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島津久光の生涯・最期と家系図を調査!子孫は皇室に繋がっている?

幕末最高の名君「島津斉彬」の弟「島津久光」について、その「生涯」と「最期」、「子孫と家系図」をわかりやすく解説いたします。

「明治維新を成し遂げた薩摩藩のリーダー」

「西郷隆盛・大久保利通を最後まで困らせたお殿様」

子孫は現在の「皇室」にまでつながっていた!


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歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

拙者は当サイトを運営している「元・落武者」と申す者・・・。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・島津久光は、兄・島津斉彬の意思を継いで「卒兵上京」を行い、幕政改革を実現した

・久光は、優秀な兄「斉彬」の弟に産まれ、最期は廃藩置県で権力も地位も失った

・久光から現在の「天皇陛下」まで、血筋を残している。つまり天皇陛下は、島津久光の子孫


島津久光の功績!幕府崩壊のきっかけを作った?

島津久光

11代薩摩藩主「島津斉彬」の弟にして、12代薩摩藩主「島津忠義(茂久)」の父

島津久光
『引用元ウィキペディアより』

倒幕を成し遂げた幕末の雄藩「薩摩藩」の実権を握っていた久光

その功績を簡単に解説いたします。

「島津久光」の功績

島津久光の功績を、短く表現すると以下の通り

・兄・斉彬の遺志を継ぎ、兵を率いて上京し、幕政改革を実現

・「討幕の密勅」を朝廷から引き出し、戊辰戦争で倒幕を実現

名君であった兄「斉彬」の遺志を継いだ久光でしたが、西郷隆盛とは折り合いが悪く、仲違いを繰り返していました。



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久光の生涯!日の当たらぬ宿命と、不遇な最期

島津久光の生涯と最期をご紹介いたします。

生い立ち

島津久光

1817年、薩摩藩主「島津斉興」と側室「お由羅」の息子として誕生。異母兄に「島津斉彬」

1818年、種子島久道の養子となるが、1825年に養子縁組をなかったこととし、島津家へ戻る。理由は父・斉興の「思うところあり」ということらしいが、実際には嫡男「斉彬」を廃嫡して、久光を後継者にしようとしたのでしょう。

同年、従兄弟「千百子」と結婚

1828年、元服(成人)

お由羅騒動と兄「斉彬」の死

父・斉興の後継者争い「お由羅騒動」が勃発

「弟・久光を推す一派」と「兄・斉彬を推す一派」が対立し、「斉彬派」が久光と「お由羅」の暗殺を企てた為、斉彬一派は次々と処分されました。

しかし、将軍「徳川家慶」や、老中「阿部正弘」の介入により、1851年に「島津斉興」が隠居

久光の異母兄「斉彬」が、薩摩藩主に就任。

次々と藩政改革を薦める「斉彬」・・・しかし・・・。

1858年、兄・島津斉彬が急死。

久光が暗殺した・・・という噂もありましたが、斉彬と久光の関係は、極めて良好だったとも言われています。

どうやら西郷は、斉彬暗殺の真相を知っていたみたいですが・・・詳しくは以下のリンク記事をお役立てくださいませ。



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国父として

1858年、斉彬の後継者として「久光」の息子「茂久(忠義)」が、12代薩摩藩主に就任。

翌年、藩の実権を握っていた父「斉興」が他界。

久光は、藩主である幼い息子の後見人として、実権を掌握

「国父」と呼ばれるようになります。

小松帯刀大久保利通を重用し、幕府におわれて奄美大島に隠れていた「西郷隆盛」を呼び戻しました。

しかし西郷は、「久光」を嫌っていたらしく、西郷と久光は、関係が悪化。

野心家だった「久光」は、兄「斉彬」が計画していた「率兵上京(そっぺいじょうきょう)」・・つまり「兵を率いて京都へ進軍して幕府に圧力をかけ、幕政改革を迫る」という計画を実行に移そうとします。



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率兵上京(そっぺいじょうきょう)

1862年、久光は「率兵上京」を強行。

下関へ先発し、待機せよ・・・と命じられた西郷隆盛は、大坂の薩摩藩士が「暴発寸前」であるという情報を得て、命令違反覚悟で大坂へ

西郷は後にこの罪を問われ、「流罪」となっています。

久光の命令で、「大山綱良」たちが、京都の過激派・薩摩藩士たちを処分・・・有馬新七たちが亡くなります。(寺田屋事件

上京した久光は、江戸へ進軍

幕政改革に成功し、「一橋慶喜」が「将軍後見職」に・・・・・「松平春嶽」が「政治総裁職」に就任。(文久の改革)

しかし慶喜の画策で、改革は後に骨抜きとなります。



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生麦事件と薩英戦争

1862年、江戸から薩摩へ帰還する途中、久光の大名行列を、イギリス人が横切り殺害される「生麦事件」が勃発

1863年、「生麦事件」の報復として、「薩英戦争」が勃発。

敗北した薩摩藩は、幕府から借金をして、イギリスに対して賠償金を支払いました。ちなみにこの幕府から借りたお金は、後に踏み倒しています。

倒幕

1863年、会津藩と協力して、「八月十八日の政変」により長州藩を京都から追放

同年、久光の発案で「参預会議」が発足しますが、徳川慶喜と久光の対立が激化したため、久光は辞任。

その後、「禁門の変」「長州征伐」「薩長同盟締結」「徳川家茂急死」「徳川慶喜の将軍就任」「孝明天皇の崩御」などが起こります。

この頃まで久光は、「公武合体」・・つまり「幕府」と「朝廷」が協力して西欧列強に対処することを目指していました。

しかし、将軍・徳川慶喜との政治的考え方があまりにも異なっていることに絶望し、久光は倒幕を決意するのです。

1867年10月14日、朝廷は久光に対して「討幕の密勅」を下します。

しかし同日、徳川慶喜は朝廷に対して「大政奉還」・・・つまり政権を朝廷に変換することを決断。これにより幕府は消滅。

大政奉還によって「討幕の密勅」は意味を失います。なんと言っても、倒すべき「幕府」がなくなってしまったのですから。

翌日「10月15日」、久光は上京するようにと朝廷から命じられますが、病気で動けず、代わりに息子「茂久」が3000人の軍を率いて上京。

王政復古の大号令」によって、徳川慶喜に「辞官納地」を迫り、度重なる薩摩藩の挑発行為により「鳥羽伏見の戦い」が勃発。

戊辰戦争」開始。

鳥羽伏見の戦いに勝利した薩長の新政府軍は、東海道を進軍。

西郷隆盛と勝海舟が「江戸城無血開城」を実現し、徳川幕府は崩壊。倒幕が完了したのです。



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明治維新後

久光は明治維新後、明治政府の政策に批判的な態度を取るようになります。

廃藩置県廃刀令など、武士の特権を剥奪する政策に、強く反発したのです。

久光は徹底的に、新政府の政策に反抗

「廃藩置県」の際には、庭で一日中打ち上げ花火をあげたとのこと。

「廃刀令」には従わず、常に帯刀。

明治政府は久光に対して、常に最高の官位で答え続けました。

最終的に久光は、最高の官位「左大臣」にのぼりつめます。

しかし、「島津幕府」を作ろうとしていた・・・と言われる「久光」は、それには満足しません。

左大臣と言っても、実質的に久光は「政府の意思決定」からは、完全に排除されていたのです。

1875年、久光は左大臣を辞任。鹿児島へ帰郷して隠遁生活をおくります。



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西南戦争

1877年2月、西郷隆盛と鹿児島士族を中心に「西南戦争」が勃発。

この時「島津久光」は何していたのか?

久光はこの時、「西郷」にも「政府」にも味方せずに、中立を決め込みます。

元々「久光」は、政府から警戒された人物でした。鹿児島は「久光」を中心にして反乱を起こすのではないか?と。

しかし、西郷隆盛が鹿児島にいるからには、久光の反乱をおさえてくれるだろう・・・というのが「大久保利通」の予想だったはずです・・。実際には、「久光」が立ち上がることはなく、「西郷」が立ち上がってしまったのです。大久保は驚いたことでしょう。

1877年9月24日、「城山決戦」により、「西郷隆盛」戦死。西南戦争終結。

仲が悪かった「西郷」の死を、久光はどう思ったのか・・・。悲しいとか悔しいという感情はなかったでしょうけれど。

もしかしたら、「失ってみて初めて、西郷という人物の大きさを知った」かもしれません。



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紀尾井坂の変

西南戦争終結の八ヶ月後、「紀尾井坂の変」により、「大久保利通」が暗殺されます。

これにより、島津久光と明治政府を結ぶパイプが、完全に途絶えました。

それはつまり、「久光」が政府の要職へ戻る道が完全に途絶えたことを意味します。

西郷と大久保に批判的だった「久光」。

しかし、その西郷と大久保が、「久光」に気を使っていたために、久光が明治政府へ影響を及ぼす道が残っていたのです。

久光は、自分をないがしろにした「大久保」の死に、衝撃を受けたことでしょう。

暗殺されて「ざまあみろ」と、単純に思ってはいなかったのではないでしょうか。

最期

1887年(明治20年)12月6日、島津久光、死去。

享年71歳

最後の最後まで、帯刀・マゲ・和装をやめることはなく、武士として亡くなったと言われています。

最期は国葬で送られた久光。

明治維新を成し遂げたのは、確かに久光の力によるところが大きかったはずですが、最期は鬱憤を抱いた最期のように感じられます。

現在、島津久光は、鹿児島市の島津家墓地に眠っています。



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『島津久光』についてレビュー(評論)

島津久光・・・・あまり評価が高くない人物です。英雄「西郷隆盛」の敵役として描かれることが多い人物です。

そんな「島津久光」公ですが、本当に無能な人物なのでしょうか?

実はそんなことはなく、かなり優秀な方なのです。「西洋の学問」が好きだった兄「斉彬」に対して、「国学」が好きだった「久光」。かなり伝統を大切にする人柄がうかがえます。

しかし、その能力と異なり、評価があまり高くない久光。その理由は、比較される対象である兄「島津斉彬」が、あまりにも強大だからでしょう。

「島津斉彬」は、とてつもなく「カリスマ性」が強い人物なのです。そんな兄と比べられて、久光の評価は低くなったと考えられます。

実際には、島津斉彬も認めるほど、久光は非常に優秀でした。

しかし残念ながら、斉彬に比べると久光は「志」が乏しかった気がします。

西欧列強の侵略から日本を守ろうと奮闘した兄「斉彬」。対して「倒幕」を実現しながらも、「島津幕府」を開くことを目標としていたため、「明治政府」の誕生に批判的だった弟「久光」

利他的な志を持つ兄「斉彬」と、利己的な志を持っていた弟「久光」

若干スケールが違う気がしますね。

西郷はそんな久光を、本気で嫌っていたと言われています。その理由は、久光が「斉彬」を暗殺した・・・と本気で思っていたからだそうです。

「暗殺疑惑」について、詳しくは以下のリンク記事で解説させていただいております。よろしければお役立てくださいませ。



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家系図調査!子孫は現在の皇室に繋がっている!

実は島津久光の子孫は、皇室に繋がっているのです。

多少見にくいかもしれませんが、以下の家系図をご覧くださいませ。

久光の息子「茂久(忠義)」の孫・香淳皇后は昭和天皇の妻。

その息子が、平成の現在、今の天皇陛下というわけです。

「茂久」・・・伯父である「斉彬」から「薩摩藩主」の地位を譲られたわけですが、その時に「藩主継承の条件」として、「斉彬の娘」と結婚することを言い渡されていました。

その遺言に従い、茂久は、斉彬の娘2人を妻としています。

しかし、2人の間に子供は出来ず、側室の「山崎寿満子」との間に産まれた娘が皇室へ嫁ぐことになるのです。

久光の兄・斉彬は「徳川家康」や「伊達政宗」の血を引いていたということですし、流石に島津家は由緒ある血筋なのですね。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

・島津久光は、倒幕を実現した薩摩藩主の父

・久光は、倒幕は成し遂げたものの、その後は新政府に反抗的な態度を取り続けた

・久光の子孫は、皇室へと繋がっている

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました



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