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徳川斉昭公のヤバイ生涯と最期!幕末最強の肉食系でしかも名君だった

最期の将軍「徳川慶喜」の父にして、水戸藩主「徳川斉昭」の「生涯」と「最期」を、わかりやすく解説いたします。

幕末を代表する名君で、抜群の行動力を持つお殿様だった!

でも実は、かなりの「肉食系男子」で、悪い噂も多い人だった!長男の嫁に手を出したりとか・・・。


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

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この記事を短く言うと

・徳川斉昭とは、徳川慶喜の父で、水戸藩主として、水戸藩の藩政改革を成功させた人物

・徳川斉昭は、強行な藩政改革を断行し、それが原因で引退させられた

・斉昭はかなりの女好きだった。

・息子「徳川慶喜」はかなり賢かった。そのため、誰もが将軍にしようとした


徳川斉昭公とは、何をした人なのか?

水戸藩主にして、最後の将軍「徳川慶喜」の父「徳川斉昭

徳川斉昭
『引用元ウィキペディアより』

「徳川斉昭」とは、どんな功績を残した人なのでしょうか?

徳川斉昭の功績

徳川斉昭の功績を短く解説いたします

・後の15代将軍「徳川慶喜」を産み、英才教育を施した

・水戸藩の改革を強行

藤田東湖のような有名な学者を抜擢した

他にも「幕府の海防参与」などを務めたり、水戸藩内に当時最大級の藩校「弘道館」を造って学問を奨励したりと、かなりのペースで活躍しています。



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徳川斉昭のヤバイ生涯と最期

徳川斉昭の生涯と最期について解説いたします。

生い立ち

1800年、水戸藩7代目藩主「徳川治紀」の三男として誕生。

優秀であったためか、他家へ養子に出されることはなく、8代藩主となった兄「徳川斉脩(なりのぶ)」の後継者候補として、30歳近くになっても水戸藩に残りました。

家督争い

1829年、8代藩主の兄「徳川斉脩」が他界

家老「中山信守」たちが、11代将軍・徳川家斉の20子「徳川斉彊」を水戸藩主に迎え入れることを画策。

家督争いが勃発するが、兄「斉脩」が弟「斉昭」を後継者に指名する遺書が発見されたため、「徳川斉昭」が後継者争いに勝利

水戸藩9代藩主に就任。おそらくですが、その遺言書は斉昭らによって偽造されたものでしょうね。



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水戸藩の政治を改革

斉昭は、水戸に巨大な藩校「弘道館」を設置しています。

この教育機関を利用し、広く優秀な人材を採用し、藩政改革に力を尽くしたのです。「勉強は一生もの」と主張し、「弘道館」では「卒業」がなく、いつまでも学び続ける制度が確立していました

後に「吉田松陰」や「西郷隆盛」などの人材に強い影響を与える全国的に有名な学者「藤田東湖」や、自らの師「会沢正志斎」たちを採用しています。

また剣術師範として「坂本龍馬」や新選組「山南敬助」などを輩出した「北辰一刀流」創始者の「千葉周作」を採用。

名君に必須な能力はやはり「人使い」・・・その点を見ると、「徳川斉昭」は名君と言ってよいでしょう。

 

斉昭は、藩政改革のため、4つの改革方針を掲げています。

1、水戸藩の全領地における、生産高を調査する

2、藩士たちを水戸の土地に根付かせること

3、藩校・弘道館のほか、各村々にも「郷校」を建設し、学問を奨励すること

4、江戸に藩士を常駐させる制度の廃止

 

これらの藩政改革は、後に老中「水野忠邦」が行った「天保の改革」のお手本になったと言われています。

また、西洋近代兵器の研究・国内での生産を画策。

宗教改革にも積極的で、仏教の寺院に弾圧まがいの整理を行い、対して神道を奨励。村ごとに最低一つの神社設置を義務付けました。水戸藩は「尊皇」・・・つまり天皇家を大切にする思想が強いことで有名な家柄ですから、天皇を祭る神道を大切にしたのです。

軍事訓練にも積極的だった斉昭

1844年、鉄砲訓練のため「一斉射撃」の軍事演習を行っていたところ、幕府から注意されます。

1846年、謹慎解除

1849年には、水戸藩の政治へ再び参加することを許されるのでした。



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黒船来航

1853年、アメリカ「東インド艦隊」のマシュー・ペリー提督が日本・浦賀に来航

非常に先進的で、実行力と強いカリスマ性を持つ斉昭。

その能力を幕府から認められ、年々圧力を増す諸外国に対抗するため、「海防参与」に任命されます。

斉昭は、攘夷・・・つまり、諸外国を打ち払うことを強く主張し、大砲など大量の兵器を幕府に差し出しています。

1854年、斉昭の主張に反して、日本はペリーとの間に「日米和親条約」を締結することになります

井伊直弼との対立

1855年、斉昭は幕府の「軍制改革参与」という重要なポストに起用

軍制改革・・・つまり幕府軍の制度を改革して、諸外国と渡り合うことができる軍を作り上げることを任されたのです。

この頃、斉昭と激しく対立したのが彦根藩主「井伊直弼

直弼と斉昭は、2つの問題で意見が大きく異なっていました。

「対外政策」と「次期将軍を誰にするか」という問題

井伊直弼は「開国」を主張し、次期将軍に「徳川家茂」を推していました。

対して斉昭はというと、「攘夷」を主張し、次期将軍には自らの七男である「一橋慶喜」を推していたのです。



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「安政の大獄」で失脚

1858年、井伊直弼は大老に就任し、「日米修好通商条約」に天皇の許可なく勝手に調印。

それに激怒した「斉昭」は、福井藩主「松平春嶽」や「一橋慶喜」とともに、登城予定がないにも関わらず無理やり登城し、井伊直弼に抗議。

この行為は「不時登城」と呼ばれ、当時違反行為として定められていたものだったため、斉昭は「謹慎」を命じられます。

1859年、朝廷は水戸藩に対して、幕府の頭越しに「戊午の密勅」という事実上「攘夷」を命じる秘密命令を下します。

幕府と大老・井伊直弼は、この越権行為を見逃せず、弾圧を開始。

しかし朝廷や天皇を直接罰することはさすがにできず、「戊午の密勅は水戸藩が朝廷をだまして無理やり引き出したものだ」という名目で「水戸藩」を弾圧。これが「安政の大獄

また、「一橋慶喜」を擁立した「橋本左内」や、「吉田松陰」などの人材も、どさくさ紛れに処刑。

密勅の罪をとがめられ、斉昭は水戸藩で「永蟄居」・・・つまり事実上の「永久追放」処分をくらったのでした。

1859年3月24日、「桜田門外の変」で、井伊直弼が「水戸浪士17名」と「薩摩藩士1名」に暗殺

 

安政の大獄桜田門外の変については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております

最期

1860年9月29日、斉昭は水戸で亡くなります。

お月見をしていた際に、トイレに立ったところで倒れて、そのまま亡くなったのです。

死因は「心筋梗塞」

享年61歳



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超絶肉食系だったが、名君で、息子「徳川慶喜」も賢かった

斉昭は、非常に優秀で、行動力もあるイケイケな君主でした。

しかし、非常に問題も多い人だったのです。

女好きの超肉食系

斉昭は、「女好き」で有名でした。

最後の将軍「徳川慶喜」を加えて、生涯に37人の子供を儲けています。

50人以上も子供をつくり、「オットセイ将軍」の異名をとった「11代将軍・徳川家斉」。その家斉もフラれた「大奥」絶世の美女「唐橋」に、斉昭は無理やり手を出したと言われています。

さらには息子「徳川慶篤」の妻「線姫」にまで手を出した・・・なんて噂される始末。

挙句の果てには「大奥」の女性たちに対して、セクハラ発言を連発。にもかかわらず、大奥の改革や倹約を主張していたため、女性からはかなり不人気

そんな斉昭の精力的な活動を支えていたのは、お肉中心の食事。

肉が大好きで、宿敵・井伊直弼の地元「彦根藩」から、高級和牛「近江牛」のお肉を贈られた際には、お礼のお手紙を書いています。

肉食系で女癖が悪い・・・かなりの問題児ですね・・。



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評価

当時の斉昭の評価ですが、女性からの評価が低い反面、男性からの評価は非常に高いものがありました。

強いリーダーシップを発揮して、身分を問わず優秀な人材を積極的に採用。

あまりにも激しい性格だったため「烈公」と呼ばれていました。

外国勢力を打ち払う「攘夷」を強く叫んでいたものの、諸外国の優れたものは積極的に採用する柔軟さも持ち合わせていました。

何より、最後の将軍「慶喜」を育てたことは、最大の功績と言ってよいでしょう。

名君と呼ぶにふさわしい人なのではないでしょうか。

ただ・・・「英雄色を好む」にしても、ちょっと女好きが激しすぎた感じはします。

息子は「徳川家康の再来」と呼ばれた秀才「徳川慶喜」

慶喜・・・幼いころからかなり優秀で評判だったみたいですね。

幼い慶喜は、その優秀さを12代将軍「徳川家慶」に目をつけられ、「13代将軍」の候補者に挙げられていました。

そのため慶喜は家慶のはからいで、「将軍職の継承権」を持つ御三卿の一つ「一橋家」を相続させられています。

結果として、慶喜は13代将軍になることはできませんでしたが、それでもその優秀さは、当時からかなり際立っていたのです。

これは、学問が非常に活発だった「水戸藩」の家柄と、父・斉昭の教育の賜物だったのでしょうね。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・徳川斉昭とは、最後の将軍「徳川慶喜」の父であり、水戸藩の藩政改革を実現した藩主。

・水戸藩の改革だけではなく、幕府の政治にも介入し、攘夷を主張したが、井伊直弼との政争に敗北し失脚した

・女好きで、大奥からはかなり嫌われていた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


徳川慶喜」について、よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。


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