明治の内乱「佐賀の乱」はどうして起こったのか?わかりやすく解説いたします。
「権利を奪われ、元サムライがブチキレた」
この佐賀の乱を起こしたのが「佐賀の七賢人」の一人に数えられる政治家「江藤新平」。
江藤新平は、裁判にかけられて処刑。判決が下ったその日に斬首となっています
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この記事を短く言うと
・「佐賀の乱」とは、明治新政府の「江藤新平」が起こした「元サムライ」の反乱
・佐賀の乱の原因は、「廃藩置県」や「廃刀令」など元サムライの「特権」を奪う行為が重なり、不平がたまったこと
・「江藤新平」は処刑され、首をさらされた
佐賀の乱とは何か?わかりやすく簡単に解説
「佐賀の乱」・・・1874年(明治7年)2月に九州・佐賀で勃発した、「維新十傑」の一人「江藤新平」を中心とする士族反乱。
当時の日本は、明治維新によって江戸時代が終わり、「四民平等」政策によって、武士の特権が次々と失われていった時代でした。
「廃藩置県」・・・・それまで大名が「藩」という形で統治していた土地を取り上げ、府や県にして統治した改革
これにより、武士は先祖から代々受け継いできた土地を失い、明治新政府に対して大きな不満を抱くようになっていたのです。
元武士(士族)が、政府へ不平を言うようになったわけですが、そんな不平士族による反乱が、明治10年の「西南戦争」まで、たびたび起こっていたのです。
佐賀の乱が勃発した原因とは?
佐賀には当時、「征韓党」と「憂国党」という、二つの政治集団が存在していました。
「征韓党」は、西郷隆盛や江藤新平が主張した「征韓論(朝鮮半島へ出兵する計画)」を支持。
対して「憂国党」は、江戸時代の政治体制である「封建制度」への回帰を目指した集団でした。
「呉越同舟」・・・・征韓党と憂国党は、ともに目指すものが異なる集団でしたが、武士の特権を次々と奪う明治政府への不満という一点で同調し、協力して決起したのです。
「征韓論」「封建制・復活」を主張し、「明治六年の政変」で西郷隆盛とともに下野した「江藤新平」を旗頭にまつり上げ、1874年2月「佐賀の乱」は勃発しました。
つまり佐賀の乱が勃発した理由は、征韓論で戦争を起こして武士の活躍の場を確保し、さらに封建制復活で武士の既得権益を蘇らせようとして起こった反乱だったわけです。
この決起直前、江藤新平は政府から下野(辞職)した後に、故郷の佐賀へ帰っていました。もともと江藤は、不平士族の暴発を止めようとしていたらしいですが、結局は反乱の盟主にまつり上げられてしまうのです。
佐賀の乱の首謀者・江藤新平の最期
佐賀の乱・・・開戦直後は佐賀軍が政府軍を圧倒してみせたものの、明治政府の実質的な首相であった「大久保利通」自らが政府軍の指揮をとり、圧倒的な物量をもって佐賀軍を圧倒。
吉田松陰最後の弟子にして、西郷に「用兵の天才」と言わしめた「山田顕義」などの活躍もあって、反乱は半月ほどで沈静化。江藤新平は逃亡し、隠居生活を送っていた「西郷隆盛」に反乱を起こすように頼みます。
幕末・明治最大の英雄「西郷隆盛」・・・征韓論争に敗れた西郷隆盛は、故郷の薩摩で後進育成に尽力していました。江藤新平からの決起要請に、西郷は応えず、江藤は援軍を求めて土佐へ行きますが、ここでも失敗して遂に逮捕されます。土佐で武装蜂起を促したものの果たせず、「武市半平太」がつくった「土佐勤王党」のメンバーだった岡田以蔵の弟「岡田啓吉」に逃走を手助けしてもらっています。
江藤を逮捕できたのは、江藤新平の「手配写真」が全国に出回っていたから・・・。実はこの「手配写真制度」を作り上げたのが、ほかならぬ「江藤新平」自身であり、江藤は自らが作り上げた制度で逮捕された第一号となってしまったのです。
このことにより江藤新平は、古代「秦」帝国において数々の改革を成し遂げながらも、自らが定めた法律により逃亡経路を失い処刑された改革者「商鞅(しょうおう)」になぞらえて、その名を貶められることとなります。
裁判で戦うことを決意した江藤でしたが、最大のライバル「大久保利通」の強引な臨時裁判により、わずか二日で死刑が確定。即日処刑されてしまいます。
清廉潔白だった江藤新平は、「薩長藩閥」による政治主導と権力独占とを批判しており、長州の「井上馨」たちを「尾去沢銅山事件」などの汚職事件で追及し辞任に追い込んでいました。これを薩摩の大物「大久保利通」は苦々しく思っていたのです。
江藤新平・・・・死刑を言い渡された直後、裁判長に発言しようとした際、自らを縛っていた縄をひかれて倒れこみ、「死刑判決に腰を抜かした」などと悪評をたてられてしまいます。
江藤の死後も、不平士族の反乱が止むことはなく、続々と反乱が続きますが、明治政府によってことごとく鎮圧されます。
長州藩の兵学者「大村益次郎」は、戊辰戦争の直後に、こんなことを言っていました。
「今後、注意すべきは、東ではなく西」
大村は「西郷隆盛」のカリスマ性を危険視し、西郷が後の火種となることを見抜いていました。
その予言通り、明治10年に日本最後の内乱「西南戦争」が勃発。山県有朋・大久保利通の尽力により鎮圧され、不平士族の反乱は終わりを告げるのです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・佐賀の乱の原因は、武士の特権を次々とはく奪した「明治政府」への不満爆発
・佐賀の乱は、「征韓党」と「憂国党」の協力と、旗頭「江藤新平」が集合したことで勃発した
・江藤新平は、佐賀の乱の鎮圧後、大久保利通の強引な臨時裁判で処刑され、首をさらされた
以上となります。
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