藤田東湖の生涯と悲しき最期!西郷隆盛を指導し導いたもう一人の師

幕末最高の学者「藤田東湖」の「生涯」と「悲しい最期」を、わかりやすく解説いたします。

「徳川慶喜」の父「徳川斉昭」を補佐し、水戸学を広めた「藤田東湖」。

「安政の大地震」で、母親をかばって亡くなった。

西郷隆盛が「橋本左内」とともに尊敬し、「島津斉彬」と並んで西郷を導いた天才だった


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この記事を短く言うと

・藤田東湖とは、水戸藩の学者で、江戸時代末期の当時は、日本中でかなり有名だった人物

・「安政の大地震」で、母親を助けて亡くなった

西郷隆盛は、橋本左内と並んで、藤田東湖を尊敬していた


藤田東湖の功績とは?何した人なの?

藤田東湖
『引用元ウィキペディアより』

水戸学の大家「藤田東湖」

藤田東湖とは、水戸藩主「徳川斉昭」に仕えた人物です

水戸学とは、儒教思想に国学や神道・史学などを加えた思想のこと。

藤田東湖はそこで「尊皇思想」・・・つまり天皇を敬うことを主張したのです。

更にこの思想は「尊王攘夷」へと発展し、「敬天愛人」などの思想となって「西郷隆盛」や「吉田松陰」たちへ影響を与えることとなります。

西郷隆盛が残した言葉「敬天愛人(けいてんあいじん)」、すなわち「天をうやまい謙虚さを忘れず、人を愛す」、実は藤田東湖の言葉なのです。

藤田東湖・・・今で言うところの「地方の官僚・役人」であり、かつ「政治評論家」というところでしょうか。

藤田東湖の功績

藤田東湖の功績を一言で表すと以下のとおりです

・名君と呼ばれた「徳川斉昭」を水戸藩主に擁立した

・斉昭の側近として「藩政改革」に着手した

・水戸学の大家として、その思想は西郷隆盛や吉田松陰とその弟子たち「勤王志士」に大きな影響を与える事となる

自らの手で何かを成し遂げた・・・というわけではありませんが、その思想を受け継いだ志士たちが「明治維新」を成し遂げていくのです。


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藤田東湖の生涯と、優しすぎた最期

藤田東湖の生涯を短く解説いたします。

出生から家督相続まで

1806年、水戸藩士「藤田幽谷」の次男として誕生。

父・幽谷は、水戸学の学者であり、兄・熊太郎が早世したため、1827年に家督を継承

徳川斉昭を藩主に!

1829年、水戸藩の次の藩主に「徳川斉昭」を推挙

徳川斉昭
『引用元ウィキペディアより』

徳川斉昭が藩主となると、その信頼を勝ち取って水戸藩の藩政改革に着手

斉昭は、水戸藩の藩政改革として「富国強兵」を断行

その改革の1つとして、尊王思想を強く持つ斉昭は、仏教へ厳しい弾圧を加えます。

釣り鐘を没収して大砲の材料としたり、道端の地蔵を撤去したり。

対して神道には手厚く、1つの村に神社を最低1つ作ることを義務付けたり・・・。

これらの改革が幕府から厳しく処断され、斉昭は強制的に隠居させられる事となるのです。

「斉昭隠居」で藤田東湖も謹慎!

1844年に、徳川斉昭が、が「隠居謹慎」の処分を受けると、藤田東湖も共に失脚

藩邸に幽閉されることとなります。

そこで、藤田は「弘道館記述義」「常陸帯」などの著書を執筆。これは後に志士たちに対して強い影響を及ぼすこととなります。

1852年になってようやく蟄居処分が解除されます。

1853年、海防参与となった「徳川斉昭」の補佐をすることとなります。


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最期

藤田東湖の最期は、かなり悲しいものでした。

1855年、安政の大地震が起こります。篤姫と将軍「家定」の結婚が1年延期となる原因の地震です。

この時、藤田東湖は、一度地震から脱出するものの、母親が「火鉢の火」を心配して、崩れかかった邸内に戻ると、その後を追って行きます。

その時、鴨居が母に落ちて来たのです。息子・藤田東湖はそれを庇って鴨居を肩で受け止めました

なんとか母親を助けた藤田東湖でしたが、母親の無事を確認すると力尽き、亡くなってしまいます。

享年50歳。死因は「圧死」

儒学には「親は子よりも尊し」という思想があるようです。

子供は親から産まれることができるが、親は子からは産まれない。そのため、親は子よりも大切なのだ、という考え方です。

儒学を学んだ人物には、親孝行な人物が多いのです。母「桂昌院」を大切にした5代将軍「徳川綱吉」のように。

水戸学は儒学の思想も取り入れているので、その大家であった「藤田東湖」は、母を見捨てることが出来なかったのでしょう。

貴重な人材が母親を庇って亡くなるとは、母親は悲嘆に暮れたことでしょうね。

死後、息子「藤田小四郎」の悲劇

藤田東湖には、「小四郎」という名前の息子がいました。

彼は「桂小五郎」や「久坂玄瑞」たちと交流を重ね、尊王攘夷の志を強めていきます。

しかし、1864年に「天狗党の乱」を起こし、小四郎は加賀藩に捕らえられます。

最終的に魚の「ニシン」を貯蔵する蔵に幽閉されたのち、処刑・・・。享年24歳。

父・藤田東湖と並ぶ高名な水戸藩士「武田耕雲斎」とともに、切腹すら許されずに亡くなってしまったのでした。


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西郷隆盛が尊敬し、橋本左内と並ぶ有名人

実はこの藤田東湖・・・現代ではそれほど名のしれた人ではありませんが、西郷隆盛が非常に尊敬していたことで有名です。

西郷隆盛
『引用元ウィキペディアより』

「1854年」に西郷が藤田に会っているのですが、その時のことを西郷はこう言っています。

「藤田東湖の家を伺った時は、まるで清水を浴びせられたような、そんな曇りなき心になってしまい、おかげで帰り道を忘れるほどだった」

更に西郷は

「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」

と、藤田東湖を評価していました。

西郷は「藤田東湖」の死を、惜しんだことでしょう。

西郷隆盛を導いた「師」としては、名君「島津斉彬」公が有名ですが、藤田東湖もまた、西郷を導いた師であったと思います。

藤田東湖が残した言葉「敬天愛人」・・・西郷隆盛が大切にした言葉でもあるのですから。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・藤田東湖は、水戸藩士で徳川斉昭(徳川慶喜の父)の側近だった人物

・徳川斉昭の藩政改革を補佐し、更には幕政にも影響力を及ぼしたが、最期は安政の大地震で亡くなった

・西郷隆盛は、藤田東湖を尊敬し評価していた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


西郷隆盛」「橋本左内」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「西郷隆盛の生涯年表を世界一簡単にまとめてみた!」の記事はコチラ
「西郷隆盛の誕生日や出身地を解説!西郷の家紋は天皇から拝領したの?」の記事はコチラ
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