「明治の元勲(げんくん)」を次々と育て上げた名門塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」とは、いったいどういう塾だったのでしょうか?
天才「吉田松陰」先生は、塾でどのようなことを教えていたのか?そして「松下村塾」の中でも「四天王」と呼ばれた秀才たちが、その後、どのような運命をたどったのか?
松下村塾では「誠をつくすこと」「行動すること」を大切にするよう教えており、四天王はそれを忠実に守って、ことごとく若死にしてしまいます。
「松下村塾」がどのようなところだったか、よく知らない方のために、この記事でわかりやすく解説いたします。
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この記事を短く言うと
・松下村塾とは、長州藩の逸材「吉田松陰」先生が謹慎中に自宅で開いた塾のこと
・松下村塾では、「行動することの大切さ」が生徒たちに教えられていた
・松下村塾の「四天王」と呼ばれた優等生たち「久坂玄瑞」「高杉晋作」「吉田稔麿」「入江九一」は、松陰先生の教えをまもりすぎて、全員が若いうちに亡くなっている。
松下村塾とは何か、簡単にわかりやすく解説
松下村塾
松下村塾は、1854年に黒船に乗り込んでアメリカへ密航しようとした長州藩士・吉田松陰が謹慎処分を受けたことに始まります。
実家で謹慎していた松陰のところへ、彼の教えを受けるために多くの人が集いました。
松陰自身も、身分に関係なく武士でも農民でも、垣根なく迎え入れ、「ともに学んで」いたのです。
彼の教え子は、高杉晋作をはじめ、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿など、後の軍人・政治家・思想家など多岐に渡ります。
しかし、松下村塾は長く続くことはありませんでした。
幕府によってアメリカとの不平等条約が結ばれると、松陰は痛烈に幕府を批判。
松陰以外にも反幕府の人たちが立ち上がると、幕府は「安政の大獄」という強行姿勢をとり、反対派たちを次々と粛清。
これにより松陰も投獄され、松下村塾は閉鎖の道を辿りました。
何がすごいのか?松下村塾の思想と教え方がすごい
松下村塾のもっともすごいところといえば、明治時代の政府の重要な人材を多数育て上げたことでしょう。
- 伊藤博文
- 山縣有朋
- 山田顕義
- 品川弥二郎
など、総理大臣や国務大臣経験者が多数在籍していました。
後述しますが彼らは、松下村塾四天王と呼ばれたトップレベルの秀才に比べれば、劣等生だったといわれています。
松下村塾では、「孟子」についての講義から、倫理学、歴史、経済、芸術など教えていたジャルは幅広いものでした。
特に松陰は世界史に力を入れ、さまざまな角度から世界を分析するよう塾生に説いています。
また、松陰は「行動」の大切さをよくよく説いていたといわれています。
松陰が尊敬していた「孟子」の教えのひとつ
「誠の心を尽くして行動すれば、それに心動かされぬものはいない」
というものがあります。
この名言の通り、松陰は熱心に教育を行い、行動することの大切さを教え、世界に通用する人物を作り上げていきました。
また、松陰の教え方の一つに、塾生同士で討論させる方法があります。
1対1の討論はもちろん、1人の塾生を前に立たせて講義を行わせ、それについてみんなで討論する形式がとられました。
こうしたやり方によって、塾生の自主性も育てていこうとすることが、吉田松陰先生の方針でした。
松下村塾の優等生だった四天王の最期。優等生だからこそ悲惨な最期を遂げた
松下村塾の塾生の中でも、「四天王」と呼ばれる優等生たちがいました。
彼らは松陰先生から高い評価を得ていたものの、その行動力の高さが災いしてか、いずれも若くして亡くなった人たちです。
●久坂玄瑞
久坂は長州藩の中でも尊皇攘夷運動において中心的事物として活動していました。
幕府軍と長州藩の武力衝突事件「禁門の変」の際に、幕府軍に敗れ自刃。
●高杉晋作
松陰の影響で学問に目覚め、久坂と並ぶほどの成績を残しました。
高杉は奇兵隊を創設するなど、長州藩を倒幕路線にまとめ上げた人物です。
しかし、27歳の時、「第二次長州征伐(四境戦争)」に勝利した直後、志半ばで結核にかかり亡くなりました。
●吉田稔麿
松陰から「高等の人物」と評された優等生。
高杉が創立した奇兵隊に参加し、志士として活躍しましたが、池田屋事件の際、新撰組・又は会津藩兵の手にかかり亡くなりました。
●入江九一
塾生の中でも、松陰に対する傾倒は誰よりも強い人物でした。
久坂と同様、「禁門の変」で戦死。顔を槍で突かれて亡くなっています。
松陰の教えは「行動の大切さ」でありましたが、「行動力がありすぎた」ため、彼らは早くにこの世を去ってしまったのではないでしょうか。
伊藤博文や山縣有朋たち首相経験者も、四天王に比べれば、劣等生だったといわれています。
「松下村塾」について「ひとこと」いいたい
松下村塾とは、いったいどういう場所だったのか?
吉田松陰先生は、生徒たちに対して、よくこう言っていたようです
「ともに学びましょう」
つまり松陰先生は、生徒たちに「教える」のではなく、一緒に学ぼうとしていたのでしょう。
実際、松陰先生は生徒たちと対等に議論を戦わせ、「熱気」を帯びた議論をしていたと言われています。
さらに、松下村塾では「科目」というものが定まっておらず、生徒の得意分野をさらに伸ばす授業が行われていました。
「好きなことを好きなだけ勉強できる塾」
しかも吉田松陰先生は、当時随一の秀才。今でいうなら「全国模試一位」の英才で、かつ行動力抜群。
そんな秀才が
「自分が得意で好きな分野を、ともに学んでくれる」
のです。学び方、上達の仕方、勉強の仕方をしらない劣等生でも、松陰先生が才能を見つけて褒めてくれる。上達しないわけがありません。
わずか数年で終わってしまった松下村塾ですが、もう少し続いていたら、どれほどの人材を輩出していたものか・・・。想像を絶するものがあります。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
本日の記事をまとめますと
松下村塾について解説していきましたが、今回のポイントは、
・松下村塾は吉田松陰がさまざまな教育を行った場で、多くの著名人を輩出した
・松下村塾では「行動することの大切さ」を一番に説いていた
・松下村塾の優等生「四天王」は行動力の高さゆえに短命であった
といえるでしょう。
以上となります。
本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。
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