幕末・会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)の「生涯と最期」「家系図と子孫」について、わかりやすく解説いたします。
薩摩・長州の新政府軍と「会津戦争」で戦い、会津の悲劇を経験した若き君主「松平容保」
末裔の松平恒孝さんは、現在「徳川宗家」を継承しています。
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この記事を短く言うと
・松平容保(まつだいら かたもり)とは、幕末「会津藩」の藩主にして、京都守護を担当した若き君主
・容保は、孝明天皇から絶大な信頼を勝ち取り、しかも徳川家に忠誠を誓い、薩摩藩と長州藩と戦った
・会津戦争で、松平容保は惨敗し降伏。その後「斗南藩(となみはん 現在の青森県東部)」へ移動したものの、失意の人生をおくった
松平容保の子孫が、徳川宗家の当主になっていた
松平容保の子孫は、徳川宗家18代目当主である徳川恒孝さんです。
松平容保の孫である「松平一郎」氏の次男「松平恒孝」氏が、昭和38年に徳川宗家へ養子に行き、徳川宗家の家督を継ぎます。
容保の子孫が徳川宗家の当主なのです。
松平容保とその子孫は、徳川宗家の分家なので、分家から本家の当主になったということです。
また、昭和3年(1928年・明治維新から60年目)、秩父宮雍仁親王(大正天皇第2皇子)と松平勢津子(容保の六男・恆雄(つねお)の長女)の婚礼が執り行われました。
会津松平家と皇族の結婚は、朝敵会津藩の復権であると位置づけられているといわれ、会津人の感激は並ならぬものであったといいます。
2024年現在、徳川宗家の当主は、徳川恒孝さんの息子である19代目当主「徳川家広」さんに引き継がれています。
松平容保とは何をした人なのか?
松平容保
会津藩第9代藩主にて、最後の藩主です。
黒船来航以降、江戸幕府の力が衰え、尊王攘夷をスローガンに京都では天誅を名目に殺人が横行し、治安が非常に悪化しました。
衰えた幕府では京都の治安を回復する力はなく、幕府は会津藩にその役割をするよう命令します。そして、容保は「京都守護職」となります。
みごとに京都の治安を回復した容保は、時の孝明天皇から非常に信頼され、容保もまた孝明天皇をお慕い申し上げました。
そんな容保は幕府にも、孝明天皇にも、最後の最後まで忠節をつくします。
ところが、孝明天皇が崩御し、幼少の天皇(後の明治天皇)が即位します。
そして、薩長の暗躍により討幕の密勅が出ます。
鳥羽伏見の戦いで官軍となった薩長軍は、官軍に寝返った藩を吸収しながら東上し、江戸に向かいます。
最期の将軍徳川慶喜は官軍に完全恭順し、江戸は無血開城となりますが、慶喜にいなされた不完全燃焼の官軍は次のターゲットを決めます。
それが会津藩主「松平容保」だったのです。
薩長軍は会津に殺到し、会津は徹底抗戦し会津武士の意地を貫きます。
力及ばず最期には降伏し、会津藩はわずか3万石の極寒の地、青森東部の斗南藩へ移封を命じられます。
松平容保は会津藩の悲劇の象徴なのです。
松平容保の生涯と最期
生い立ち
松平容保は天保6年(1835年)12月29日、美濃(岐阜県)高須藩松平家の六男として誕生しました。
その後、実の叔父にあたる会津藩第8代藩主・容敬(高須松平家出身)の養子となります。
『会津藩』の成り立ち
ここで、会津藩について簡単に説明します。
会津藩祖は2代将軍「徳川秀忠」の四男である保科正之です。
秀忠の死後、第3代将軍家光はこの謹直で有能な異母弟を、ことのほか可愛がります。
家光は死に臨んで枕頭に正之を呼び寄せ、「宗家を頼みおく」と言い残します。
これに感銘した正之は『会津家訓十五箇条』を定めますが、その第一条には
「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」
という将軍に絶対的な忠誠を誓う文言があります。
京都守護職へ
この文言が容保にも大きな影響を与え、御三家を含む他の藩が官軍に寝返る中で、会津藩は佐幕派(倒幕の逆、幕府を助ける一派)の中心的存在として最後まで薩長軍と戦うこととなるのです。
幕府からの有無を言わせない命令により、「京都守護職」となった容保は新選組、見廻組という非常警察組織を使って京都の治安にあたります。
新選組は尊王攘夷志士を斬殺、捕縛することで京都の治安を回復します。
しかし、そのせいで容保の生涯は血塗られることになります。
殺された志士の所属した長州藩や土佐藩に大きな恨みをかうこととなり、その後の会津戦争の因縁となるのです。
京都の治安を回復した容保は孝明天皇から大きな信頼を得ます。
孝明天皇は容保に、直筆の手紙(宸翰・しんかん)を送ります。
天皇から武家に宸翰がさがったような例はなく、容保にとって史上空前の名誉でした。
その内容は
「朕(私)は会津をもっとも頼みにしている、一朝有事のときにはその力を借らんと欲するものである」
容保は感激のあまり突っ伏して泣き続けます。
そして、「この主上のためには」という思いをもち、会津全軍をもって孝明天皇のために、という非常に熱い行動原理を持つようになるのです。
孝明天皇の政治主義はあくまで「佐幕」であり、過激な長州藩を憎みました。
その長州藩はクーデターに敗れた失地を回復しようと、軍勢を引き連れて京都へ進軍してきます。
禁門の変(蛤御門の変)
やがて両軍は激突し、激戦の末、容保は長州藩を撃退します。(禁門の変)
そして、孝明天皇より禁門の変の戦功として勅賞と御剣を賜わります。
その後、幕末最大の変事が起きます。
孝明天皇の崩御です。前述の通り、孝明天皇の政治主義は「佐幕(幕府を助ける一派)」でした。
德川慶喜も信頼した「孝明天皇」が在位の限り、朝廷は「佐幕」であり続けたでしょう。
天皇崩御の後は、幼少の天皇(明治天皇)が即位しました。
ここからすさまじいばかりの薩長、そして岩倉具視の暗躍が始まるのです。
幼少の天皇から討幕の密勅を引き出し、鳥羽伏見の戦いでは錦旗があがり薩長は官軍となります。
鳥羽伏見の戦いで敗れた会津を中心とする幕府軍は大坂城に撤退。
容保は大坂城で薩長軍と決戦するつもりでした。
しかし、慶喜の命により、慶喜に随行して船で江戸に帰る事となります。
恭順の意思がある慶喜により、容保と会津軍は引き離されたのです。
会津戦争
会津に帰った容保は謹慎し、東上してくる官軍に降伏嘆願書を提出します。
しかし、官軍は会津を朝敵とし、降伏を認めません。
官軍主力の長州、土佐は新選組に多数の藩士を殺された恨みがありました。
降伏を聞き入れられない容保は奥羽列藩同盟とともに徹底抗戦を決意します。
会津戦争は、白虎隊の悲劇があるなど会津にとって悲惨な戦争となりました。
会津は敗れ、容保は降伏。
最期と死因
会津藩は青森の斗南藩へ移封を命じられ、容保の長男・容大(かたはる)が斗南藩主となります。
容保の晩年は、ほとんど人と付き合いをもたず、終日しゃべることもない日があったと言います。
自分の過去を思い、やるせない日々を過ごしていたのかもしれません。
容保は、最期を東京の目黒で迎えます。
明治26年(1893年)12月5日、59歳で死去。
死因は肺炎でした。
容保は細い竹筒を肌身離さず、ひもで首からぶら下げていました。
周囲の者は誰もその中身を知らず、容保も話しませんでした。
容保の死後、その竹筒が開けられました。
そこには孝明天皇からの容保を信頼している旨をしたためた宸翰(しんかん・天皇直筆の手紙)が入っていました。
容保は自分の激動の運命を思い、この宸翰(しんかん)で自らを慰めていたのでしょうか。
松平容保について、ひとこと言いたい
松平容保・・・・若き名君にして、孝明天皇からとても信頼された人物です。
孝明天皇は、自らの妹「和宮」を14代将軍「徳川家茂」に嫁がせた、「公武合体派」つまり「佐幕派」でした。一橋慶喜すらも、孝明天皇を敬い、信頼していたとのことです。
坂本龍馬暗殺・・・・現在の通説では「松平容保」が、自らの配下である「京都市中見廻組」の「佐々木只三郎」に命じて、龍馬を暗殺させたと言われています。
大政奉還をさせて、幕府を実質的に終わらせた坂本龍馬・・・・その真意は「徳川慶喜」と「旧幕府勢力」を温存させ、新政府に参画させることでした。
もしも德川慶喜が、龍馬の目論見通り、「新政府」に参画していたら、その類まれな政治力を駆使して、徳川の世がもっと続いていたかもしれません。
まさにそれを恐れた超現実主義者「大久保利通」と「西郷隆盛」によって、慶喜は新政府から排除されたわけですが・・・。
拙者個人の意見なのですが、容保の「龍馬暗殺」は、かえって彼が守ろうとしてきた「徳川家」を貶める行為となった気がします。
龍馬が生きていたとしても、西郷・大久保らの手で、徳川は新政府から排除されていたでしょう。けれども龍馬が生きていれば、その思想は必ず「松平容保」と「徳川家」にとって有益なものとなったはず。
松平容保が、憤りに任せて龍馬を暗殺したとしたら・・・・かなりの失策だったのではないでしょうか。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・松平容保は幕末の第9代会津藩主。会津藩を率い、京都守護職をつとめ京都の治安維持に努めますが、薩長の陰謀により賊軍となり会津戦争で敗れます。
・京都守護職を務め、容保は孝明天皇から絶大な信頼を得ます。そして、孝明天皇から宸翰(天皇の直筆の手紙)をいただくという名誉により、非常に感激します。
・孝明天皇の崩御により、薩長が幼少の天皇を取り込み官軍となります。薩長は会津を朝敵とし、会津の降伏を認めず戦争となります。会津は敗れ青森の斗南に移封となります。
・容保はその死まで孝明天皇の宸翰を肌身離さず持ち続けていました。
・容保の子孫である松平恒孝氏が徳川家宗家の現当主です。また、昭和3年に容保の孫が皇族と結婚し、朝敵会津藩の復権となりました。
松平容保は表裏なく、幕府のため、孝明天皇のため、一命を賭して働いた人です。
しかしながら、滅びゆく幕府側の人間であるその人生は流転し、会津戦争の悲劇へとつながります。
容保は晩年自分の人生をどのように考えていたのでしょうか。それを思うと感慨深いものがあります。
以上となります。
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コメント
コメント一覧 (2件)
「この記事を短く言うと」の赤枠内で、斗南藩の読みが「とらみはん」と書かれております。当然シンプルな誤記でしょうが気になりまして。
当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございます。
この度は、誤字をご指摘いただき、本当にありがとうございます。
早速修正をさせていただきました。
ご利用いただいたのみならず、貴重な指摘までいただきましたことに、心より御礼を申し上げます。
今後とも、ぜひぜひご愛顧のほどを、よろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました。