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明治維新とは何?小学生向けわかりやすい歴史解説【完全版】

明治維新とは何だったのか、学校の授業で習ったけれどよくわからないという方も多いのではないでしょうか。

江戸時代が終わり、日本が近代国家へと生まれ変わったこの大変革は、私たちの暮らしの基礎を作った重要な出来事です。

黒船来航をきっかけに始まった動乱の時代、西郷隆盛や大久保利通といった人物たちがどのように活躍したのか、そして明治維新で変わったこととは具体的に何だったのか、小学生向けにもわかりやすく解説します。

本記事では、明治維新の内容や流れ、なぜ起こったのかという背景、中心となった人物たちのエピソード、さらにはメリットとデメリット、年表を交えながら明治時代のまとめまで、この歴史的転換点を丁寧に紐解いていきます。

この記事のポイント
  • 明治維新がなぜ起こったのか、黒船来航から幕府崩壊までの流れがわかる
  • 西郷隆盛や大久保利通など維新の中心人物の意外なエピソードを知ることができる
  • 文明開化による生活の変化や廃藩置県など具体的な改革内容が理解できる
  • 明治維新のメリットとデメリットを知り歴史を多角的に考えられるようになる

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目次

明治維新とは?わかりやすく言うと「日本大改造プロジェクト」

項目内容
時期1853年(ペリー来航)〜1877年(西南戦争終結)
中心人物西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(維新の三傑)
主な出来事大政奉還、王政復古の大号令、廃藩置県、文明開化
最大の変化幕府による武士支配から天皇中心の近代国家へ

期間はいつからいつまで?ペリー来航から西南戦争まで

明治維新という言葉が指す期間については、歴史学者の間でも若干の違いがありますが、一般的には1853年のペリー来航から1877年の西南戦争終結までの約25年間を指すことが多いです。

1853年、アメリカからペリー提督率いる黒船が浦賀沖に現れたことで、260年以上続いた江戸幕府の平和な時代に亀裂が入りました。それまで鎖国政策を取っていた日本は、突如として世界という巨大な存在と向き合うことを余儀なくされたのです。

この衝撃的な出来事をきっかけに、幕府の権威が揺らぎ始め、やがて1867年の大政奉還、1868年の明治新政府樹立へとつながっていきます。しかし、新政府ができたからといって、すぐに改革が完了したわけではありません。

1877年、明治維新の最大の功労者である西郷隆盛が、不平士族を率いて新政府と戦った西南戦争で敗れて命を落とすことで、ようやく武士の時代が完全に終わりを告げました。この戦争の終結をもって、明治維新という激動の変革期が幕を閉じたと考えられています。


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一言でいうと何が変わったの?「将軍の国」から「天皇の国」へ

明治維新で最も大きく変わったのは、日本という国を誰が治めるのかという根本的な仕組みです。

江戸時代までは、徳川将軍家が実質的な権力を握り、全国の武士たちが支配階級として君臨していました。天皇は京都に住んでおり、形式的には日本のトップでしたが、実際の政治には関与していませんでした。これが約260年間続いた江戸幕府の体制です。

しかし明治維新によって、この構造が180度ひっくり返りました。徳川幕府が倒れ、天皇が政治の中心に返り咲いたのです。これを王政復古といいます。

さらに重要なのは、単なる権力者の交代だけではなく、国の仕組み全体が変わったことです。身分制度が廃止され、武士も農民も商人も平等な国民となりました。西洋の進んだ技術や文化を積極的に取り入れ、鉄道が走り、学校ができ、人々の服装や食べ物まで変わっていきました。

つまり明治維新とは、古い日本という家を一度解体して、最新の設備を備えた新しい家に建て替えるような、国全体の大改造プロジェクトだったのです。

なぜ「維新」というの?ボロボロの家をリフォームするイメージ

明治維新の維新という言葉には、古いものを改め、新しく生まれ変わるという意味があります。もともとは中国の古典に由来する言葉で、革命や改革といった意味合いを持っています。(明治維新が起こった当時、この改革は御一新〔ごいっしん〕と呼ばれました。何もかもを一新するという意味です。)

江戸時代は平和で文化的には豊かな時代でしたが、世界の動きから取り残され、軍事技術や産業の面では欧米諸国に大きく遅れを取っていました。ペリーの黒船が来た時、日本人はその圧倒的な技術力の差に愕然としたのです。

このままでは日本が欧米列強の植民地にされてしまうかもしれない。そんな危機感が、古い体制を壊して新しい国を作ろうという動きを加速させました。

維新という言葉には、単に政治体制が変わるだけでなく、日本人の精神や価値観、生活様式まで含めて全てを刷新するという強い決意が込められていたのです。ボロボロになった古い家を修理するのではなく、土台から作り直して最新の家に建て替える、そんなイメージが維新という言葉にはぴったりです。


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なぜ明治維新は起こったの?平和な江戸時代が終わった理由

きっかけ反応結果
黒船来航(1853年)幕府が開国を決定日本中に衝撃が走る
不平等条約締結武士たちが激怒尊王攘夷運動が高まる
薩長同盟(1866年)敵同士が手を組む倒幕の機運が一気に加速

1853年、ペリー来航の衝撃!黒船はまるで「宇宙船」だった?

1853年6月、神奈川県の浦賀沖に突如として4隻の巨大な軍艦が現れました。アメリカからやってきたペリー提督率いる艦隊、いわゆる黒船です。当時の日本人にとって、この光景は現代人がUFOを目撃したような衝撃でした。

当時の日本で最も大きな船といえば千石船と呼ばれる商船でしたが、全長は約20メートルから29メートル程度、排水量は150トンから200トンほどでした。一方、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号は全長約78メートル、排水量はなんと3824トンもあったのです。

つまり、重さで比較すると約19倍もの差があり、これは軽自動車と大型ダンプカーを比べるようなものです。しかも黒船は蒸気機関で動くため、風がなくても、風に逆らってでも、煙を吐きながら自由自在に海を進むことができました。

見たこともない巨大な鉄の塊が、黒煙を上げながら海を動き回る様子は、当時の人々には魔法か怪物のように見えたことでしょう。ある人は伊豆大島が動き出したようだと表現しました。

江戸の町では大パニックになり、家財道具をまとめて郊外へ避難しようとする人々で街道が混雑しました。瓦版では異人は鬼だ、角が生えている、口から火を吐くといったデマまで飛び交いました。

しかし江戸庶民のたくましさはすごいもので、数日経って直接攻撃がないとわかると、恐怖は好奇心へと変わっていきました。浦賀や横浜の海岸には一目黒船を見ようと野次馬が殺到し、臨時の茶屋まで出店するほどでした。艦隊が礼砲として空砲を撃った時も、最初はパニックになりましたが、実害がないとわかるとなんだ、アメリカの花火かと面白がる者まで現れたといいます。

不平等条約を結ばされた幕府への怒り「弱腰すぎるぞ!」

ペリーは日本に対して、鎖国をやめて貿易をするよう強く迫りました。幕府はアメリカの圧倒的な軍事力を前に、戦っても勝てないと判断し、1854年に日米和親条約を結んで国を開くことを決めました。

さらに1858年には日米修好通商条約を結びましたが、この条約は日本にとって非常に不利な内容でした。関税自主権がなく、外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けないという治外法権が認められていたのです。

これに対して、特に地方の武士たちは激怒しました。外国の言いなりになるなんて幕府は弱虫だ、日本という神の国が汚されると憤ったのです。

それまで260年以上、日本を支配してきた幕府への信頼は大きく揺らぎました。もはや幕府には日本を守る力はない、俺たちが立ち上がって新しい国を作らなければという機運が、日本中で高まっていったのです。


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「尊王攘夷」ってなに?流行語を解説

幕府の弱腰外交に怒った武士たちの間で、尊王攘夷というスローガンが大流行しました。尊王攘夷とは、尊王が天皇を敬い尊ぶこと、攘夷が外国人を打ち払うことを意味します。

つまり、もう幕府なんかに任せておけない、天皇を中心にみんなで団結して、外国人を追い出そうという考え方です。現代風に言えば、外国なんて怖いし嫌いだ、日本だけでやっていこうというチームでした。

特に長州藩や水戸藩の若い武士たちは、この尊王攘夷思想に燃え、実際に外国人を襲撃する事件まで起こしました。しかし実際に欧米列強と戦ってみると、あまりの軍事力の差に愕然とします。

1863年、長州藩が関門海峡を通る外国船を砲撃したところ、翌年、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊から徹底的に反撃され、完膚なきまでに叩きのめされました。この下関戦争の敗北により、長州藩は攘夷が現実的ではないことを痛感します。

こうして尊王攘夷のスローガンは、外国を追い払うのではなく、外国の進んだ技術を取り入れて日本を強くしようという方向へと変化していきました。天皇を中心にして新しい国を作るという尊王の部分は残しつつ、現実的な路線へとシフトしたのです。


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薩長同盟のドラマ!犬猿の仲だった薩摩と長州が手を組んだ裏話

幕府を倒すためには、強力な軍事力を持つ藩同士が協力する必要がありました。そこで注目されたのが、西日本の二大雄藩である薩摩藩と長州藩です。

しかし、この二つの藩は犬猿の仲でした。1864年の禁門の変で、長州藩は京都で武力クーデターを起こしましたが、薩摩藩はこれを鎮圧する側に回り、長州兵を徹底的に打ち負かしました。長州藩の人々にとって薩摩は憎き仇敵だったのです。

そんな二つの藩を結びつけたのが、土佐藩出身の坂本龍馬と中岡慎太郎でした。龍馬は薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の間を何度も行き来し、粘り強く説得を続けました。

1866年1月、ついに京都の薩摩藩邸で、西郷隆盛と桂小五郎が会談し、薩長同盟が成立しました。しかしこの同盟は口約束だったため、長州側の桂は薩摩が裏切るのではないかと不安で仕方ありませんでした。

そこで桂は、会談後に同盟の内容を6カ条にまとめて坂本龍馬に送り、第三者であるあなたが証人になってくれと依頼しました。龍馬はこの手紙の裏面に、朱色の筆で内容に少しの間違いもありませんと書き込み、署名して返送しました。これを裏書きといいます。

この龍馬の裏書きがあることで、薩長同盟は単なる二者間の密約から、第三者の保証がある強固な盟約へと変わりました。もしこの行動がなければ、長州の疑心暗鬼は晴れず、同盟は崩壊していたかもしれません。

こうして宿敵同士が手を組んだことで、倒幕の動きは一気に加速していくことになります。


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明治維新の流れを解説!幕府が倒れて新政府ができるまで

出来事意味
1867年大政奉還徳川慶喜が政権を朝廷に返上
1868年1月王政復古の大号令天皇中心の新政府樹立を宣言
1868年1月鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍と新政府軍の内戦開始
1868年4月江戸城無血開城戦争せずに江戸城を明け渡す
1869年5月函館戦争終結戊辰戦争が完全に終わる

大政奉還!徳川慶喜が政権を返した驚きの理由

薩長同盟が成立し、いよいよ幕府を武力で倒そうという機運が高まっていた1867年10月、歴史的な出来事が起こりました。江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が、政権を朝廷に返上すると宣言したのです。これが大政奉還です。

260年以上続いた徳川家の支配を、自分から終わらせるという驚くべき決断でした。なぜ慶喜はこのような選択をしたのでしょうか。

慶喜は非常に頭の良い人物で、このまま薩摩や長州と戦争をすれば、日本国内で争っている間に欧米列強に付け込まれて、日本全体が植民地にされてしまうかもしれないと考えました。それならば、自分から政権を返上することで、戦争を避け、しかも徳川家の影響力をある程度残せるのではないかと計算したのです。

実際、慶喜は政権を返したとはいえ、新しい政治体制の中で自分が重要な位置を占めることができると考えていました。しかし薩摩や長州はそれを許しませんでした。

幕府内では、特に旗本や会津藩などの強硬派から猛烈な反対がありました。薩長と戦うべきだという主戦論が渦巻く中、慶喜は国際的な視点から、断腸の思いで決断を下したのです。

王政復古の大号令!「今日から天皇が政治をします」宣言

大政奉還の約2カ月後、1867年12月9日、薩摩藩や長州藩を中心とする勢力は、京都御所でクーデターを決行しました。これが王政復古の大号令です。

明治天皇の名のもとに、今日から幕府は廃止する、摂政や関白という役職も廃止する、天皇が直接政治を行う新しい政府を作ると宣言しました。総裁、議定、参与という新しい役職を設け、薩摩や長州、公家の有力者たちがこれに就きました。

さらに、徳川慶喜に対して、領地と官位をすべて返上するよう要求しました。これは事実上、徳川家を政治の世界から完全に排除するという強硬な姿勢です。

慶喜は、自分から政権を返したのに、ここまで追い詰められるとは思っていなかったでしょう。この要求に、旧幕府側の武士たちは激怒し、ついに武力衝突が避けられない状況になっていきました。


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戊辰戦争の勃発!鳥羽・伏見の戦いから函館まで

1868年1月、京都の鳥羽・伏見で、旧幕府軍と新政府軍が激突しました。これが戊辰戦争の始まりです。戊辰とは、この年の干支が戊辰だったことに由来します。

旧幕府軍は兵力では新政府軍を上回っていましたが、新政府軍は最新の洋式軍備を整えており、さらに錦の御旗という天皇の旗を掲げたことで、戦いは官軍対賊軍という構図になりました。

旧幕府軍の士気は下がり、鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わりました。徳川慶喜は大阪城から軍艦で江戸へ逃げ帰り、事実上の敗北を喫しました。

その後、戦火は東へと広がり、江戸城の開城、上野戦争、会津戦争と続き、最後は榎本武揚率いる旧幕府海軍が蝦夷地に渡って樹立した蝦夷共和国が、1869年5月の函館戦争で降伏するまで、約1年半にわたる内戦が続きました。


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勝海舟と西郷隆盛の会談!江戸城無血開城という奇跡

鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、新政府軍は江戸へと進軍してきました。このままでは江戸の町が戦場になり、多くの人々が犠牲になってしまいます。

これを避けるため、旧幕府側の代表として勝海舟が、新政府軍の代表である西郷隆盛と会談することになりました。1868年3月、江戸の薩摩藩邸で二人は向き合いました。

勝海舟は西郷に対して、江戸を火の海にすれば、諸外国が介入してきて日本全体が植民地になってしまうと訴えました。また、将軍慶喜は恭順の意を示しているのだから、戦う必要はないはずだと説得しました。

西郷隆盛もまた、相手がそこまで言うならと、勝海舟の誠意と人物の大きさを信じて、江戸総攻撃の中止を決断しました。こうして江戸城は戦わずに新政府軍に明け渡されることになり、江戸の町と100万人とも言われる江戸市民の命が救われたのです。

これが江戸城無血開城と呼ばれる奇跡です。二人の会談は、論理と情が高度に融合した、日本的な交渉の極致でした。


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明治維新の人物伝!活躍したヒーローたちの意外なエピソード

人物出身藩主な功績意外な一面
西郷隆盛薩摩藩江戸無血開城の実現無類の犬好き、10匹以上飼育
大久保利通薩摩藩明治政府の政治基盤確立暗殺時に西郷の手紙を所持
木戸孝允長州藩薩長同盟の締結剣豪だが無用な戦いを避けた
坂本龍馬土佐藩薩長同盟の仲介新婚旅行の元祖とも言われる

西郷隆盛|犬好きで涙もろい「ラストサムライ」の素顔

上野・西郷隆盛像
引用元「Wikipediaコモンズ」より

上野公園の西郷さんの銅像でおなじみの西郷隆盛は、身長180センチ近く、体重100キログラムを超える巨漢でした。その威厳ある外見とは裏腹に、非常に人情味あふれる人物で、西郷さんのためなら死ねると多くの部下が心酔しました。

西郷の最大の特徴は、無類の犬好きだったことです。多い時には自宅に10匹以上の猟犬を飼っており、愛犬を連れて山野を駆け回るウサギ狩りに没頭しました。これは激務とストレスに晒される彼にとって、唯一心休まる時間でした。

有名な愛犬ツンは、薩摩犬のメスで、ピンと立った耳と左尾が特徴のウサギ狩りの名手でした。もともとは別の人が飼っていましたが、西郷が一目惚れして執拗に交渉し、地元の有力者を介してようやく譲り受けたといいます。上野の銅像の犬はツンがモデルとされています。

西郷の人格形成において決定的だったのが、二度目の流刑地である沖永良部島での体験です。西郷は重罪人として吹きさらしの格子牢に入れられ、わずか2坪ほどの広さで、壁もなく風雨や直射日光、虫害に晒される過酷な環境でした。

しかし島の役人土持政照が、西郷の人柄と衰弱ぶりを見て独断で待遇改善を決意し、私財を投じて座敷牢を作りました。健康を取り戻した西郷は、牢の中から島の子供たちに読み書きや論語を教え、飢饉に備えるための社倉法を提案して島民の生活向上に尽力しました。

この民と共に苦しみ、民を救うという原体験が、後の敬天愛人の思想、そして西南戦争における士族への同情へとつながっていきます。

大久保利通|冷徹に見えて実は熱い「建国の父」

大久保利通
引用元「Wikipediaコモンズ」より

西郷隆盛と同じ薩摩藩の幼馴染でありながら、性格は正反対だったのが大久保利通です。西郷が情の人なら、大久保は理の人、つまり冷静沈着な鉄の男でした。

明治維新後、大久保は政府のトップとして次々と新しい法律や制度を作り上げ、今の日本の政治の基礎を築きました。あまりに厳格で仕事熱心だったため、周りからは恐れられていましたが、実は誰よりも日本の将来を真剣に考えていた人物です。

1878年5月14日、大久保は紀尾井坂で不平士族らによって暗殺されました。享年49歳でした。暗殺された際、大久保は懐に一通の手紙を忍ばせていました。それは、敵として戦い自害に追い込んだはずの西郷隆盛からの手紙でした。

この手紙は、西南戦争のずっと前、大久保が欧米視察中に西郷から送られたもので、日本の留守を預かる西郷が洋行中の大久保を気遣い、大久保の送ってきた写真を醜体と冗談交じりにからかうような、二人の仲の良さが滲み出る内容でした。「美男子とはいえないのだから、写真を撮影するなんて、そんなことはもうおやめなさい」。自らの写真を自慢げに送ってくる弟のような大久保を、冗談まじりに叱る優しい西郷からの愛情溢れる手紙。そんな手紙を、大久保は暗殺される直前まで、馬車の中で読んでいたのです。

大久保は、西郷を討った後も、精神的には西郷を求め続けていました。冷酷な政治的決断の裏で、彼はかつての無二の親友の言葉を肌身離さず持ち歩くことで、精神の均衡を保っていたのかもしれません。

暗殺当日の朝、大久保は福島県令に対し、ようやく戦乱も収まった、これからは平和な時代だ、私はあと10年かけて日本の基礎を完成させたいと熱っぽく語っていました。これが彼の実質的な遺言となりました。


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木戸孝允|「逃げの小五郎」と呼ばれた慎重派の知恵袋

桂小五郎(木戸孝允)
引用元「Wikipediaコモンズ」より

維新の三傑の中で最も精神的に繊細だったのが木戸孝允、もとの名前は桂小五郎です。逃げの小五郎という異名で知られていますが、これは彼の臆病さではなく、徹底したリアリズムと責任感の表れでした。

桂小五郎は、江戸の練兵館で塾頭を務めたほどの神道無念流の達人であり、近藤勇も一目置くほどの実力者でした。吉田松陰からも事をなすの才ありと評価されていました。

ではなぜ逃げたのかというと、池田屋事件などで多くの同志が死ぬ中、彼は自分が死ねば長州藩のパイプ役がいなくなると判断し、変装や潜伏を繰り返して生き延びたのです。乞食に変装したり、橋の下に隠れたりといったエピソードは、プライドよりも目的遂行を優先した彼の合理性を示しています。

新政府樹立後、木戸は薩摩の西郷や大久保と長州、そして公家たちの間の調整に奔走しました。特に、豪快で感覚的な西郷と、論理的で冷徹な大久保の間に入り、緩衝材となることは極度のストレスでした。

彼の日記には、終わりのない会議、派閥争い、思い通りにいかない政治への嘆きが頻繁に記されています。歯が痛い、眠れない、胸が苦しいといった心身の不調を訴える記述も多く、現代で言ううつに近い状態に陥っていた時期もありました。彼は英雄である以前に、中間管理職的な苦労を背負い込んだ生真面目な人間だったのです。

坂本龍馬|日本を洗濯したかった自由人の功績

坂本龍馬の像
引用元「Wikipediaコモンズ」より

坂本龍馬は土佐藩出身の志士で、薩長同盟の仲介役として歴史的な役割を果たしました。脱藩して自由な立場で活動し、貿易会社である亀山社中を設立するなど、武士という枠にとらわれない発想を持っていました。

龍馬は、日本を今一度洗濯いたし申し候という有名な言葉を残しています。これは、古い日本をきれいさっぱり洗い直して、新しい国に生まれ変わらせたいという彼の理想を表しています。

また、龍馬は新婚旅行の元祖とも言われています。妻のお龍を連れて薩摩の霧島温泉を訪れたことが、日本初の新婚旅行とされています。当時の常識にとらわれない自由な発想の持ち主でした。

しかし、1867年11月、京都の近江屋で何者かに襲撃され、わずか33歳の若さで暗殺されました。新しい日本を見ることなく世を去った龍馬ですが、その功績は今も多くの人々に語り継がれています。


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明治維新の内容とは?「五箇条の御誓文」から始まった国づくり

改革内容影響
五箇条の御誓文1868年新国家の基本方針を宣言議会制民主主義の基礎
版籍奉還1869年大名が土地と人民を返上中央集権への第一歩
廃藩置県1871年藩を廃止して県を設置全国統一の行政体制確立
四民平等1871年身分制度の廃止武士の特権消滅

五箇条の御誓文|「みんなで話し合おう」という新しい約束

1868年3月、明治天皇が神々に誓うという形で、新しい国の基本方針が発表されました。これが五箇条の御誓文です。内容は難しい言葉で書かれていますが、小学生向けに簡単に言うとこうなります。

第一条は、会議を開いて、みんなの意見を聞いて政治を決めようというものです。これは後の議会制度につながる重要な考え方で、それまでの将軍様の命令は絶対という政治から大きく変わりました。

第二条は、身分に関係なく、みんなで心を合わせて国を治めようという内容です。武士だけでなく、農民も商人も、みんなで力を合わせて国を良くしていこうという呼びかけです。

第三条は、偉い人だけでなく、一般の人もやりたいことができるようにしようというものです。身分に縛られず、自分の夢を追いかけられる社会を目指すという宣言でした。

第四条は、外国の進んだ文明を取り入れようという方針です。古い習慣にこだわらず、良いものは積極的に学ぼうという姿勢を示しました。

第五条は、世界中の知識を学んで、天皇の国を強くしようという決意表明です。これらの内容は、当時の日本人にとっては信じられないほど画期的なものでした。

版籍奉還|土地と人民を国に返させた第一歩

1869年、明治新政府は版籍奉還を行いました。版とは土地、籍とは人民の戸籍のことで、大名たちに自分の領地と領民を天皇にお返ししなさいと命じたのです。

江戸時代、各藩は独立した王国のようなもので、大名は自分の領地を自由に支配していました。しかしこれでは、日本を一つの国としてまとめることができません。

版籍奉還によって、形式的にはすべての土地と人民が天皇のものになりました。ただし、この段階ではまだ元の大名がその土地の知藩事という役職に就いて、実質的には以前と変わらない支配を続けていました。つまり、これは完全な中央集権化への第一歩に過ぎなかったのです。

廃藩置県の衝撃!お殿様が全員クビになった日

版籍奉還から2年後の1871年、明治政府はさらに大胆な改革を断行しました。廃藩置県です。これは、全国の藩を一斉に廃止して、代わりに県を設置するという徹底的な改革でした。

政府は全国のお殿様を東京に呼び集め、いきなりこう告げました。今日から藩を廃止して県にします、あなたたちはもうお殿様ではありません、領地を国に返しなさいと。

これは、お殿様からすれば明日から社長じゃないです、会社は国のものにしますと言われたようなものです。普通なら暴動が起きそうですが、なぜ大名たちは大規模な反乱を起こさなかったのでしょうか。

最大の理由は借金です。江戸時代を通じて、ほとんどの藩は参勤交代や幕府への手伝い普請、飢饉対応などで巨額の借金を抱えていました。例えば米沢藩では、借金総額が20万両、現在の価値で数百億円規模に達し、利子の支払いだけで財政がパンク状態でした。

新政府は廃藩置県に際し、藩の借金は政府が肩代わりして処分する、あるいは棒引きにするという条件を提示しました。さらに、大名たちは知藩事を解任された後も、東京に住む華族としての地位が保証され、働かなくても高額な給与が支給されることになりました。

大名たちにとって、廃藩置県は領地没収の屈辱である以上に、借金地獄と藩政の責任から解放され、優雅な貴族生活に入れる救済措置でした。これが、無血で革命が遂行された経済的な裏事情です。

また、政府は事前に西郷隆盛たちが率いる強力な軍隊、御親兵を準備して、逆らうなら叩き潰すぞという構えを見せていました。こうして260以上あった藩はなくなり、政府が派遣した知事が治める県になったのです。

四民平等|「士農工商」がなくなって武士が大ピンチ?

明治政府は四民平等の方針を打ち出しました。江戸時代には士農工商という厳しい身分制度があり、武士は一番偉い身分として、名字を名乗ったり刀を差したりする特権を持っていました。

しかし四民平等によって、これらの特権がすべて奪われてしまいました。農民や町人も名字を名乗ってよくなり、武士も商売をしてよくなりました。さらに1876年には廃刀令が出され、刀を持ち歩くことが禁止されました。

また、散髪脱刀令によって、ちょんまげを切って自由な髪型にしてもよくなりました。国民みんなが平等になるというのは素晴らしいことですが、特権を奪われた武士たちはたまったものではありません。

さらに追い打ちをかけたのが、1876年の秩禄処分です。これは武士が毎年もらっていた給料を廃止し、代わりに退職金代わりの金禄公債証書を渡すというものでした。武士たちは突然失業し、自力で生計を立てることを余儀なくされました。

長年、商行為は卑しいと教え込まれてきた武士たちには、商売のノウハウが皆無でした。客に対して売ってやる、食わせてやるという横柄な態度を取ったり、騙されて財産を失ったりする者が続出しました。これを士族の商法といい、急に慣れないことをして失敗することの代名詞となりました。


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明治維新で変わったこと【生活編】文明開化で暮らしはどうなった?

変化江戸時代明治時代
髪型ちょんまげザンギリ頭(短髪)
服装着物・袴洋服・ドレス
食べ物肉食はタブー牛鍋が流行
移動手段徒歩・馬・船鉄道・人力車
教育寺子屋(一部の人)小学校(全員)

チョンマゲ禁止!「散髪脱刀令」でザンギリ頭が流行の最先端

1871年に出された散髪脱刀令は、髪型を自由にしてよい、刀を持たなくてもよいという許可でしたが、これがちょんまげ廃止を一気に加速させました。

半髪頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする、ザンギリ頭を叩いてみれば、文明開化の音がするという歌が流行しました。ちょんまげを切った短髪がザンギリと呼ばれ、これが進歩的であるとされたのです。

しかし、地方や保守的な人々、特に一部の士族は、髷は武士の魂として断固拒否しました。髪型一つを取っても、新しい時代への適応と、古い価値観を守りたいという葛藤が表れていました。

街には洋服を着てステッキを持った男性や、ドレスを着た女性が少しずつ増えていきました。ただし、庶民の間では依然として着物が主流で、洋服は一部の富裕層やハイカラさんと呼ばれる人々のものでした。

食文化の変化!「牛鍋」を食べないと時代遅れ?

江戸時代まで、日本人は仏教の影響などで、牛や馬の肉を食べる習慣がほとんどありませんでした。しかし明治時代になると、西洋人は肉を食べるから体が大きいんだということで、牛肉を食べることが奨励されました。

流行したのが牛鍋、今のすき焼きのような料理です。牛鍋を食わねば開化不進奴なんて言われ、肉を食べることが文明人の証とされました。

明治初期の牛鍋屋の価格は、並で5銭から7銭、上等で15銭程度でした。当時の小学校教員の初任給が月8円から9円だったので、1銭は現在の約200円に相当します。つまり、牛鍋の並が約1000円、上等が約3000円ということになります。

庶民にとって、牛鍋は一生手が出ない超高級品ではありませんでしたが、給料日などの特別な日に奮発して食べるご馳走でした。新聞や広告には、肉を食べないと野蛮人、養生に良いといった煽り文句が並び、肉を食べることは味を楽しむ以上に、文明の仲間入りをする儀式としての意味合いが強かったのです。


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鉄道の開通|東京〜横浜間を陸蒸気が走った

1872年、新橋と横浜の間に日本で初めての鉄道が開通しました。陸蒸気と呼ばれた蒸気機関車が、煙を上げて走る姿に、人々は度肝を抜かれました。

新橋から横浜までの約29キロメートルを、わずか53分で結びました。それまで徒歩で丸一日かかっていた距離が、1時間足らずになる衝撃は計り知れません。

しかし運賃は非常に高く、開業時の料金は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘でした。下等の片道運賃ですら、現在の価値で約7500円に相当し、庶民にとっては一生に一度の記念乗車に近い感覚でした。

新しいテクノロジーには誤解がつきものです。日本人は家や座敷に上がる際に履物を脱ぐ習慣があったため、駅のホームで靴や下駄を脱いで丁寧に揃え、そのまま列車に乗り込んでしまう人が続出しました。到着駅で降りた時、自分の靴がないことに気づき途方に暮れる乗客や、発車後のホームに点々と残された履物の列は、明治初期の笑い話として語り継がれています。

また、当時の客車にはトイレがない、あるいは使い方が周知されていない場合があり、我慢できなくなった乗客が走行中の窓から用を足そうとして罰金を科されるケースもありました。


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学校制度のスタート|ランドセルの原点はここにある

1872年、学制が定められ、身分に関係なく、すべての子どもが小学校に通うことになりました。勉強は一部の偉い人だけのものではなく、国民みんなが知識をつけて国を豊かにしようという考えです。

江戸時代にも寺子屋という教育施設はありましたが、学ぶ内容も通う期間もバラバラでした。明治政府は、全国どこでも同じ内容を学べる統一された学校制度を作りました。

ただし、当初は授業料が必要だったため、貧しい家庭の子どもは通えないことも多く、また農村では子どもは貴重な労働力だったため、学校なんかに行かせるより畑仕事を手伝わせろという反発もありました。

それでも政府は教育の重要性を訴え続け、次第に就学率は上がっていきました。ランドセルを背負って学校に通う今のスタイルの原点が、ここにあるのです。


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富国強兵と殖産興業|世界に負けない強い国を目指して

政策目的具体的な施策
富国強兵国力を高め軍事力を強化徴兵令、地租改正
殖産興業産業を発展させる富岡製糸場、官営工場の設立

富国強兵とは?国を豊かにして軍隊を強くする

明治政府が目指した最終ゴールは、欧米の列強に負けない国を作ることでした。そのためのスローガンが富国強兵です。

富国強兵とは、国を豊かにして、強い軍隊を持つという意味です。日本が植民地にされないためには、経済力と軍事力の両方を高める必要がありました。

そのために行われたのが、徴兵令や地租改正といった改革です。これらの政策によって、政府は安定した収入を得て、近代的な軍隊を作ることができました。

徴兵令|農家の次男坊も兵隊さんになる義務

1873年、徴兵令が出されました。これは、満20歳以上の男子は、身分に関係なく兵隊になる義務があるという法律です。

江戸時代まで、戦うのは武士だけの仕事でした。しかし徴兵令によって、農民も商人の息子も、みんな兵隊になることになりました。これは武士の特権を奪うと同時に、国民全員が国を守る責任を持つという考え方の転換でした。

ただし、当初は免除規定が多く、官吏、学生、戸主の長男、代人料270円を払える者などは兵役を免除されました。そのため、貧しい農家の次男坊や三男坊ばかりが兵隊に取られるという不公平感があり、各地で徴兵反対一揆が起こりました。

政府は次第に免除規定を減らし、より公平な制度へと改善していきました。こうして作られた国民軍が、後の日清戦争や日露戦争で活躍することになります。


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地租改正|お米ではなく「現金」で税金を払う仕組み

1873年、地租改正が行われました。これは税金の仕組みを根本から変える大改革でした。

江戸時代まで、農民は収穫した米の一部を年貢として納めていました。しかし、これでは豊作の年と凶作の年で税収が大きく変動してしまいます。

地租改正では、まず土地の持ち主に地券を発行し、土地の価格を決めました。そして、その土地の価格の3パーセントを、現金で税金として納めさせることにしたのです。

これにより、政府は豊作凶作に関係なく、安定した収入を得ることができるようになりました。また、農民にとっても、前もって税額がわかるというメリットがありました。

ただし、実際の税負担は江戸時代とあまり変わらず、むしろ現金で納めなければならなくなったことで、米を売って現金を用意する必要が生じ、農民の負担は重いままでした。このため、地租改正反対一揆も各地で起こりました。

殖産興業|富岡製糸場で日本の絹を世界へ

富国強兵と並ぶもう一つの重要政策が殖産興業です。これは、産業を起こして国を豊かにしようという方針です。

政府は、欧米の進んだ技術を導入するため、外国人技術者を高給で雇い、官営工場を次々と建設しました。その代表例が、1872年に群馬県に作られた富岡製糸場です。

富岡製糸場は、フランスの技術を導入した最新鋭の製糸工場で、高品質な生糸を大量生産することができました。当時、生糸は日本の主要な輸出品であり、外貨を稼ぐ重要な産業でした。

工場では、全国から集められた若い女性たちが働きました。彼女たちは工女と呼ばれ、厳しい労働環境の中で技術を学び、故郷に帰って地元の製糸業に技術を伝えました。

政府はこうした官営工場で技術を蓄積した後、民間に払い下げ、産業の発展を促しました。こうして日本は急速に工業化を進め、アジアで最初の近代国家へと成長していったのです。


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明治維新のメリットとデメリット|光と影を考えよう

メリットデメリット
植民地化を免れた
近代国家として発展
身分制度の撤廃
教育の普及
産業の発展
武士階級の没落
士族の反乱と内戦
急激な変化への混乱
庶民の重税負担
伝統文化の軽視

【メリット】アジアでいち早く「近代国家」になれたこと

明治維新の最大のメリットは、日本がアジアで唯一、欧米列強による植民地支配を免れ、逆に近代国家として発展できたことです。

19世紀、アジアやアフリカの多くの国々が欧米列強の植民地にされていきました。インドはイギリスに、インドネシアはオランダに、ベトナムはフランスに支配されました。中国も半植民地状態に陥りました。

しかし日本は、明治維新によって迅速に近代化を進め、欧米と対等に渡り合える国力をつけることに成功しました。わずか数十年で、憲法を制定し、議会を開設し、産業を発展させ、強力な軍隊を持つ国へと変貌したのです。

1894年の日清戦争、1904年の日露戦争での勝利は、有色人種の国が白人の大国に勝利した歴史的な出来事として、世界中に衝撃を与えました。明治維新がなければ、日本もまた植民地になっていたかもしれません。

【メリット】身分制度がなくなり、努力次第で活躍できる社会へ

明治維新によって、士農工商という身分制度が廃止され、すべての国民が法の下に平等になりました。これは日本の歴史において革命的な変化でした。

江戸時代には、農民の子は農民、商人の子は商人というように、生まれた家によって人生が決まっていました。どんなに才能があっても、身分の壁を越えることはできませんでした。

しかし明治時代になると、努力次第で誰でも立身出世できる社会になりました。貧しい農家の出身でも、勉強すれば官僚になれる、商売で成功すれば大実業家になれる、そんな可能性が開かれたのです。

また、すべての子どもが学校に通えるようになったことで、教育の機会が大きく広がりました。知識を得ることが一部の特権階級だけのものではなくなり、国民全体の教育水準が向上していきました。


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【デメリット】特権を奪われた武士の不満と士族の反乱

しかし、明治維新には大きな犠牲も伴いました。最も深刻だったのが、武士階級の没落です。

明治維新は武士たちが起こした革命でしたが、皮肉なことに、その結果として武士階級そのものが消滅してしまいました。廃刀令によって刀を奪われ、秩禄処分によって給料を失い、徴兵令によって戦うという特権も失いました。

経済的にも精神的にも居場所を失った士族たちの不満は爆発し、各地で反乱が起こりました。1874年の佐賀の乱、1876年の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱といった士族反乱が相次ぎました。

彼らは新しい時代に居場所を見つけられず、死に場所を求めて暴発していったのです。明治維新の光の裏には、こうした人々の悲劇が隠されています。

【デメリット】西南戦争の悲劇|なぜ西郷隆盛は政府と戦ったのか

士族の不満が最高潮に達したのが、1877年の西南戦争です。そして皮肉なことに、この反乱の中心人物となったのが、明治維新最大の功労者である西郷隆盛でした。

西郷は明治政府の中枢にいましたが、征韓論をめぐって大久保利通らと対立し、1873年に政府を去って鹿児島に帰っていました。鹿児島で私学校を作り、不満を持つ士族たちの教育に当たっていました。

1877年、私学校の生徒たちが政府の火薬庫を襲撃してしまいました。報告を聞いた西郷は、ちょしもた、しまったと叫んだと言われます。西郷は戦争を望んでいませんでしたが、愛する弟子たちが暴発してしまった以上、彼らを見捨てて自分だけ助かることはできませんでした。

西郷は覚悟を決め、おいの身体は、お前達に差し上げもんそ、私の命をお前たちにあげようと宣言し、全軍の指揮を執りました。

半年に及ぶ激戦の末、鹿児島の城山で追い詰められた西郷は、腹部に被弾し、別府晋介に晋どん、もうここらでよかと告げて静かに自刃しました。享年51歳でした。

死後、西郷の遺体を確認した政府軍の指揮官たちは、かつての英雄の変わり果てた姿に涙し、敬礼して弔ったといいます。明治維新の最大の功労者が、維新によって居場所をなくした人々と共に戦い、そして敗れて亡くなることで、明治維新という革命は本当の意味で終わりを迎えたのです。


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明治維新の年表|主な出来事を整理してみよう

明治維新の主な出来事を時系列で整理すると、日本がどのように変化していったのかがよくわかります。小学生がテストで覚えるべきポイントも含めて、重要な年と出来事をまとめました。

出来事ポイント
1853年ペリー来航黒船が浦賀に現れ、開国を迫る
1858年日米修好通商条約不平等条約で幕府への不満高まる
1866年薩長同盟坂本龍馬の仲介で敵同士が手を組む
1867年大政奉還徳川慶喜が政権を朝廷に返上
1868年王政復古の大号令明治新政府が樹立
1868年五箇条の御誓文新しい国の方針を発表
1868年江戸城無血開城西郷と勝の会談で戦争回避
1869年版籍奉還大名が土地と人民を返上
1871年廃藩置県藩を廃止して県を設置
1872年学制公布全国に小学校ができる
1872年鉄道開業新橋〜横浜間で日本初の鉄道
1873年徴兵令国民皆兵制度の始まり
1873年地租改正税金を現金で納める制度へ
1876年廃刀令刀を持つことが禁止される
1877年西南戦争西郷隆盛が敗れ、明治維新が終わる

特に重要なのは、1853年のペリー来航、1867年の大政奉還、1868年の明治新政府樹立、1871年の廃藩置県、1877年の西南戦争です。これらの出来事と年号は、テストでもよく出題されるので、しっかり覚えておきましょう。


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明治維新が今の日本を作った!先人たちの努力と犠牲を知ろう

  • 明治維新は1853年のペリー来航から1877年の西南戦争終結までの約25年間の大変革
  • 黒船の圧倒的な大きさと技術力が日本人に危機感を与え改革のきっかけとなった
  • 幕府の弱腰外交に怒った武士たちが尊王攘夷を掲げて立ち上がった
  • 犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結んだ
  • 徳川慶喜が大政奉還で政権を返上し260年続いた江戸幕府が終わった
  • 西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城無血開城という奇跡が起きた
  • 維新の三傑である西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允がそれぞれ重要な役割を果たした
  • 五箇条の御誓文で新しい国の方針が示され議会制民主主義の基礎ができた
  • 廃藩置県によって全国の藩が廃止され中央集権的な近代国家の体制が整った
  • 四民平等で身分制度が廃止され努力次第で誰でも活躍できる社会になった
  • 文明開化でちょんまげを切り洋服を着て牛鍋を食べる生活様式が広がった
  • 1872年に新橋と横浜の間で日本初の鉄道が開通し移動時間が劇的に短縮された
  • 学制の公布により身分に関係なくすべての子どもが学校に通えるようになった
  • 富国強兵と殖産興業の政策で徴兵令や地租改正が行われ近代的な軍隊と財政基盤ができた
  • 富岡製糸場など官営工場が作られ日本の産業が急速に発展した
  • 明治維新によって日本はアジアで唯一植民地化を免れ近代国家として発展できた
  • 一方で武士階級が没落し特権を奪われた士族たちの不満から各地で反乱が起きた
  • 西郷隆盛が西南戦争で敗れて命を落としたことで明治維新は完全に終わりを迎えた
  • 明治維新には光と影の両面があり多くの犠牲の上に今の日本ができている
  • 先人たちの努力と決断そして苦悩を知ることで歴史をより深く理解できる

明治維新は、日本が生き残るために必死で自己変革を遂げた、まさにサバイバルの記録です。今の私たちの暮らし、学校制度、鉄道、洋服、肉を食べる食文化、すべての基礎がこの時代に作られました。歴史を学ぶことは、過去を知るだけでなく、今の自分たちがどこから来たのかを理解することでもあります。明治維新という激動の時代を生きた人々の物語を、ぜひ心に刻んでください。

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