【蛤御門の変(禁門の変)とは】世界一わかりやすく解説!新選組への復讐戦

明治維新の後、天皇家が関東へ移される一因になったとも言われている「禁門の変(蛤御門の変)」。

一体全体どうしてこんな事件が発生し、そこにはどんな意味があったのでしょうか。

『蛤御門の変』はなんなのか、分かりやすく簡単に解説いたします。


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この記事を短く言うと

・「蛤御門の変(禁門の変)」とは、「八月十八日の政変」で京都から追い出された長州藩が、復権のために起こした事件

・「八月十八日の政変」で京都から追い出された長州藩は、「池田屋事件」で新選組に襲撃された

・「池田屋事件」に激昂した長州藩は、復権のために京都へ進軍し、会津・薩摩に撃破された(禁門の変)


《蛤御門の変(禁門の変)とは何か?わかりやすく解説》

《蛤御門の変(禁門の変)》
『引用元ウィキペディアより』

1863年 孝明天皇は、出した覚えのない命令(勅命)が勝手に出ていることに、深く悩んでいました。

勝手に長州藩に都合がいい命令を出していたのは、長州藩と仲良くしている公卿たち。孝明天皇は自らの権威を不当に利用されながらも、我慢をしていました。

しかし「大和行幸」という計画を知ったときに、我慢の限界が訪れたのです。そして、「攘夷(外交勢力を武力で討伐すること)」を強く主張し、暴走に暴走を重ねる長州にも、限界でした。

孝明天皇は、信頼していた京都守護職「松平容保」率いる「会津藩」の意見に耳を傾けるようになります。

その結果、長州藩は警備の任務をとかれ、都から追い出されます。(八月十八日の政変

追い出された長州藩や尊王攘夷派は納得できません。

もう一度、京都に乗り込もうとします。

久坂玄瑞」「来島又兵衛」率いる「長州藩」と、「松平容保」「西郷隆盛」が率いる「会津&薩摩連合軍」は、京都御所「蛤御門」付近で戦い、長州藩は破れます。

この事件を「蛤御門の変(禁門の変)」と言います。


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《新選組の「池田屋事件」との関係!新選組の先走りが騒動の原因だった!》

長州藩不在の京都は、どんどん荒れていきます。

それまで長州藩が引っ張っていた「尊皇攘夷」思想が衰退し、「公武合体(朝廷・幕府の協力による挙国一致体制)」派が主流となっていきます。

そんな中、宿「池田屋」にひそんだ長州藩の志士たちは「孝明天皇を長州にお連れしよう!!」と企てていたそうです。

その情報を聞きつけた新選組により、多くの長州の志士たちが殺され、捕まります。これが「池田屋事件」。この「池田屋事件」で、「松下村塾三秀」の一人「吉田稔麿」が戦死。

一説によると、この「池田屋事件」は、名を挙げようと焦った新選組の「先走り」だったとも言われています。

池田屋事件でさらに追い込まれた長州藩は、朝廷や新選組に報復しようとして「蛤御門の変(禁門の変)」を起こした、という説もあります。

新選組は、蛤御門の変鎮圧の為、出撃しています。


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《蛤御門の変(禁門の変)の後、何が起きた?》

薩摩藩と会津藩に敗れた長州藩は、蛤御門の変のあと「朝敵」・・・つまり「朝廷・天皇の敵(日本国の敵)」と認定されてしまいます。

公武合体を推し進めていた薩摩藩でしたが、幕府「将軍後見職」の「一橋慶喜(徳川慶喜)」は、薩摩藩ら外様大名の政治介入を嫌い、次々と薩摩排斥の手を打っていきます。

これに激怒した薩摩藩国父「島津久光」は、それまでの「公武合体」から、「倒幕」へと方針を大転換します。

これにより、薩摩と長州の思惑が重なり、土佐藩の坂本龍馬中岡慎太郎らの仲介もあり、薩長同盟を結び和解。

1868年、「江戸城無血開城」の実現により、260年続いた徳川幕府は、ついに終わりを迎えることとなるのです。

長州藩の会津藩への恨みは忘れられることはなく、後に「会津戦争」で甚大な被害を生むこととなります。


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《『蛤御門の変(禁門の変)』について、レビュー(評論)!》

蛤御門の変(禁門の変)・・・京都から追い出された長州藩が、天皇・朝廷に対して自らの潔白を訴えるために起こされた事変。

長州軍は、あくまでも天皇に対して、自らの潔白を主張できればそれでいいと考えていたみたいです。「八月十八日の政変」で京都から追い出されるような悪いことは、何もしていませんと・・・それをわかってもらいたかったわけです。

しかし孝明天皇は、過激な尊皇攘夷派である長州藩を嫌い、実直な「松平容保」を信頼していました。


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吉田松陰の義弟「久坂玄瑞」は、軍事力による過激な「天皇への無実を訴える作戦」に反対していたと言われています。しかし武闘派「来島又兵衛」に論破され、長州藩は2000の軍で、2万の連合軍相手に開戦し、敗北。

「池田屋事件」で「吉田稔麿」を、「禁門の変」で「久坂玄瑞」を失った長州藩の命運は、二人と並び称された天才「松下村塾三秀」最期の一人「高杉晋作」へと託されます。

高杉晋作・・・・幕府に降伏しようとした長州藩に対して「功山寺挙兵」と呼ばれる「クーデター」を行い、藩の主張を「倒幕」へと転換させます。

その後、「第二次長州征伐」が起こり、長州藩「高杉晋作」「大村益次郎」らは、幕府軍を撃破。

薩長連合軍は、鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争を経て、「江戸城無血開城」「東北戦争」「箱館戦争」により、ついに明治維新を成し遂げるのです。

この「禁門の変」・・・・「馬関戦争」や「第一次長州征伐」と並び、長州をドン底に追い詰めた事件です。しかし、薩長同盟で薩摩の後ろ盾を得た長州は、一気に挽回していくこととなるのです。

負けても負けても諦めずに戦う長州・・・。もしかしたらこの「禁門の変」は、そんな長州藩の不屈の精神に、かえって火をつけた事件だったのかもしれません。


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《まとめ》

本日の記事をまとめますと

・『蛤御門の変(禁門の変)』は、長州藩が京都での復権をもくろみ、薩摩藩&会津藩と戦った事件のこと。

・「蛤御門の変(禁門の変)」は池田屋事件で多くの同志を失った報復ともいわれている。

・「蛤御門の変」ののち、朝敵となった長州藩は薩摩藩と薩長同盟を結び和解、会津藩と戦争をすることになる。

幕末はたくさんの思惑が錯綜しています。どちらかが悪い、と単純に言い切れないのかもしれません。

以上となります。

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