2003年に放映されたドラマのようにドロドロとした女の園のイメージがある「大奥」。
幕末における大奥の、実際にあった女達の争いについて、お話ししていこうと思います。
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この記事を短く言うと
・天璋院篤姫と和宮は、嫁姑の関係にあった
・篤姫と和宮は、当初関係が悪かったが、徳川家茂の存在により、徐々に関係が良くなっていった
・晩年の篤姫と和宮は、非常に仲が良く、互いに支え合うようにして生きていた
篤姫と和宮の関係とは?
まず、篤姫と和宮の生い立ちなどを、簡単にご説明しましょう。
篤姫は、薩摩藩島津家の生まれで、島津本家の従兄・「島津斉彬」の養女となり、その後徳川家に嫁ぎ、13代将軍・「家定」の御台所となりました。
御台所とは、江戸幕府将軍の正室(正妻)の敬称として用いられていた呼称・・・・ドラマでも「御台様(みだいさま)」と呼ばれているシーンを知っている人もいると思います。
また、徳川家定の死後は出家して、天璋院(てんしょういん) と名乗っています。
余談ですが、徳川家の分家である「御三家(尾張家・紀伊家・水戸家)」の正妻は「ご簾中(れんじゅう)」と呼ばれています。
続いて「和宮」についてですが、彼女は「和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)」という皇族出身の女性でした。
明治天皇の父・孝明天皇(こうめいてんのう)の異母妹で、臣下である徳川家に降嫁し、14代将軍・「徳川家茂」の妻となりました。
さらに、13代将軍「家定」と14代将軍「家茂」の関係ですが、家茂は家定の従弟にあたり、家定の養子となっています。
そのため、家茂は篤姫を母と呼び、彼女も家茂を大変かわいがっていたそうです。
ちなみに余談ですが、家茂と接する時とは対照的に、篤姫は15代将軍・「一橋慶喜」のことは大層嫌っていたと言われています。
さらに、篤姫だけでなく、和宮も同様に慶喜のことが嫌いだったそうです。
少し話がそれましたが、ここまでの流れで篤姫と和宮の関係は、義理の姑と嫁の関係であったことがご理解いただけたと思います。
篤姫と和宮は、大奥内で仲が悪かった
篤姫と和宮は大変仲が悪かったと言われていますが、それを象徴する事件があります。
和宮から篤姫宛てに京都土産が届けられた際、宛名が「天璋院」とだけあり、「様」が抜けていました。
これには篤姫及び大奥に仕えていた女中達も、激怒したそうです。
これは、篤姫の育った武家と、和宮の公家の習慣の違いから起こった悲劇と言えます。
公家の和宮が、臣下である徳川家に敬称をつけたり、敬語を使うという発想はできなかったと考えられます。
月日が経ち、和宮と篤姫の可愛がっていた息子・家茂の仲が良好になるにつれ、篤姫と和宮の軋轢も序々に和らいでいきます。
戊辰戦争時に、討幕軍による江戸城総攻撃が決定された時、篤姫と和宮はこれまでの確執を捨て、江戸城を守るため、朝廷や薩摩藩に懇願し江戸城無血開城へ導いていきました。
最初は不仲だったふたりは、後に見事に和解を果たしたのです。
晩年の篤姫と和宮
明治維新後の篤姫と和宮は、ともに戊辰戦争を生き抜いた戦友として、仲良く過ごしたそうです。
両者とも江戸城を退出し、篤姫は薩摩に帰ることなく江戸に住み続け、一方の和宮は、1869年(明治元年)に故郷の京都へ戻りますが、1874年(明治7年)には東京に移住します。
勝海舟によると、ふたり仲良く海舟の家を訪ねたこともあったそうです。
勝の家では食事が供された時、お互いが相手のことを敬い、篤姫は和宮の、和宮は篤姫の給仕をしようとしました。
そのため、勝がもう一つしゃもじを用意して、互いの茶碗にご飯をよそわせたという、微笑ましいエピソードとして伝わっています。
その後和宮は、1877年(明治10年)8月に脚気を患ったことを理由に、箱根へ療養に行くことになります。
そして同年の9月、篤姫は彼女を見舞おうとしましたが、篤姫が着く前に、和宮は脚気を原因とした心不全で亡くなってしまいます。
和宮が32歳という若さでこの世を去ったとき、一番悲しんだのは篤姫だったといいます。
そして余談ですが、和宮の夫・家茂は大の甘党で、虫歯と脚気が原因で亡くなっています。
和宮も家茂と同様、甘い物が好物で症状を悪化させ、亡くなったとされています。
仲の良かった夫婦ですが、死因も同じというのは、なんとなく運命を感じます。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・篤姫は13代将軍・家定の妻、和宮は14代将軍・家茂の妻で、義理の姑と嫁の関係だった。
・篤姫と和宮は仲が悪かったが、家茂のおかげで関係が良好になった。
・晩年の篤姫と和宮は、和宮の死を篤姫が最も悲しむほど、深い絆で結ばれていた。
もともと仲の悪かった姑と嫁が、これだけ良い関係を築けることはとても珍しいと思います。
篤姫と和宮の双方の歩み寄りと、家茂の存在が大きいのではないかと思います。
また、ふたりとも慶喜嫌いで、敵が一致していたから意気投合した可能性もあるような気がします。
ドロドロした大奥で過ごしたふたりが、維新後に仲の良い関係で晩年を過ごすことができたのは、長生きではなかったものの、幸せだったのではないでしょうか。
以上となります。
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