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篤姫と和宮の関係とは?険悪から絆へ変わった大奥を揺るがした嫁姑の真実

幕末の動乱期、江戸城大奥では二人の女性が激しく対立していました。

薩摩藩から徳川家に嫁いだ篤姫と、皇室から降嫁した和宮という、義理の嫁姑の関係にあった二人です。

公家と武家という異なる文化背景を持つ二人は、当初は敬称問題や座る場所をめぐって激しく対立し、大奥内で険悪な空気が流れていました。

しかし時が経つにつれ、徳川家茂の存在や共通の使命感によって二人の関係は劇的に変化していきます。

江戸城無血開城という歴史的偉業を成し遂げた陰には、確執を乗り越えて共闘した二人の女性の姿がありました。

晩年には深い友情で結ばれ、互いに支え合うようになった篤姫と和宮の波乱に満ちた関係性について、当時のエピソードを交えながらわかりやすく解説していきます。

この記事のポイント
  • 篤姫と和宮が当初険悪だった理由と公家・武家のしきたりの違い
  • 徳川家茂の存在が二人の和解に果たした重要な役割
  • 江戸城無血開城で見せた二人の共闘と歴史的功績
  • 晩年の篤姫と和宮の深い友情と互いへの敬意
目次

篤姫と和宮の関係が険悪だった理由

項目篤姫和宮
出身薩摩藩(武家)皇室(公家)
13代将軍・徳川家定14代将軍・徳川家茂
関係性義理の姑義理の嫁
立場将軍の正室皇女から将軍の正室へ

篤姫と和宮は義理の嫁姫だった

篤姫と和宮の関係を理解するには、まず二人がどのような立場にあったかを知る必要があります。篤姫は薩摩藩出身で、13代将軍・徳川家定の正室となった女性です。一方の和宮は、明治天皇の父である孝明天皇の異母妹という皇族出身で、14代将軍・徳川家茂の妻となりました。

ここで重要なのが、13代将軍・家定と14代将軍・家茂の関係性です。実は家茂は家定の従弟にあたり、家定の養子として将軍職を継いでいます。つまり家定の妻であった篤姫は、家茂にとって養母という立場になるわけです。そのため家茂は篤姫のことを母と呼び、篤姫も家茂を我が子のようにかわいがっていたといわれています。

結果として、篤姫は和宮の義理の姑という関係になりました。しかし篤姫は薩摩という武家の出身であり、和宮は皇室という日本最高位の血筋を持つ皇女です。この身分の違いと文化の違いが、後に大きな対立を生むことになるのです。

篤姫の生い立ち

篤姫は薩摩藩の島津家の分家に生まれ、藩主・島津斉彬の養女となってから徳川家に嫁ぎました。武家の厳しいしきたりの中で育ち、将軍家の正室として大奥を取り仕切る立場にありました。

和宮の生い立ち

和宮親子内親王は仁孝天皇の第八皇女として京都御所で生まれ育ちました。本来は有栖川宮熾仁親王との婚約が内定していましたが、公武合体政策のため徳川家への降嫁を余儀なくされました。皇女として育てられた和宮にとって、臣下である武家への降嫁は大きな屈辱だったといわれています。


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公家と武家のしきたりの違いが対立を生んだ

篤姫と和宮の対立の最大の原因は、公家と武家という全く異なる文化背景から生じたしきたりの違いでした。特に有名なのが敬称問題です。

和宮が江戸に下向してきた際、篤姫に京都土産を贈りました。ところがその宛名が「天璋院」とだけ書かれており、「様」という敬称が抜けていたのです。これには篤姫だけでなく、大奥に仕えていた女中たちも激怒したといわれています。

しかしこれは和宮側に悪意があったわけではありません。公家の世界では、皇族が臣下に対して敬称をつけたり敬語を使うという習慣がそもそも存在しなかったのです。和宮にとって徳川家は朝廷に仕える臣下の家柄であり、たとえ姑であっても敬称をつける必要性を感じていなかったと考えられます。

一方の武家社会では、年長者や目上の人には必ず敬称をつけるのが常識でした。特に大奥では厳格な上下関係と礼儀作法が守られており、和宮の態度は武家のルールに反する非常識な行為と映ったのです。

文化公家(和宮側)武家(篤姫側)
敬称の考え方皇族は臣下に敬称不要年長者・目上には必須
礼儀作法京都御所のしきたり武家の厳格なルール
身分意識皇族が最上位将軍家が最高権力
生活様式雅な公家文化質実剛健な武家文化

さらに和宮は京都から大勢のお付きの者を連れて大奥に入りました。彼らは公家の作法を重んじ、武家のやり方に従おうとしなかったため、もともと大奥にいた女中たちとの間で衝突が絶えなかったといいます。こうした文化の違いが、篤姫と和宮の対立をさらに深刻なものにしていったのです。

大奥で繰り広げられた嫁姑バトルの実態

篤姫と和宮の対立は、初対面の時からすでに始まっていました。文久元年(1861年)12月11日、和宮が江戸城に到着した際の対面で、早くも火花が散ったといわれています。

ある記録によれば、篤姫と和宮が対面した際、篤姫は自分だけ座布団に座り、和宮には座布団を与えなかったという逸話があります。これは皇女である和宮を意図的に見下す行為だったとも、武家のしきたりとして嫁が姑より低い位置に座るのが当然だったともいわれており、真相は定かではありません。

しかし篤姫側にも言い分がありました。いかに皇女であっても、将軍家茂に嫁ぐ以上は徳川家の一員であり、篤姫は家茂の養母という姑の立場にあります。それにもかかわらず和宮側が篤姫を呼び捨てにしたり、敬語を使わなかったりすることに、篤姫のお付きの者たちは強く憤慨していました。


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家茂が和宮を「宮様」と呼ぶことへの不満

さらに篤姫を苛立たせたのが、徳川家茂が和宮のことを「宮様」と呼んでいたことです。

徳川家茂
引用元「Wikipediaコモンズ」より

これは和宮が皇女であることを示す尊称ですが、将軍である家茂が自分の妻を「宮様」と呼ぶことは、和宮の方が将軍より身分が上であることを認めているようなものでした。

篤姫は家茂を我が子のようにかわいがっていたため、その家茂が妻に対して身分の低い態度を取らされていることに強い不満を感じていたといわれています。武家の世界では夫が妻より上位であるのが常識でしたが、和宮の場合は皇女という特別な立場があり、そうした常識が通用しなかったのです。

実際、和宮の身分は非常に特殊でした。皇女である和宮が臣下の家である徳川家に嫁ぐこと自体が前例のないことであり、朝廷と幕府の間で複雑な取り決めが交わされました。和宮は形式上は将軍の妻になりましたが、皇族としての地位は保持し続けたため、大奥内での序列も曖昧なものとなっていたのです。


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対立していた二人が和解したきっかけ

険悪だった篤姫と和宮の関係に変化が訪れたのは、徳川家茂の存在が大きかったといわれています。篤姫は家茂を養子として深く愛情を注いでおり、家茂もまた篤姫を実の母のように慕っていました。

一方、政略結婚で徳川家に嫁いだ和宮は、当初は結婚を嫌がり、元婚約者の有栖川宮熾仁親王への思いを断ち切れずにいました。しかし時が経つにつれて、夫である家茂の誠実で優しい人柄に触れ、次第に心を開いていったのです。家茂は和宮の気持ちを理解し、京都風の生活様式を尊重するなど、和宮に寄り添う態度を見せました。

そうした家茂と和宮の仲睦まじい様子を見るうちに、篤姫の心にも変化が生じました。かわいがっている家茂が幸せそうにしている姿を見て、篤姫は和宮に対する敵対心を和らげていったといわれています。

亥の子餅のエピソード

篤姫と和宮の関係が改善したことを示す有名なエピソードがあります。ある時、和宮が篤姫に亥の子餅を贈ったところ、篤姫は大変喜んでそれを食べたといいます。このささやかな贈り物のやり取りが、二人の氷のような関係を溶かすきっかけになったと伝えられています。

また別の記録では、篤姫が和宮の部屋を訪れて直接話をする機会が増え、互いの立場や考えを理解し合うようになったともいわれています。公家と武家という違いはあっても、どちらも徳川家を守りたいという思いは同じでした。この共通の目的意識が、二人を結びつけていったのです。


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篤姫と和宮の関係がその後どう変わったのか

時期二人の関係主な出来事
文久元年(1861年)険悪・対立和宮が江戸城に到着、初対面
文久2~3年軟化・和解家茂の存在により関係改善
慶応2年(1866年)連帯感家茂死去、共に悲しむ
慶応4年(1868年)共闘江戸城無血開城に協力
明治時代深い友情互いに支え合う関係に

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徳川家茂の死後、二人は共通の敵を持った

慶応2年(1866年)7月20日、徳川家茂が大坂城で急死しました。享年わずか21歳という若さでした。家茂の死は、篤姫と和宮の両者にとって大きな衝撃であり、二人を結びつける最大のきっかけとなりました。

篤姫は養子として愛情を注いでいた家茂を失い、和宮は愛する夫を失いました。二人は共に深い悲しみに暮れ、家茂の死を悼みました。この共通の悲しみが、二人の心の距離をさらに縮めることになったのです。

さらに家茂の死後、将軍職を継いだ徳川慶喜に対して、篤姫も和宮も強い不満を抱いていたといわれています。慶喜は優秀な政治家でしたが、大奥との関係はあまり良好ではありませんでした。

篤姫が慶喜を嫌っていた理由は明確ではありませんが、慶喜の政治的な冷徹さや、大奥を軽視する態度が原因だったと考えられています。一方の和宮も、慶喜が朝廷との約束を守らなかったことなどに不信感を抱いていたようです。

こうして篤姫と和宮は、かつての確執を忘れ、徳川慶喜という共通の「敵」を持つことで意気投合していきました。そしてその結びつきは、やがて徳川家の存続をかけた歴史的な行動へとつながっていくのです。


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江戸城無血開城で二人が見せた共闘

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで敗れた徳川慶喜は朝敵となり、新政府軍が江戸城総攻撃を決定しました。このままでは江戸の町が戦火に包まれ、100万人の江戸の住民が犠牲になる可能性がありました。この危機的状況で、篤姫と和宮は確執を完全に捨て去り、徳川家を守るために共闘したのです。

篤姫は故郷である薩摩藩の西郷隆盛に対して嘆願書を送りました。篤姫と西郷は薩摩藩で旧知の間柄であり、篤姫は「徳川慶喜の命を助けてほしい」「江戸の町を戦火から救ってほしい」と強く訴えました。篤姫の使者として西郷のもとを訪れた幾島という女性を通じて、この嘆願は西郷に届けられました。

上野・西郷隆盛像
引用元「Wikipediaコモンズ」より

一方の和宮は、朝廷に対して嘆願書を送りました。和宮の幼馴染で新政府軍の先鋒隊総督だった有栖川宮熾仁親王に手紙を送り、「江戸を戦火から守るために進軍を止めてほしい」と強く訴えたのです。皇女という立場を活かし、和宮は朝廷に対して徳川家への寛大な処置を求めました。

篤姫の行動和宮の行動
薩摩藩の西郷隆盛に嘆願書を送付
慶喜の命の助命を懇願
江戸の町の保全を訴える
実家(薩摩)に対する働きかけ
朝廷に嘆願書を送付
有栖川宮熾仁親王への手紙
江戸城総攻撃の中止を懇願
皇族としての立場を活用

この二人の嘆願が功を奏し、西郷隆盛と勝海舟の会談が実現しました。そして慶応4年3月15日、江戸城無血開城が決定され、江戸の町は戦火から救われたのです。篤姫と和宮の働きかけがなければ、江戸城総攻撃は実行され、多くの犠牲者が出ていた可能性が高いといわれています。

江戸城無血開城は、日本の歴史において非常に重要な出来事でした。一滴の血も流さずに政権交代を成し遂げた例は世界的にも稀であり、この平和的な移行が明治維新の成功につながりました。その陰には、かつて対立していた二人の女性の献身的な努力があったのです。

篤姫と徳川家定、和宮と徳川家茂の関係について、さらに詳しく知りたい方はこちらの記事もご覧ください。

徳川家定と篤姫の夫婦関係や仲について詳しく解説した記事はこちら

徳川家茂と和宮の関係について詳しく知りたい方はこちら


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明治時代に入ってからの篤姫と和宮の関係

明治維新後、江戸城を明け渡した篤姫と和宮は、それぞれ別の場所で生活を始めました。しかし二人は戊辰戦争を共に生き抜いた戦友として、深い絆で結ばれていたといわれています。

篤姫は薩摩に帰ることなく、一橋邸に移り住んでそのまま江戸(東京)に住み続けました。一方の和宮は明治元年(1869年)にいったん故郷の京都に戻りますが、明治7年(1874年)には再び東京に移住してきました。和宮が東京に戻ってきた理由の一つは、篤姫との交流を続けたかったからだともいわれています。

勝海舟の記録によれば、篤姫と和宮が仲良く勝の家を訪ねてきたことがあったそうです。食事が供された時、お互いが相手のことを敬い、篤姫は和宮の給仕を、和宮は篤姫の給仕をしようとして譲り合ったという微笑ましいエピソードが残されています。

江戸城明け渡しの際の篤姫の気高さ

江戸城を明け渡す際、篤姫は幕臣たちに城をきれいにするよう通達を出しました。そして大奥の調度品に一切手をつけず、自分の家具も一切持たずに一橋家に移ったといいます。この潔い態度は、新政府軍からも高く評価されました。

篤姫のこうした姿勢は、徳川家の誇りと武家の気概を示すものでした。そして和宮もまた、皇女としての品位を保ちながら、徳川家の一員として行動し続けたのです。

明治時代の二人の生活

明治時代に入ってからの篤姫と和宮は、決して裕福とはいえない生活を送っていました。徳川家は旧幕府軍の敗北により、かつての栄華を失っていたからです。しかし二人は互いに励まし合い、支え合って生きていました。

篤姫は旧幕臣たちの世話を焼き、困窮している人々を援助していました。和宮もまた、徳川家ゆかりの人々を支援する活動を続けていました。二人は共に、徳川家を守り続けるという使命感を持ち続けていたのです。


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和宮の死と篤姫の悲しみ

明治10年(1877年)9月2日、和宮は脚気のため32歳の若さでこの世を去りました。和宮の死を最も悲しんだのは篤姫だったといわれています。

篤姫は和宮の病気を聞きつけて見舞いに向かおうとしましたが、その前に和宮は亡くなってしまいました。最期に会うことができなかったことを、篤姫は深く悔やんだといいます。葬儀の際、篤姫は誰よりも深い悲しみを見せたと記録されています。

かつては険悪な関係だった二人が、最期にはこれほどまでに深い絆で結ばれていたことは、多くの人々を感動させました。和宮の死後、篤姫は和宮のことをよく思い出し、彼女との思い出を大切にしていたといわれています。

和宮の墓には、夫である徳川家茂の写真が一緒に埋葬されていたことが発掘調査で明らかになっています。和宮は生涯、家茂への愛を忘れることはありませんでした。そして篤姫もまた、家茂を愛していた和宮の気持ちを理解し、二人は家茂への愛情を通じて結ばれていたのです。

篤姫のその後

和宮の死後も篤姫は東京で暮らし続けました。明治16年(1883年)11月20日、篤姫は49歳で死去しました。篤姫の葬儀には多くの旧幕臣や関係者が参列し、彼女の人生を偲びました。

篤姫は生涯独身を貫き、徳川家定の妻としての矜持を守り続けました。そして和宮との友情もまた、篤姫にとって人生の大きな支えとなっていたのです。

江戸城無血開城での篤姫と西郷隆盛の関係について、さらに詳しく知りたい方はこちらの記事もご覧ください。

江戸城無血開城と篤姫や西郷隆盛の功績について詳しく解説した記事はこちら


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よくある質問

篤姫と和宮は何歳離れていましたか?

篤姫は天保6年(1835年)生まれ、和宮は弘化3年(1846年)生まれですので、11歳の年齢差がありました。篤姫の方が年上で、年齢的にも姑としての立場にふさわしい関係でした。

二人は実際に頻繁に会っていたのですか?

和宮が江戸城に入った文久元年(1861年)から江戸城明け渡しの慶応4年(1868年)まで、二人は大奥で共に生活していました。最初は対立していましたが、次第に交流を深めていきました。明治時代に入ってからも、東京で何度か会っていたと記録されています。

なぜ二人とも徳川慶喜を嫌っていたのですか?

篤姫が慶喜を嫌っていた理由は明確ではありませんが、慶喜が大奥を軽視する態度を取っていたことや、政治的に冷徹な判断を下すことが多かったためと考えられています。和宮は、慶喜が朝廷との約束を守らなかったことや、大政奉還によって徳川家を終わらせたことに不満を持っていたようです。

和宮の元婚約者は誰だったのですか?

和宮の元婚約者は有栖川宮熾仁親王という皇族でした。二人は幼い頃から婚約していましたが、公武合体政策のため和宮は徳川家茂との結婚を余儀なくされました。和宮は当初この結婚を嫌がり、熾仁親王への思いを断ち切れずにいましたが、次第に家茂の人柄に惹かれていったといわれています。

篤姫は和宮の死後どうなりましたか?

和宮が明治10年(1877年)に亡くなった後も、篤姫は東京で暮らし続けました。旧幕臣たちの世話を焼きながら静かな生活を送り、明治16年(1883年)11月20日に49歳で死去しました。篤姫は生涯、徳川家定の妻としての誇りと、和宮との友情を大切にしていました。

二人の和解に徳川家茂はどのような役割を果たしましたか?

徳川家茂は篤姫と和宮の間を取り持つ重要な存在でした。家茂は養母である篤姫を深く慕い、同時に妻である和宮を大切にしました。家茂の誠実で優しい人柄が、二人の心を和らげるきっかけとなりました。家茂と和宮の仲睦まじい様子を見ることで、篤姫は和宮に対する敵対心を失っていったといわれています。

江戸城無血開城に二人はどのくらい貢献したのですか?

篤姫と和宮の貢献は非常に大きかったといわれています。篤姫は薩摩藩の西郷隆盛に、和宮は朝廷に対して嘆願書を送り、徳川家への寛大な処置と江戸城総攻撃の中止を求めました。この二人の働きかけが西郷隆盛の決断に影響を与え、江戸城無血開城の実現につながったと考えられています。もし二人の嘆願がなければ、江戸の町は戦火に包まれていた可能性が高いのです。


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篤姫と和宮が教えてくれること

  • 篤姫と和宮は当初、公家と武家という文化の違いから激しく対立していた
  • 敬称問題や座る場所をめぐる軋轢が大奥内で険悪な空気を生んでいた
  • 徳川家茂の存在が二人の和解の大きなきっかけとなった
  • 家茂と和宮の仲睦まじい姿を見て篤姫の心が変化していった
  • 家茂の死後、二人は共通の悲しみと使命感で結ばれた
  • 徳川慶喜という共通の「敵」を持つことで意気投合した
  • 江戸城無血開城では確執を完全に捨てて共闘した
  • 篤姫は西郷隆盛に、和宮は朝廷に嘆願書を送り徳川家を守った
  • 二人の働きかけが江戸100万人の命を救う結果につながった
  • 明治時代に入ってからも深い友情で結ばれていた
  • 勝海舟宅で互いに給仕を譲り合う微笑ましいエピソードがある
  • 和宮の死を最も悲しんだのは篤姫だったといわれている
  • 二人は家茂への愛情を通じて深く結ばれていた
  • 身分や立場の違いを超えた二人の絆は歴史に残る美談である
  • 対立から友情へと変化した二人の関係は、理解と歩み寄りの大切さを教えてくれる

篤姫と和宮の物語は、異なる文化や立場にある人々が、理解と歩み寄りによって深い絆を築けることを示しています。当初は公家と武家という違いから激しく対立していた二人が、共通の目的と相互理解によって最終的には深い友情で結ばれました。この物語は、現代を生きる私たちにも大切な教訓を与えてくれるのです。

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