徳川慶喜は大政奉還後どうなったの?晩年の慶喜を最期までわかりやすく解説

皆さんは「徳川慶喜」が「大政奉還」のあと、なにをしていたのかを、ご存知でしょうか?

実は「大政奉還のあと」の徳川慶喜について、くわしく知っている方は、それほど多くないみたいです。

この記事では「大政奉還をしたあと、徳川慶喜がなにをしていたのか」を、わかりやすく、順を追って、カンタンに解説いたしました。

今は「慶喜が大政奉還のあと、どうなったのか」について、漠然としか知らなかったとしても、大丈夫です。

これを読めば、誰かに説明できるほど、大政奉還後の徳川慶喜に詳しくなれます。

この記事を読んで大政奉還後の徳川慶喜について、疑問をスッキリと解消していただけたら、これほど嬉しいことはありません。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

「大政奉還」の後、「徳川慶喜」が何をしていたのか、については以下の通りです。

  1. 大政奉還のあとも徳川慶喜は、朝廷から政治を任される
  2. 薩摩長州王政復古の大号令が発令。慶喜が排除されかける
  3. 王政復古の大号令が失敗。慶喜は引き続き政治をおこなう
  4. 西郷隆盛が旧幕府軍を挑発。鳥羽・伏見の戦い勃発
  5. 鳥羽・伏見の戦いの直後、慶喜が敵前逃亡
  6. 慶喜は上野・寛永寺で謹慎
  7. 旧幕府軍の代表・勝海舟が降伏し江戸城無血開城決定
  8. 江戸開城のあと、慶喜は水戸で謹慎
  9. 徳川家が駿河国へ領地替え。慶喜も駿河(静岡)へ引っ越して、毎日遊んで暮らす
  10. 晩年に貴族院議員に就任。最期は東京で亡くなる

「大政奉還」のあとに起こったこと「年表・一覧表」

  1. 1867年11月9日】、徳川慶喜が大政奉還を行う
  2. 【11月19日】、慶喜征夷大将軍を辞職
  3. 1868年1月3日】、王政復古の大号令
  4. 【1月19日】、江戸薩摩藩邸の焼討事件
  5. 【1月27日】、鳥羽・伏見の戦い勃発(戊辰戦争開始)
  6. 【1月30日】、慶喜が大坂城から江戸へ逃亡
  7. 【2月3日】、朝廷が徳川慶喜を朝敵に指名
  8. 【3月5日】、慶喜が上野・寛永寺で謹慎
  9. 【3月8日】、新政府軍が、京都から出発
  10. 【3月29日】、新政府軍の西郷隆盛が【4月7日(慶應4年3月15日)】の江戸城総攻撃を決定
  11. 【4月5日】、勝海舟西郷隆盛が1度目の会談
  12. 【4月6日】、西郷が2度目の会談。翌日の江戸総攻撃中止。江戸城無血開城決定
  13. 【5月3日】、江戸城明け渡し。同日、慶喜が寛永寺から水戸へ出発
  14. 1868年7月13日】、慶喜が水戸から駿河(静岡)へと移住
  15. 【10月23日】、慶応から明治と改元
  16. 1869年6月27日】、戊辰戦争終結。同時に慶喜の謹慎解除。その後は趣味に没頭
  17. 1897年11月】、慶喜が静岡から東京・巣鴨へと移住
  18. 1901年12月】、東京・巣鴨から小石川へと転居
  19. 1902年】、公爵に叙任され、貴族院議員に就任
  20. 1910年12月8日】、貴族院議員を辞職
  21. 1913年(大正2年)11月22日】、肺炎と風邪で死去。享年77歳(満年齢76歳)

「大政奉還とはなにか」については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

『大政奉還とは何かわかりやすく簡単解説!徳川慶喜のギブアップ宣言?』の記事はコチラ

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「大政奉還」後に「徳川慶喜」がどうなったのか?くわしく解説!

最後の将軍・徳川慶喜が行った歴史的な大事件「大政奉還(たいせいほうかん)」。

大政奉還図
『引用元ウィキペディアより』

この「大政奉還」のあと、徳川慶喜がどうなったのか、徳川慶喜は何をしていたのかを、順を追って説明いたします。

「大政奉還」のあとも「慶喜」が政治を行う

1867年11月9日】、江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は、大政奉還をおこないました

徳川慶喜
『引用元ウィキペディアより』

大政奉還とは、政治を行う権限をまかされていた江戸幕府が、その政治を行う権限を朝廷へと返すことです。

この大政奉還が行われた翌日、天皇と朝廷はこれを受け入れ、【1603年】から始まった江戸幕府は、事実上消滅しました。

大政奉還がおこなわれた10日後の【1867年11月19日】に、徳川慶喜は武士のトップである征夷大将軍を辞職することを朝廷に願い出ます。

ところが朝廷は、【1185年】の鎌倉幕府成立から、【約700年】ものあいだ政治など行ったことなどありませんでした。

そのため朝廷は、大政奉還のあとも徳川慶喜にたいして「引き続き日本国の政治を行うように」と命令します。

つまり大政奉還が行われたあとも、徳川慶喜は実質的に「日本の政治におけるトップ」であり続けたのでした。


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「王政復古の大号令」

大政奉還が行われたにも関わらず、徳川慶喜が「日本の政治を執り行い続けた」ことに危機感を抱いていたのが、薩摩藩の実力者だった大久保利通西郷隆盛でした。

なぜなら、大久保利通西郷隆盛は、徳川慶喜を新しい日本の政治組織から排除したかったからです。

もしも「武士のトップ」だった徳川慶喜が、新政府に参加したら、武士という特権階級を優遇する政治を行うだろうと、大久保・西郷は考えたのです。

しかし、新しい日本は四民平等、つまり士農工商という身分制度を廃止した、新しい世界基準の国家でなくては、西欧列強に対抗できないと、大久保利通は考えていたのです。

そのため、大久保利通西郷隆盛

「討幕の密勅」

つまり

「江戸幕府を倒せ」という「秘密命令」

を、朝廷からもらっていたわけです。

この「幕府を倒せという秘密命令」は、徳川慶喜の大政奉還によって、まったく無意味なものとなりました。

倒すべき江戸幕府が、大政奉還によって消滅したのです。

討幕の密勅が大政奉還によって無力化させられたことで、大久保利通は次の手を打ちました。

王政復古の大号令です。

この王政復古の大号令(王政復古のクーデター)によって、大久保利通徳川慶喜を、新政府から排除しようとしたのです。


「王政復古の大号令」については、以下のリンク記事で詳しく解説しております。

『【王政復古の大号令とは】世界一わかりやすく簡単に5分で解説!』の記事はコチラ
『【王政復古の大号令】と【大政奉還】の違いを超わかりやすく解説』の記事はコチラ

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「王政復古の大号令」が失敗(慶喜の新政府への参加決定)

1868年1月3日】、明治天皇によって王政復古の大号令が発せられます。(「大政奉還」から約2ヶ月後のこと)

「王政復古の大号令」とは何かというと

征夷大将軍や幕府、関白・摂政など、これまで行われていた政治の形を廃止して、新しい政府の樹立を宣言すること

です。

これにより西郷隆盛大久保利通は、徳川慶喜と江戸幕府という、それまでの古い政治体制を完全に破壊することに成功したのです。

ところが、この王政復古の大号令によって樹立が宣言された新しい政府に、なんと「徳川慶喜」が参加することが決定してしまうのです。

これは、慶喜の排除を主張する大久保利通岩倉具視に対して、徳川家の血を引く越前藩主・松平春嶽と土佐藩の前藩主・山内容堂が、必死に徳川慶喜を養護した結果でした。

この王政復古の大号令の直後、徳川慶喜は諸外国に対して、「外交権は自分にある」とアピールし、なおも日本の全権を握る代表であることを宣言しています。

大政奉還によって、新政府でも重要なポストを握ろうとした徳川慶喜の作戦が、見事に的中した瞬間でした。


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「鳥羽・伏見の戦い」勃発

徳川慶喜の新政府への参加が、ほぼ決定したことに、大久保利通は焦ります。

《大久保利通》
『引用元ウィキペディアより』

これでは四民平等な新しい近代的な日本はつくれないと思ったのです。

大久保利通西郷隆盛は、徳川慶喜を新政府から排除するため、非常手段に出ます。

とにかく「武力」によって徳川慶喜を倒し、新政府への参加を阻止しようとしたのです。もはや力づくです。

ところが、戦争で倒そうにも、朝廷(新政府)からの命令にことごとく従っていた徳川慶喜を相手にして戦争を起こす理由(大義名分)がありませんでした。

そこで西郷隆盛は、のちに赤報隊という部隊の隊長を務めることとなる相楽総三たち浪士をつかい、江戸で放火などのテロ行為を次々と起こさせます。

挑発行為です。

《西郷隆盛》
『引用元ウィキペディアより』


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この挑発に激怒した江戸幕府は、江戸の薩摩藩邸を放火。

大阪で徳川慶喜にひきいられていた旧幕府軍1万5千人にも、怒りに火が付き「薩摩を倒すべきである」と主張し始めます。

徳川慶喜は、怒りとともに「薩摩打倒」を主張する旧幕府軍をおさえられなくなり、ついに薩摩軍と開戦。

1868年1月27日(慶應4年1月3日)】、「鳥羽・伏見の戦い」が始まったのです。(この鳥羽・伏見の戦いが、新政府軍と旧幕府軍による戦争「戊辰戦争」の始まり)

ところが、鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍は薩摩軍に敗北。

しかも薩摩軍は錦の御旗を掲げて、天皇の軍団を意味する「官軍」となったのでした。

これにより旧幕府軍は、「日本国の敵」を意味する「賊軍」と成り果て敗走。

鳥羽・伏見の戦いは、小規模なものでしたが徳川慶喜たち旧幕府軍の敗北で終わったのです。


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「徳川慶喜」が敵前逃亡

鳥羽・伏見の戦いに敗北した旧幕府軍の戦死者は278名

1万5千の旧幕府軍は、まだまだ十分な戦力を保持していました。

しかも薩摩軍の数は、約5千人

数の上では旧幕府軍のほうが3倍も保有していたのです。

大坂城にいた徳川慶喜は、全軍に徹底抗戦と戦闘継続を命令。

ところが、戦闘命令を下したはずの徳川慶喜でしたが、【1868年1月30日(慶應4年1月6日)】の夜に、なんと旧幕府軍1万5千を置き去りにして、一人で江戸へ逃亡

このとき慶喜は、全軍に対して「最後の一人になっても、決して退いてはならない」と命令していたのです。

そんな命令を出しておきながら、自分は一人で敵前逃亡するとは・・・。

総大将の逃亡に驚いた旧幕府軍は、戦闘意欲を失って撤退を開始したのでした。


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「上野・寛永寺」にて謹慎

1868年1月31日】、朝廷は徳川慶喜を朝廷の敵、つまり朝敵に指定。

江戸へ帰還した徳川慶喜は、朝廷に対して降伏する姿勢を示すのでした。

1868年3月5日】、徳川慶喜は朝廷への降伏を示すため、自主的に上野・寛永寺にて謹慎

これに対して朝廷は、西郷隆盛を実質的な総大将とする新政府軍を、江戸へ向けて差し向けます。(形の上での新政府軍・総大将は有栖川宮熾仁(たるひと)親王有栖川宮熾仁親王は、14代将軍・徳川家茂の妻・和宮の許嫁だった人物)


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「江戸城無血開城」

西郷隆盛がひきいる新政府軍は、各地で旧幕府軍を撃破しながら、江戸へ向けて進軍します。(戊辰戦争)

1868年3月29日(慶應4年3月6日)】、新政府軍の実質的トップだった西郷隆盛は【4月7日(慶應4年3月15日)】に江戸城総攻撃を行うことを決定。

ところが、徳川慶喜から旧幕府軍の全権をゆだねられた勝海舟が、戦闘回避のために西郷隆盛と交渉を開始。

≪勝海舟≫
「引用元ウィキペディアより」

  • 「江戸城は開城するので、総攻撃は中止してほしい」
  • 「徳川慶喜の謹慎場所は、慶喜のふるさとである水戸にしてほしい」

というのが、勝海舟が示した降伏の提案でした。

西郷隆盛はこの条件を受け入れて、「江戸城総攻撃」は中止。

1868年5月3日(慶應4年4月11日)】、江戸城は無血開城されて新政府軍に引き渡されたのでした。

この時をもって、【1603年】に徳川家康によって開かれ、以来【265年】にわたって続いた徳川幕府(江戸幕府)は、完全に滅亡したのです。

徳川幕府(江戸幕府)は、西郷隆盛によって滅ぼされたのでした。


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「慶喜」が「水戸」で謹慎

江戸城無血開城が行われた1868年5月3日(慶應4年4月11日)】、この日の午前3時に徳川慶喜は、謹慎していた上野・寛永寺から、ふるさとである水戸へと出発

水戸へ到着した徳川慶喜は、弘道館・至善堂で、続けて謹慎生活を送るのでした。

1868年7月13日(慶應4年5月24日)】、新政府は徳川慶喜に対して死刑を免除。徳川御三卿のひとつ「田安徳川家」の田安亀之助徳川家達・いえさと)に徳川宗家を相続させることを許可。

さらに新政府は徳川家にたいして、駿河70万石への移動を決定したのです。


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「慶喜」駿河へ引っ越し

駿河70万石への移動が決定した徳川家だったが、徳川慶喜も謹慎先の水戸から駿河へ移動。

駿河へと移動した徳川慶喜は、さらに続けて駿河国のお寺・宝台院で謹慎生活を継続。

1869年6月20日(明治2年5月11日)】、箱館戦争で旧幕府軍に参加していた元新選組・副長だった土方歳三が戦死。

《土方歳三》
「引用元ウィキペディアより」

1869年6月27日(明治2年5月18日)】、旧幕府軍をひきいていた榎本武揚が降伏し、箱館戦争終結。箱館戦争が終わったことで戊辰戦争も終結。


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戊辰戦争が終わったことで、徳川慶喜の謹慎は解除されることとなりました。

しかし、その後も徳川慶喜は静岡(駿河)での生活を続け、趣味に生きることとなります。

写真や油絵、狩猟に囲碁などなど。

趣味に没頭する生活を続けた徳川慶喜は、愛称であったけいき様と呼ばれて、人々から親しまれたのだとか・・・。


「徳川慶喜の呼び名・名前」については、以下のリンク記事でくわしく解説しております。

『【徳川慶喜】名前の読み方は「けいき」!自分でも「けいき」と名乗ってた?』の記事はコチラ

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晩年

明治30年(1897年)11月】、徳川慶喜は静岡から東京・巣鴨へと移住することになります。

そして、戊辰戦争で新政府軍の総大将をつとめていた有栖川宮熾仁(たるひと)親王の異母弟・有栖川宮威仁(たけひと)親王の尽力により、徳川慶喜明治天皇に謁見したのでした。

明治34年(1901年)12月】、東京・巣鴨から小石川のお屋敷へと転居。

明治35年(1902年)】、公爵の爵位に叙任され、貴族院議員に就任。さらには徳川宗家とは別に、「徳川慶喜家」という家を興すこととなります。

明治43年(1910年)12月8日】、貴族院議員を辞職。

大正2年(1913年)11月22日】、肺炎と風邪が原因で死去。享年77歳(満年齢76歳)


『徳川慶喜家のその後』と「徳川慶喜の子孫」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『徳川慶喜の子孫は現在すでに断絶?簡単な家系図で解説!』の記事はコチラ
「徳川慶喜の死因」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。
『徳川慶喜の死因は風邪だけではない?死の間際に残した名言に驚愕!』の記事はコチラ

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「大政奉還」のあと、「徳川家」はどうなったのか?

1867年】に大政奉還がされたあと、徳川家は徳川慶喜から、16代目宗家・田安亀之助へと継承され、現代も続いています

1868年】、江戸城無血開城のあと、新政府は徳川慶喜から田安亀之助へと徳川家の継承を許可。

田安亀之助はその後、天璋院篤姫によって養育されて元服し、徳川家達(いえさと)と名乗り、貴族院議員として活躍。

父・徳川家達のあとを引き継いだ17代目徳川家正氏も、父と同じく貴族院議員として活動。最後の貴族院議長を務めました。

徳川家正氏のあとは、会津松平家から養子入りした徳川恒孝氏が、18代目として徳川宗家を引き継ぐこととなります。

徳川恒孝氏の息子徳川家広氏は、【2019年7月21日】に行われた参議院選挙に立憲民主党から公認を受けて出馬し、落選しています。


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「大政奉還」のあと、日本で起こった「歴史的事件」とは?

1867年】の大政奉還のあと、日本は明治維新へと激動の時代を動き始めます

1868年】、江戸城無血開城と戊辰戦争によって、【265年】も続いた江戸幕府は滅亡し、明治新政府が発足。

1877年(明治10年)】、西郷隆盛大久保利通と並ぶ維新三傑の一人だった木戸孝允(桂小五郎)が病死。

同年】、江戸幕府を滅ぼした明治維新最大の立役者・西郷隆盛が、西南戦争を起こして戦死。

1878年(明治11年)】、維新三傑の最後の一人・大久保利通が、紀尾井坂の変によって暗殺されます。

こうして維新を成功させて明治政府をつくりあげた功労者たちは亡くなり、明治日本は伊藤博文山県有朋のような新しい人材によって進み始めます。

富国強兵を続けた日本は、【1894~1895年】に「日清戦争」で勝利。

1904~1905年】に「日露戦争」で超大国ロシアに勝利した日本は、大国として世界に知られることとなります。

しかしこの頃から、日本の運命は下り坂をむかえることとなり、【1945年】の大東亜戦争(太平洋戦争)敗戦へと突き進むことになるのです。


「大東亜戦争(太平洋戦争)」について、くわしくは以下のリンク記事で解説しております。
『【太平洋戦争とは】小学生向けにわかりやすく解説!開戦の原因は何?』の記事はコチラ

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「徳川慶喜」は「バカ殿」だったのか?

徳川慶喜は名君だったのか、それともバカ殿だったのか、今も議論が続けられています。

筆者は「慶喜はバカ殿だった」と思っています

徳川慶喜は、みずから江戸幕府を滅ぼすことで、日本国内での内戦を最小限におさえ、西欧列強による日本侵略を防いだ」

これは、よく言われている徳川慶喜の功績ですが、これは「あとづけの評価」であるような気がします。

慶喜は鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡し、江戸城無血開城でも謹慎し、徹底して戦争を回避。

そのおかげで「日本が外国からの侵略を受けずに済んだ」。

これは事実です。

しかし慶喜が最初から、この結果を狙って敵前逃亡や江戸城無血開城をしたとは思えないのです。

鎌倉幕府が滅亡したとき、幕府は執権を代々務めた北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)が支配していました。

この鎌倉幕府を支配していた北条高時は、バカ殿として有名な人物でした。(北条高時北条時宗の孫)

そんな北条高時でしたが、新田義貞に攻められながらも戦い続け、自害するまで必死に抵抗しています。

もしも織田信長徳川慶喜の立場に立っていたら、どのような選択をしていたでしょうか?


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信長ならば、内戦を回避するためとはいえ、敵前逃亡や無抵抗での開城などしなかったでしょう。

もしも信長慶喜の立場だったなら、いさぎよく切腹するなど、晩節を汚すようなことはしなかったと思います。

徳川慶喜が行った敵前逃亡と江戸城無血開城は、たしかに内戦を最小限におさえるという結果をもたらしました。

しかしそれは意図したものではなく、偶然そうなっただけのような気がするのです。

徳川慶喜は、部下を置き去りにして敵前逃亡したバカ殿なのではないか」と、筆者は思います。

とはいえ、慶喜の政治能力と決断力が、極めて優れていたことは確かです。

大政奉還から新政府への参加を目指した権力闘争のうまさは、尋常なものではありません。

徳川慶喜は、政治家・為政者としては、無類の天才であると思います。


徳川慶喜の部下「渋沢栄一」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。

『【渋沢栄一の年表】何をした人でどんな人なの?その功績がスゴすぎた』の記事はコチラ
渋沢栄一の学歴と出身大学をご紹介!実は超エリートコースで学んだ秀才だった 』の記事はコチラ
渋沢栄一の子孫と家系図を、ひと目でわかる画像付きで超カンタン解説』の記事はコチラ

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「慶喜」は「名君」か「バカ殿」か!皆様はいかがお考えですか?

筆者は徳川慶喜の評価について、「天才的な能力を持つバカ殿」という意見をもっております。

みなさまは徳川慶喜について、いかがお考えでしょうか?

皆様のご意見をぜひおうかがいしたいと思います。

この記事の一番下に、「コメント」を送る欄がございますので、そちらを利用して、徳川慶喜についての意見をお送りいただけましたら、嬉しく存じます。

お送りいただきましたコメントは、内容を一読させていただきました後、このページにて公開させていただきます。

ぜひぜひご意見ご感想を、お願いいたします。

本日は当サイトをご利用いただき、誠にありがとうございました。

まとめ

本日の記事をまとめてみました。

徳川慶喜は「大政奉還」の後、なにをしていたのか、については以下の通りです。

  1. 大政奉還によって江戸幕府が消滅したあとも徳川慶喜は、朝廷から「引き続き日本の政治を執り行うように」と命令を受ける
  2. 大久保利通たち薩摩長州によって王政復古の大号令が引き起こされ、慶喜は排除されそうになる
  3. 王政復古の大号令が失敗し、慶喜は引き続き日本の政治を続ける(慶喜の新政府への参加が決定)
  4. 西郷隆盛徳川慶喜を政治の舞台から排除するために、旧幕府軍を挑発し続け、激怒した旧幕府軍が薩摩・長州軍を相手に鳥羽・伏見の戦いを行う
  5. 徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦いに敗北した直後、部下を残して敵前逃亡
  6. 徳川慶喜は上野・寛永寺にて謹慎
  7. 西郷隆盛ひきいる新政府軍が江戸へ向けて進軍。旧幕府軍の代表・勝海舟が降伏し、江戸城無血開城が決定
  8. 江戸城無血開城のあと、慶喜はふるさと水戸で謹慎
  9. 徳川家は駿河国へ領地替えとなり、慶喜も駿河へ引っ越し。毎日遊んで暮らすこととなる
  10. 晩年に貴族院議員として政治の舞台へ復帰した徳川慶喜だが、最期は東京で亡くなる

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして、誠にありがとうございました。

よろしければ、またぜひ当サイトへお越しくださいませ。

ありがとうございました。


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