【金栗四三とは】その生涯と最期!大河ドラマ『いだてん』主人公の物語

2019年大河ドラマの主人公「金栗四三(かなくり しそう)」の「生涯」と「最期」「功績」を解説いたします。

「マラソンの父」と呼ばれた「金栗四三」。

その功績は、「日本最初のオリンピック選手」というだけではなく、日本の「マラソンランナー」育成に多大な貢献をしたことです。


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この記事を短く言うと

  1. 金栗四三とは、日本人最初のオリンピック選手にして、「箱根駅伝」誕生に貢献した通称「マラソンの父」
  2. 「ストックホルムオリンピック」で金栗四三はレース中に、40℃の高気温などの悪条件が重なり「失神」。大会運営からは「失踪」として記録された
  3. 金栗は、その後「アントワープ」「パリ」のオリンピックに出場したが、輝かしい結果を出すことはできなかった
  4. 2019年大河ドラマ「いだてん」。前半の主人公は「金栗四三」。後半は「田畑政治(たばた まさじ)」が主人公を務めている

金栗四三の功績とは?

「マラソンの父」と呼ばれた「金栗四三(かなくり しそう)」

≪金栗四三≫
「引用元ウィキペディアより」

その金栗四三とは、いったいどういう功績を残した人なのでしょうか?


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「金栗四三」の功績

金栗四三の功績を短く解説いたしますと

・日本人として初めて「ストックホルムオリンピック」に「マラソン選手」として参加し、その後「アントワープ」「パリ」でのオリンピックにも参加した

・教育者として後進育成に力を尽くした

・お正月の風物詩となっている「箱根駅伝」の誕生に力を尽くした。

簡単に解説してはいるものの、金栗四三の功績はこんなものではありません。その他にも数多くの功績を残しておられる、紛れもない偉人・パイオニアと言って良いと思います。

 

金栗四三」の「子孫」については、よろしければ以下のリンク記事をお役立てくださいませ。

金栗四三の家系図と子孫を画像付きで解説!54年8ヶ月の道のりとは?」の記事はコチラ

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大河ドラマ「いだてん」のあらすじ

2019年の大河ドラマ「いだてん」。その前半部分の主人公が「金栗四三」です。後半の主人公は「田畑政治(たばた まさじ)」。

「いだてん」は1912年「ストックホルムオリンピック」から、1964年「東京オリンピック」までの約50年間を描いた物語。

熊本の酒造業者の家に生まれた「金栗四三」は、身体は弱いが勉強ができる子供でした。

早くに親を亡くした「四三」を育てたのは、兄「実次」。

実次は、兄妹の中でも幼かった弟「四三」に目をかけ、「東京高等師範学校(現・筑波大学)」へ送り出します。

東京高等師範学校で、柔道の生みの親であり、教育者としても有名な校長「嘉納治五郎(かのう じごろう)」と出会った金栗は、アスリートとしての道を歩むこととなるのです。

1912年、日本人として初めてオリンピックに参加することとなった金栗は、「スウェーデン・ストックホルム」へ。

そこで金栗は「マラソン」に初挑戦するものの、最悪のコンディションの中で走らされ、レース中に失神。そのまま帰国したため「失踪」扱いされることになります。

次の「ドイツ・ベルリンオリンピック」は、「第一次世界大戦」勃発が理由で中止。「ベルギー・アントワープオリンピック」では「16位」、「フランス・パリオリンピック」は「途中棄権」と、思うような結果を出すことができない金栗四三。

彼はその後もマラソンの発展を夢見て、後進育成に尽力する事となるのです。


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逸話!ストックホルムオリンピックで消えた金栗!

1912年のストックホルムオリンピックに出場した金栗四三。
しかしはじめてのオリンピックだったため、コンディション調整に苦戦した日本選手団と金栗は、最悪のコンディションでレースに挑むこととなります。
「灼熱地獄」・・・・試合当日のストックホルムは「40℃」という高温。しかも、数々の手違いで、迎えの車に乗れなかった金栗は、走って会場入り。後に「死者」まで出てしまったマラソンは、こうして始まったのです。
金栗は、レース後半で失神。日本の「林」中佐らに救助され、近くの「ペトレ家」で休憩。

その後、ゴールに向かうこともなく帰国したため、記録は「失踪」

55年後の1967年、ストックホルムでは「オリンピック55週年記念大会」が開催され、金栗も招待されました。

そこで金栗は、失踪扱いされたレースでゴールを記録し、公式タイム「54年8ヶ月」という最長記録を残すこととなります。

「長い道のりでした。その間に孫が5人できました」

という名言を残した金栗は、今もストックホルム市民に記憶されているのです。


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金栗四三の生涯と最期

「金栗四三」の生涯と最期を、簡単に短くご紹介いたします。

 

1891年8月20日(0歳)、熊本県玉名郡春富村で「金栗四三」誕生。父「信彦」、母「シエ」。「四三」という名前は、父「信彦」が43歳のときに誕生した子供だったから。

1905年(14歳)、「金栗四三」が14歳の頃、父「信彦」が死去。その後は長男「実次」が弟の「四三」を育てることとなります。

1910年(19歳)、「東京高等師範学校(現在の筑波大学)」に進学。校長は「嘉納治五郎」

1911年(20歳)、「徒歩部」に入部。

1912年(21歳)、ストックホルムオリンピックに出場。

1914年(23歳)、東京高等師範学校を卒業。「春野スヤ」と結婚。

1916年(25歳)、ベルリンオリンピックが「第一次世界大戦」で中止。

1917年(26歳)、東海道五十三次駅伝を企画し、金栗四三みずからアンカーを務めて優勝。

1920年(29歳)、第一回「箱根駅伝」を開催。アントワープオリンピックに出場し、マラソで16位

1921年(30歳)、東京女子師範学校へ奉職。

1924年(33歳)、パリオリンピックに出場。マラソンに参加するが途中棄権。

1930年(39歳)、お茶の水高等師範学校の教壇に立つ。

1931年(40歳)、帰郷し、マラソン普及に尽力

1936年(45歳)、東京オリンピックの開催を目指して行動を上京。

1947年(55歳)、大東亜戦争で中止されていた「箱根駅伝」が復活。

1952年(61歳)、九州一周駅伝を企画。

1953年(62歳)、ボストンマラソン監督に就任。

1955年(64歳)、紫綬褒章受賞。

1962年(71歳)、玉名市名誉市民となる

1964年(73歳)、東京オリンピック開催

1967年(75歳)、ストックホルムオリンピック55周年記念行事に招待され、マラソンゴールを記録。

1983年(92歳)、永眠。

2018年11月11日、九州新幹線新玉名駅前に、「金栗四三」の銅像・除幕式が行われ、金栗の娘3人が出席。


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『金栗四三』について、レビュー(評論)!

マラソンの父、金栗四三。
金栗は「ストックホルム」「アントワープ」「パリ」と、3度のオリンピックに出場するも、その結果は「失踪」「16位」「途中棄権」と、どれも抜きん出た結果ではありません。
当時は「コンディション」などという概念のない時代です。そんな時代に、猛暑とはいえ途中で失神したなどということは、国の威信をかけたオリンピックでは許されないことでした。
ストックホルムで失神した金栗は、各方面から相当に叩かれ、叱られたようです。

彼の兄「実次」もまた、帰国した弟「四三」に対して、相当厳しい言葉で叱責しています。

しかし、兄「実次」は同時に

「お前はとても得難い経験をした。

その経験を活かして、次こそは頑張れよ」

と弟「四三」の将来に期待する声を投げかけています。

オリンピックでは結果を出せなかった四三ですが、後進育成にはとてつもない功績を残しています。

何よりも、2019年で95回目となる「箱根駅伝」誕生は、その功績の最たるものでしょう。毎年200名以上の大学生ランナーが出場し、数々の名ランナーを輩出。世界へとうって出る登竜門のような大会となっています。


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まとめ

本日の記事をまとめますと

  1. 「金栗四三」とは、「マラソンの父」と呼ばれた人物。「ストックホルムオリンピック」に出場し、「箱根駅伝」誕生に尽力した
  2. 金栗は、ストックホルムオリンピックに出場するも、最悪のコンディションで失神。ペトレ家で介抱され失踪した
  3. その後、金栗は後進育成に尽力し、マラソンの普及に並々ならぬ貢献をした。

以上となります。

本日は「レキシル」へお越し下さいまして誠にありがとうございました。

よろしければ、また当「レキシル」へお越しくださいませ。

ありがとうございました


よろしければ以下のリンク記事も、お役立てくださいませ。

金栗四三の家系図と子孫を画像付きで解説!54年8ヶ月の道のりとは?」の記事はコチラ
【田畑政治とは】経歴・プロフィールを簡単紹介!その生涯と功績がスゴイ」の記事はコチラ

 

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