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【島津斉彬とは】その生涯と不可解な死因!幕末最高の名君と呪われた子供達

薩摩藩主「島津斉彬(しまづなりあきら)」の「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。

英雄「西郷隆盛」の才能を見抜き、薩摩藩の近代化をすすめ、「幕末の四賢候」の中でも最高の名君「島津斉彬」。

「父親に憎まれた苦難の人生」と、「呪われた子供たち」の物語。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・島津斉彬とは、西郷隆盛の才能を見抜いて出世させ、薩摩藩の改革を断行した名君。山内容堂松平春嶽、伊達宗城と並ぶ「幕末四賢侯」の1人

・島津斉彬は、父「島津斉興」と仲が悪く、40歳過ぎまで家督を相続できなかった

・斉彬も、斉彬の子供達も、次々と不審な死を遂げている


島津斉彬の功績とは?何をした人?

薩摩藩・第11代藩主にして、島津家第28代目当主・「島津斉彬」公

「引用元ウィキペディアより」

諸外国の圧力に、日本が脅かされていた幕末。

「宇和島藩主・伊達宗城」「土佐藩主・山内容堂」「福井藩主・松平春嶽」と並んで「幕末の四賢侯」と呼ばれた名君「島津斉彬」公

島津斉彬とは、一体なにをした人なのか?

「島津斉彬」の功績

その功績を簡単にまとめると、以下の通り

薩摩藩の改革を断交し、洋式産業を次々と起こし、明治維新に先駆けて、薩摩藩を一気に近代化させた

・「西郷隆盛」や「大久保利通」のような人材を見出し、引き立てて育て上げた

・幕政改革にも着手し、優秀だと噂だった「一橋慶喜」を14代将軍に推した

 

島津斉彬公が成し遂げた最大の功績は、「西郷隆盛」という偉人・英雄の才能を見抜いて抜擢、導いてその才能を開花させたことでしょう。

西郷隆盛・・・・言わずとしれた「明治維新」の英雄で、江戸城無血開城を成し遂げ、実質的に「徳川幕府」を終わらせた人物。

西郷は元々、薩摩藩の下級武士出身。

斉彬はそんな西郷を見出し、「お庭方」に抜擢します。「お庭方」というのは、下級武士で藩主に謁見することが出来ない西郷と斉彬が、毎日毎日顔を合わせて会話をすることができる便利なお役目。斉彬は暇があると庭にいる西郷を呼び出し、最新の世界情勢を教えたりして、清廉潔白な西郷に知識や行動指針を与えて育てていったのです。言うなれば、島津斉彬は西郷に対して「家庭教師」のような役割をはたしたのです。まさに、西郷は島津斉彬の弟子ということ。

そんな名君・斉彬公ですが、藩主に就任して、わずか7年で急死してしまいます。

師・斉彬公の意思を受け継いだ「西郷隆盛」は、日本の近代化「維新」を成し遂げるために盟友「大久保利通」とともに活躍。

1868年、西郷隆盛の手によって、ついに「明治維新」「倒幕」が成し遂げられたのでした。

斉彬は薩摩藩のみのことを考えていたわけではなく、日本をどのように生き残らせるか・・・それを考えていたのでしょう。その志は西郷隆盛が、見事に引き継いだのです。



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その生涯と、不自然な最期

名君「島津斉彬」公

その生涯と最期を解説いたします。

実は斉彬公・・・かなり不審な最期を遂げています。

島津斉彬の出生と、曽祖父「重豪」の存在

1809年4月28日、薩摩藩主「島津斉興」と「弥姫」の間に、「島津斉彬」は嫡男として誕生。

母「弥姫」は、「賢夫人」として有名な人物であり、斉彬はその「弥姫」が自ら養育。

そんな斉彬を溺愛したのが、曽祖父である8代藩主「島津重豪」

「島津重豪」は、蘭癖(らんぺき)・・・つまり西洋文化に執着し、傾倒していった人物でした。

そんな重豪に可愛がられた斉彬もまた、西洋文化に強い関心を示すようになっていったのです。

斉彬の優秀さは、非常に際立っていました。

しかし、いくら優秀でも、この「重豪」に可愛がられたことが、父「斉興」から嫌われるきっかけとなってしまったのです。



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不遇な青春期

斉彬の青春期は、お殿様にしてはつらいものでした。

40歳を過ぎても、島津斉興は藩主の座を譲ることはなかったのです。通常こんな事はあり得ません。

斉彬は、非常に優秀でありながら、父「斉興」から非常に嫌われていました。

原因は「曽祖父・重豪」と「蘭癖」・・・。

実は斉興が藩主を務めていた時代、薩摩藩は財政難に陥っていました。

原因は「重豪」の「蘭癖」・・・斉興の祖父であった「重豪」が、西洋の品々に金を使いまくったおかげで、薩摩藩は500万両(数千億円)もの借金を抱えていたのです。

斉興は、祖父の借金を重臣「調所広郷」とともになんとか解決。

その「重豪」と同じ「蘭癖」を持つ息子「斉彬」を、父「斉興」は、

「祖父・重豪と同じように薩摩藩を財政難に追い込むのでは?」

と危険視したのです。

斉彬は、そんな不遇な状況でもへこたれず、後に「幕末の四賢侯」と呼ばれる「伊達宗城」「山内容堂」「松平春嶽」たちと交流。

後の老中首座「阿部正弘」や、水戸藩主「徳川斉昭」とも交流を深めて、知識や経験を重ねていくのでした。



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「お由羅騒動」~藩主就任

そんな中、薩摩藩である騒動が勃発します。

それは「お由羅騒動

「お由羅騒動」とは、薩摩藩で起こった「お家騒動」

藩主「島津斉興」の後継者について、兄「斉彬」を推す一派と、弟「島津久光」を推す一派、その対立によって起こった騒動です。

「斉彬一派」は、藩主「島津斉興」により弾圧されてしまいます。

しかし斉彬に対して、老中「阿部正弘」や、斉彬の大叔父「福岡藩主・黒田長溥」とその弟「八戸藩主・南部信順」などが協力。

12代将軍「徳川家慶」が「斉興」に引退勧告をして、ついに斉興は隠居。

1851年3月4日、島津斉彬が藩主に就任したのです。



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藩主時代・・・次々行った藩政改革

ついに藩主に就任した「島津斉彬」

斉彬は、藩政改革を次々と断行。富国強兵を推し進めます。

富国強兵・・・つまり産業を起こして金を集め、軍事力を強化するということ。

斉彬が行った事業は「集成館事業」と呼ばれて、現在もその跡が残っています。

産業としては

「反射炉と溶鉱炉の建設」

「ガラス製造」

「ガス灯の製造」

挙句の果てには「ニセ金つくり」までやっていたと言われています。

 

軍事力強化の一手としては

「洋式造船」

「地雷・水雷」

「蒸気船開発」

斉彬は、近代化に際して日本が「海洋国家」であることを、誰よりも理解していました。

そのため、黒船の動力源であった「蒸気機関」の国産化を行い、日本最初の国産蒸気船「雲行丸」を完成させたのです。

また、薩摩藩は洋式の軍監「昇平丸」を建造し、幕府に献上しています。

この「昇平丸」は、後に「勝海舟」や「坂本龍馬」が活躍した「長崎海軍伝習所」で利用され、その後は「北海道開拓」に利用されることとなります。

 

藩政改革のみならず斉彬は、更に幕政改革にも着手

13代将軍「徳川家定」の次期将軍を、「優秀である」と噂になっていた「一橋慶喜」にしようと画策。

それだけでなく、人材育成にも着手しています。

西郷隆盛を「お庭方」に採用し、自ら西郷を育成・指導し、後の世を担う人材を育てあげていったのです。

「藩政改革」「幕政改革」「人材育成」と、斉彬の藩主時代はわずか7年という短いものでしたが、その間にこれだけの結果を出していたのです。



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「安政の大獄」と不可解な最期

斉彬が藩主として改革を次々断交している最中に、「井伊直弼」が幕府の最高位「大老」職に就任。

斉彬たちの最大の障害として立ちふさがることとなります。

井伊直弼は、斉彬の盟友であった「四賢侯」の1人「松平春嶽」や、「一橋慶喜」の父「徳川斉昭」らを弾圧し、謹慎へと追い込みます。(安政の大獄

そして、徳川家定の後継者(14代将軍)を、家定の従兄弟に当たる「徳川慶福(後の徳川家茂)」に決定。

更には、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」に関与した「水戸藩」や「福井(越前)藩」の人材を次々と弾圧。

この「安政の大獄」によって、西郷隆盛の盟友で福井藩主・松平春嶽の部下だった「橋本左内」を処刑。

更には長州藩の「吉田松陰」も処刑されました。


安政の大獄」や「戊午の密勅」について、詳しくは以下のリンク記事をごお役立てくださいませ。


「安政の大獄」で江戸および京都に粛清の嵐が吹き荒れる中、「島津斉彬」は薩摩にいました。

斉彬はこの「安政の大獄」に抗議するために、「5000人」の兵士を引き連れて「京都」へ進軍する計画を実行に移そうとします。

しかし・・・その矢先に斉彬は突如、病気で倒れてしまうのでした。

斉彬は50歳で急死・・・・死因は「コレラ」・・・脱水症状を起こして亡くなった・・・とされています。

本当に病気だったのか?真の死因は「毒殺」とも言われています。

 

西郷隆盛は、師であり主君でもあった「島津斉彬」の死に絶望します・・・。後を追おうとしますが、盟友であった僧侶「月照」の説得で救われます。

その後、西郷は月照と共に自殺未遂・・・・月照は亡くなり、1人生き残った西郷は斉彬の意思を継ぎ、明治維新へ邁進していくのです。

しかし!

その明治維新に対して、最大の障害となったのが、皮肉なことに斉彬が擁立しようとした「15代将軍・徳川慶喜」だったのです。

西郷は徳川慶喜による幕府再建工作に対抗し、明治維新を成し遂げたのでした。


橋本左内」「月照」については、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ

徳川慶喜と西郷隆盛」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。


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最高の名君!しかし子供達は呪われていた?

当時「日本一賢い殿様」と呼ばれていた「松平春嶽」は、島津斉彬について

「真の賢侯は、斉彬公1人だけだった。

山内容堂も、佐賀藩の鍋島閑叟(なべしま かんそう)公も、水戸の斉昭公も、斉彬公には遠く及ばない。」

と言っていました。

日本一賢いと言われていた「松平春嶽」が、「真の賢侯は、斉彬公ただ1人」と言っていたのですから、その能力はすさまじかったということです。



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呪われた子供達!斉彬の家系図

斉彬には、たくさんの子供達がいました。

わかっているだけで「6男5女」

しかし、これらの子供達が次々と夭折・・・つまり幼くして亡くなっているのです。

生き残ったのは3名だけ。しかも全員が女性

「三女」「四女」「五女」を残して、他の子供達は全員が若くして亡くなっているのです。

子供達が次々と亡くなった原因は、斉彬の弟「久光」の母である「お由羅」が、呪い殺したためだと、当時の人々は噂しました。どうやら斉彬の家来たちも、そのように考えていたみたいです。

しかし、呪い殺したなんていうのは、現実的には考えにくいです。

もしかしたら毒殺された・・・ということも考えられますが、真相は闇の中。

斉彬の後継者には、久光の息子「忠義」が指名され、忠義が藩主となると、久光は「国父」と呼ばれて全権を掌握。

「お由羅」は、孫の「忠義」が藩主に就任したのを見とどけたのちに他界。

結局、斉彬やその子供達が亡くなって、最も得をしたのは「お由羅」とその子「久光」ということになってしまったわけです。



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斉彬の娘たちのその後

三人の娘は、全員が「島津久光」の息子に嫁いでいます。これは、斉彬の遺言だったみたいですね。

斉彬の三女は、久光の息子「忠義」に嫁いでいます。三女が亡くなると、今度は「五女・寧姫」が「忠義」の後妻となっています。

四女の「典姫」は、久光の息子「珍彦(うずひこ)」と結婚。

現代に子孫を残すに至っています。


斉彬公の子孫」について、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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父「島津斉興」のその後

斉彬に藩主の座を譲り、引退した父・斉興は、その後どうなったのでしょうか?

実は、父・斉興は息子の斉彬よりも長生きしています。

斉彬が亡くなると、斉興は現役復帰。藩の実権を取り返します。

それまで斉彬が勧めた「集成館事業」を全て中止してしまいます。(ビイドロなどの一部だけは残したという説もあります)

そして、薩摩藩を古い体質に戻して、実権を斉彬の弟「久光」へと渡した後に亡くなります。

「斉彬暗殺」の真相とは?

どうやらこの「斉興」が、息子の斉彬を暗殺した・・・という説もあるようですが・・・真相はどうなのでしょうかね?

斉彬暗殺」についてですが、どうやら西郷隆盛は、真相を知っていた!という説があるようです。

詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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「島津斉彬」公の「評価」

島津斉彬公を、当時の人はどのように評価しているのでしょうか?

調査してみました。

福井藩主「松平春嶽」

「四賢侯などと呼ばれているが、真の『賢侯』は島津斉彬公ただ一人だった。

斉彬公に比べたら、水戸斉昭公も、山内容堂公も、鍋島直正公も、まったく及ばない」

「斉彬公は、ひどくケチなところがあった。わずかなお金すらも惜しむような。

しかし、大金を使うとなると、全く惜しむところがない。

つまりは、本当のケチではないということだ。

日々の節約をおこたらず、そして蓄えた大金を志のために使う。

このことだけを見ても、斉彬公は真の英雄と見るべきだ」

松平春嶽公は、当時「日本一賢い」と呼ばれた名君でした。

その春嶽公が、斉彬公こそが日本一賢い殿様だった、と証言しているのです。

「節約」については、「織田信長」もそのような人だったと言われています。「節約」はするんだけど、使うときは豪快に使う。斉彬も織田信長も、最近の敏腕社長みたいな人ですね。

「寺島宗則」

「斉彬公には、脳が2つあったのではないだろうか。

斉彬公と話をしているときに、部下が部屋に入ってくると、斉彬公はその部下に細かく指示を出す。

しかしそのときでも、話を止めてはならないと指示される。

つまり話を聞きながら指示を出しているのだ。

そういう人だから、やっぱり脳が2つあったのだろうなぁ」

後の「外務卿」「文部卿」として活躍した「寺島宗則」は、島津斉彬に仕えた「医者」でした。

医師に「脳は2つ」なんて非現実的なことを言わせるほど、斉彬公は人並み外れた能力をもっていたのでしょう。



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「伊藤博文」

「斉彬公は豪傑だった。」

「寺島宗則から聞いた話だが、斉彬公がある文章を翻訳しろとおっしゃった。

それには『綿』のことが書かれていたのだ。

そこで寺島は

築城とか軍学について書かれているのかと思いましたら、これは綿について書かれているようです

と言った。すると斉彬公は

そんなことはわかっている。早く翻訳せよ。今後、日本を困らせるのはこの綿だ

とおっしゃった。

どうやら当時から、日本に綿糸を輸入することに着目していたようだ。」

「勝海舟」

「斉彬公は偉い人だった。

西郷隆盛という大人物の能力を見抜いて、お庭番に任命したことは本当に偉い。

ある時、斉彬公は2つのことを教えてくれた。

1つは、人を用いるには急いではいけないということ。

2つ目が、一つの事業は10年待たないと取りとめのつかないものだということ」



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津斉彬とは、薩摩藩を改革し、西郷隆盛のような人材を次々と育成した「幕末最高の名君」

・斉彬は若い頃、不遇の人生をおくり、父・斉興との不和が原因で40歳まで家督相続ができなかった

・斉彬も、その子供達も、不審な死にかたをしている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


島津斉彬」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

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