「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」とは何か、わかりやすく解説いたします。
「誰」と「誰」の戦いなのか。どちらが勝利したのか?
「西郷隆盛」がひきいる「薩長軍(新政府軍)」と、「徳川慶喜」がひきいる「旧幕府軍」の戦い。
結果は「薩長軍」の勝利。
戊辰戦争のうちの一つ「会津戦争」。会津惨敗の理由は「人災」
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この記事を短く言うと
・戊辰戦争とは、「旧幕府軍」と、西郷隆盛ひきいる「新政府軍」の戦い
・結果として、戊辰戦争は「新政府軍」が勝利した
・「会津戦争」で惨敗した原因は「人災」と「大切なところを見抜く戦術眼のなさ」
《戊辰戦争とは何のこと?誰と誰が戦った戦争?》
戊辰戦争とは、薩長を中心とした新政府軍(官軍)と、旧幕府軍および旧幕府側についた諸藩との戦争です。
1868年の「鳥羽伏見の戦い」から始まり、 1869年の箱館(函館)戦争で終結します。
名称は慶応4年/明治元年の干支(えと)が「戊辰(つちのえたつ・ぼしん)」であることに由来します。
《結果は?どちらが勝利したのか?》
勝利したのは新政府軍(官軍)です。
徳川家だけが官位・領地を返上せよという辞官納地に怒った大坂城の旧幕府軍は、京都へ攻め上り、新政府軍と交戦状態に入ります。
これが「鳥羽伏見の戦い」です。
新政府軍は兵力寡少につき苦戦しますが、戦場に「錦の御旗」が立ち、新政府軍=官軍となります。
旧幕府側は大いに動揺し、淀藩や津藩が官軍に寝返り、旧幕府軍は崩れ大坂城に撤退します。
そして将軍・徳川慶喜は、大坂城の自軍を捨てて海路江戸へ逃げ帰り、上野・寛永寺で謹慎し恭順の意を示します。
その後、板垣退助が率いる官軍と旧新選組による甲州勝沼の戦い(官軍の完勝)を経て、江戸総攻撃へと移ります。
しかし、江戸の町を火の海にはしたくない陸軍総裁・勝海舟は官軍参謀・西郷隆盛と江戸開城交渉を行い無血開城に成功し、徳川慶喜は水戸で謹慎となります。
しかし、旧幕臣の強硬派である彰義隊は納得せず、上野寛永寺に籠ります。
官軍は長州藩の大村益次郎が指揮し、江戸の町を燃やすことなく彰義隊を討伐します。(上野戦争)
そして、戦線は東北へと移ります。
会津藩を中心とした東北諸藩は奥羽列藩同盟という軍事同盟を組織し、官軍に抵抗します。
なかでも長岡藩の軍事総督「河井継之助」が最新式ガトリングガン(機関砲)で洋式化した軍隊は強力で、官軍は敗退を重ねますが、最後にはなんとか官軍が勝利します。(北越戦争)
そして会津戦争を迎え、会津藩そして奥羽列藩同盟諸藩が降伏の後、戦線は箱館(函館)戦争へと移ります。
旧幕府海軍副総裁の榎本武揚や新選組副長・土方歳三等を擁する旧幕府軍は、箱館の五稜郭に籠りますが、優勢な官軍に敗北します。(箱館戦争・五稜郭の戦い)
ここに戊辰戦争は終結するのです。
《「会津藩」が、あれほどまでに惨敗した「2つの理由」》
会津藩主・松平容保は、恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎しますが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた官軍側でも、会津藩の恭順姿勢を信用してはいませんでした。
江戸城無血開城がなされ徳川慶喜が水戸で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は、佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられます。
そして会津戦争が始まるのです。
薩摩藩と並び、幕末において強兵をうたわれた会津藩が何故敗れたのでしょうか?
戦略的最重要拠点の白河口へ送られたのは、戦争経験が皆無で、性格的にも問題のあった家老・西郷頼母だったそうです。
仙台藩からの援軍を加えて数倍の兵力を持ちながら、あっけなく奇襲で白河城が落城。
また、新政府軍が会津盆地に侵入してから、謹慎していた頼母が合議に呼ばれましたが、そこで頼母は全員が切腹すべしなどと、延々と責任論を展開。
すでに敵は侵入してきており、すぐに命令を発して出撃しなければならない時でしたが、誰がどこを守るのかなどを話し合うだけで(守備配置は開戦前に決めておくべきもの)、結局何もしなかったそうです。
会津惨敗の理由のひとつ目は、「人災」です。
2つ目の理由は、「会津若松城へ砲撃をすることができる要所」へ、会津藩は守備兵をほとんど送っていなかったこと。
「小田山」という会津若松城への砲撃地点をあっさりと新政府軍に奪われています。
新政府軍諸藩の砲兵は山上に砲塁を築き、城を眼下に見下ろしながら、一斉に砲門を開いたのです。
会津藩には戦術眼がありませんでした。
会津藩には海がないので、新政府軍の海軍を利用した戦いを封じることが出来たはずなのに惨敗したわけは、この「2つ」だと考えられます。
また、松平容保が幕府の命令で京都守護職に就任した以降、京の治安を守るため攘夷派の勢力を厳しく取り締まっていました。
長州藩の関係者が、たくさん新撰組などの治安組織によって命を落としているため、「会津藩は仲間のかたき」という意識を長州藩は持ち続けており、旺盛な戦意が奥羽列藩同盟諸藩を上回っていたと思います。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・戊辰戦争とは新政府軍(官軍)と旧幕府軍および旧幕府側についた諸藩との戦争です。
・戊辰戦争は新政府軍(官軍)が勝利しました。最新式の西洋兵器と時勢が官軍を勝利に導いたのです。
・会津戦争で会津が惨敗したのは、人災であることと、戦術眼を持たなかったことです。
新政府が戊辰戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなりました。
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コメント
コメント一覧 (2件)
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[…] 「北白川宮能久親王殿下」は「戊辰戦争」の際に「奥羽越列藩同盟」の盟主となって、新政府軍と戦ったお方。 […]