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阿部正弘の生涯と謎の最期!評価が低いのはペリー来航で失敗したから

イケメン老中「阿部正弘」の「生涯」と「最期」について、わかりやすく解説いたします。

「日米和親条約」を締結し、200年の鎖国を終わらせた「阿部正弘」。

「ペリー来航」について、全国に意見を求めたため、幕府は弱体化。幕府崩壊を早めてしまった。

最期は「過労」または「ガン」で急死


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この記事を短く言うと

・阿部正弘の功績は、「日米和親条約」を締結して、鎖国を終わらせたこと

・阿部正弘の最期は、突然で、「過労死」「肝臓がん」などと言われているが・・・

・諸藩に意見を求めてしまったため、雄藩は発言権を持ち、幕府の崩壊が早まってしまった


阿部正弘の功績とは?

幕末の老中首座「阿部正弘」

ペリー来航に始まった「幕末」の老中

ちなみに老中とは、臨時職「大老」を除けば、幕府の最高職

その老中の首座を、20代の若さで務めたのが「阿部正弘」なのです。

阿部正弘の功績を簡単解説

阿部正弘の功績をそれぞれ一言で表すと、以下のとおりです。

・老中に就任して、幕府を主導し、国防を充実させた

ジョン万次郎などの人材を幅広く採用した

・諸外国が通商や開国を求めるに当たり、外様大名や朝廷など、幅広く意見を求めた

日米和親条約を締結し開国

・英明だと噂の「一橋慶喜」を次期将軍に推していた

当時としては、かなり改革的な思想の持ち主だったようですね。



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阿部正弘の生涯と最期!今も謎に包まれている最期

阿部正弘の生涯と最期を解説いたします。

出生から老中まで

1819年、福山藩主「阿部正精」の息子として誕生。

1836年、兄「正寧」のから家督を譲られて福山藩主に就任。

1840年11月に、幕府の「寺社奉行」に就任し、その手腕を認められて12代将軍「徳川家慶」に注目される

老中として!諸外国に対処する

1843年、若干25歳にして老中に就任。早くても30代、通常40代が主だった「老中」という職・・・異例の出世でした。

更には老中首座だった「水野忠邦」を、「天保の改革」失敗を原因に徹底批判

水野忠邦が失脚すると、そのあとを継ぐ形で老中首座に出世。

このとき、諸外国が通商を求めて次々と来日し始めます。アメリカやロシアの艦隊が日本を訪れて通商を求めてきたのです。

諸外国の問題に対して阿部正弘は、それまで幕政に参画させなかった外様大名や朝廷にまで意見を求めました。

これにより外様大名の発言権が強くなり、幕府の権威は徐々に失われていったのです。



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「日米和親条約」と「将軍継嗣問題」

外国への対処方法が見つからないまま、ジリ貧で「日米和親条約」を締結

これに対して「攘夷派」の徳川斉昭たちが激怒し、阿部正弘を批判。

徳川斉昭
『引用元ウィキペディアより』

そのため、阿部正弘は批判をかわすために、堀田正睦に「老中首座」を譲ったのでした。

堀田正睦
『引用元ウィキペディアより』

しかし、堀田正睦に老中首座の地位を譲ったものの、実権は阿部正弘がしっかりと握っていました。

海防強化を図るため、阿部正弘は「長崎海軍伝習所」や「洋学所」などを創設。

西洋砲術を研究し、それまで幕命で禁止されていた「大船建造」を許可。

阿部正弘は、これら「安政の改革」と呼ばれる改革を次々と断行していくのです。

しかしその矢先、突如として亡くなってしまうのでした。

突然の最期

1857年8月6日、老中に在任したまま突然の死去。

享年39歳。

死因は「肝臓がん」とか、または暗殺なんていう説もあるようです。

外様大名へ意見を求め、外様の政治参画を認めたことにより、譜代大名からは反発が強かったのです。

そのため、譜代大名たちに暗殺されたのでは?とも言われています・・・。

それに、当時江戸で人気だったお茶屋の女の子にストーカーしたりしていたようですし、かなり恨みを買っていた可能性が高いですからね。

暗殺の可能性も否定しきれません。


「阿部正弘のストーカー行為」について、詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓



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ペリー来航で大失敗!幕府崩壊のきっかけを作った張本人

阿部正弘・・・実は幕府の崩壊を早めてしまう大失敗を犯していた可能性が高いのです。

ペリー来航の際に、それまで国の政治に参加させてこなかった「朝廷」や「外様大名」に対して、広く意見を求めたことが、幕府の権威失墜を招いたのです。

島津斉彬や伊達宗城、山内容堂、松平春嶽などの「幕末の四賢侯」に対して、意見を求めている阿部正弘・・・。

これが、外様大名の発言権を強め、幕府の権威を貶めてしまいました。

このため、外様大名や朝廷は、幕府へ意見するようになり、政治に口出しするようになっていき、その影響力を強めていくのです。

諸大名は幕府を軽んじ、自ら日本国を守るために実力を行使するようになっていきます。

これが幕府の滅亡を早めてしまった原因と考えられます。

阿部正弘・・・「明治維新」を成し遂げるために「幕府」という古い枠組みを壊す原因を作ったと言えば、立派な功績なのでしょうけれど・・。

それでも阿部正弘は、幕府最高の役職「老中首座」でしたからね。幕府を滅ぼす原因を作ったというのは、かなりマズイのではないでしょうか。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・阿部正弘の功績は、「日米和親条約」を締結したり「安政の改革」を断交したことなど。

・最期は「過労死」や「肝臓がん」または「暗殺」とも言われている

・外様大名や朝廷に意見を求めてしまったため、外様や朝廷が発言権を持つようになり、幕府の崩壊が早まった

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


阿部正弘」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

↓↓↓↓↓↓


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