幕末の日本で起こった「坂下門外の変(さかしたもんがいのへん)」をご存知でしょうか?
「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」は有名ですが、「坂下門外の変」はあまり有名ではありません。
「坂下門外の変」とは、老中「安藤信正(あんどうのぶまさ)」が、江戸城に今も残る門「坂下門」で襲撃されたテロ事件。
この記事では「坂下門外の変」と「桜田門外の変」の区別がつかない人や、または「坂下門外」がよくわからない方々のために、わかりやすく、短く解説いたします。
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この記事を短く言うと
・「坂下門外の変」とは、幕府のトップ・老中「安藤信正」が襲撃された事件
・事件の原因は、安藤信正が、「公武合体」を進め、孝明天皇の妹「和宮」と「徳川家茂」の結婚を画策したため
・坂下門は、現在でも残っており、皇居の入り口となっている
「坂下門外の変」とは、何か?
「坂下門外の変」を一言でいってしまうと、幕府のトップ機関である「老中」の「安藤信正」が襲撃された事件です。
「桜田門外の変」と「坂下門外の変」、どちらも江戸城の門外で起こった事件ですが、中にはこの2つの事件をごちゃ混ぜに覚えている人もいることでしょう。
まずは、先に起こった「桜田門外の変」から簡単に解説していきます。
「桜田門外の変」とは
「桜田門外の変」とは、1860年に当時大老であった井伊直弼が、水戸藩士を中心とした浪士グループにより暗殺された事件です。
この事件の背景には、江戸幕府の14代将軍継嗣問題と日米修好通商条約の問題がありました。
この2つの問題により、井伊直弼と水戸藩は対立を深め、ついには江戸幕府を批判する者たちに対し大規模な粛清を行うまでに発展していきました。
この粛清は「安政の大獄」と呼ばれ、100名以上の大名や公卿、志士たちが弾圧されたのでした。
これにより井伊直弼に対する批判は一層強くなっていき、とうとう井伊直弼は桜田門外で襲撃を受け、非業の死を遂げることになりました。
「坂下門外の変」とは
さて、次に「坂下門外の変」について見ていきましょう。
「坂下門外の変」は1862年に起こった襲撃事件で、桜田門外の変からわずか2年しか経っていませんでした。
この時の被害者は老中・安藤信正で、桜田門外の変で暗殺された「井伊直弼」の後を継いだ人物です。
坂下門外の変が起こった背景には、江戸幕府が推し進めた「公武合体」という政策があげられます。
事件の原因の1つとなった「公武合体」については、この後くわしく紹介しましょう。
そして、ついに1862年1月に坂下門外にて、安藤信正は水戸浪士組の襲撃を受けることになったのでした。
この時、桜田門外の変とは違い、安藤信正は背中に受けた刀傷のみで、命を落とすことはありませんでした。
事件発生の原因とは?
次に、坂下門外の変が起こった原因について考察していきましょう。
事件の被害者である安藤信正は、大老・井伊直弼の死後、幕府の政治を取り仕切る偉い立場にいました。
老中になった安藤がまず考えたのが「公武合体(こうぶがったい)」という政策です。
後にこの政策が「坂下門外の変」が起こる原因となったのでした。
この政策は、朝廷(公家)と幕府(武士)が協力しあい、幕府の強化を目指したものです。
当時、井伊直弼により「日米修好通商条約」の調印が、天皇の許可が無いまま行われたこともあり、朝廷と幕府の仲が悪い状態にありました。
そこで、安藤信正は朝廷と幕府の仲を良くするために、14代将軍の徳川家茂と、当時の天皇である孝明天皇の妹・和宮の結婚を考えてたのです。
この結婚は和宮の降嫁(皇女が皇族以外の男性に嫁ぐこと)を意味し、天皇を慕う尊王攘夷派の反発を招いたのでした。
つまり、公武合体でまた天皇がないがしろにされていると“天皇命”の攘夷志士が感じて、安藤信正の暗殺を企てたと言えるでしょう。
事件現場は、今現在どうなっているのか?
事件現場になった坂下門は、現在どのようになっているのでしょうか。
「坂下門」は今でも残されています。
詳細な場所は、以下の地図をご覧ください。
坂下門は江戸城西の丸の北側に位置しています。
明治時代に入り西の丸が皇居として使用されると、坂下門は重要な出入り口のひとつになりました。
現在も、宮内庁の通用門として使用され、また、お正月と天皇誕生日では一般参賀用の出口にもなっています。
一般の人が坂下門を通れる唯一の機会ですので、ぜひ一般参賀に参加されることをオススメします。
「坂下門外の変」について「ひとこと」いいたい
当時の日本においては、「選挙」という制度が存在していなかったため、各藩の藩士たちは、その考えを政治に反映させることができませんでした。
そのため、彼らが自らの考えを政治に反映させるには「テロ」や「直訴」のような、命がけの方法しかなかったのです。
その代表例が「桜田門外の変」であり、「坂下門外の変」だったのでしょう。
天誅・・・・かつて京都などで起こっていた「人斬り」のこと。天による誅殺である、と言って辻斬りが次々起こっていたのです。
天誅というと、土佐藩の岡田以蔵が有名ですが、彼らはそうすることにより、理想の国家を実現できると信じていたのです。
しかし、これらの失敗を踏まえて、日本では「選挙制度」が発達しました。
先人たちの犠牲の上に、今の選挙制度があると言ってよいでしょう。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
本日の記事をまとめますと
坂下門外の変についてのポイントは、
・「坂下門外の変」とは、江戸城の坂下門外で起こった、老中・安藤信正襲撃事件
・事件の原因は、将軍と天皇の妹を結婚させる「公武合体」政策だった
・現在の坂下門は、皇居の重要な出入り口のひとつになっている
といえるでしょう。
最後に、襲撃にあった安藤信正はその後どうなったのか見ていきましょう。
命は取り留めたものの、安藤信正は背中に傷を負いました。
この頃「背中の傷は武士の恥」という風潮があり、安藤信正は幕府の中でも非難されました。
また、井伊直弼に続き、幕府の重要ポストにいた人物が襲撃にあったことで、幕府はますます弱体化していきます。
その要因になってしまったこともあり、安藤信正はついに老中職を解雇されてしまうのでした。
以上となります。
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