者だった

西郷は鹿児島の不平士族(新政府に不満をもつ元サムライたち)にかつぎあげられ西南戦争を起こします。

西郷にとっては、「滅びゆくサムライたち」に愛着があり、自分の体を薩摩士族に預けたのです。

西南戦争では西郷自らが作戦を考えた形跡は、全くありません。

滅びゆく運命の士族とともに自分の最期を迎えようと決めていたのかもしれません。

西郷は鹿児島の城山で死にます。

西南戦争はまぎれもなく新政府への反乱ですが、西郷と薩摩軍の幹部は浄光明寺墓に鄭重に葬られます。

政府への反乱者への扱いとしては異例でした。

そして、一旦は逆徒となりますが、明治天皇や国民から圧倒的な支持を得ていたため、1889年(明治22年)大日本帝国憲法発布に伴う大赦によって西郷の「逆徒」の汚名が解かれます。

西南戦争からわずか十二年で名誉回復が行われたのです。

それをきっかけに、東京都の上野公園に薩摩藩出身者が中心となって西郷像の建設計画が始まりました。

西郷像の建設には宮内省より500円を下賜され、さらに全国2万5千人もの有志の寄付金が集まりました。

反乱を起こしたとはいえ、明治天皇や国民は、西郷が悪ではないことがわかっていたのです。


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「西郷隆盛」について「ひとこと」いいたい

薩摩藩出身で、後に「内閣総理大臣」となる「山本権兵衛」は、若い頃に「西郷隆盛」と「大久保利通」と関わった逸話を残しています。

「西郷さんの家に行くと楽しくて、帰る際には非常に愉快な気持ちで帰れた。

対して大久保さんの家に行くと、あの威厳を前にして緊張してしまった。

そのため、私は根っからの西郷派だった」

大久保利通は、「人斬り半次郎」の異名を持つ剣豪「桐野利秋」すらも黙らせる威厳があった人です。西郷さんと比べるのは、少し残酷でしょう。

また、西郷さんの妻「糸子」さんも、西郷さんについて、こんなことを語っています。

「うちの人は、誰に対しても礼儀正しく、無様ななりで出歩いたりはしなかった」

「その目は大きかったが、とても慈愛に満ちていた」

きっと、とても愉快で優しい人だったのでしょう。

それを、明治天皇をはじめ国民誰もが知っていたからこそ、わずか12年で逆賊の汚名を返上できたのかもしれません。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・西郷隆盛は薩長同盟を締結し、江戸城無血開城を果たし、戊辰戦争で新政府軍参謀として勝利に導きました。

・西郷は明治新政府設立に最も功績があるにもかかわらず、それまでと変わらず清廉潔白な態度でありつづけたため、国民から圧倒的に支持されるのです。

・西南戦争を起こし、一旦は「逆徒」となりますが、明治天皇や国民の支持により西南戦争の十数年後に名誉回復されます。

西郷隆盛はその功績と共に清廉潔白な人柄により、同時代、そして現代の人々から愛され続けているのです。

以上となります。

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ありがとうございました

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