【中岡慎太郎】龍馬暗殺の際、両手足斬られても会話できたって本当?

坂本龍馬とともに、近江屋で襲撃され亡くなった「中岡慎太郎」ですが、実は襲撃を受けても生き残っていたのです!!

襲撃された直後に坂本龍馬は亡くなりましたが、実は中岡慎太郎は、一時的にではありましたが、会話ができるほどに回復しています!

深手を負っても生きていた中岡慎太郎が、いったい何を語ったのか?

坂本龍馬を暗殺したのは誰なのか?、中岡慎太郎が襲撃後に語った言葉や、暗殺の黒幕について、わかりやすく解説いたします。


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この記事を短く言うと

・中岡慎太郎は、坂本龍馬とともに京都の土佐藩邸の目の前にある「近江屋」という「しょうゆ屋」の二階で襲撃された

・襲撃後、中岡慎太郎は「岩倉具視」にあとを託して亡くなった

・龍馬暗殺の報復として「陸奥宗光」らが、紀州藩士を襲撃し、新選組らと交戦している


《中岡慎太郎と龍馬暗殺》

中岡慎太郎は土佐藩に生まれ、坂本龍馬と共に武市半平太の土佐勤王党に加盟し志士活動を始めます。

《中岡慎太郎》
『引用元ウィキペディアより』

八月十八日の政変で長州藩が京都を追われると、土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まります。

慎太郎は速やかに脱藩し、長州藩に亡命。

以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となり、また、都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となります。

禁門の変では長州軍の一員として参加し、その後長州藩諸隊のひとつである忠勇隊の隊長となります。

以来、長州と薩摩等を飛び回り、龍馬と協力し薩長同盟仲介に尽力。

また、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約の締結にも成功。

その後、脱藩の罪を許され、土佐藩より「陸援隊」隊長に任命されます。

龍馬の海援隊に対しての陸援隊でした。

一説によると、「高杉晋作」が組織した「奇兵隊」を手本にしたのが「陸援隊」と言われています。


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龍馬が後藤象二郎と進める大政奉還に対して、慎太郎は武力倒幕、王政復古のために岩倉具視や西郷隆盛などと画策を続けていました。

結果、徳川慶喜が大政奉還をし、武力討伐派は一旦いなされることとなります。

しかし、大政奉還の直後、慎太郎は近江屋で龍馬と共に暗殺されます。

それは慶応3年(1867年)11月15日のことでした。

新選組と乱闘し捕虜になった土佐藩士の宮川助五郎が釈放されることとなり、福岡藤次(後の福岡孝弟)に「宮川を陸援隊にひきとってほしい。」と言われ土佐藩邸に福岡を訪ねますが、福岡が留守でした。

慎太郎は「龍馬のところにでも行くか。」と近江屋に向かいます。

これが慎太郎の生死を分けました。


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近江屋で龍馬と話し合いをしていると、夜9時頃、客(刺客)が近江屋を訪れ「拙者は十津川の者だが、坂本先生御在宿ならばお目にかかりたい」と告げました。

応対した龍馬の従者の藤吉は不審に思うことなく、見知った客か龍馬に確認しようと二階へ上ろうと踵を返します。

その藤吉を見て、龍馬がいると確信した刺客たちは後からそのまま藤吉の背中を斬りつけました。

このとき「ぎゃあー」と絶叫を上げた藤吉に対し、龍馬は暗殺者による襲撃だとは夢にもおもわず、突然大声を出した藤吉にたいして、

「ほたえな!」

(土佐弁で「騒ぐな」という意味)

と大声で注意し、かえって刺客たちに自分たちの居場所を教えてしまうこととなります。

刺客は電光のように階段を駆け上がり、ふすまを開けて部屋に侵入するなり、一人は龍馬の前頭部を、一人は慎太郎の後頭部を斬撃しました。ふたりとも手元に刀をもたなかったため、思うように応戦ができず、さらに数創を受けてついに倒れてしまいます。

そして、龍馬は刺客が去った直後に絶命します。


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《中岡慎太郎は、生きていた!両手足を斬られて、会話も出来た?》

慎太郎は短刀をもって刺客の太刀と渡り合いますが、両手足を十一か所斬られて倒れます。

しかし、慎太郎は刺客が去った後も驚異的な生命力で生きており、暗殺犯の襲撃の様子について土佐藩の谷干城(後の西南戦争時の熊本鎮台司令長官)などに詳細に語ったといいます。

「坂本と自分をやるなどとは、よほど剛強の男である。

幕臣は腰抜けであると平素侮っていたが、こうも思い切ったことの出来る男がいる。

早くならねば逆にやられるぞ。」

どうやら中岡慎太郎は、犯人が誰なのか、わからなかったみたいですね。

慎太郎は最後まで「討幕論者」でした。

慎太郎は一昼夜たつとだいぶ元気になり、「焼き飯を食いたい」といって一同を驚かせました。

しかも三杯も食べたそうです。

しかしそれを吐き、慎太郎は自分の死期を予言します。

「俺は今日死ぬだろう。

わがために岩倉具視卿に伝えよ。

今後、維新回天の実行は一に卿のお力に頼る、と。」

慎太郎ほど岩倉の才能を評価していた男はいませんでした。

そして、事件から2日後の昼過ぎ、ついに亡くなります。享年30。

岩倉具視は、慎太郎の絶命を聞くと「自分の片腕をもがれた」と声をあげて号泣したと云われ、大久保利通に宛てた手紙にも「この恨み必ず報ぜざるべからず」としたためており、その痛恨・哀惜の情がうかがえます。


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《龍馬暗殺の報復!天満屋事件》

龍馬と慎太郎の死後、谷干城や海援隊隊士の手で犯人探しがされます。

やがて、紀州藩の用人、「三浦休太郎」が怪しいとの情報が入ります。

いろは丸沈没事件(海援隊が借り受けていた「いろは丸」が瀬戸内海で紀州藩の軍艦・明光丸に衝突されて積荷もろとも沈没した事件。龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及しました。)で、紀州藩は龍馬に多額の賠償金を支払うこととなり、それを恨んでいるというのが動機です。

しかも、三浦の護衛を新選組がしており、新選組をそそのかして暗殺したのに間違いないと。

海援隊士、陸奥陽之助(後の外務大臣陸奥宗光)は海援隊から襲撃隊を募り、「天満屋」を襲撃します。

三浦は新選組と酒宴をしており、激闘となりますが、陸奥は三浦をしとめたと誤認して引き揚げます。

後に三浦は無関係だったということが分かりました。

また、後日「京都見廻組」の今井信郎が「自分が龍馬を暗殺した」と自白します。

しかし、谷干城は売名行為と罵って、まともに相手にしなかったと言われています。


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《『龍馬暗殺』について、レビュー(評論)!》

龍馬暗殺の真犯人は誰なのか?最近の定説では、後年に暗殺犯であることを自白した「今井信郎」の証言こそが真実であり、「京都市中見廻組」の「佐々木只三郎」が実行犯であるとされています。

佐々木只三郎に「龍馬暗殺」を命じたのは、「会津藩主・松平容保」であるというのが、もっとも有力な説でしょう。

中岡慎太郎・・・龍馬とは異なり、「武力討幕」を目指していた中岡・・。対して龍馬は「武力」によらず、旧幕府と徳川慶喜の政治力を新政府に取り込むことを考えていました。

つまり龍馬の構想は、幕府を支えようとする「松平容保」にとって、とても役立つものだったはず。

徳川幕府への忠誠心が強い松平容保にとって、「中岡慎太郎」は暗殺すべき対象だったかもしれませんが、幕府サイドの「勝海舟」と親しく、「薩長」ともパイプを持つ龍馬を温存しておけば、倒幕は防げなくとも、後に起こった「会津戦争」の悲劇は回避できたかもしれません。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・中岡慎太郎は土佐藩に生まれます。龍馬同様脱藩し長州藩に亡命し、連絡役として重要な役割を果たします。

・慎太郎は龍馬とともに薩長同盟、薩土盟約を締結。

・大政奉還の直後、龍馬と近江屋で襲撃されます。龍馬は即死。

・襲撃されて後、慎太郎はなおも生きて事件の詳細を語りますが、2日後に死亡。

・海援隊の陸奥宗光は紀州藩士を犯人と信じ、「天満屋」を襲撃。

中岡慎太郎は龍馬の陰に隠れがちですが、龍馬の相棒としてなくてはならない存在でした。

薩長同盟の際には、慎太郎は薩長の人の間を飛び回り、非常に苦労して説得しているのです。

生きて明治維新をむかえていれば、西郷や大久保と同じように素晴らしい政治家になった事と思います。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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