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中岡慎太郎の死因|龍馬は即死、慎太郎は2日生き延びた理由とは

慶応3年11月15日の夜、京都・近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が何者かに襲撃されました。

龍馬はほぼ即死したのに対し、中岡慎太郎は全身に重傷を負いながらも2日間生き延びたのです。

この「2日間の差」が、その後の歴史を大きく動かすことになります。

なぜ龍馬は即死し、中岡慎太郎だけが生存できたのでしょうか?

そして、慎太郎が残した最後の証言は、どのような連鎖反応を引き起こしたのでしょうか?

本記事では、医学的見地と歴史的史料に基づいて、中岡慎太郎の死因と坂本龍馬との決定的な違いを徹底解説していきます。

この記事のポイント
  • 近江屋事件で坂本龍馬が即死し、中岡慎太郎が2日間生存できた医学的理由
  • 中岡慎太郎が残した最後の証言と、犯人特定への影響
  • 慎太郎の無念が引き起こした報復劇「天満屋事件」の全貌
  • 二人の死因の違いが幕末史に与えた歴史的インパクト
目次

中岡慎太郎とは?坂本龍馬とともに討幕を目指した土佐の志士

まず、中岡慎太郎がどのような人物だったのかを見ていきましょう。龍馬の影に隠れがちですが、彼もまた幕末の重要人物の一人だったのです。

陸援隊を率いた武力討幕派のリーダー

中岡慎太郎(なかおかしんたろう)は、天保9年(1838年)に土佐国(現在の高知県)の郷士(ごうし)の家に生まれました。郷士とは、武士の身分ではあるものの上士(じょうし)より格下とされた階級のことです。

中岡慎太郎(室戸の像)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

慎太郎は武市半平太(たけちはんぺいた)が率いる土佐勤王党に参加し、尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)に身を投じました。その後、薩摩藩と長州藩を結びつける工作活動に尽力し、慶応2年(1866年)には薩長同盟の成立に大きく貢献したのです。

慶応3年には、坂本龍馬の海援隊に対して、陸上での武力行動を担当する「陸援隊(りくえんたい)」を組織しました。海援隊が貿易や外交を重視したのに対し、陸援隊は武力による討幕を目指す実行部隊だったのです。


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坂本龍馬との関係|二人は志を同じくする盟友だった

中岡慎太郎と坂本龍馬は、ともに土佐出身の志士として深い絆で結ばれていました。二人は文久2年(1862年)頃に江戸で出会ったとされ、以降、倒幕という共通の目標に向かって協力し合う関係を築いていきました。

ただし、その手法には違いがありました。龍馬が「大政奉還(たいせいほうかん)」という平和的な政権移譲を目指したのに対し、慎太郎は「武力討幕」を主張する急進派でした。つまり、目的は同じでも、アプローチが異なっていたのです。

それでも二人は互いを尊重し合い、近江屋事件の当日も、今後の倒幕計画について話し合うために一緒にいたと考えられています。

近江屋事件の全貌|中岡慎太郎と坂本龍馬が襲われた夜

坂本龍馬遭難の地・近江屋跡(京都市・現在は回転寿司店)

それでは、運命の夜に何が起きたのかを詳しく見ていきましょう。近江屋事件は、幕末史における最大のミステリーの一つとして現在も語り継がれています。

慶応3年11月15日、京都近江屋で何が起きたのか

慶応3年11月15日(1867年12月10日)の夜、京都河原町の醤油商「近江屋」の二階で、龍馬と慎太郎は今後の倒幕計画について話し合っていました。部屋には下僕の藤吉と峰吉もいたとされています。

午後8時頃、数名の男たちが「十津川郷士(とつかわごうし)」と名乗って訪問してきました。十津川郷士とは、大和国(現在の奈良県)の山間部に住む勤王派の郷士集団のことです。龍馬たちは味方だと思い、警戒することなく面会を許可してしまいました

しかし、それは罠だったのです。刺客たちは突然刀を抜き、龍馬と慎太郎に斬りかかりました。近江屋の二階は天井が低く、刀を大きく振りかぶることができない構造でしたが、それでも刺客たちの太刀筋は鋭く、二人に致命的な傷を負わせたのです。


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犯人は誰?「十津川郷士」を名乗る刺客の正体

犯人については、現在でも複数の説が存在しています。主な説を見てみましょう。

犯人説の主なもの
  • 新選組説: 現場に新選組隊士・原田左之助の刀の鞘が残されていたという証言があります
  • 京都見廻組説: 明治になって元隊士の今井信郎が「自分たちがやった」と自白しました(最有力説)
  • 会津藩黒幕説: 京都見廻組の背後に会津藩主・松平容保がいたという説
  • 薩摩藩黒幕説: 大政奉還後、龍馬が不要になったため薩摩藩が暗殺したという説

現在の歴史研究では、京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)の佐々木只三郎(ささきたださぶろう)、今井信郎(いまいのぶお)らが実行犯とする説が最も有力とされています。

襲撃の瞬間|龍馬は前頭部を、慎太郎は後頭部を斬られた

襲撃の瞬間、二人が受けた傷には決定的な違いがありました。この違いこそが、生死を分ける最大の要因となったのです。

坂本龍馬: 床の間を背にしていた龍馬は、刺客の初太刀を前頭部に受けました。この一撃は前頭骨を砕き、脳実質にまで達したとされています。さらに背中や肩にも複数の斬撃を受けました。

中岡慎太郎: 慎太郎は後頭部を斬られたほか、両手足など全身に11箇所もの刀傷を負いました。しかし、後頭部への傷は龍馬ほど深くはなく、脳の中枢部への損傷を免れた可能性が高いのです。

両手足の傷は「防御創(ぼうぎょそう)」と呼ばれるもので、慎太郎が必死に抵抗した証拠でもあります。


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坂本龍馬は即死したのか?最後の言葉「脳をやられた」の意味

桂浜の坂本龍馬像
引用元「Wikipediaコモンズ」より

龍馬の死については「即死だった」という説と「しばらく生きていた」という説が混在しています。史料を基に検証してみましょう。

龍馬の致命傷|前頭部を横一文字に斬られて昏倒

坂本龍馬が受けた前頭部への斬撃は、医学的に見て極めて致命的なものでした。前頭骨は頭蓋骨の中でも比較的薄い部分であり、鋭い刀で強く斬られれば容易に砕けてしまいます。

脳の前頭葉が損傷すると、以下のような状態になります。

前頭部損傷の医学的影響
  • 瞬時の意識消失: 脳への直接的衝撃により、意識を失います
  • 脳血管の断裂: 前大脳動脈などの主要血管が切断され、急激な頭蓋内出血が起こります
  • 頭蓋内圧の上昇: 出血により脳が圧迫され、呼吸中枢が麻痺します
  • 神経原性ショック: 自律神経系が急激に麻痺し、心停止に至ります

つまり、龍馬は前頭部を斬られた瞬間に、生理学的な「生存」の可能性をほぼ失ったと考えられるのです。

「残念じゃ」「慎太、手は聞くか」龍馬が遺した最後の言葉

龍馬の最後の言葉については、いくつかの伝承が残されています。

最も有名なのは「慎太、僕は脳をやられたから、もうだめだ」という言葉です。これは、龍馬が自分の傷の致命的な深刻さを瞬時に理解したことを示しています。また「石川(慎太郎の変名)、手は利くか」と相手を気遣う言葉を発したという説もあります。

ただし、医学的には前頭部を深く斬られた状態で明瞭な会話をするのは困難です。これらの言葉は、死の直前の譫妄状態(せんもうじょうたい)における反射的な発声だった可能性が高いと考えられています。

龍馬は襲撃を受けたその日のうちに、あるいは翌16日未明に絶命したとされています。享年33歳(満31歳)でした。


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中岡慎太郎の死因|なぜ龍馬と違い2日間も生き延びたのか

では、なぜ中岡慎太郎だけが2日間も生き延びることができたのでしょうか。ここに、この事件の最大の謎が隠されています。

両手足を斬られても会話できた驚異の生命力

中岡慎太郎が2日間生存できた最大の理由は、脳の生命維持中枢である「脳幹部(のうかんぶ)」への直接的損傷を免れたことにあります。

慎太郎の主な負傷箇所は以下の通りでした。

部位状態医学的影響
後頭部斬撃による裂傷小脳・後頭葉にダメージはあるが、脳幹は温存
両手足多数の防御創出血はあるが、主要動脈は切断されず
臀部刺創主要臓器への損傷なし

後頭骨は頭蓋骨の中でも特に厚く堅牢な部分です。刺客の刀が後頭部を斬ったものの、骨の厚さが刃の浸透を阻み、呼吸や循環を司る延髄(えんずい)などの脳幹部への致命的なダメージを防いだと考えられます。

また、両手足の傷は「防御創」と呼ばれるもので、慎太郎が襲撃者に対して必死に抵抗した証拠です。大腿動脈や上腕動脈といった太い血管が完全に切断されない限り、四肢の傷は即座に致命傷とはなりません。

瀕死の重傷で屋根を伝い助けを呼んだ慎太郎の執念

襲撃後、中岡慎太郎は一時的に意識を失いましたが、その後意識を取り戻しました。この現象は頭部外傷でよく見られる「意識清明期(いしきせいめいき)」と似ていますが、慎太郎の場合は脳幹機能の温存と、強靭な体力による出血性ショックの進行遅延によるものと考えられます。

一部の伝承では、慎太郎が瀕死の重傷を負いながらも屋根を伝って助けを呼びに行こうとしたという話が残されています。これが事実であれば、彼の執念と生命力がいかに凄まじいものだったかがわかります。

駆けつけた土佐藩士の谷干城(たにたてき)らに対し、慎太郎は「中岡だ」と名乗り、襲撃の様子を詳細に語りました。この証言が、後の犯人特定の重要な手がかりとなったのです。


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事件2日後の死|最後まで倒幕を訴え続けた30年の生涯

しかし、慎太郎の生存は長くは続きませんでした。事件から2日後の慶応3年11月17日(1867年12月12日)、彼はついに息を引き取りました。享年30歳(満29歳)でした。

死に至った直接的な原因は、以下の複合的な病態の進行によるものと推測されます。

中岡慎太郎の死因(医学的推定)
  • 進行性の頭蓋内出血: 後頭部の傷からの出血や脳挫傷による浮腫が徐々に進行し、脳圧が上昇
  • 脳ヘルニア: 最終的には大後頭孔ヘルニアが発生し、呼吸中枢が圧迫されて呼吸停止
  • 出血性ショック: 全身の創傷からの持続的な出血により、循環血液量が減少し多臓器不全へ

興味深いのは、慎太郎が死の直前に「焼き飯を食べたい」と所望し、実際に食べたという逸話です。これは、彼の消化管機能が最期まである程度保たれていたことを示しており、脳死状態ではなく、意識を保ったまま徐々に身体機能が停止していったことを物語っています。

慎太郎は最後の最後まで、岩倉具視(いわくらともみ)への伝言として「速やかに討幕を実行せよ」と訴え続けました。彼の無念の思いは、同志たちの心に深く刻まれることになります。


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中岡慎太郎が残した最後の言葉|犯人の手がかりと遺言

中岡慎太郎が2日間生き延びたことの歴史的意義は、何といっても彼が残した証言にあります。この証言が、その後の歴史を大きく動かすことになったのです。

「刺客は十津川郷士と名乗った」慎太郎の証言が明かした襲撃の詳細

意識を取り戻した中岡慎太郎は、駆けつけた土佐藩士の谷干城らに対して、襲撃の様子を詳しく語りました。

特に重要だったのが、「襲撃者たちは十津川郷士と名乗っていた」という証言です。十津川郷士は勤王派として知られており、龍馬や慎太郎とは本来味方のはずでした。つまり、犯人たちは味方を装って近づき、油断させた上で襲撃したのです。

また、慎太郎は襲撃者の剣技について「非常に鋭かった」「訓練された剣客の太刀筋だった」と証言しています。これにより、海援隊や陸援隊の残党たちは、犯人が新選組か京都見廻組のようなプロの剣客集団であるという確信を深めました。

さらに、慎太郎は襲撃者が「こなくそ」という言葉を発したとも証言しています。これは会津地方の方言であり、会津藩との関連を疑わせる材料ともなりました。

「早く倒幕を実行せよ」岩倉具視に託した悲痛な遺言

中岡慎太郎は、死の間際まで倒幕への熱い思いを失いませんでした。彼は谷干城に対して、公卿(くげ)の岩倉具視への伝言を託しました。

信長さん

「速やかに討幕の挙兵を実行せよ。一刻の猶予もならぬ」

この悲痛な遺言は、慎太郎が最期まで武力討幕派としての信念を貫いたことを示しています。

また、慎太郎は自分の無念さを「龍馬さんは先に逝ってしもうた。私も後を追う」という言葉で表現したとも伝えられています。盟友を失った悲しみと、志半ばで倒れる無念さが込められた言葉でした。

慎太郎の証言と遺言は、同志たちの心に深く刻まれ、「復讐」という新たな行動を引き起こすことになります。


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近江屋事件の犯人は誰なのか?新選組説・京都見廻組説を検証

近江屋事件の犯人については、現在でも完全には特定されていません。主な説を詳しく検証していきましょう。

新選組犯行説|現場に残された原田左之助の刀の鞘

事件直後、最も疑われたのは新選組でした。その理由は、現場に新選組隊士・原田左之助(はらださのすけ)の刀の鞘が残されていたという証言があるためです。

新選組は「壬生狼(みぶろ)」と恐れられた京都の治安維持組織であり、倒幕派の志士たちを次々と捕縛・殺害していました。池田屋事件などで龍馬の仲間たちも多数犠牲になっており、龍馬暗殺の動機は十分にあったといえます。

しかし、現在の歴史研究では新選組犯行説は疑問視されています。その理由は以下の通りです。

新選組犯行説への疑問点
  • 原田の鞘が本当に現場にあったのか、確実な証拠がない
  • 新選組の記録に龍馬暗殺の記述が一切ない
  • 事件当時、新選組は幕府から独自行動を制限されていた

原田の鞘が残されていたというのは、犯人が意図的に置いていった「偽装工作」だった可能性も指摘されています。

京都見廻組・佐々木只三郎説|今井信郎の自白は真実か

現在最も有力とされているのが、京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)による犯行説です。

京都見廻組は、幕府が新選組とは別に組織した京都の警備部隊で、隊長は佐々木只三郎(ささきたださぶろう)でした。新選組が浪士出身者中心だったのに対し、見廻組は旗本や御家人といった幕臣で構成されていました。

明治3年(1870年)、元見廻組隊士の今井信郎(いまいのぶお)が「近江屋事件は自分たちがやった」と自白しました。今井の証言によれば、実行犯は以下のメンバーだったとされています。

氏名役割
佐々木只三郎隊長・指揮
今井信郎実行犯
渡辺篤実行犯
桂隼之助実行犯
高橋安次郎実行犯

今井の証言は詳細で具体性があり、信憑性が高いとされています。ただし、今井が自白した時期が明治になってからであり、「なぜ今さら白状したのか」という疑問も残されています。


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黒幕は会津藩主・松平容保?なぜ龍馬と慎太郎は狙われたのか

京都見廻組の背後には、京都守護職(きょうとしゅごしょく)を務めていた会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)がいたとする説があります。

高須四兄弟(左から松平定敬・松平容保・徳川茂徳・徳川慶勝)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

会津藩は幕府を支える佐幕派(さばくは)の中心勢力であり、倒幕派の龍馬や慎太郎を敵視していました。特に、龍馬が推進した大政奉還(たいせいほうかん)は、幕府の権威を形式上は残しつつも実質的には政権を朝廷に返上するものであり、幕府の完全な終焉を意味していました

会津藩にとって、龍馬と慎太郎は「倒幕の首謀者」として排除すべき標的だったのです。

一方で、「薩摩藩黒幕説」も存在します。大政奉還が実現してしまったことで、武力討幕の大義名分を失った薩摩藩が、龍馬を「用済み」として暗殺したという説です。しかし、この説は証拠に乏しく、現在では支持する研究者は少数派です。

信長さん

松平容保・京都市中見廻組による暗殺説には、筆者個人としては疑問が残ります。なぜなら、今井たちは、坂本龍馬たちを暗殺したあと、その遺体を放置し、自分たちが龍馬を暗殺したことを、秘密にしていたからです。公務を執行したのなら、手柄として大々的に宣伝したはずです。納得できる仮説としては、おそらく龍馬暗殺をしてはいけないと、松平容保より上の身分の人物から秘密の命令が出ていたのでしょう。そのため松平容保は、秘密裏に暗殺するしかなかったのではないかと思います。容保にそんな命令ができる人は、徳川慶喜くらいでしょう。


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龍馬暗殺の仕返し「天満屋事件」|陸奥宗光らの復讐劇

新選組隊旗
引用元「Wikipediaコモンズ」より

中岡慎太郎の死から約3週間後、海援隊と陸援隊の残党たちは、龍馬と慎太郎の仇を討つべく立ち上がりました。これが「天満屋事件(てんまやじけん)」です。

紀州藩士・三浦休太郎を犯人と誤認

海援隊の陸奥宗光(むつむねみつ)らは、中岡慎太郎の証言を基に犯人を特定しようとしました。しかし、彼らが復讐の標的としたのは、紀州藩公用人の三浦休太郎(みうらきゅうたろう)でした。

なぜ三浦が疑われたのでしょうか?

それは、事件の数ヶ月前に発生した「いろは丸事件」が関係していました。慶応3年4月、龍馬が乗っていた海援隊の船「いろは丸」が、紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突して沈没する事故が起きました。龍馬は紀州藩に対して巨額の賠償金を請求し、紀州藩はこれを支払わされました。

この交渉の窓口となったのが三浦休太郎でした。陸奥らは「紀州藩が恨みを晴らすために龍馬を暗殺したのではないか」と考え、三浦を犯人と断定してしまったのです。

さらに、三浦が新選組を警護に雇っているという情報もあり、「新選組を使って龍馬を暗殺した」という推測を強めることになりました。

新選組と激闘|しかし三浦は無関係だった

慶応3年12月7日(1868年1月1日)、陸奥宗光率いる海援隊・陸援隊の16名は、三浦休太郎が宿泊している京都の旅宿「天満屋」を襲撃しました。

襲撃部隊の中心は、十津川郷士の中井庄五郎(なかいしょうごろう)でした。彼は居合いの達人として知られ、部屋に踏み込むや否や三浦に斬りかかりました。しかし、三浦の警護についていた新選組の斎藤一(さいとうはじめ)らが即座に反撃し、激しい乱戦となりました。

戦闘の結果は以下の通りです。

陣営人数死者負傷者
海援隊・陸援隊(攻撃側)16名中井庄五郎不明
新選組(防御側)7名宮川信吉、船津釜太郎斎藤一、中村小二郎、梅戸勝之進
三浦休太郎(警護対象)1名なし頬に軽傷

16名対7名という圧倒的な数的優位にもかかわらず、新選組の防御能力は極めて高く、三浦を逃がすことに成功しました。一方、襲撃側は主力の中井庄五郎を失うという大きな痛手を負いました。

そして皮肉なことに、後になって三浦休太郎は近江屋事件とは全く無関係だったことが判明しました。つまり、天満屋事件は誤認による復讐劇だったのです。

しかし、この事件は中岡慎太郎が2日間生き延びて証言を残したことが引き起こした「歴史の連鎖反応」でもありました。もし慎太郎も即死していれば、犯人像はより曖昧なままとなり、ここまで迅速な報復行動は起こらなかったかもしれません。


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近江屋事件が残した謎|なぜ土佐藩邸は救援しなかったのか

近江屋事件には、今もなお解明されていない謎がいくつも残されています。その中でも最大の謎の一つが、「なぜ土佐藩邸は救援に来なかったのか」という問題です。

河原町通りを挟んだ目と鼻の先にあった土佐藩邸

近江屋があった場所は、京都の河原町通り蛸薬師下ル(たこやくしさがる)でした。そしてその目と鼻の先、河原町通りを挟んだ向かい側に土佐藩邸があったのです。

襲撃時には激しい物音や悲鳴が響いたはずですが、土佐藩邸からは誰も駆けつけませんでした。駆けつけたのは、しばらく経ってからの谷干城らでした。

なぜ土佐藩邸は即座に救援しなかったのでしょうか?いくつかの説があります。

土佐藩邸が救援しなかった理由(諸説)
  • 音が届かなかった説: 建物の構造や風向きで、藩邸まで音が届かなかった
  • 関与を避けた説: 土佐藩上層部が龍馬の過激な行動を疎ましく思い、意図的に救援しなかった
  • 警備不足説: 当時の京都は治安が悪く、夜間に外出することが危険だった

真相は今も謎のままです。しかし、もし土佐藩邸が即座に救援していれば、龍馬と慎太郎の命は助かったかもしれない、という「if」は、歴史ファンの間で今も語り継がれています。

中岡慎太郎の遺体と坂本龍馬の墓|現在はどこに?

中岡慎太郎と坂本龍馬の遺体は、事件後に土佐藩によって引き取られ、京都の霊山(りょうぜん)に埋葬されました。

現在、二人の墓は京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の境内にあります。龍馬の墓の隣に慎太郎の墓が並んでおり、二人は死後も盟友として寄り添っているのです。

墓所からは京都の街を一望でき、幕末ファンの聖地として多くの参拝者が訪れています。

一方、近江屋があった場所は、現在では「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の石碑が建てられています。かつてはサークルKサンクスの店舗があったことでも知られていましたが、現在は閉店しています。

事件から150年以上が経過した今も、近江屋跡地を訪れる人々は後を絶ちません。歴史の舞台となった場所には、今も幕末の息吹が残されているのです。


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まとめ|二つの死因が分けた歴史の分岐点

慶応3年11月15日の夜、坂本龍馬と中岡慎太郎は同じ部屋で襲撃を受けました。しかし、二人の死に至る時間には大きな差がありました。

龍馬は前頭部を深く斬られ、脳の生命維持中枢が損傷したため、ほぼ即死に近い状態で絶命しました。一方、慎太郎は後頭部や四肢に重傷を負いながらも、脳幹部への致命的な損傷を免れたため、2日間生き延びることができました。

この「2日間の差」が、その後の歴史を大きく動かすことになりました。慎太郎は意識を取り戻し、襲撃者の特徴や状況を詳しく証言しました。この証言が、海援隊・陸援隊の残党たちによる報復劇「天満屋事件」を引き起こしたのです。

もし慎太郎も即死していれば、犯人像はより曖昧なままとなり、歴史は別の道を歩んでいたかもしれません。慎太郎の2日間の生存は、単なる生理学的な偶然ではなく、幕末史における重要な「時間」として機能したのです。

近江屋事件の真相は今も完全には解明されていません。しかし、龍馬と慎太郎が遺した「志」は、明治維新という新時代の礎となり、現代の日本へと続いているのです。

京都霊山の墓所で、今も二人は静かに眠っています。その墓前に立つとき、私たちは幕末という激動の時代と、志半ばで倒れた若き志士たちの無念を、改めて感じることができるのです。


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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (3件)

  • 歴史考証にあたっては、俗説は排し物事を考えなければならない。
    そもそも近江屋事件に関しては、中岡慎太郎が狙われたと考えるのが普通で、坂本龍馬は対象ではなかった。
    これは現在でこそ坂本龍馬は有名(司馬遼太郎のおかげで)だが、幕末ではさほど知名度や影響力のある人物ではなかったし、維新において重要な働きを行った実績もない。(証左があるのは薩長同盟時の裏書程度。)
    そのため、坂本龍馬を殺した犯人を考えるのではなく、中岡慎太郎を殺した犯人は誰なのかを考えるべきだと思う。
     また、最後の松平容保についてだが、彼にとって龍馬はそんな価値のある人間では無かったし、龍馬は維新において何かを為せる人物では無かった。だから殺された。それだけだと考えます。

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