幕末最高の学者・藤田東湖の生涯と悲しい最期を、わかりやすく解説いたします。
最後の将軍・徳川慶喜の父・徳川斉昭を補佐し、水戸学を広めた藤田東湖。
藤田東湖は、安政の大地震で、母親をかばって亡くなったのです。
西郷隆盛が、天才・橋本左内とともに尊敬し、島津斉彬と並んで西郷を導いた天才。それが藤田東湖なのです。
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この記事を短く言うと
・藤田東湖とは、水戸藩の学者で、江戸時代末期の当時は、日本中でかなり有名だった人物
・「安政の大地震」で、母親を助けて亡くなった
藤田東湖の功績とは?何した人なの?
水戸学の大家「藤田東湖」
藤田東湖とは、水戸藩主「徳川斉昭」に仕えた人物です
水戸学とは、儒教思想に国学や神道・史学などを加えた思想のこと。
藤田東湖はそこで「尊皇思想」、つまり天皇を敬うことを主張したのです。
更にこの思想は「尊王攘夷」へと発展し、「敬天愛人」などの思想となって西郷隆盛や吉田松陰たちへ影響を与えることとなります。
西郷隆盛が残した言葉「敬天愛人(けいてんあいじん)」、すなわち「天をうやまい謙虚さを忘れず、人を愛す」、実は藤田東湖の言葉なのです。
藤田東湖は、今で言うところの「地方の官僚・役人」であり、かつ「政治評論家」というところでしょうか。
藤田東湖の功績
藤田東湖の功績を一言で表すと以下のとおりです
・名君と呼ばれた徳川斉昭を水戸藩主に擁立した
・斉昭の側近として藩政改革に着手した
・水戸学の大家として、その思想は西郷隆盛や吉田松陰とその弟子たち「勤王志士」に大きな影響を与える事となる
自らの手で何かを成し遂げた・・・というわけではありませんが、その思想を受け継いだ志士たちが明治維新を成し遂げていくのです。
藤田東湖の生涯と、優しすぎた最期
藤田東湖の生涯を短く解説いたします。
出生から家督相続まで
1806年、藤田東湖は水戸藩士・藤田幽谷の次男として誕生。
父・幽谷は、水戸学の学者であり、兄・熊太郎が早世したため、1827年に家督を継承
徳川斉昭を藩主に!
1829年、藤田東湖は、次期藩主を誰にするのかで揉めていた水戸藩において、次の藩主に徳川斉昭を推挙します。
徳川斉昭が藩主となると、藤田東湖はその信頼を勝ち取って、水戸藩の藩政改革に着手するようになるのです。
斉昭は、水戸藩の藩政改革として富国強兵を断行
その改革の1つとして、尊王思想を強く持つ斉昭は神道を重んじるようになり、仏教に対しては厳しい弾圧を加えます。
釣り鐘を没収して大砲の材料としたり、道端の地蔵を撤去したり。
対して神道には手厚く、1つの村に神社を最低1つ作ることを義務付けたり・・・。
これらの改革が幕府から厳しく処断され、斉昭は強制的に隠居させられる事となるのです。
「斉昭隠居」で藤田東湖も謹慎!
1844年、徳川斉昭が、が「隠居謹慎」の処分を受けると、藤田東湖も共に失脚
藤田東湖は藩邸に幽閉されることとなります。
そこで、藤田は「弘道館記述義」「常陸帯」などの著書を執筆。これは後に志士たちに対して強い影響を及ぼすこととなります。
1852年になって、ようやく藤田の蟄居処分が解除されます。
1853年、藤田は海防参与となった徳川斉昭の補佐をすることとなります。
最期
藤田東湖の最期は、かなり悲しいものでした。
1855年、安政の大地震が起こります。篤姫と将軍・徳川家定の結婚が1年延期となる原因の地震です。
この時、藤田東湖は、一度地震によって倒壊した邸宅から脱出することに成功しています。
ところが、藤田の母親が火鉢の火を心配して、崩れかかった邸内に戻ってしまうのです。
藤田東湖は、母親の後を追って行きます。
その時、鴨居が母に落ちて来たのです。息子・藤田東湖はそれを庇って鴨居を肩で受け止めました
なんとか母親を助けた藤田東湖でしたが、母親の無事を確認すると力尽き、亡くなってしまいます。
享年50歳。死因は「圧死」
儒学には「親は子よりも尊し」という思想があるようです。
子供は親から産まれることができるが、親は子からは産まれない。そのため、親は子よりも大切なのだ、という考え方です。
儒学を学んだ人物には、親孝行な人物が多いのです。母・桂昌院を大切にした5代将軍・徳川綱吉のように。
水戸学は儒学の思想も取り入れているので、その大家であった「藤田東湖」は、母を見捨てることが出来なかったのでしょう。
貴重な人材が母親を庇って亡くなるとは、母親は悲嘆に暮れたことでしょうね。
死後、息子「藤田小四郎」の悲劇
藤田東湖には、小四郎という名前の息子がいました。
彼は桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞たちと交流を重ね、尊王攘夷の志を強めていきます。
しかし、1864年に天狗党の乱を起こし、小四郎は加賀藩に捕らえられます。
最終的に魚のニシンを貯蔵する蔵に幽閉されたのち、小四郎は処刑されます。享年24歳。
父・藤田東湖と並ぶ高名な水戸藩士・武田耕雲斎とともに、切腹すら許されずに亡くなってしまったのでした。
西郷隆盛が尊敬し、橋本左内と並ぶ有名人
実はこの藤田東湖・・・現代ではそれほど名のしれた人ではありませんが、西郷隆盛が非常に尊敬していたことで有名です。
「1854年」に西郷が藤田に会っているのですが、その時のことを西郷はこう言っています。
「藤田東湖の家をうかがった時は、まるで清水を浴びせられたような、そんな曇りなき心になってしまい、おかげで帰り道を忘れるほどだった」
更に西郷は
「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推(お)す」
と言って、越前藩主・松平春嶽の部下だった若き天才・橋本左内と並んで、藤田東湖を評価していました。
西郷は藤田東湖の死を、惜しんだことでしょう。
西郷隆盛を導いた「師」としては、名君・島津斉彬公が有名ですが、藤田東湖もまた、西郷を導いた師であったと思います。
藤田東湖が残した言葉「敬天愛人」・・・西郷隆盛が大切にした言葉でもあるのですから。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・藤田東湖は、水戸藩士で徳川斉昭(徳川慶喜の父)の側近だった人物
・徳川斉昭の藩政改革を補佐し、更には幕政にも影響力を及ぼしたが、最期は安政の大地震で亡くなった
・西郷隆盛は、藤田東湖を尊敬し評価していた
以上となります。
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