幕末の作品には、だいたい名前が登場する有名な事件『寺田屋事件』
名前はよく耳にしても、その内容や原因をちゃんと覚えてないかもしれませんね。
「寺田屋事件」とは、歴史上2つ存在しており、一つは薩摩藩士「有馬新七」らが「島津久光」に粛清された事件。
もう一つが「坂本龍馬」が役人に襲撃された事件です。
これを読めば、「2つの寺田屋事件」が簡単にわかります
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この記事を短く言うと
・「寺田屋事件」とは「有馬新七」ら薩摩藩の過激派を、薩摩藩主の父「島津久光」が襲撃し、処分した事件
・寺田屋事件の原因は、尊皇攘夷・倒幕を望む過激派の薩摩藩士が、力まかせに暴発したこと
・坂本龍馬が役人からの襲撃を受けた事件もまた「寺田屋事件」と呼ばれている
寺田屋事件をわかりやすく簡単に解説
歴史上「寺田屋事件」と呼ばれるものは、2つあります。
今回は、薩摩藩士による静粛事件について解説していきます。
島津久光(薩摩藩の事実上の指導者)
vs
有馬新七(精忠組、若手の政治グループ)
1862年5月21日 主に薩摩藩の内部で起こった、薩摩藩の尊王攘夷派による倒幕の挙兵を未然に防ぎ、これを粛清した事件のことです。
「寺田屋事件」への経緯と結果を、くわしく解説
島津久光は「公武合体」実現のために京都に赴きます。
京都に到着した島津久光は、薩摩藩兵一千名を率いており、尊皇派の志士たちはこれが攘夷・倒幕の尖兵になると勘違いをし、薩摩藩過激派がテロを起こそうとしました。
当の島津久光にその気は全くなく、久光の考えとかけ離れた薩摩尊王派の考え方が許し難い行為に写り、これを粛清しようと弾圧し抑制した事件です。
過激派藩士側の有馬新七、柴山愛次郎、田中謙助らと、久光が送った鎮撫使側とが話し合うことになりますが、話し合いは並行をつづけ、最終的に薩摩藩士同士の激しい斬りあいが始まってしまいました。
この事件で中心人物だった有馬新七は亡くなり、西郷隆盛の弟「従道」や西郷の従兄弟「大山巌」は、説得に応じて粛清される直前に過激派から抜けて、生き延びています。
「坂本龍馬・襲撃事件」・・・もうひとつの「寺田屋事件」
この四年後、1866年3月9日
その時、奉行所の捕り方が寺田屋をかこみ、坂本龍馬を殺害、もしくは捕まえようとした事件も「寺田屋事件」と言われます。
こちらは別称「寺田屋遭難」と区別して呼ばれています。
この二つの事件がよく混同されるのは「薩摩藩」が両方に関わっていること。
1つは、薩摩藩同士が切りあう「寺田屋事件」。
もう1つの坂本龍馬が襲われた事件については、直接薩摩藩が関わったわけではありません。
「西郷隆盛」が、「坂本龍馬」を探し出して保護をするようにと指示をだした、と言われています。
「寺田屋事件」について「ひとこと」いいたい
寺田屋事件とは、薩摩藩士の内部粛清事件。
そもそも島津久光さんが、上京するに際してその目的をしっかりと藩士に伝達していたら、こんな事件は起こらなかったはず。
粛清された「有馬新七」は、かなりの知識人でしかも剣豪。今で言うなら「大学教授」で「一流アスリート」という、惜しむべき人材でした。それを失ったのはかなり痛かったはずです。
対して「坂本龍馬」が襲撃された事件もまた「寺田屋事件」と呼ばれています。
この事件で、龍馬は「高杉晋作」からもらったピストルを使って、役人を殺害。この犯罪がもとで、「龍馬暗殺」へとつながるのです。
二つの「寺田屋事件」・・・・ともに惜しむべき人材を失った、歴史上の悲劇だったわけです。
まとめ
本日の記事をまとめますと
・寺田屋事件は、薩摩藩の内部で起こった身内同士の静粛事件。
・島田久光の動きを尊王攘夷派が勘違いをして、話し合いがまとまらないまま切りあいになってしまった。
・寺田屋事件は二つあり、薩摩藩の身内争いの事件と、坂本龍馬が襲われた事件がある。
どうしても同じ建物の名前がついているので、混同しやすいかもしれませんね。
以上となります。
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