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江藤新平の生涯と最期!佐賀の乱が起きた理由と、大久保利通との因縁

維新十傑や佐賀の七賢人の一人に数えられる江藤新平(えとうしんぺい)について、「佐賀の乱を起こした原因」や「大久保利通との因縁」について、わかりやすく解説いたします。

「江藤新平は、西郷隆盛を大久保から奪ったため、憎まれ、殺された」


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この記事を短く言うと

・江藤新平とは、維新十傑の一人、留守政府で西郷隆盛と共に様々な改革を行った

・江藤新平の最期・・・佐賀の乱を起こし処刑された

・超現実主義者「大久保利通」と、理想主義者で清廉潔白すぎた「江藤新平」は、とても相性が悪かった


江藤新平とは何をした人?功績を簡単解説

江藤新平(えとう しんぺい)

《江藤新平》
『引用元ウィキペディアより』

佐賀藩出身の武士にして、明治政府・参議の一人

佐賀の乱」を起こし、後に刑死

彼らと並んで「維新十傑」の一人にあげられる人物。

または、後の総理大臣である

  1. 大隈重信
  2. 副島種臣
  3. 島義勇
  4. 鍋島閑叟
  5. 大木喬任
  6. 佐野常民

彼らと並び「佐賀の七賢人」とも呼ばれています。

枝吉神陽(副島種臣の兄)を含めて「佐賀の八賢人」とも言われています。



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江藤新平の功績

江藤新平の功績を短く解説いたします

  • 岩倉具視に対して、江戸を「東京」へと改称するように献言
  • 上野戦争で、大村益次郎とともに旧幕臣・彰義隊を撃破
  • 四民平等を主張し、民法の基礎をつくった
  • 司法卿として司法制度を整えた
  • 参議を務め、学制・警察制度などを整えた
  • 西郷隆盛とともに「留守政府」を主導し、「地租改正」などの改革を実現

江藤新平や大隈重信、副島種臣たちが所属していた「佐賀藩(肥前藩)」は、「鎖国藩(二重鎖国)」とよばれていたほど「閉鎖的」な藩でした。

藩主「鍋島直正(閑叟・かんそう)」の手腕により、佐賀藩は日本最強の「技術大国」でもあったのです。

佐賀は「技術大国」であり日本最強の「軍事大国」ではあったものの、幕末の尊王攘夷・倒幕などの争いには全く介入せず、そのため「江藤新平」も「大隈重信」も、幕末の争いには登場しません。登場するのは「明治」になってからです。

そんな江藤は、岩倉使節団が諸外国と「条約改正」をするために出国した後、西郷隆盛とともに留守政府を預かっていたわけですが、そのときに改革を実行。

西郷隆盛とのコンビは、非常にうまく回ったと言われています。

清廉潔白な「西郷隆盛」と、理想主義者で同じく潔白な人物だった「江藤新平」・・・相性が良かったのでしょうね。

その相性の良さが、後に「大久保利通」からの強烈な嫉妬を受け、江藤の身を亡ぼすこととなるのですが・・・・。



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江藤新平の生涯と最期

江藤新平の生涯と最期を、分かりやすく解説いたします。

生い立ち

1834年、肥前国・佐賀藩にて誕生

父は「江藤嵐光」、母「浅子」

1848年、藩校・弘道館に入学。とても成績優秀でしたが、父が職務怠慢を理由に「引退」へ追い込まれ、一気に生活は貧しくなりました。

その後も勉学に打ち込み、日本は開国すべきであると主張する「図海策」を執筆

その後佐賀藩の貿易・砲術の役職を任せられるようになります。



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勤王志士として活動を開始

1862年、佐賀藩を脱藩して京都で長州藩士「木戸孝允」たちと交流。

2ヶ月後に佐賀へ戻るが、藩主「鍋島直正」に死罪を許され、引退処分となる。

1867年、徳川慶喜が「大政奉還」。同年、江藤新平は引退処分を解除され、藩の重職に復帰。

1868年、「岩倉具視」と協力して「王政復古の大号令」を発します。

戊辰戦争では、軍艦として活躍。

江戸城無血開城の後、江戸城内の重要書類を回収。

大村益次郎と共に「上野戦争」で「彰義隊」を撃破

明治政府で活躍

明治新政府が発足すると、江戸鎮台・会計局判事に任命される

1870年、太政官中弁に就任。同年、虎ノ門で佐賀藩卒兵に襲撃されて負傷

1871年、制度取調専務に就任。同年、「尾去沢銅山事件」で「井上馨」を大蔵大輔辞職に追い込む

1872年、司法卿、及び参議に就任。同年、「山城屋事件」で「山県有朋」を追求。一時的に失脚させる



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明治六年の政変

1873年、征韓論争に敗北。下野(明治六年の政変)

佐賀に帰郷しようとするが、同郷の盟友「大隈重信」や、土佐藩「板垣退助」「後藤象二郎」達は、帰郷すべきではないと説得

佐賀に戻れば、江藤新平は必ず不平士族によって担ぎ出されて、反乱の首謀者とされる。政敵であった「大久保利通」は、それを待っているので、反乱が起こると同時に討伐される・・・と説得されたのです。

それでも江藤新平は帰郷。案の定「佐賀の乱」が勃発します。

実は、大隈重信たちの予想はあたっていました。

大久保利通・・・・江藤新平が帰郷しただけで、まだ反乱も起こしていないにも関わらず「追討令」を発しています。

江藤新平は、政敵「大久保」の罠に引っかかってしまったのでした。



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佐賀の乱

1874年】、佐賀に帰郷した江藤新平は、同郷で憂国党の島義勇と会談。佐賀征韓党の党首に祭り上げられるのです。

憂国党が蜂起して佐賀の乱が勃発。

一時は佐賀城を陥落させましたが、大久保利通が率いる政府軍に敗北。

江藤新平は、帰郷していた西郷隆盛に助けを求めますが、断られ、手配写真が出回っていた事により高知県で捕らえられます。

この手配写真制度をつくったのは江藤新平本人であり、江藤は逮捕者第一号となってしまいました。

江藤新平はこの失敗について、大久保利通から

「秦国の孝公に仕えた宰相・商鞅(しょうおう)のようだ」

と言われています。

商鞅もまた、自分がつくった法律のせいで逃亡に失敗し、処刑された人物でした。

ちなみに商鞅の改革で最強国となった秦は、始皇帝の代で天下統一を成し遂げています

最期

佐賀裁判所で裁判が行われ、【1874年4月13日】、処刑されます。

享年40歳

1889年(明治22年)】、大日本帝国憲法発布の際、江藤新平の逆賊としての汚名は払拭されました。政敵「大久保利通」の死後、11年目のことでした。



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大久保利通との確執!なぜ2人は仲が悪かったのか?

江藤新平と大久保利通は、非常に仲が悪いことで有名です。

どうして2人は仲が悪かったのか?

一言で言うと「相性が悪かった」のです。そして、江藤新平は大久保の「触れてはいけない領域」に触れてしまったのです。

江藤新平は、理想主義者。対して大久保利通は、とてつもない現実主義者。

坂本龍馬が船中八策で、政治総裁に徳川慶喜を推しました。

それに対して大久保利通は、慶喜が「旧幕臣たち相手に、しがらみのない政治」が出来るとは少しも考えず、徹底的に徳川慶喜を排除しようとしました。

大久保利通は、それほどの現実主義者なのです。

そんな現実主義者の大久保利通と、理想主義者で清廉潔白な江藤新平が、相容れるはずがありません。

江藤新平は、井上馨山県有朋たちを汚職で追求。

薩長藩閥を叩き潰し、佐賀藩閥による政治を行おうとしていました。

薩摩藩閥の大久保利通が、これを許せるはずがありません。

そして大久保利通岩倉使節団に同行し、欧米視察をしている際、西郷隆盛江藤新平は留守政府を主導し、学制・地租改正など様々な改革を成功させています。

西郷隆盛江藤新平・・・このコンビは非常に相性が良かったのです。

ともに清廉潔白・・・理想主義者・・・。大久保利通は、もしかしたら幼い頃からの盟友「西郷隆盛」を江藤新平に取られたと感じていたのかもしれません。

大久保は西郷に、江藤新平ら「土佐肥前」の藩閥を、政府から追い出すことを相談。しかし西郷はこの時、大久保を支持せず、あろうことか「江藤新平」を支持。

大久保は絶望したはずです。幼い頃から、どんなときでも大久保の味方でいてくれた西郷が、よりによって自分の天敵である江藤新平を支持しているのですから。「鳥羽伏見の戦い」という、勝ち目のない戦いも、大久保が決断をし、それを西郷が後ろ盾として支えてくれたからこそ「明治維新」に成功したのです。そんな「絶対味方」だった西郷が・・・江藤を・・・。

この時大久保に、江藤新平への言葉に表せない「殺意」が芽生えました。

「吉之助(西郷)さんさえ味方でいてくれれば、それでいい」

そう想っていた大久保だけに、江藤新平を許せなかったのです。

絶対に触れてはいけない「大久保と西郷」の領域・・・・そこに江藤新平は、不用意に触れてしまったのです。

また、大久保利通と江藤新平は、「征韓論争」で対立しています。

これにより江藤は明治政府を下野(辞職)・・・佐賀へかえってしまします。しかしこれが大久保の罠だった・・・。

佐賀ではこの時、不平士族が集まり、新政府へ反乱を起こそうとしていました。大久保はそのことを知っており、江藤が佐賀に帰国したら、この反乱を主導した罪をかぶせて討伐してしまおうと考えていたのです。

江藤は当初、反乱を起こさないよう、不平士族を抑え込もうとします。しかし、反乱が起こる前から、大久保は「江藤新平」を反乱の首謀者として、「反乱軍の追討令」を出すのです。

完全に大久保の罠にハマった江藤新平・・・・反乱はあっというまに鎮圧され、江藤新平は「西郷隆盛」に救援を求めるため鹿児島へ。西郷の説得に失敗した江藤は、四国・土佐などを逃げ回り、最終的に逮捕されてしまうのです・・。

逮捕された江藤新平は、即裁判へ。そして当然のように極刑を言い渡されます。しかも罪は重く「斬首」「さらし首」の刑でした。

大久保利通は、江藤新平に極刑が言い渡されたことについて、日記に記しています。

「今朝は五時に出張し、裁判所へ出席する。

十三人の斬刑につき、罰文の申し渡しを聞く。

江藤の醜態は笑止なり。

今日は都合よく済み、大安心」

江藤新平は、判決が言い渡された時、裁判長に発言しようとしましたが、自分を縛った縄を引かれて倒れてしまったのです。後世、これを「極刑を言い渡されて腰を抜かした」と言われ、その名誉を傷つけられました。

大久保利通が記したこの日記は、江藤新平の評価を貶めるものだった・・と作家の「司馬遼太郎」さんは分析していました。

大久保利通・・・・・江藤新平のことがよほど嫌いだったのでしょうね。

江藤新平の法律家としての能力を、大久保利通は認めていたみたいですが・・・・2人は相容れない関係だったのです。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・江藤新平は、司法卿として司法制度、教育制度の確立に尽力した

・江藤新平は、佐賀藩出身の武士。勉学に励み、小松帯刀の引き立てで明治政府に参画

・大久保利通の罠にはまり、佐賀の乱において首謀者としてまつりあげられ、処刑された

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


大久保利通」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (2件)

  • 佐賀の乱の本文1行目
    絵等→江藤だと思います

    驚いたのは、佐賀の八賢人です。佐賀で高校時代を送りながら(生まれたのは福岡です)、八賢人は知りませんでした。
    七賢人は有名なので知っていましたが、八人もいらっしゅったとは。

    帰省する機会があれば、ゆかりの地にお参りに行きたいと思います。

    • こんにちは。
      ご指摘頂きありがとうございます
      お恥ずかしい限りです。
      それから、お褒めのお言葉もありがとうございます。
      当サイトがお役にたちましたら、これほど嬉しいことはありません。
      ありがとうございます。

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