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徳川慶喜の子孫は現在すでに断絶?簡単な家系図で解説!

最期の将軍「徳川慶喜」の「子孫」について、「家系図」の画像つきで、わかりやすく解説いたします。

「江戸城無血開城」で幕府は滅亡し、徳川慶喜は隠遁。

そんな「慶喜」は「徳川宗家」とは別に「徳川慶喜家」という家を起こしていました。

「徳川慶喜家」は、四代目「慶朝」氏の死で断絶しています。


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この記事を短く言うと

徳川慶喜は、徳川宗家を継がず、「徳川慶喜家」という独立した家をたてた

・慶喜家の直系、徳川慶喜家は、5代目「山岸美喜」さんを最後にで廃家する。

・慶喜は頭の良い人だったが、武将としては向いてなかったみたい


目次

≪簡単な家系図をご紹介!5代で途切れる【慶喜家】≫

初代・慶喜

「引用元ウィキペディアより」

 

1837年(天保8年)?1913年(大正2年)

江戸幕府代15代征夷大将軍、江戸幕府最後で日本最後の征夷大将軍。

幕末に大政奉還や新政府軍への江戸城開城を行いました。

明治維新後は従一位勲一等公爵、貴族院議員となっています。

「家系図の引用などはご遠慮くださいませ」



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「二代・慶久(よしひさ)」

1884年(明治17年)?1922年(大正11年)

貴族院議員、第一銀行取締役などを歴任した政治家。静岡市出身の慶喜の七男。

学習院高等科、東京帝国大学法科大学政治科を卒業後、貴族院議員となりました。

柔道、囲碁、ビリヤード、乗馬、ゴルフ、油絵など多くの人趣味を持ち、何をやっても抜きん出た才能を持っていたとされています。

才能に恵まれた人物でしたが、37歳の若さで脳出血で亡くなりました。

不眠症の薬の量を誤った過失死だったとされています。

「三代・慶光(よしみつ)」

1913年(大正2年)?1993年(平成5年)

慶久の長男であり、慶喜の孫。

父の急死により10歳で襲爵、学習院から東京帝国大学・文学部・支那哲学科に進学し中国哲学を専攻、卒業後は宮内省図書寮に勤務しました。

終戦後の華族制度の廃止に伴い、爵位と貴族院議員の議席を失い、財産税の支払いのため自邸を物納することになります。

様々な事業を起こすも失敗し、職を転々とするなど、厳しい生活を送っていたそうです。

晩年は料理や野菜作りなどの趣味に没頭し、パーキンソン病のため80歳で亡くなりました。



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「四代・慶朝」

1950年(昭和25年)生まれの写真家。

江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」をの曾孫にあたる、旧公爵・徳川慶喜家の4代目当主。母方を通じて会津藩第9代藩主、京都守護職であった「松平容保」の曾孫でもあります。

かなりのコーヒー好きで茨城で「徳川将軍珈琲」の開発と販売に取り組んでいました。

曾祖父の慶喜も、大のコーヒー好きだったそうです。

2017年9月25日、心筋梗塞でお亡くなりになられました。

これにて、「徳川慶喜家」の直系本家は途絶えてしまいました。

慶喜の血を引く人物は何人も残っているとは思いますし、慶朝氏には、離婚した奥様との間にお子さんがいるようですが、「徳川慶喜家」を継承する「直系」は、慶朝さんの後を継いだ5代目の山岸美喜さんを最後に途絶えることになっています。

五代・山岸美喜

四代目・徳川慶朝さんの姪にあたられるお方です。

このお方を最後に、徳川慶喜家は廃家されることが決まっています。



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≪慶喜にやる気さえあれば、子孫は今頃「将軍」だった?≫

戊辰戦争の旧幕府軍の敗因は、薩長軍の3倍以上の戦力があったものの、相手の最新式装備に太刀打ちできなかったため・・・・とされています。

しかし実を言うと、旧幕府軍の主力であった伝習隊は、フランスの指導を受けた西洋式軍隊であり、最新式装備を所持していました。

では、敗北の原因はなんだったのでしょうか。

それは、慶喜が尊皇の家柄である水戸家で育ったため、朝廷に歯向かうことを極端に恐れたことにあります。

ちなみに、薩長軍が自らを官軍と名乗る際に使用した錦の御旗は、彼らが密造した偽物でありました。

それでも優柔不断な貴公子「慶喜」は、国の一大事に対処できるほどの力はなく、松平容保など少数の家臣を連れて密かに大坂城から江戸城に逃げ帰ってしまいました。

朝廷を敵に回し賊軍となって天皇に戦いを挑むことは、歴史上一度もなかった悪事のように勘違いされている人も多いと思います。

しかし、南北朝時代の話になりますが、室町幕府初代将軍足利尊氏は、後醍醐天皇とは異なる天皇をかつぎ、逆賊と言われながらも、新田義貞楠木正成が率いた天皇の軍と戦い勝利しています。

このように、慶喜とは真逆の血の気の多い人物もいて、天皇に刃向かった事件もあったのです。

もう少し慶喜が勇ましければ、彼の直系の子孫は将軍職を継承していたかもしれません。

しかし、戊辰戦争後に、徳川宗家を継いだのは、慶喜の実子ではなく、分家の「御三卿」の一つ「田安家」出身の「家達(いえさと)」で、慶喜は「徳川慶喜家」として独立し、自ら分家あつかいに甘んじました。

江戸に戻った後に、江戸城無血開城し、薩長軍から江戸の多くの民を守るなど、政治家としては頭がよい人物ではありましたが、戦の大将として君臨するには不向きであったようです。


「渋沢栄一」については、以下のリンク記事で、さらにくわしく解説しております。



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≪まとめ≫

本日の記事をまとめますと

・徳川慶喜家の宗家は、四代目・徳川慶朝さんで断絶した

・徳川慶喜は、頭の良い人物だったが、武将としては不向きだったらしい

・もしも慶喜が、敵前逃亡しなかったら、おそらく幕府軍が勝利していた

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました
もしよろしければ、以下のリンク記事もお役立てくださいませ

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この記事を書いた人

コメント

コメント一覧 (4件)

  • 最近、偶然このサイトを発見し、それ以来よく調べられてるなと興味深く読ませていただいています。今回、德川慶喜家ということで、断絶はほんと残念です。離婚された奥様との間に男子はおられたようですし(但し、徳川姓は名乗られていない)。

    • いつもお世話になっております。
      当サイトを評価していただきまして、大変光栄に存じます。
      徳川慶喜家には、離婚先にお子様がおられるとの情報までいただきまして、本当に感謝申し上げます
      何卒今後とも、当サイトをよろしくお願いいたします。
      本当にありがとうございます。

  • これほどまでに詳細な調査、どれほどのご苦労かとご努力に感嘆しております。

     知り合いに「富小路」と言う方がおられ、貧乏家族の末裔とおっしゃいます。しかし、貴族議員の父を持ち、学習院女子高等科を卒業するも、戦後実家は窮地に陥り、高級旅館に働いて父を養った健気で才気の女性だったようです。
     短歌の世界で名をなし、終生独身であったため、自らの血筋が途絶える感慨を詠っています。

     知人は、その歌人の事はまったく知らないようですが、華族の末裔と言いはります。表札にも、この苗字を掲げています。

     他の知人は、韓国系のルーツですが、帰化する際いかにも日本人らしい、優雅な苗字を獲得しました。華族の苗字など神聖できるのかどうか、本当に元家族の血統なのか不思議です。本人に聞いてみたいのですが、現在連絡がとれません。

     亜流としての、富小路家は存在するのかもしれないと、お尋ねする次第です。彼女はとても品の良い、美人なので。

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