「副島種臣(そえじまたねおみ)」の「家系図と子孫」、「生涯と最期」について、わかりやすく簡単に理解できるよう解説いたします。
「江藤新平」や「大隈重信」とならび「佐賀の七賢人」とたたえられた「副島種臣」
英雄「西郷隆盛」が、死ぬ前、副島種臣にあとを託していた!
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この記事を短く言うと
・副島種臣の子孫は、ひ孫が戦後に生まれており、現在もご存命であると考えられる
・副島種臣とは、佐賀藩の偉人。「江藤新平」たちと並び「佐賀の七賢人」の一人とされている
・佐賀藩出身の副島種臣。明治新政府で重要な職を歴任している
《副島種臣の子孫の現在と家系図》
副島種臣の子孫は、現在も続いているのでしょうか?
調査してみたところ、曾孫まで続いていることが判明しました。
「ひ孫」4名のお名前がわかったのですが、現在もご存命かどうかは、はっきりしませんでした。
ただ、全員が「戦後」・・・つまり「昭和20年(1945)」以後に生まれていますので、ほぼ間違いなくご存命でしょう。
《副島種臣とは?何をした人なの?》
幕末「佐賀藩」で生まれ、明治政府で活躍した「副島種臣(そえじま たねおみ)」
「副島種臣」とは、一体何をした人なのか?
簡単に結論を言ってしまうと、幕末と明治の日本で、政治家として活動した人物です。
『副島種臣』の功績
その「副島種臣」の功績を短く解説いたしますと
・幕末に尊皇攘夷運動を行った
・明治新政府で「参議」として活躍
・日清修好条規の交渉を担当
・外務卿・内務大臣などの要職を歴任し、「マリア・ルス号事件」で奴隷を解放するなど活躍
その他にも数々の功績を残している「副島種臣」ですが、西郷隆盛と互いに尊敬しあい、西郷があとを託した、という説があります。
《生涯と最期》
1828年、「副島種臣」、佐賀藩で誕生。国学者であった父と兄の影響で「尊王攘夷」思想を強く植え付けられる
1850年、兄「枝吉神陽(えだよし しんよう)」が中心となって結成した「楠義祭同盟」に参加。義祭同盟とは「楠木正成」をたたえる集団のこと
1852年、京都へ留学
1859年、父が亡くなり、副島家へ養子入り
1864年、長崎の洋学校へ留学し、英語を学ぶ
1867年、大隈重信とともに脱藩するが、捕縛されて謹慎
1868年(明治元年)、明治維新・・・新政府の参与に就任
1869年、「参議」に就任
1871年、「外務卿」に就任
同年、「マリア・ルス号事件」で、ペルー国籍の船に押し込められていた「清国人」の奴隷231名を開放し、国際社会から支持と賞賛を受ける
1873年、台湾出兵に際し、「日清修好条規」の交渉を担当。この条約は、西欧列強と不平等条約を結ばざるを得なかった「日本」と「清国」が、対等な立場で締結した条約だった。清国皇帝との謁見で、国際儀礼の作法で謁見することを清国に認めさせ、各国から支持される
同年10月、征韓論争に敗北し下野(明治六年の政変)
1874年、「愛国公党」に参加。しかし自由民権運動には参加せず
1877年、友人だった「西郷隆盛」が「西南戦争」で戦死。このとき副島は「中国大陸」を訪問していた
1884年、伯爵の爵位を得る
1888年、「枢密院顧問官」に就任
1891年、「枢密院副議長」に就任
1892年、松方正義内閣で「内務大臣」に就任。約三か月間、大臣を務める
1905年1月31日、死去。死因は「脳溢血」。享年「76」歳
《西郷隆盛の後継者だった!》
副島種臣といえば「西郷隆盛」とのつながりで有名です。
1877年の「西南戦争」で、西郷隆盛は自決しています。
「晋どん。もうここいらでよか」
これが西郷さんの最期の言葉です。
西郷さんを介錯した剣豪「別府晋介」へかけた言葉ですね。
一説によると、死に際して西郷は
「副島(種臣)に期待する」
と、遺書を残したとか。
西郷隆盛といえば、副島種臣と同じ「佐賀七賢人」の一人「大隈重信」と不仲だったことで有名です。
大隈重信といえば「金に汚い」と噂の人物。そんな大隈重信に対して「副島種臣」は「マリア・ルス号」事件で、「奴隷」たちを解放したことで有名な人権派。
しかもお金に執着心がなく、酒も飲まずに「おから」「こんにゃく」を愛するお方だったのです。相撲が好きで、借金してまで「化粧まわし」を贈ったという話はありますが、娯楽といえば、それくらい・・・。
清廉潔白な「西郷隆盛」と「副島種臣」は、相性がよく、気があったはずです。
《『副島種臣』について、レビュー(評論)!》
「佐賀の七賢人」の一人「副島種臣」。佐賀藩と言えば、名君「鍋島閑叟(なべしま かんそう)」により鍛え抜かれた、「幕末最強」の軍団を要する「雄藩」
しかし「佐賀藩」は、当時から「二重鎖国」「鎖国藩」などと呼ばれた、閉ざされた藩でした。
「我々に京都警備をさせてくれたら、数十人で敵を撃破してみせる」
朝廷に対して、佐賀藩主「鍋島閑叟」が口にした言葉です。大口を叩く藩主は、お世辞にも外交が上手とは言い難いと思います。
佐賀藩は長崎警備を長く務めていただけあって、西欧列強の技術に詳しく、「大砲」「船」などの製造技術には非常に優れた「技術大国」でしたが、その反面「外交」や「政治」を少し苦手としていた感じがします。
そんな中で生まれ育った「副島種臣」・・・。「フルベッキ群像写真」で有名な、オランダの宣教師「フルベッキ」のもとで学び、外国の知識も豊富だった「副島種臣」。
もしも「佐賀藩」が、もっと開かれた藩であったなら、「薩長」とともに積極的に「明治維新」に邁進する藩で、薩長と並ぶ「藩閥」を作れるほどの勢力であったなら、「副島種臣」の活躍は、こんなものではなかったかもしれません。
《まとめ》
本日の記事をまとめますと
・「副島種臣」とは、佐賀藩の七賢人の一人。後に明治政府で「外務大臣」などの要職を歴任
・マリア・ルス号事件で「奴隷解放」を実現し、名声を高めた
・西郷隆盛が西南戦争で亡くなるとき、友人だった「副島種臣」にあとを託すと口にした・・・という説がある
以上となります。
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