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会津戦争をわかりやすく簡単に解説!なぜ戦ったのか?きっかけは何だったの?

幕末、とてつもない被害を出してしまった悲劇「会津戦争」はどうして起こったのか?

徳川家の血を引く会津藩主「松平容保」と「会津藩」は「禁門の変」で長州藩を撃破。

そのため長州藩から深く恨まれていたのです。

この記事では「会津戦争」の原因を、わかりやすく解説いたします。

歴史専門サイト「レキシル」にようこそ。

どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ。

この記事を短く言うと

・「会津戦争」とは、戊辰戦争の一部。長州藩が会津藩を「禁門の変」を理由に強く恨んでいたため、その被害は大きくなった

・戦後も、会津は新政府からとても冷たく厳しく扱われた

・会津藩主・松平容保は、徹底的に戦争を回避しようとしたが、かなわず「会津戦争」が起こってしまった


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目次

会津戦争をわかりやすく解説?なぜ戦ったのか!そのきっかけとは?

「会津戦争」は戊辰戦争の一部であり、1868年に現在の福島県会津地方で起こりました。

開戦のきっかけは、長州藩の強烈な会津藩への憎しみと、奥羽越列藩同盟による会津藩の徹底抗戦の姿勢です。

鳥羽・伏見の戦い」で会津藩は新政府軍の前に敗れると、会津藩主「松平容保(かたもり)」は謹慎し、新政府軍へ恭順・・・つまり降伏の姿勢を示しました。

しかし、会津藩内では未だ主戦論が根強く残っており、新政府軍は会津の恭順姿勢を信用していませんでした。

江戸城無血開城によって徳川慶喜が将軍職をやめて、故郷の水戸へ謹慎させられると、新政府軍の目は、佐幕派(幕府を助けようとする一派)として敵視されていた松平容保へ向けられます。

長州藩は、八月十八日の政変や池田屋事件、さらには禁門の変(蛤御門の変)で、会津藩に散々敗れていたので、強烈な憎しみを抱いていたのです。

≪松平容保≫
「引用元ウィキペディアより」

新政府は仙台藩や庄内藩に会津の討伐を命令しますが、仙台・庄内藩はそれに抵抗し、会津藩や北陸諸藩などとともに「奥羽越列藩同盟」を結んで、新政府と戦うことになりました。

長州藩の会津藩への憎しみと、奥羽越列藩同盟による徹底抗戦の姿勢、この2つが、会津戦争の原因です。

会津藩は新政府軍の圧倒的な力に、撃破されるのです。



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戦後の経緯

会津戦争が終結した後、会津藩への待遇は冷たいものでした。

新政府は会津側の戦死者の埋葬を禁じたと言われています。

放置された藩士や女性、子供の亡骸は腐敗したり、烏の餌になったとされています。

また、会津藩の領土は新政府に占領され、若松城下には政府機関の「明治政府民政局」が設置されました。

このため領土を失った藩士達は、謹慎が解かれたのち、新政府によって提示された「斗南(となみ)」(現在の青森県むつ市)へ移住を余儀無くされました。

当時のこの場所は不毛の地であったため、藩士たちは開墾の努力をするも難しく、多くの藩士は土着することができずに会津へ戻ったと言われています。

これらの処遇は会津の人たちに大きな遺恨を残すことになりました。

西南戦争では薩摩藩士・西郷隆盛への恨みから、多くの会津人が政府軍に志願したとされています。



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会津戦争の悲劇!なぜ戦争を回避できなかったのか?

なぜ会津戦争は避けられなかったのでしょうか。

これには、会津藩と長州藩の不仲にあると考えられます。

1864年に起きた禁門の変で、会津藩は幕府側に立ち、薩摩藩と協力して長州藩を破りました。

その後長州藩は朝敵とされ、幕府は長州征伐を開始。

これをきっかけとし、会津藩は長州藩からひどく恨まれていたのです。

江戸城無血開城後も、長州藩を中心とし、新政府軍は執拗に会津藩を討伐するべきと武力行動に出ます。

この時、会津藩主・松平容保は新政府に恭順するため謹慎の態度を示しましたが、新政府はそれを認めず、会津討伐を強行。

よほど「禁門の変」での禍根が根深かったといえるでしょう。

新政府の勢いに一歩引いた会津藩でしたが、長州藩の影響もあり会津戦争は避けることのできなかった戦争だったといえます。



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会津戦争について、レビュー(評論)!

会津戦争・・・その悲惨な被害は、今に至るまで語り継がれ、会津の人々は今も「長州藩」や長州と薩摩を結びつけた「坂本龍馬」へ、よい感情を持っていないと言われています。

承、それにしても、江戸城が無血開城されたにも関わらず、どうして会津や東北は、これほどの被害を被ったのでしょうか?

「悪役」・・・・・革命には、倒されるべき「敵」が必要となります。なぜなら革命を起こす側・・・明治維新では「薩長」ということになりますが、その薩長は味方を鼓舞するために、自らを「正義の軍」と呼びました。

ということは、対する「旧幕府軍」は「悪」ということになります。

ところが、その「悪」の権化たる「徳川慶喜」は、命を助けられ、静岡で謹慎処分となるにとどめられています。

これでは、味方の官軍から不満が出かねません。悪の親玉「徳川慶喜」が命を救われ、「駿河」に巨大な領地をもらって、豊かに暮らしているのですからね。

というわけで、官軍からすると、別の標的・・・つまり「悪役」を必要としたのです。

それが「会津」・・・会津藩「松平家」は二代将軍「徳川秀忠」の末裔。つまり徳川家康の末裔ということですから、「悪役」としては申し分ありません。

完膚なきまでに叩き潰された会津。孝明天皇から絶大な信頼を受けた忠義の武士たちにも関わらず・・・。

あまりにも損な役回りを押し付けられた・・・としか言いようがないです。

ちなみに、松平容保の実兄で、新政府側についた尾張藩主「徳川慶勝」は、朝敵となった弟「容保」の名誉回復に尽力。

その後、昭和天皇の弟「秩父宮」さまが、松平容保の孫娘と結婚し、この時に会津藩復権が実質的にかなったと言われています。

さらに、現在の徳川宗家を継いでおられる「徳川恒孝(つねなり)」さんは、松平容保の末裔です。



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まとめ

本日の記事をまとめますと

いかがでしたでしょうか。

会津戦争について解説していきましたが、ポイントは、

・会津戦争は戊辰戦争の一部であり、現在の福島県会津地方で起こった戦争

・戦争後、会津領地は新政府軍が占領するなど、会津藩は冷遇された

・長州藩の会津に対する恨みの影響もあって会津戦争が起こった

といえるでしょう。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


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