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【乃木希典】真の評価は凄かった!子孫の現在〜珠玉の名言集まで

聖将「乃木希典(のぎ まれすけ)」とは何をした人なのか?簡単に理解できる記事はコチラ!

「日露戦争」で活躍し、日本を勝利にみちびいた「乃木希典」将軍

「子孫」や「乃木坂46」との関係・・・・そして今も論争がつづく「評価」について、解説いたします。

作家「司馬遼太郎」の酷評は、間違い。

実はかなりの名将だった!


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

  1. 「乃木希典(のぎ まれすけ)」とは、「西南戦争」「日清戦争」「日露戦争」などで活躍した軍人
  2. 乃木将軍には「愚将だった」という評価もあるが、実際には日露戦争で功績を残した「名将」であり、道徳心にすぐれた人格者だった
  3. 乃木将軍の子供は「日露戦争」で戦死。または夭折しているので、直系の子孫はいない

「乃木希典」とは何をした人?愚将と言われるも真の評価は凄かった!

「乃木希典(のぎ まれすけ)」

《乃木希典》
「引用元ウィキペディアより」

乃木将軍の功績は数多くありますが、その最大の功績は

・日露戦争を勝利にみちびいたこと

 

「乃木希典」・・・幕末から明治時代に活躍した軍人。長州藩出身の武士で、「第二次長州征伐」「西南戦争」「日清戦争」「日露戦争」で活躍。

特に「日露戦争」では、ロシア軍がたてこもる難攻不落の要塞「旅順(りょじゅん)要塞」を攻撃。

5万人の死傷者を出しながらも、「旅順要塞」を降伏させ、日露戦争の勝利におおきく貢献しました。



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ロシアの敵将や捕虜たちにたいして、極めて紳士的に接したため、戦後に敵国ロシアからも称賛された人格者です。

明治天皇も「乃木将軍」をとても信頼していました。

この「旅順要塞」攻略戦で、多くの兵士たちを死なせたことで、「自責の念」を強くもち、戦後は「自決(自死)」を希望して明治天皇にとめられています。

ちなみに「日露戦争」で、二人の息子たちが戦死したため、乃木家は断絶。

戦後は、遺族たちや生き残った兵士の支援をし続け、学習院の院長としてのちの「昭和天皇」を指導するなど、後進育成に力を尽くしました。

 

1912年7月】、明治天皇が崩御されると、その約3ヶ月後、あとを追って妻とともに殉死。

その死に日本中が悲しみ、葬儀には10万人以上が参列。世界中にその死が報じられ、「世界葬」という表現がされたほどでした。

墓地は東京青山霊園。

享年62歳。



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名将か?愚将か?戦上手か?戦下手か?

乃木希典将軍の「軍人」としての評価は、かなり極端に別れています。

「将軍としては、かなり無能だった」

という人もいれば

「優秀な名将だった」

という人もいます。

どちらが本当なのでしょうか?

 

結論から言いますと「乃木希典将軍は、優秀な将軍だった」のではないかと思います。

理由は、簡単です。

・乃木将軍は、名将と呼ばれるだけの実績を残しているから



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乃木希典を「愚将」と評価している一番の有名人といえば、作家「司馬遼太郎」さん。

「司馬遼太郎」は、みずからの著書「坂の上の雲」で、「乃木希典」を愚将として描いています。

この「坂の上の雲」で、日露戦争を戦う乃木希典を、司馬遼太郎は酷評しています。

「『203高地』という地点を確保すればよいだけなのに、乃木将軍は、陥落させる必要のない『旅順要塞』を無理に攻撃し、日本軍の兵士を無駄に死なせた」

「坂の上の雲」では、このように描かれています。

難しい解説は割愛しますが、つまり「司馬遼太郎」さんによる乃木希典への評価を一言でいってしまうと

「攻撃する必要のない『旅順要塞』をむりやり攻撃し、5万人もの死傷者をだした」

ということです。

もしもそれが本当なら、確かに「乃木希典」将軍は愚将です。

しかし、それに反対する意見がいくつもあります。

 

「司馬遼太郎」さんの小説「坂の上の雲」によると

「旅順要塞を落とす必要はなかった」

とのことですが、それは間違いです。

なぜなら、旅順要塞を陥落させないと、日本軍は「奉天(ほうてん)」という地点で、北からやってくるロシア軍と、南からやってくる「旅順要塞」のロシア軍に「挟み撃ち」にあってしまうから。

当時史上最大級の陸戦「奉天会戦」で、日本軍はロシア軍を撃破することに成功しています。

これは「旅順要塞」をおとしたおかげで得られた勝利です。

「203高地」だけ占領すればよい、というのも間違い。

「旅順要塞」の目の前にある「203高地」を占領しても旅順要塞にロシア軍がこもっている限り、すぐに旅順要塞のロシア軍に奪い返されてしまいます。



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「5万人の死傷者を出した」とのことですが、当時最新鋭の要塞だった「旅順要塞」を、「死傷者5万人」の被害のみで陥落させたのは、スゴイこと。

確かに5万人の死傷者はすさまじい損害ですが、それでも旅順要塞をおとさなくては、日本はロシアに敗北し、滅びていたかもしれません。

名城大学の非常勤講師「久野潤」先生が言っていたことですが、この「日露戦争」の50年ほど前に起こった「クリミア戦争(1853年)」で、ロシアの要塞を攻撃した「イギリス・フランス連合軍」は、要塞を陥落させるのに「10万人」の死者を出したのだとか。

それに対して、「乃木希典」将軍は、「3年は落とせない」と豪語していたわずか5ヶ月で、けが人もあわせて「5万人」の被害で陥落させたのだから、将としての能力はかなり高い、ということです。

現代の軍人が「乃木希典」の戦い方を分析してみても、やはり優秀な軍人であることがわかる・・・という意見も聞こえてきます。

 

「乃木希典」大将・・・・・・・司馬遼太郎の「小説」を、「史実」ととらえててしまうと、真実を見誤ることになりそうです。



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世界で評価された「乃木希典」将軍

日露戦争ののち、乃木将軍は、世界中でかなり高く評価されました。

特に敵国だったはずの「ロシア」と、そのロシアに苦しめられていた「トルコ」で、乃木将軍は人気となりました。

乃木将軍は「旅順要塞」を降伏させた際に、旅順要塞の司令官「ステッセリ」に対して、きわめて紳士的に接します。

敗軍の将として、恥ずかしい思いをさせないようにと、最大限の配慮をしたのでした。

さらに、ロシア軍の捕虜にたいしても紳士的に接したため、ロシアは乃木将軍をたかく評価しています。

余談ですがロシア軍はこのとき、日本軍の「大山巌」も高く評価し、後に大山巌が亡くなった際には、その死を悼んでくれています。

 

強力な隣国「ロシア」に苦しめられていた「トルコ」は、「日露戦争」での日本の勝利をとても喜び、子どもたちに多くに「ノギ」という名前をつけたほど。

そのトルコは、現在でも「親日国」として有名で、事あるごとに日本に対して良くしてくれていますね。

その他にも、乃木将軍はその人格者ぶりを称賛され、世界中で注目されることとなるのです。



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日本国内での「乃木希典」将軍の評価は、どうでしょうか?

「日露戦争」の当初は、「旅順要塞で多大な犠牲を出した人物」として酷評されていました。自宅に石が投げ込まれるほど。

しかし、「旅順要塞」を陥落させると、その評価は一変します。英雄としてその帰国が歓迎されるほどです。

ところが乃木将軍は、全く喜んでいませんでした。彼は「勝利」をもたらしたことよりも、たくさんの将兵が、自分のせいで死んでしまったことで、自分を責めていたのです。

明治天皇に対して「責任をとって、みずから命を絶ちたい」と希望を述べるほどでした。明治天皇は

「わたしが生きている間は、死んではならない」

と、乃木将軍を説得なさったとのこと。

しかも「日露戦争」で、「二人の息子」を亡くしていたことも、世間からの同情を集めた要因となりました。

 

その後も、乃木将軍は「日露戦争」での勝利を誇ることはなく、ご遺族にたいして慰問を続けます。

そして、明治天皇が崩御なされた3ヶ月後、乃木将軍はあとを追って、妻とともに自決。

主君のあとをおって殉死するその姿勢は、批判もあったものの、まだ「武士」の精神が生きていた日本では、支持を集めたのでした。



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乃木希典の名言!「武士道」とは何か!

乃木希典将軍は、数々の名言を残しています。

一つ一つ、意味もあわせて見てみましょう。

 

・『勉強と忍耐は、才力智徳の種子なり

(勉強することと、忍耐を身につけることは、才能や智を身につけるための種である)

 

・『口をしっかりと結びなさい。口を開いているような人間は、心にも締まりというものがない

(無用な言葉を口にしたり、大口を開けて人の話を聞くようでは、心が定まらない)

 

・『恥を知りなさい。道にはずれたことをしても、恥を知らないものは獣にもおとる

 

・『けっして贅沢(ぜいたく)をするな。贅沢ほど人を馬鹿に変えてしまうものはない



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・『武士道とは、言葉ではないのだよ

(ある日、「武士道とは何か?」とたずねられて、乃木将軍はこのように答えた)

 

・『武士道というのは、身を殺して仁をなすものである

(武士道とは、自分の身を犠牲にして、他者に思いやり(仁)をほどこすこと)

 

・『人に教えるに、行をもってし、言をもってせず、事をもってせず

(人に教えるには、自分自身の行動で教えよ。言葉で教えたり、事柄をみせて教えてもダメだ。自分の生き方をもってみせよ)

辞世(亡くなる直前に残した歌)

うつし世を 神去りましまし 大君の みあと志たひて 我はゆくなり

(この世から 天皇陛下が崩御された。わたしも陛下のあとを慕い、ゆくことにしよう)



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乃木希典の最期!殉死した理由がスゴかった!

明治天皇が崩御されたのち、乃木将軍は自宅で、妻とともに殉死します。

亡くなる直前に、まだ幼かった昭和天皇と会話をしたとのことですが、そのときの乃木将軍の様子があまりにも異様だったので、昭和天皇は

「乃木閣下はどちらへ行かれるのですか?」

と、思わず質問した・・・という話は有名です。

乃木将軍は、遺書で自決の理由について、こう語っています。

西南戦争で、敵に連隊旗を奪われたことを恥じ、それを償うため」

西郷隆盛が起こした「西南戦争」に、政府軍として参戦していた乃木将軍は、薩摩軍に「連隊旗」を奪われてしまいました。

それを恥じた乃木は、その場で何度も自決しようとしていたのです。(友人でもあった「児玉源太郎」に説得されて思いとどまった)

しかし、辞世の句をみてみると、やはり「明治天皇」崩御が、自決の理由だったのでしょう。

また、日露戦争から帰国した時、明治天皇から

「わたしが生きているうちは、死んではならない」

と言われたことから、明治天皇の崩御と同時に、あとを追うことをかなり以前から決意していたと考えられます。



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乃木希典の『家系図』と『子孫』!人気がありすぎて断絶!

乃木希典の「家系図」をご用意いたしました。子孫を探してみましたが・・・。

結論をいうと、乃木希典に直系の子孫はいません。

理由は「息子二人」が「日露戦争」の「旅順要塞」攻略戦で、ともに戦死したからです。

「よく死んでくれた。これで世間様に申し訳がたつ」

二人の息子の戦死を耳にした直後、乃木希典将軍はそう言ったといわれています。

《乃木希典の家系図》
「家系図の引用等はご遠慮くださいませ」

他にも「一男一女」がいましたが、ともに幼くして亡くなっています。



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後継者がいなくなったため、乃木将軍は養子として「毛利元智」という人物をむかえいれます。「元智」は戦国武将「毛利元就」の末裔「毛利元敏」の息子。

しかし、絶大な人気をほこる「乃木希典」将軍は、日露戦争で多くの兵士を死なせた自責の念から、「乃木家」を断絶させようと考えていました。

その「乃木家」に養子入りしたことを「乃木将軍の意志に反する」と考えた国民が不満を爆発させたため、乃木元智は後に「毛利」姓へ戻しています。

唯一、乃木希典の弟「玉木正誼」という人の息子「玉木正之」の系統が続いているようです。

「玉木正誼」は、あの有名な「松下村塾」のカリスマ「吉田松陰」の叔父「玉木文之進」に養子入りしています。

元々「玉木文之進」は、甥である「吉田松陰」を養子として、「玉木家」の家督をつがせるつもりでしたが、吉田松陰は大老井伊直弼」がおこした弾圧事件「安政の大獄」によって処刑されています。

この「玉木正誼」は、吉田松陰の愛弟子「前原一誠」がおこした「萩の乱」で戦死。

養父「玉木文之進」もまた、「松下村塾」の弟子たちが「萩の乱」を起こしたことに責任を感じ、乱の直後に切腹しています。



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乃木希典と『東郷平八郎』の関係!戦友だったが喧嘩もした?

「日露戦争」で有名な将軍といえば、「乃木希典」のほかにも「東郷平八郎」がいます。

乃木希典と東郷平八郎は、どういう関係なのでしょうか?

 

結論からいえば、二人はともに「日露戦争」で活躍した者どうし。この二人が「日露戦争」を勝利にみちびいたと言えるでしょう。

東郷平八郎といえば、圧倒的なチカラを誇るロシアの「バルチック艦隊」を「丁字戦法」と呼ばれる戦術をつかって圧倒した名将。

「ネルソン提督」・・・・・ナポレオンが率いるフランス軍を、何度も退けたイギリスの名将「ネルソン提督」と並び、「西のネルソン・東の東郷」とたたえられた東郷平八郎。今も、そのすぐれた采配は、世界中で尊敬を集めています。

 

薩摩藩出身の海軍軍人「東郷平八郎」。

対して「乃木希典」将軍は、長州藩の支藩「長府藩」の出身で、陸軍の軍人です。

ともに、日露戦争を勝利にみちびいた功績を讃えられ、死後は「神格化」されて神社に祀られています。

ちなみに「東郷平八郎」は、生前に「神格化だけはやめてくれ」と言っていたものの、その願いはかなわず、神社にまつられています。



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二人は一緒に「日露戦争」の講演などもおこなっていたみたいですが、乃木将軍は日露戦争で将兵を死なせたことを恥じていたため、積極的に発言はしませんでした。

「私は皆さんの兄弟を多く殺したものです」

その一言を口にするだけで精一杯だったとか。

 

東郷平八郎が乃木将軍が院長をつとめる「学習院」で講演したとき、「軍人になりたい」という学生に対して

「海軍にはいりなさい。陸軍でなく海軍なら、死なずにすむ」

と冗談で発言し、冗談が通用しない乃木を怒らせたという逸話も有名です。

 

二人は「日露戦争」をともに戦った「戦友」というような関係だったのではないでしょうか。



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全国に広がる、「乃木希典」をまつる神社

乃木希典の死後、全国各地に「乃木」将軍をまつる神社「乃木神社」が複数出来上がりました

それぞれ、乃木将軍にゆかりの地に建てられているようです。

 

・乃木神社(栃木県那須塩原市)・・・軍人としての職務を休んでいたときに、乃木は那須塩原で農業をしていた

・乃木神社(京都・明治天皇陵)・・・あとを追った明治天皇の陵墓のそばにある

・乃木神社(山口県下関市)・・・・・乃木将軍のふるさと

・乃木神社(東京赤坂)・・・・・・・乃木将軍の自宅のお隣。乃木坂、乃木坂駅、乃木公園などもある

・沙沙貴神社(滋賀県近江八幡市)・・乃木将軍の一族「佐々木氏」の神社。同族には「足利尊氏」の親友「佐々木道誉」や、戦国武将「京極高次」「京極高知」らがいる



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アイドル「乃木坂46」の関係!「乃木将軍」がグループ名のゆらい

「乃木希典」・・・・その名前を耳にすると、おそらく「乃木坂46」のことが頭に浮かぶことでしょう。

「乃木坂46」・・・人気アイドルグループです。

結論から言えば、「乃木坂」の名前の由来は、「乃木希典」です。

彼女たちのグループ名が、どういう理由で「乃木坂46」になったのかは存じませんが、「乃木坂」という地名の由来は、この場所に「乃木希典」の自宅があったため。

元々この坂は、江戸時代には「幽霊坂」「行合坂(ゆきあいざか)」「膝折坂(ひざおりざか)」などと呼ばれていました。明治には「新坂」と呼ばれていたようです。

そこに「乃木希典」の自宅があったため、「乃木坂」と名付けられたのでした。

現在も、「乃木坂」や「乃木坂駅」の近くには、「旧乃木邸」が残っています。「乃木公園」「乃木坂神社」「乃木会館」などもありますね。

ちなみに住所表記で「乃木坂」という表記はありません。

1912年9月13日午後8時頃】、明治天皇が崩御された3ヶ月後に殉死した「乃木希典」将軍。

その死を悼み、同年9月のうちに「赤坂区議会」がその坂を「乃木坂」という地名にすることを議決。

当時の日本人にとって、聖将「乃木希典」が、どれほど大きな存在だったのかが、うかがい知れる逸話です。



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『乃木希典』について「ひとこと」言いたい!

乃木希典・・・・・「愚将」という評価されている一方で、「聖将」と呼ばれ崇拝されているお方。

どちらが「乃木希典」将軍の真の姿なのでしょうか?

 

乃木希典将軍が、「日露戦争・旅順要塞の攻略戦」で、多くの将兵を失ったのは確かです。

しかしこれまで解説してきたとおり、それは「乃木希典」が「愚将」であった理由にはならないと思います。

 

「乃木希典」将軍が「聖将」と呼ばれた理由は、「戦争が強い・上手」という事によるものではなく、その「道徳心」によるものなのではないでしょうか。

いつも『質素』に生活し、我が子を失ってもなお「よく死んでくれた」と語って、私情をはさまない。

日露戦争の勝利の立役者であり、国内のみならず敵国からも称賛を受けているにもかかわらず、将兵を死なせたみずからを恥じて「自決したい」と希望。

日露戦争の敵将に対し、紳士的に接したというその礼節。

明治天皇崩御と同時に、有限実行で自決。

他者を優先し、みずからの責任を真っ向から受け止めたその道徳心は、日本人が好むものでした。

 

乃木将軍は日露戦争後、暇があったら戦争の遺族を慰問し続け、私財をなげうって将兵に尽くしたのだとか。

部下の死を、みずからの責任として受け止め、逃げることなくチカラを尽くした「乃木希典」将軍は、日本人の「あるべき姿」である・・・・国民はそう思ったのでしょう。



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乃木将軍の最期。「明治天皇への殉死」は、果たして正しかったのでしょうか?

作家「新渡戸稲造」は、著書「武士道」の中で「名誉を得るために行われる安易な切腹」を批判しています。

しかし多くの将兵を死なせ、自責の念を抱いていた「乃木希典」将軍の自決は、「安易な切腹」ではないのかもしれません。

確かに、みずから命を断つ行為は、現代の価値観でみれば間違っているのかもしれません。

ですが「将兵を死なせた」という責任に対して、真っ向から向き合った結果、自決した乃木将軍の行為を、一方的に批判することもできない気がします。

のちの「昭和天皇」の教育係としてつとめ、昭和天皇におおきな影響をあたえたという「乃木希典」将軍。

もしかすると乃木将軍は、「武士道」という、日本古来の道徳心を失いつつある日本人が、もう一度学び直すべき人物なのかもしれません。

 

余談ですが、乃木将軍は「学習院」の院長として、教育にも力をつくしています。「昭和天皇」のみならず、日本最初のオリンピック選手で学習院出身の「三島弥彦」の恩師でもあります。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「乃木希典」とは、明治期に「西南戦争」「日清戦争」「日露戦争」などで活躍した軍人
  2. 乃木将軍を「愚将」であるとする評価もあるが、実際には「日露戦争」の勝利に大きく貢献した名将であり、人格者
  3. 乃木希典の直系子孫は存在しない。息子二人が日露戦争で戦死している

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました

「乃木希典」関連記事

以下のリンク記事では「乃木希典」に関係する人物の「逸話」や「功績」が簡単に理解できますように、極めてわかりやすく解説しております。

  1. 乃木希典の教え子で、日本初のオリンピック選手「三島弥彦」
  2. 乃木希典が連隊旗を奪われ、死を覚悟した「西南戦争」の首謀者「西郷隆盛」
  3. 西南戦争・日露戦争でともに戦った西郷隆盛のいとこ「大山巌」
  4. 乃木希典が仕えた「長州藩」

などなど。

よろしければ以下のリンク記事も、ぜひお役立てくださいませ。

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (5件)

  • 自分自身の勉強不足を痛感します。
    今回のシリーズ、興味をもって
    最後まで読みました。
    前回のシリーズも読んでみたいです。
    より詳しく本を読みたくなるようなコーナーですね。

    • 当サイトをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
      お言葉をいただけまして、とてもうれしく思います。
      ぜひぜひ、当サイトをご愛顧いただけますよう、心よりお願い申し上げます。
      貴重なコメントをお送りいただきまして、ありがとうございました。

  • すでに読まれているかもですがこちらをどうぞ。乃木神社総代会による乃木閣下の人生の書。
    かたくなにみやびたるひと。オススメです。

    https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8B%E3%81%9F%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%81%BF%E3%82%84%E3%81%B3%E3%81%9F%E3%82%8B%E3%81%B2%E3%81%A8-%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8-%E4%B9%83%E6%9C%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E7%B7%8F%E4%BB%A3%E4%BC%9A/dp/4886564674

    閣下は現代の日本人が、最も学ばなければならない先達の一人です。間違いなく。
    乃木希典なる人間が、いかにしてその人格を磨いたのか?現代人はその歴史を知り、心を傾け、学ばなければならない。

  • 私は、乃木希典は 優秀過ぎるぐらい優秀な軍人だと思います。
    203高地は 当時 攻略するのは 常識では不可能な要塞だったと考えています。
    もし、イギリスが攻略するのなら 有る限りの大砲を用意して 徹底的に砲弾を打ち込んでいるかも知れませんが、日本軍は兵器、弾薬も不足していました。
    乃木希典でなければ 絶対 陥落 出来なかったと思います。
    一度、203高地の攻撃に失敗して攻略を諦めています。
    その後、他を攻撃し 旅順艦隊を壊滅させています。
    乃木将軍は 諜報活動も行い 旅順艦隊が壊滅したと言う情報もつかんでいます。
    ですから、乃木将軍は203高地を攻略する必要が無いとしていました。
    しかし、海軍としては バルチック艦隊と決戦するに当たって 旅順艦隊と挟み撃ちされる可能性を排除する為、間違いなく旅順艦隊を壊滅し、それを確認する必要が有るとしました。
    それで 大本営が 乃木将軍に旅順艦隊が壊滅した事を目視で確認 出来るように203高地の攻略を命じました。
    乃木希典は全てを背負わされた人だと言う気がします。

    • この度は当サイトをご利用いただきありがとうございます。
      また、貴重なコメントをいただきましたことにも、心より御礼を申し上げます。
      乃木将軍についてのお言葉、ごもっともであると思います。
      奉天開戦後、日本軍は弾薬が尽きていたとも言われています。
      そんな中で旅順要塞を陥落させた乃木将軍は、やはり優秀な指揮官だったのでしょう。
      一説によれば、児玉源太郎が203高地を落としたという話しもありますが、これも司馬遼太郎の作品によるもので、真実ではないと考えられているようですし。
      この度はコメントをありがとうございました。
      もしよろしければ、ぜひまた当サイトをお役立ていただきたいと思います。
      ありがとうございます。

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