【孝明天皇とは】生涯年表と最期!死因の謎と伊藤博文による暗殺疑惑

幕末、動乱の時代を生きた「孝明天皇」の壮絶な「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。

「明治天皇の父にして、外国からの圧力が強まり日本始まって以来の『存亡の危機』に追いつめられた時代の天皇」

初代・内閣総理大臣「伊藤博文」に暗殺されたという噂を検証してみました。


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この記事を短く言うと

・孝明天皇とは、幕末の天皇。14代将軍「徳川家茂」の妻「和宮」の兄で、明治天皇の父

・孝明天皇は、諸外国の圧力に最期まであらがった幕末の天皇

伊藤博文が孝明天皇を暗殺した・・・と伊藤博文を暗殺した「安重根」が主張したが、可能性は極めて低い


孝明天皇とは何をした人なの?その功績とは?

幕末の天皇「孝明天皇」

徳川家茂」の妻「和宮」の兄であり、「明治天皇」の父

≪孝明天皇≫
『引用元ウィキペディアより』

そんな孝明天皇が残した功績とは、どんなものだったのだろうか?


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孝明天皇の功績

孝明天皇が残した功績を短く解説いたします

・幕末動乱期に、諸外国の圧力へ対処した

・公武合体を目指し、妹「和宮」を将軍「徳川家茂」へ降嫁させた

・諸外国の圧力を打ち払うため、天皇として祈り、祈願を続けていた

天皇陛下のお仕事は何か?というと、それは今現在の天皇陛下も同じですが「祈る」こと。

あくまでも政治に介入はせず、「祈り」をささげて国民の平和と幸せを祈願することがお仕事なのです。

時々、「祈っているばかりで何もしない」・・・なんていう批判が聞こえてきますが、政治と距離を置き「祈り」「祈願」することは、天皇のあるべき姿なのです。


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簡単年表

1831年7月22日、仁孝天皇の第四皇子として誕生

1835年11月8日、親王宣下を受けて「統仁親王」となる

1840年4月16日、立太子を受けて「皇太子」となる

1846年2月21日、仁孝天皇・崩御。

同年3月10日、践祚。孝明天皇誕生

1852年11月3日、孝明天皇の第二皇子として、後の「明治天皇」である「祐宮(さちのみや)」様が誕生。

1854年3月31日、日米和親条約締結
同年5月2日、内裏が炎上する。避難した孝明天皇を目にした京都市民は「柏手」を打って祈りをささげたという。

1858年7月29日、日米修好通商条約締結

同年10月、「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」が下される。直後に大老「井伊直弼」により「安政の大獄」が始まる

同年11月、「徳川家茂」が14代将軍に就任

1860年12月26日、和宮降嫁

1863年、徳川家茂が京都へ。孝明天皇・・賀茂神社と石清水八幡宮へ行幸

同年、「八月十八日の政変」が勃発

1867年、崩御・・・・宝算36歳。死因は天然痘。


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家系図・・・明治天皇との関係

孝明天皇の簡単な家系図をご紹介いたします。

後の「明治天皇」は、孝明天皇の第二皇子。第一皇子「妙香華院」は夭折しています。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」

孝明天皇が崩御された翌年「1868年」に江戸幕府が滅亡し「明治維新」が成し遂げられたのですが、その時の天皇が「明治天皇」でした。

孝明天皇・・・2018年現在の今上天皇は、孝明天皇の玄孫(孫の孫)にあたられるのです。

天皇陵・・・孝明天皇のお墓はどこ?

孝明天皇のお墓・・・つまり「陵(みささぎ)」は、「京都府京都市東山区今熊野泉山町」にある「泉桶寺」の中、「後月輪東山陵」

「東福寺駅」から徒歩で20分ほどです。


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生涯年表と最期

孝明天皇の生涯と最期を解説いたします。

生い立ち

1831年7月22日、120代天皇「仁孝天皇」の第四皇子として誕生。母は「藤原雅子」。「煕宮」と命名される。養育係は「近衛忠煕

ちなみに「近衛忠煕」とは、薩摩藩11代藩主「島津斉彬」の叔母を妻としている縁から、薩摩藩に協力していたお方。「島津斉彬」とは、「幕末の四賢侯」の一人に数えられ、「西郷隆盛」「大久保利通」「五代友厚」のような人材を見出した名君。

斉彬は、同じく「四賢侯」の一人「松平春嶽」から「真の賢侯」と絶賛された幕末屈指の名君。

その島津斉彬は、遠縁である「篤姫」を養女としています。篤姫は、さらには「近衛忠煕」の養女となって、そののち13代将軍「徳川家定」の妻として将軍家へ嫁入りしているのです。

1835年11月8日、「親王宣下」が行われて、「統仁親王」となる。

1840年4月16日、「立太子の儀式」が行われ、「皇太子」となる。「皇太子」とはつまり、「皇位継承権第一位」に指名されたことを意味します。

天皇に即位

1846年2月21日、120代天皇「仁孝天皇」が崩御。

同年3月10日、践祚(せんそ)の儀式が執り行われ、121代天皇「孝明天皇」が誕生

1847年10月31日、即位の大礼。


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外国の圧力と、国内の情勢

1853年6月3日、浦賀にマシュー・ペリーが率いる「黒船」が来航

同年、黒船来航の19日後、12代将軍「徳川家慶」が亡くなる。その後「家慶」の子「徳川家定」が13代将軍に就任

1854年3月31日、「日米和親条約」締結

同年5月2日、内裏が火災で炎上。この時「内裏」から避難した「孝明天皇」を見た京都市民は、天皇に対して「柏手」を打ってお祈りしたと言われています。

1858年2月27日、日米修好通商条約を締結する勅許(天皇の許可)をもらうため、幕府老中「堀田正睦」が京都へ。しかし許可をもらうことができずに終わります。

同年7月29日、幕府は「日米修好通商条約」に、天皇の許しなく調印。これに孝明天皇は激怒したと言われています。

孝明天皇は「譲位」・・・つまり息子である後の「明治天皇」に位を譲り、天皇をやめると言い出すほどに激怒したのです。

なぜ激怒したのか・・・それまで200年以上も「鎖国」を続け、外国勢力を拒絶してきた日本の伝統が、自分の代で変わることを嫌がるのは、当然でしょう。また、外国勢力による侵略を心配していたのかもしれません。ただ、西洋時計を持っていたという孝明天皇・・・西洋文化全てに否定的だったわけではありません。この時、周囲の公家が押しとどめたため、譲位を思いとどまっています。

その後幕府は、「ロシア」「イギリス」などとも同様の条約を締結(安政の五か国条約)

1858年8月14日、13代将軍「徳川家定」が亡くなります。

1859年9月、「戊午の密勅(天皇の秘密命令)」が水戸藩へ下される。これは幕府の頭越しに行われた越権行為。大老・井伊直弼は、この事態を重く見て、「戊午の密勅」に係わった公家や武士を次々と処罰(安政の大獄)・・・・このとき「橋本左内」や「吉田松陰」も処刑されています。

同年11月、「徳川家茂」が14代将軍に就任。

1860年6月1日、「公武合体(朝廷と幕府が協力して外国に対する策)」のため、孝明天皇の妹「和宮」と将軍「家茂」の婚姻が奏請されます。

当初はこれを断っていた朝廷でしたが、孝明天皇は「外国勢力の打ち払い」を条件に、和宮降嫁を承認。

この時「和宮」には「有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王」と婚約しており、家茂との結婚を拒絶しました。しかし孝明天皇から説得されて、ついに承諾。家茂へ降嫁することとなります。

ちなみに「江戸城無血開城」を実現した「新政府・東征軍」の総大将は「有栖川宮熾仁親王」でした。「和宮」と「有栖川宮熾仁親王」の悲恋は物語として広まったと言われています。

1863年、将軍「徳川家茂」が上洛。「攘夷(外国勢力の武力討伐)」の勅命を下す。

同年、「攘夷」の成功を祈るため「賀茂神社」と「石清水八幡宮」へ行幸。江戸時代に行われた「天皇行幸」は、「後水尾天皇」の行幸と、この「孝明天皇」の行幸のみです。

同年8月15日「薩英戦争」勃発

同年、「八月十八日の政変」勃発。「尊王攘夷運動」の急先鋒「長州藩」が京都から追放。

1864年8月20日、「禁門の変」が勃発。長州藩が薩摩藩・会津藩などに敗北し、朝敵にされています。

その後も「孝明天皇」は、攘夷と公武合体を主張し続けましたが、影響力が徐々に低下していくこととなります。


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最期

1867年1月17日、発熱。

同年1月21日、「天然痘」感染の可能性が出てきます。

同年1月30日、崩御。

亡くなった時、孝明天皇は36歳。

死因は「天然痘」

しかし、孝明天皇の死因には謎も多く、「暗殺」を示唆する声も多数挙がっています。

中には後の初代内閣総理大臣「伊藤博文」が暗殺した・・・という説もあるほどでした。

ちなみに孝明天皇崩御の翌年「1868年」に「江戸城無血開城」が実現し江戸幕府は終焉。

「明治維新」が成し遂げられています。


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死因と暗殺疑惑!伊藤博文が暗殺した?

孝明天皇の死因は「天然痘」とされていますが、「暗殺」されたという説も根強くあります。

どういうことかというと、「天然痘」にしては急激に容態が悪化しすぎているというのです。

当時「天皇が暗殺された」ということは、あまりにも恐れ多いことであるため、公に議論されることは禁じられていました。

しかし、市民の間ではとにかく噂となっていたのです。

「伊藤博文」による暗殺説

初代内閣総理大臣「伊藤博文」が、後に清国「ハルビン駅」で暗殺されていますが、その犯人「安重根」は、暗殺の動機の一つとして

「伊藤博文は、孝明天皇の命を奪った」

と主張しています。これは当時の市民が噂しあったことでした。とはいえ、伊藤博文が犯人である可能性は低いと思います。理由は簡単で、この頃の伊藤博文はまだまだ下っ端。

木戸孝允の指示に従って、薩摩藩や英国との間で貿易や取引を担当し、戊辰戦争にも参加できずに「暇」だったと言われています。

いくら後に「初代内閣総理大臣」になったとはいえ、この時の伊藤博文にとって「孝明天皇」は雲の上の存在・・・。暗殺なんてできないどころか、考えもつかなかったことでしょう。

ちなみに・・・伊藤博文が初代総理大臣になった理由は「英語の電報を読むことができるから」・・・。三条実美と初代総理の椅子を争っていた伊藤博文・・・。

実は「長州閥」から担ぎ出されて、「英語力」があることを理由に祭り上げられただけ・・・ともいえるかも・・・。


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「岩倉具視」による暗殺説

後に「明治新政府」で活躍する公家「岩倉具視」が暗殺した・・・という説も存在しています。

岩倉具視が、女官として天皇のそばにいた妹「堀河紀子」を使って、ヒ素を盛らせた・・・という説です。

この「岩倉具視」が犯人という説は、現在でも論争が続いており、結論が出ていません。

なぜ岩倉具視が天皇を暗殺しなくてはならなかったのか・・・というと、「倒幕」を目指していた岩倉具視や長州藩にとって、「佐幕(幕府を助ける)」つまり「公武合体」でもって幕府と協力しようという思想を持っていた「孝明天皇」が邪魔だった・・・ということらしいです。

しかし、いくら岩倉具視でも「天皇」に危害を加えるなんて恐れ多いことが、「公家」の身分でできたのか?・・・ちょっと疑問が残ってしまいます。


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そもそも本当に暗殺されたのか?

なぜ「天皇が暗殺された?」なんて説が浮上したのか・・・。

その理由は、孝明天皇があまりにも急に容態を急変させて他界しているから。

1月17日に発熱し、記録によるとその後「順調に回復している」となっているにも関わらず、13日後「1月30日」に亡くなっているのです。

順調に回復しているはずが、突然崩御。

これは誰かが暗躍しているはず・・・と考えられているわけです。

しかし、天皇のような偉い方が重病となっても、そもそも混乱を避けるために「順調に回復中」とするのは、ある意味で当然と言えるかもしれません。

もしかしたら、記録には「順調に回復」とあっても、実際には悪化の一途をたどっていた・・なんてこともあるのではないでしょうか。

結論として、「病死」なのか「暗殺」なのかは、はっきりしていません。

しかし、暗殺なんてことが、本当に行われたのか?疑問が残ってしまいます。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

・孝明天皇は、幕末の混迷した時期に天皇として外圧に対処し続けた天皇

・孝明天皇は「攘夷」「公武合体」の思想を強く持っていたが、明治維新の前年に崩御なされた

・「伊藤博文」「岩倉具視」による暗殺説が噂されているが、はっきりしていない

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


和宮」「徳川家茂」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓

「徳川家茂の写真を「嫁・和宮」の墓の中に!『死因は暗殺』説が怖すぎ」の記事はコチラ
「篤姫と和宮の関係は険悪だった?リアル大奥戦争の原因と結末を解説!」の記事はコチラ
「徳川慶福とはどういう人?将軍就任と同時に『徳川家茂』へ改名した理由」の記事はコチ

 

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